表面張力
「渉君………こんな所で寝ていたら、風邪ひくよ」
渉は遠くから聞こえる女の声に、呼ばれるように意識を取り戻していった。そうして、眠りから目が覚めると、目の前に夕雨季の顔が見えた。心配げに覗き込む夕雨季の顔を見て、渉は思わず、薄ら笑みを浮かべた。
「お帰り。夕雨季さん………。もう、どこにもいかないで」
渉は、まだ起動しない頭の中で言葉を返したが、どうにもふにゃりとした説得力のない、甘えん坊の幼子のようだった。
「ごめんなさい………私。この人と一緒に遠くに行くの。佳生さんって言うの。知ってるでしょう? 凛さんの恋人だった」
夕雨季はじっと渉の目を見つめ、淡々とした口調で説明するように話した。
「え? 何言ってんの? なんで、夕雨季さんが凛の恋人の事、知ってんの? てか、その人は、死んだって、そいつの兄弟が言ってたし」
血の気が引く感覚が、体に伝わると渉は頭がさえてきた。すると、夕雨季の背後から佳生と言うあの、凛が持っていたアルバムの男が姿を現した。
「君が、渉君だね? 君には申し訳ないけど。夕雨季ちゃんは俺と一緒に行くから」
佳生がそう言うと、夕雨季の肩を抱き互いに小さく笑みを交わしそうして渉の前から立ち去ろうとした。
「おい! 待って! 夕雨季さんっ!! なんでそいつと一緒に行くのっ!! 夕雨季さんっ!!」
渉は声を張り上げるが、腰から下が床に張り付いたように固定されて、動かなかった。ただただ手だけを指し伸ばし、声を出すだけの事しかできず、夕雨季は佳生と一緒に姿を消してしまった。
悪夢を見た………。
そう分かったのは、渉が目を覚ましたからだった。ゴリゴリとした床の上に寝転び、夕雨季の部屋の戸に寄り掛かったままの姿勢で、体中が固まっていた。ゆっくりと身体を動かし、起き上がると、薄明るい部屋に静けさが広がっていた。
夕雨季は、まだ帰っていない様子だった。
スマートフォンを確認しようと手を伸ばし、それを操作したが既読にもならず渉からのメッセージは一方通行のままだった。
「嫌な夢だったな………」
身体を屈めるように丸め、左手で額を覆うと、さっき見た夢がリプレイされるのを、必死で止める様に頭を左右に激しく振った。そうして、それをかき消すと、渉は拭いきれない胸の奥に潜んでいた“それ”が自分の中に存在している事を認めていた。
きっと、夕雨季は戻ってこないのだろう。たとえ、戻って来たとしても、瞬時にこの場所から消え、二度と前のようには一緒に過ごすことはないのだろう………そう、渉は考えていた。
そう思ううちに、渉の目からぽたぽたと涙が溢れていた。自分の心が感情に高ぶっている事に驚いたが、酷く哀しみに溺れている自分が居る事も分かっていたのだった。
「夕雨季さん………」
凛ではなかった。
自然に口からこぼれた名前は、凛ではなく、夕雨季だった。今、俺は夕雨季さんを想って、夕雨季さんの名前を言ったのだと、我に返った時、部屋にインターフォンの音が響いた。
渉は、その音に身をびくっと強張らせた。恐る恐る、ドアフォンのモニターを覗き込むと、渉は更に身を凍らせた。
『うそ………だ………』
モニターに映るその人物を見て、渉は一瞬身がくらりと怯んだ。狐にでもつままれているのではないか、もしくはまだ悪い夢でも見ているのではないかとさえ、思っていた。
恐る恐る、応答のボタンを押す。そうして、はいと返事をすると、
「佐伯 渉君だね? 俺、小野崎 佳生。俺の事、知ってるでしょ? 少し、話できないかな?」
モニター越しにニコリと笑んだ佳生を見て、渉は頭の中が混乱していた。夏生からは、佳生は海外で事故に巻き込まれ死んだと聞かされていた。しかし、今、このモニター越しに居るのは、まぎれもなく凛が写真に収めていたあの男に間違いはなかった。
渉は、ごくりと唾液を飲み込んみ、震える身体を抑えながら、ロック解除のボタンを押し、佳生をマンションに受け入れた。
再び、インターフォンの音が鳴ると渉は意を決して玄関に向かって行った。
ドアを開けると、自分の身長と同じくらいの痩せた男が立っていた。
「足、あるんですね?」
渉の言葉に、佳生はすぐに状況を察すると小さく吹き出した。
「そうだね。死んじゃいないから。死にかけたけど」
「どうぞ」
ドアノブを離し渉は佳生を部屋に入れた。佳生は寝起きなのだろうか、寝癖が付いたまま、無造作すぎるその髪型と白いシャツの上に厚手のニットのカーディガンを羽織、微かに髭が伸びかけ、いかにも寝起きのような雰囲気だった。
「初めましてだね。俺の事は、兄から聞いてるよね?」
リビングに入ると、渉は部屋のカーテンを開け、朝日を入れた。まだ、陽が昇り始めたころで、柔らかな日差しが部屋を照らしていた。
「その………旅行先で事故に巻き込まれて亡くなったって」
渉は、窓際に立つと光に照らされた佳生の姿を目の当たりにして、本当に写真の男が目の前に居る事を、それでいてそれが生身の人間であることを実感していた。
大人し気な雰囲気の佳生は、写真と比べると少し大人びていた。凛が持っていたアルバムの佳生は若く、それでいて無邪気にはしゃいでいる気持ちが目いっぱい溢れていた。それを撮っていたのは、凛だったと思い返すとチクリとした痛みが胸を掠めた。
「だけど、俺は生きている。夏生が嘘をついたから。キミにも凛にも。凛が持っていたアルバムを、夏生に渡したよね?」
「あ………はい」
渉が答えると、佳生は辺りを見渡し視線を落とした。
「アルバムはどうでもいいんだ。どうせ、また夏生は自分の為に自分の実力としてそれを使って、世に出るつもりだろうから。海外行ったのは、凛の撮った俺の写真が、アメリカでフォトグラファーの賞に入選したかららしい」
「あのアルバムの写真ですか?」
「あぁ。凛が撮ったヤツ。凛は、建物を撮る仕事をしていたけど、ポートレートはやらなかった。だけど、俺の事はよく撮ってくれた。俺は、ただその場でふざけて遊んでるだけなのに。凛はとても楽しそうだった。だからそれが嬉しくて、余計にはしゃいでた」
リビングのローテーブルの凛がいつも座っていた場所に、佳生はぺたんと胡坐をかいて座った。
「俺がここに来たのはね。凛が居た場所を再確認したかったから。そうして、一緒に暮らしてた男がどんな奴か知りたかったんだ」
佳生は、そう言うと見上げる様に窓際に立っていた渉に視線を向けた。
「そこです。丁度、そこで、凛は具合悪くして。救急車で運ばれました………」
「そうなんだ………」
渉には、佳生が何かを悟ってそれを見透かしているようにさえ思えていた。自分の中に潜んでいた“それ”を目の当たりにして、自分自身の胸の奥すら見透かされそうで、渉は怖かった。
「渉君」
両手を床に付、後ろに身をのけぞるような姿勢で、佳生は渉を見上げた。
「はい」
「俺の中ではね。夏生も、凛も、俺も、キミも。そうだな………他に傷ついた女性が居たとしても。それら個々は酷く弱く、傷を持っている。けど、そういうやつらが寄り添いあえば、力は少し強くなる」
佳生の言葉に、渉は食器を洗っている時に稀に見かける、食器洗剤がシャボン玉になりそれが複数くっつきあったそれを思い浮かべていた。
「でもさ、いくつもくっ付いてたら重たくなる。で、そのうち消えて無くなる。だから重なるのは、少数の方がいいと思うんだ」
佳生は、ゆっくりと立ち上がった。渉は、佳生の言っている意味が良く分からず、答えに困っていた。
「俺は、きっとそれに向かない。単体でフワフワしていたいんだ。それは、きっと夏生も同じかもしれない。少し、夏生の性分とは違うけど。渉君はさ、ちゃんとそうしておいた方がいいよ。凛は、もう居ないけど。後悔しないようにね。ここに、居るべき人にちゃんと向き合いないよ」
佳生の言葉は、漠然でなにか意味ありげなそれが、何を指しているのか、渉はそれが夕雨季だと言う事をすぐに察していた。
「夕雨季さんが、何処にいるかも、知っているんですか?」
「大丈夫。ちゃんと、戻ってくるって。じゃ、元気でね」
振り返らず、顔だけを後ろに少し動かし、佳生はそう言って部屋を出て行った。
渉は、佳生が去った後、ざわついた胸の中が一瞬に落ち着き、朝日が心地よく身体を温めていたせいか、再び眠気が漂うと、自分の部屋に戻りベッドに寝転び、眠りについた。
次に目を覚ました時には、どのくらいの時間眠ったのか、とっさに部屋の時計を見ると正午を過ぎていた。それが、昼なのか夜なのか不安で、渉はカーテンを開けると明るい日差しが差し込み目がくらんだ。
喉の奥が張り付くような不快感を何とかしたく、水を飲もうとキッチンに向かった。すると、丁度部屋のドアの鍵が開く音が聞こえ、渉は玄関で足を止めた。
「ただいま………」
目の前に立っていた渉を見て、夕雨季は驚き、不安そうにゆっくりとそう言った。
「お帰り。夕雨季さん。良かった。戻ってきてくれて」
がばりと夕雨季の肩を抱きしめた渉は、掠れた声を震わせて言った。
「ごめんなさい。心配かけたのかな。渉君………私、ここに居てもいいのかな?」
渉に抱きしめられたまま、夕雨季は渉の胸の中でもごもごと声を発していた。その声が、渉の胸に小さく響き、温かい熱が伝わると、さらに腕の力を強めた。
「うん。どこにも行かないで」
「えっ? それは困るよ。お仕事あるし」
真面目に答えた夕雨季に、渉はクスクスと笑い肩を小さく震わせた。
「渉君?」
微かに残ったシャンプーの香りが、夕雨季の髪に漂っていた。そうして、身体を引き離すと、渉は夕雨季の顔を見た。化粧は落ち、素の顔をしている夕雨季の顔をまじまじと見つめ、渉はふわりと笑んだ。幸せをかみしめるように。
「やだ。何? そんなにじっくり見て」
「なんでもないよ」
夕雨季の肩から手を離すと、夕雨季の手を掴んで、リビングに連れて行った。
今回でお話は終わりになります。
つたない文章でしたが、最後までお読みいただき、ありがとうございました。