包み込まれるもの
佳生は、大きくため息を吐きながら店の窓の外を見つめた。瞼を閉じると長いまつ毛が重なり合っていた。佳生は沈黙している間、微かに眉間に皺を寄せ、硬い表情を醸し出した。夕雨季は、佳生が何か思い込んでいるだろうかと、そのまま一緒に黙ったまま窓の外を眺めた。
周囲の客の声は、店内に流れるBGMと混じり合い、それら全てが夕雨季には雑音にしか聞こえなかった。店の外には、明かりの消えたビルが建っていた。その薄暗い景色に店の窓ガラスが反射して、隣に座る佳生の顔が映って見えた。硬い表情のまま、ゆっくりと瞼が開き、佳生の唇が動いた。
「兄貴………夏生は、ニューヨークに渡米したよ。会社との契約が出来たんだって。向こうで暮らすって、言ってた」
重く開いた佳生の口から出た言葉に、夕雨季の胸の中に冷たい液体が流れ落ちるような、ひんやりとした感覚が走った。
「もともと、海外で仕事したいって、言ってたんだ。ようやく、チャンスが巡って来たって嬉しそうだった。けど………」
夕雨季は、依頼した仕事の事が気になり、胸の中がざわざわと落ち着かない気持ちだった。そうして不安が、夕雨季の頭の中を埋め尽くしていた。佳生の話までもが、BGMと混ざり合いぼんやりとしか、聞こえていなかった。
「夕雨季ちゃん? どうかした?」
「あ………。すみません。小野崎さんに、月曜までの仕事を、依頼してたので………どうなってるか気になって」
居ても立っても居られない気持ちだったが、不安の胸の内を話した夕雨季に、佳生は襟の付いた厚手のニットのカーディガンのポケットから、スマートフォンを取り出すと、電話をかけ始めた。
「えっ………まさか、佳生さん」
察した夕雨季に、佳生は
「直接聞いてあげるよ。じゃなきゃ、夕雨季ちゃんがずっと不安なままでしょ?」
そう言って、目を細めて笑んだ。
「あ、夏生? 俺。今、いい?………あぁ、そうなんだ? あのさ俺、今、夏生が仕事受けた夕雨季ちゃんって子と一緒なんだけど。夏生に頼んだ仕事、月曜までにできるのか、教えてくれる?」
夕雨季は、胸に両手を当て今は目の前にいる佳生に神頼みするように、すがるような思いでじっと佳生の話を聞いていたが、佳生は持っていたスマートフォンを夕雨季に差し出し、
「直接、聞いた方がいいと思うから」
そう言って、夕雨季に手渡した。
急に、手渡されてしまったが慌ててスマートフォンのスピーカー越しに耳を当てた。
「あの………小野崎さん。久住です」
「あーっ! 夕雨季さん! ホントに、佳生と一緒に居たんだね!? こないだは、デートすっぽかしてごめんね」
呑気な雰囲気で明るく話す小野崎に、夕雨季は仕事の事を尋ねた。
「心配させてごめんね。ちゃんと写真は撮って、うちの会社に写真送っておいたから。預かった商品と一緒に、月曜にはスタッフが届けるから」
「良かった………。ありがとうございました」
「夕雨季さんと、ちゃんとお別れ言ってなかったのが、心残りだよ。あ、佳生に代わってもらえるかな?」
そう言われ、夕雨季は再び佳生にスマートフォンを手渡した。
「………それは、どうでもいい。勝手だろ? ………あぁ、そう。分かった」
佳生は少し黙ったまま、夏生の話を聞いているようだったが、その表情は一瞬にして険しくなっていた。
「それとこれとは別だ! 俺は、もう夏生を許さない。………………あぁ。勝手にするさ。じゃ、仕事中に悪かったな!」
話の後半、佳生が怒っているように夏生と話している事に、更に心配になった夕雨季は、最悪の事態なのかと、不安がはちきれそうになっていた。電話を切り、スマートフォンをテーブルの上に置いた佳生は、口元に手を当て憤慨した自分を落ち着かせているように、少し黙っていた。
「ごめんね。変なトコ見せたよね。けど、良かったね。夕雨季ちゃんの仕事は、ちゃんと片付けてくれたみたいだね?」
優しく笑んだ佳生に、夕雨季はほっと胸をなでおろしていた。不安が身体の中から消えていくのが、わかった。
「ありがとうございます………。ほんとう、良かった………」
力なく笑んで、夕雨季は佳生に言った。顔を上げると佳生の視線が重なった。その目は穏やかな印象だったが、佳生にじっと見つめられ、夕雨季の胸の奥がドキリと大きく鼓動した。
「夕雨季ちゃんが良かったら、今日、うちに来ない? 帰りづらいんでしょう?」
佳生は落ち着いた、低い声でそう言った。
「えっ………」
「うちって、言ってもまだ、夏生の部屋だけど。今月中はまだ、部屋借りてるっていうから。物はほとんどないけどね。ね、一緒に帰ろう」
大人びた表情から、ふわりと笑んだ佳生に言葉をかけられ、夕雨季は視線を逸らしここに来る前の出来事が、思い浮かんでいた。今、戻った所でまた渉の彼女らしき女性に煙たがられ、居場所がなくなる事への追い打ちがかかるのだろうと、予測した夕雨季は、佳生の言葉に小さく頷いて見せた。
「良かった。じゃ、行こう」
夕雨季は、自然に佳生に手を握られた。その瞬間驚いたが、避けたい気持ちはなく、軽くその手に添える様に、佳生の掌に包まれていた。
夏生の住まいが、店から近いのかと思っていたがそうではなく、電車で移動するのかと思った夕雨季は、佳生が店の近くのコインパーキングに止めていた、赤いスポーツカーを見て驚いた。
「夏生の車だよ。そのうち、取りに来るって言ってたけど。さ、どうぞ」
助手席のドアを開け、佳生にエスコートされた夕雨季は、深いシートにすっぽりと身体を埋める様に座り込んだ。
「ドア、閉めるね」
閉められたドアに、密室の車内の空間を感じた夕雨季は、本当にこれから佳生と一緒に部屋に行く事に、複雑な思いだった。
「緊張してる?」
エンジンをかけ、走り出す前に佳生は夕雨季の顔を覗き込み声をかけた。近距離で佳生に話しかけられ、気持ちが落ち着かず、視線を合わせては逸らしての繰り返しをしていた。
「だっ、大丈夫です」
焦ってしまい、口籠った夕雨季は、自分の態度が余所余所しい事が、佳生に丸分かりだろうと、急に恥ずかしくなってしまっていた。
佳生は、夕雨季の顔を見ながらクスッと大人びた笑みを見せた。
車中で佳生は、夕雨季の緊張をほぐすように、話しかけてくれていた。
「えっ!? 佳生さんって、私とほぼ同い年なんですかっ!? 私、もっと年下かと………」
佳生が29歳と話してくれたことを知り、夕雨季は驚いて見せた。どちらかと言えば、渉と同い年なのではないかと、思ったくらい佳生は若く見えた。
「嬉しいなぁ。若く見られた事も、夕雨季ちゃんと年が近い事も」
はにかんだ佳生の窓の向こう側に、レインボーブリッジが見えると、夕雨季は目を輝かせた。しかし頭の片隅に、昔、航と一緒にドライブして眺めた景色や時間の映像が、瞬時に現れると、それをかき消した。
「女の子って、キラキラしたもの好きだね? 今日は時間遅いけど、今度イルミネーション観に行こうか?」
「えっ!? 私とですかっ!?」
「そ。俺と夕雨季ちゃんで」
一瞬、夕雨季の方を向いてニコリと笑んだ佳生は、そのまま前を向き、運転に集中した。夕雨季は、佳生と今夜出会ってから、何か引っかかっていたのだが、それがはっきりと浮上せず、スッキリしないままだった。
「無理には誘わないけど。こうして今も、俺と一緒に部屋に行こうとしている夕雨季ちゃんも、無理しているのかな? 本当に、嫌なら戻るけど? どうする?」
佳生にそう言われ、夕雨季は口をつぐんでしまったまま、答えに困っていた。
航と別れ、仕事関係だったが夏生の事を、多少でも意識した自分が居た。そうして、突然現れた佳生は、息を吸う呼吸の動作のような、ごく自然で当たり前のような、違和感のない存在感が不思議とあった。夏生の強引さとは違い、佳生は時に引いて見せたり、優しい印象を夕雨季は抱いていた。
夕雨季は、小さく横に首を振り、
「大丈夫です………。まだ、良く分かりませんが、佳生さんとは一緒に居たいかも………」
か細い声で夕雨季は、佳生にそう言った。
「うっ………。良かったぁー。俺、断られるんじゃないかって、すっごく焦ってたし、嫌われたかなって、怖かったーっ」
声を張り上げ、笑いながらほっとした佳生に、夕雨季の気持ちもふわりと軽くなっていた。
都内にあるタワーマンションの1室に入ると、夏生が暮らしていたと言う面影は薄く、家具はほとんどなく、がらんとした空間に、物音や声が大きく反響して聞こえていた。
「寒い?」
夏生の寝室として使っていたであろう、ベッドのないマットレスだけの上に座り、薄暗い部屋で隣に座っている佳生が、夕雨季の耳元で尋ねた。
「少し………」
気恥ずかしさで、夕雨季は佳生とうまく視線を合わせる事が出来ず、俯きながらそう言った。佳生は、近くにあった毛布を手に取ると、夕雨季の身体を包むようにしてそれをかけた。
「これでどうかな?」
かけた毛布の上から、自分の両腕を覆うように佳生は夕雨季の身体を抱きしめた。
「あったかい………です」
薄暗い部屋だが、目の前に居る佳生の表情ははっきりと見えていた。その顔が近づき、呼吸する息が夕雨季の頬に触れるのが、分かった。
「夏生の事が、好き?」
「違いますっ! そんな事、ないです」
近距離で目と目が重なると、佳生は目を細め、ふわりと笑んだ。口元に寄ったほうれい線まで、はっきりと見えると、佳生が再び口を開いた。
「じゃぁ、俺の事は好き?」
佳生の低い声とその言葉に、夕雨季はドキリとした。甘い雰囲気の佳生の視線から、逃れようとすると、佳生はすっと左手で夕雨季の顎先を軽く押さえ、少し強引に視線を重ねさせられた。
どう、答えていいのか夕雨季は困惑していた。会ったばかりの夏生の弟に、気持ちをどうとらえていいのか、それは未だ分からなかったが、今、こうしてここに居る事は、嫌ではない事だけは確かだった。
夕雨季の答えを待つ間もなく、佳生は夕雨季の唇にキスをした。そこからの夕雨季の記憶は、ぼーっとのぼせ上がるような、それでいてとても心地よい感覚で、佳生の腕の中に包まれていた。
佳生に抱かれながら、夕雨季はふと、引っかかっていた何かを思い出した。
『どうして、佳生さんはあの場所(渉のマンションの近くにあったファストフード店)に、居たのだろう………。それに、小野崎さんとの電話、なんか喧嘩っぽかったけど………』
それを思い出したと思うと、佳生の身体の波に再び飲み込まれ、その思いが薄らいでしまって行っていた。
鞄の中でスマートフォンの着信音が、小さく聞こえた。メッセージの着信音だと、夕雨季は気が付いたが、一晩中、夕雨季の身体は佳生の身体に包み込またままで、離れる事が出来なかった。
メッセージを確認したのは、翌朝の事だった。
お読みいただきありがとうございました。
次回は最終話になります。
最後までどうぞよろしくお願いいたします。