表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
表面張力  作者: フジイ イツキ
16/18

重なるもの

 金曜の夜に、渉は怜に食事に誘われ、創作和食の店で席を合わせた。ピアノ曲がBGMで弱く流れ、オレンジ色の照明と、テーブルに添えられたキャンドルの明かりが、渉には心地よく感じていた。

 黒のジャケットに、白の襟なしのブラウス、膝下のフレアスカート姿の怜は、前回取材で会った時の印象とは変わり、柔らかな雰囲気だと、渉は感じていた。

「急に誘ってごめんね」

 怜は、謝りながらも口角が上がり、溢れた笑みで渉を見ていた。

「いいよ。だって怜さん、こないだ誘ってくれてじゃん」

「良かった。ここね、前から来てみたかったんだけど、一人じゃ入りにくくて」

 目尻と鼻に皺を作り、くしゃりと笑んだ怜を見て、嬉しそうだなと渉は感じていた。

「どうかした?」

 怜は、ふんわりと笑んでいた渉の顔を見て、微かに首を傾げ渉に尋ねた。小さな仕草の一つ一つが、仕事で会った時の怜とのギャップになり、渉はその発見が楽しくなっていた。

「ううん。なんか、怜さん嬉しそうだなって。ずっと、顔がにこにこしているから」

「やだ。顔に出てた!? ね、渉くんと一緒にご飯できたから、嬉しくって。年甲斐もなくはしゃいでるの、バレバレね」

 怜は、両手で頬を包むようにしながら、頬を軽くパタパタと叩いて身を引き締めているようだったが、それでも笑んだ顔の表情は変わらなかった。

 渉は、それを見てクスッと小さく含み笑いをした。

「“渉”でいいよ。なんか、俺も嬉しい」

 目の前で照れながらも、目をキラキラに輝かせている怜の姿を見ていると、渉の胸の中がほっこりとそれでいて奥の方で高鳴るような、鼓動を感じていた。

 上品に盛り付けられ、和食とフレンチの融合のような、色とりどりの食材の料理に、怜は更に目を輝かせていた。グレーベージュのネイルを塗った、華奢な指で箸を使い、赤いリップの塗った口へ料理を運んだその一連の動きを、渉は絵画を眺める様にじっくり鑑賞していた。

「そんなに見つめられると、緊張しちゃって、料理の味が分からなくなるわ」

 照れ笑いをし、口元を左手で覆い料理を咀嚼しながら、怜は渉に話した。

「ふーん。緊張するんだ?」

 渉は両手を組んでテーブルに肘をつくと、怜の顔をまじまじと見た。

「もう。からかってるの? それとも、こんなおばさんに、興味があるのかしら?」

 箸を置き、膝に置いたナプキンで口を軽く拭うと、怜は渉に尋ねた。

「からかってないよ。照れくさそうにしているのが、なんかいいなって。興味が無かったら、ここに居ないし」

「嬉しいわ。渉を研究発表で見た時からいいなって、気になってたの。取材に仕事を持ち込めただけでも、“頑張った、私!”って、思ったけど。欲が更に出ちゃって、連絡先渡してこうして、食事に誘えたなんて自分でも驚いてるのよ」

 はしゃぎながら話す怜を見ていると、少しずつ自分の気持ちの領域に怜の存在が、滑らかな液体のようにゆっくりと浸透してくるそれを、渉は感じていた。

「渉と一緒に取材受けた、相原さんとは………?」

 言葉を濁し、怜は渉の様子を伺うように上目遣いをして質問して来た。

「相原さん? 同僚で、先輩。気になるの?」

「だって、一緒に仕事している人の方が、距離感縮まって恋愛に発展しやすいでしょう?」

「相原さんと? ないなぁーそれ。仕事は、めちゃ真面目で、できる人だけど」

「じゃぁ、渉は今、付き合っている人は? いるの?」

 微かに表情を曇らせた怜は、じっと渉を見た。

「いないよ。そんなに俺に興味持ってくれるなんて、嬉しいけど………」

「嬉しいけど、何?」

 怜は、渉の言葉に食いつくように聞き入ると、渉は小さく苦笑いをした。

「俺、あんまりそう言うの、慣れてなくって」

「そうなの? 今まで、付き合った人とかは?」

 怜の言葉に、渉は記憶の糸を辿った。思い浮かぶのは、高校生の時に付き合った同級生の女の子と、大学1年の時に声をかけられた、一つ年上の先輩くらいだった。それを怜に話すと、怜は顔を曇らせたまま、さっきまでの明るさが消極しているかのようだった。

「どうかしたの?」

「いいなぁって。過去には戻れないけど、私も渉と、もっと早く出会いたかったなぁって」

 小さく落ち込んだ怜に、渉の胸の中がくすぐられるような感覚が走っていた。

「今だって、遅くないじゃん? ダメかな?」

「ホント? それって、付き合ってくれるってことで、いいのかしら?」

 緊張した眼差しで、渉の目を見つめた怜に、クスッと笑った後、顔を綻ばせて頷いた。

「いいよ」

 自然に口からこぼれた言葉に、渉は後悔しなかった。凛の存在は、心の奥底や頭の片隅、時々思い出すように締め付けられる胸の痛み、身体の至る所に残っていた。しかし、今、こうして怜と会い、彼女の存在が滑らかな液体となって、心の中に浸透しては、満たし始めている変化に渉は、怜と向き合う事が良いのだろうと、考えていた。

「けど、怜さんだって、そんな綺麗な人なのに、彼氏、いないわけないんじゃないの?」

「綺麗じゃないわよ。けど、嬉しい。渉にそう言われると。ありがとう。彼氏は、いないわよ。仕事していてもなかなか、恋愛まで発展はしないし。出会いもね。いいなって思う人は、大抵、左の薬指に指輪してるし。そうでなくても、付き合ってみたら彼女いたり、結婚している事隠してたりだったから」

「へー………。怜さんは恋愛経験が豊富なんだね?」

 渉は、箸でつまんだ5層になっている、ミルフィーユ状の料理に口を運んだ。魚のムースや、キュウリの触感、オクラの粘着感とイクラとキャビアの触感は感じられたが、他の何かも混ざり合って、複雑な料理だなと感じながら、悪戯っぽく怜に笑んで見せた。

「それは、年の功かしら。こんな話は、自慢にもならないから、やめましょう」

「あ。逃げた」

 更に追い打ちをかけながら、怜の話の尻尾を掴もうとした渉に、怜はゆとりある様子で、小さなため息を吐きながら、苦笑いして見せた。

 

 食事の後で怜に、渉の部屋に行きたいと言われ、渉の脳裏に夕雨季が過ったが、説明するまでもなく、察してくれるだろうと思い、怜を部屋に招き入れた。

「きれいにしてるのね………」

 リビングに入ると、怜はきょろきょろと辺りを見渡していた。玄関には未だ、夕雨季の靴はなく、部屋の戸も閉め切られていた為、まだ、帰宅していないのだろうと渉は察した。

「どこが、渉のお部屋なの?」

 飲み物を入れようかと、キッチンに回り込んでいた渉に怜が尋ね、渉は部屋に案内した。

「向かい側にも、お部屋があるのね?」

 渉の部屋で立ち止まると、廊下の向かい側にある凛が使っていた空き部屋のほうを怜は見た。薄くドアが開いており、怜は引き寄せられるように、身体が少し部屋の方へ動いた。

「うん。そこは、前に一緒に住んでた人が使ってた」

「シェアしてたのね? お友達?」

 渉は、凛の部屋に視線を止めると、凛の想いに胸がぎゅと締め付けられるような、短い窒息感が、身体に走った。

「いや………俺が、好きだった人」

「え? それって………彼女?」

 怜は、凍り付いた顔で渉を見ていたが、渉は横に首を振り、溢れ出る凛の想いも振り切るように、怜を見つめた。

「違う。一緒に住んでただけだよ」

「でも………嫌だなぁ。渉と一緒に、他の女が住んでたなんて。ね、ここ中入っていい?」

 怜は、渉の部屋に入らずに、凛の住んで居た部屋のドアノブに手をかけ、尋ねた。

「いいよ」

「来て」

 怜は、渉の左手首を掴み、一緒に部屋に入った。そうして、明かりをつけないまま、怜は渉の身体に抱き着いてきた。怜から漂う、香水や髪の匂いが渉の鼻につき、ふくよかな怜の胸が、自分の身体に押し付けられ、背中に腕を回され完全包囲された渉は、くらりとした意識の中、凛が居た部屋と自分の中に残っている凛への想いに、混乱していた。

 怜にリードされ、唇を奪われ両手で渉の頬を包むと、頭の中が真っ白になっていた。

「ちゃんと、私をみて。その人じゃなくって。目の前の私の事」

 静かにそれでいて、少し低いトーンの声で怜は、渉に言った。

 渉は、答えを口にする代わりに、今度は自分から怜の身体を包むように抱きしめると、キスを交わし、身体を重ねた。快楽という感覚に至らなかったのは、凛の事がまだ自分の中で消化しきれないだからだろうか。渉はただただ、動物的に怜との行為を果たした。


 行為の後、夕雨季が帰宅した物音で怜は驚き、渉は部屋をシェアしている事を話すと、渉からTシャツを借りてそれを着ると、リビングへ勢いよく向かって行った。

「あなた、行く宛てそろそろ決めたら? 渉の好意に甘えてないで。気分悪いのよね。あなたみたいな、他の女が一緒に住んで居るなんて」

 自分の部屋でTシャツとデニムに着替えた渉の耳に、強い口調で啖呵を切る怜の声が届いていた。渉は、リビングに向かい怜を宥め、怯んで驚いていた夕雨季に言葉をかけると、夕雨季は、そろそろ部屋を出ると渉に言った。それを聞いた怜は、ぷいっとふくれて、渉の部屋に入って行ってしまった。

「何、あれ? 聞いてない! 隣の部屋の子? 好きな人って、あの子なの?」

 怜は、渉の来ていたTシャツの胸のあたりを掴み、怒りをぶつけまくっていた。

「違うよ。好きだった人は、死んじゃったの。あの人は、困っていたから一緒に住んで居るの。怜さんが心配するような事は何もないよ」

「でもっ! 私以外の人が、渉と一緒に暮らしてるなんて、考えたくないっ!!」

 取り乱した怜を落ち着かせるように、渉は怜の身体をぎゅうっと抱きしめた。柔らかい髪を撫でながら、服一枚越しに伝う怜の身体は、温かくそれでいて柔らかかった。

「聞き分けないんだね? あの人は、ここに住んで居るだけだよ。追い出すなんて、酷い事言わないで。仲良くしてとは言わないけど、認めて欲しいな。じゃないと、俺も辛いし」

「だってぇ………」

 渉の胸の中に顔を埋め、怜はまだ聞き分けのない子供のように反論していた。

「困ったなぁ………。怜さんとは、仲良くしていたいけど。この事情を認めてもらえないなら、これっきりにしよう。だって、俺の事も信じてくれてないって事でしょう? 俺と、あの人はただ、一緒に暮らしているだけなんだし」

 渉は、怜の頭と背中をさすりながらそう言った。怜は、少しの間黙っていたが、渉から身体を引き離すと、

「考える………」

 そう言って、凛の部屋に脱ぎ捨てた服を着始めた。渉は、ドアを開けたまま、自分の部屋で煙草に火をつけた。

「タバコ、吸うのね?」

 冷たく刺さるような怜の視線と、声に渉は平然としたまま、

「そうだよ。時々ね」

 と、答えた。

「じゃ、もう、帰るから」

「うん」

 ヒールの高いパンプスに足を入れ、怜はじっと渉の顔を見つめたが、笑みはなく硬く複雑な表情をしたまま、部屋を出た。

 怜が帰ると、渉は自分の部屋に戻り、スマートフォンを手に取ると、夕雨季に怜が帰った事を知らせた。

『こわーいお姉さんは、もう帰ったから、夕雨季さん、帰ってきても大丈夫だよ。さっきの事は、気にしないで欲しい。夕雨季さんは、ここに居ていいからね』

 メッセージを送ったが、夕雨季は戻ってくる事なく、メッセージも未読のままだった。


 夜中に目が覚め、渉は玄関に夕雨季の靴がなく、明かりを点けずにリビングで水を飲むと、夕雨季の部屋の前で立ち止まった。

「夕雨季さん………? いる………ワケないよね?」

 夕雨季が居ない事は、分かっていたが、渉は部屋の前で声をかけた。そして、しんと静まり返った空間で、渉は夕雨季の部屋の戸に背を持たれ掛ける様に、そのまま座り込んだ。スエットのズボンのポケットに入れた、スマートフォンを手に取り、薄暗い部屋の中、画面を照らす光が眩しく、微かに目がくらんだ。

 メッセージの着信が画面に表示され、開くと夕雨季からではなく、怜からだった。

『さっきは、取り乱してごめんなさい。考えてみたけど、私、タバコ吸う人とは無理かも。怒鳴った彼女には、渉から謝っておいてください』

 怜の言葉に、煙草だけではなく、この現状が拭いきれないのだろうと、渉は察した。

『仕方ないよ。今日は、ありがとう。あの人には俺から伝えておくね』

 メッセージを送った後で、渉は夕雨季に送ったメッセージを確認したが、未読のままだった。

「夕雨季さん、どうしてるだろ………」

 スマートフォンを床に置くと、頭を両膝に埋めて渉は、大きく溜息を吐いた。

 怜と過ごしたひと時は、楽しかったが、自分の日常の一部に夕雨季が居る事が自然な事なのだと、渉は理解していた。

凛との別れ、夕雨季が部屋を出て行ってしまった事で感じたのは、幼い頃に家族に置き去りにされ、一人取り残された孤独感が、渉の心をざわつかせ、脅かすかのようだった。


お読みいただきありがとうございました。

お話は続きます。どうぞよろしくお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ