失くした居場所
会社に出社した夕雨季は、朝一で夏生の会社に連絡をした。
「小野崎は、昨日から海外出張をしておりまして………」
電話に出た受付の女性にそう言われ、夕雨季は少し声を強めた。
「納期は、守っていただけるんですよね?」
「はい………。小野崎には、久住様からのご連絡は申し伝えておきますので」
昨日、約束をすっぽかされ、音信不通の状態に腹の虫が治まらない気持ちのまま、夕雨季は電話を切った。
「久住さん、どうかしたの?」
隣のデスクの実日子が、夕雨季の様子を伺ってきた。
「先週、依頼したフォトグラファーさんが、昨日から海外出張なんだって。商品預けてるし、ちゃんと納期間に合うか心配だったの」
「そうなんだ。写真、誰に依頼したの?」
実日子は椅子に腰かけたまま、膝の上に鞄を置き、携帯や手帳などをデスクに出しながら話かけていた。
「webデザインの千鶴ちゃんに、紹介してもらったんだけど。Iridescentって会社の、小野崎さんって人」
「えっつ? 小野崎さん?」
実日子は、夕雨季の口から小野崎の名前を聞くと、顔を曇らせた。
「どうかしたの?」
「その人、聞いた話なんだけど、あまりいい評判ないんだよ」
実日子は声のトーンを下げ、夕雨季に話した。
「そうなの? けど、千鶴ちゃん、いつも良いフォトグラファーさん紹介してくれてるけど………そう言えば、確か、お願いしようとしてたフォトグラファーさんが仕事立て込んでるからって、別な人を紹介してくれたって言ってた。けど、小野崎さんて、腕が悪いとかなの?」
「ううん。そうじゃなくって。仕事の大小でやるかやらないか選んだり、小さい仕事だと適当に済ませられる事、あるんだって。前に聞いた噂では、途中でバックレた事もあったとか………」
「そんな………。昨日から、海外出張って言ってたけど、本当に大丈夫かな? なんだか、心配になってきた」
夕雨季の胸がざわつき、不安な気持ちが広がり始めた。
「納期、いつだっけ?」
「来週の月曜日」
「まだ、時間はあるから。待ってみよう」
実日子の言葉に、夕雨季の不安が奮い立ち、焦り出していた。夕雨季はパソコンの電源を立ち上げ、出店作家の登録したリストのフォルダを開いた。
「15人もいるよ」
夕雨季は、パソコンの画面を見て、頭の血の気が引きそうになっていた。
「大丈夫よ。久住さん、まずは納期される事を待って、最悪は他のフォトグラファーまた探して依頼しよう。商品は、会社が買い取りしたいって、作家に交渉しよう。で、作家さんには別の商品を相談して、webのアップは少し延長してもらえるように、相談すればいいし」
実日子に打開策を提案された夕雨季は、それを聞いて少し気持ちが落ち着きかけていた。
「うん………。そうだね………」
不安な気持ちがまだ、頭の片隅に残ったまま夕雨季は、一日仕事をしていた。
金曜になっても、夏生からの連絡はなく、夕雨季が電話をかけても電話はメッセージになっていた。
「………そうですか。分かりました、週明けですね」
Iridescentに電話をかけ、夏生の状況と納期を再確認すると、週末に帰国する為、月曜には間に合わせますと、受付の女性も少し切羽詰まったような早口な口調で、すみませんと何度も口に出していた。
仕事の事が気になり、夕雨季は眠れない日が続いてた。実日子からは、心配し過ぎと言われたが、仕事だけではなく、夏生からあの日を境にぱたりと連絡が無くなった事も、夕雨季としては、気になっていたのだった。
納品が立て込んでしまい、事務処理が山のように積み重なっていたため、夕雨季は明日が休みだからと、腰を据えて残業をすることにした。
周りの同僚達が帰宅し、事務所には夕雨季一人になっていた。静かな室内に、パソコンのキーボードを打つ音や、複合機から印刷される請求書や、冬に向けた商品の企画書の書類たちが、ガーガーと音を立てて出てきては、室内に響いていた。
仕事中、何度も何度もため息が零れた。不安はため息を吐き出しても消える事がなく、週明けに、夏生がきちんと仕事を仕上げてくれる事を、願うばかりだった。
『私………あの人の事、気にしてる? まさか。仕事がちゃんと、仕上がるか心配だから、気になってるだけよ………。けど、どうして、何も連絡くれないんだろう………。あの日の事、謝ってもくれない………』
事務所の時計の針が、21時を回り、書類もほぼ片付いてきた所で、夕雨季は大きく伸びをすると、帰る支度を始めた。
会社の近くで夕飯を済ませ、電車の車内の空気が香水やたばこ、アルコール臭で入り混じっていた。大学生くらいだろうか、5、6人の男女がワイワイと話したりケラケラと笑い、上機嫌だったが声のヴォリュームは少し大きかった。
夕雨季は、吊革に捕まりながら帰りのコンビニで、何かアルコールを買おうかと考えながら、渉の事を思い出した。最近、互いに帰りが遅く、顔を合わせる機会がほとんどない。日曜日に一緒に空港に出掛けた以来だった。
『渉君の分も、お酒買って帰ろうかな? もしかしたら、今週もお泊りして、部屋に居ないのかな?』
騒がしい社内の大学生を横目で見ながら、夕雨季はそう考えていた。
それでも、駅に付コンビニでビールと果物のサワーを購入すると、袋を下げてマンションまで歩いた。冷たい風が顔に当たり、そろそろストールを巻こうと思い、更にコートを新調しようと考えながら、歩いていた。
マンションに戻ると、玄関には渉の靴ともう一つ、女性物のヒールの高いパンプスが行儀よく並んでいた。
『誰か、来てるのかな? こんな時間に、歩美さんな訳はないよね? まさか、渉君の彼女とか………かな?』
夕雨季は、ただいまと声に出さずに、パンプスを脱ぐとそっとリビングの方を覗き込んだが、そこには渉は居なかった。それを確認した時に、奥の部屋で物音や微かに聞こえる女性の声が、夕雨季の耳に入った。渉の部屋からではなく、それは、亡くなった凛が使っていた部屋から聞こえていた。
『そこに、渉君と誰かが居るのかな?』
そう、察しながら静かにリビングのドアを開け、夕雨季はテーブルの上に買ってきたお酒の入った袋を置くと、自分の部屋に行き着替えをした。
デニムパンツとTシャツの上にグレーのパーカーを羽織ると、洗面所に向かおうとしたが、渉を気遣いキッチンで手を洗っていると、奥の方からドアの空く音が聞こえた。
「あなた、誰?」
渉のTシャツだろうか、少し大きめのそれを1枚着ただけの女は、乱れた長い髪を掻きあげて、強張った顔をして夕雨季を睨むように見た。
「私は、ここにお部屋を借りている者です」
夕雨季が驚きながらも、そう答え、それを聞いた女はさらにキッと夕雨季を睨みつけ、足音を立てて部屋に戻って行った。そうして、渉との話し声が微かに聞こえ、何か言い合いをしているようだったが、女の声ばかりが聞こえていた。
夕雨季は、お酒を飲む気をすっかり失い、自分の部屋で大人しくしようと思い、冷蔵庫にそれを入れると、再びリビングに女がやって来た。
「あなた、行く宛てそろそろ決めたら? 渉の好意に甘えてないで。気分悪いのよね。あなたみたいな、他の女が一緒に住んで居るなんて」
ズバズバと物を言う女の言葉が、夕雨季の胸にグサリと深く刺し込んできた。突然の事で何が何だか、夕雨季にはさっぱり分からず、反論する気持ちも女の勢いに負けてしまい、怯んでしまっていた。
「ちょっと、怜さん言い過ぎ。やめてよ。夕雨季さん、ごめんね。気にしないで」
後からリビングに来た渉は、同じように髪が乱れ、黒いTシャツにトランクス姿で、行為の後なんだろうと、夕雨季は察し、とてもこの場に居づらく、気まずい気持ちでどうしようもなくなっていた。
「この人の言う通り。私、そろそろここ出るね」
喉の奥から声を振り絞り、夕雨季は渉に言った。女は、フンと鼻息を荒げ、リビングから渉の手を引き奥の部屋に戻って行った。
二人が、居なくなった後も、夕雨季は部屋に居づらく、鞄に財布とスマートフォンを入れ、鍵を手に取り部屋を出た。
突然の出来事で、心臓がバクバクしていた。いつか、自分が渉の元から離れて行かないといけない事は分かっていた。あまりにも居心地が良く、夕雨季はあの女の言った通り、自分は渉の好意に甘えていたのだと、反省していたが、他人から言われるとその言葉はとても痛々しく、突き刺さるものなのだと夕雨季は痛感していた
『あの人、渉君の彼女かな? それにしても、けっこう年上だったかな? 私よりも上かも。なんか、仕事バリバリできそうな人だったな。怖かったし』
歩きながら、マンションで会った女の事を思い出していると、自分がどこに向かっているのかふと立ち止まった。
『どうしよう………部屋に居づらくて、つい、出て来ちゃったけど………』
駅の方に向かいながら、近くのファストフード店に入り、時間を潰す事にした。コーヒーとカボチャのプリンを注文すると、それをトレイの上に乗せて窓際の席に座った。
客が少なく、勉強をしている学生や若いカップル、サラリーマンと数人がパラパラと席に着いてた。横並びの窓際の席には、夕雨季以外にもう一人、若い男性が座っていた。
席に着くと、両手を温める様にコーヒーの入ったカップを手に持った。そうして、ぼんやりと窓を見つめたまま、部屋を飛び出した行動に、航との決別を思い出させた。
終わった事ではあったが、哀しい気持ちは心の底に沈殿していた。さらに追い打ちをかける様に、さっきの出来事が鮮明に動画になって、リピートされては、夕雨季の感情を震わせて涙がスーッと頬を伝った。
コーヒーの香りに気持ちを沈静しようと、目をつぶると涙が零れてぽろぽろと落ちた。
「あの………大丈夫ですか?」
横並びに座っていた男が、心配そうに夕雨季に声をかけた。夕雨季は始め、顔を上げずに
「大丈夫です」
とだけ、答えたが男は傍から動こうとせず、今度はモスグリーンのハンカチを夕雨季に差し出した。
「使って下さい」
細く長い指をした男の手から、ハンカチを受け取ると、夕雨季はゆっくりと顔を上げた。
「………ありがとうございます」
「俺の顔に何か?」
涙目でじっと見ていた夕雨季に、男が不安げに問いかけた。
夕雨季は、男の顔に見覚えがあったが、それが、どこでなのか瞬時に思い出す事ができなかった。しかし、その面影が“ある人物”に似ている事を察すると、夕雨季は小さく息を飲んだ。
「………いえ。知り合いに、似ていたので」
「そう。それより、もし、差支えなければなんだけど、隣に座ってもいいかな? こんな状況で、放っておいて欲しいかもしれないだろうけど」
男は茶色い髪にかかる目を細め、微かに笑んだ。笑んだ顔の雰囲気も、その人と重なり、夕雨季の胸が締め付けられた。そうして、答えに詰まっていると、男はそれを待たずに荷物とトレイを運んで、夕雨季の隣に移動して座った。
細身で背が高く、少し丸い顔の輪郭に、形のいい耳が茶色い癖のある髪から少し見えていた。男は、何処か幼げな可愛らしさのある印象を、夕雨季は受けた。
「聞いてもいいなら、どうして泣いていたのか、教えてくれる? それとも俺の話に付き合ってくれますか?」
落ち着いた口調で、けれど何処かふんわりと包むような優しさのある話し方の男に、夕雨季は小さく息を吸い込んで、
「では、お話聞いて下さい。それで、もし良ければ、あなたのお話も教えて下さい」
いつの間にか涙が止まり、夕雨季は鼻をすすりそう言った。
「うん。じゃぁ、そうしよう。名前。俺、佳生。キミは?」
「私は、夕雨季です」
「夕雨季ちゃんて言うのか。で、どうして泣いてたの?」
長い足をスツールの台に持て余すように、両足を大きく広げ、夕雨季の顔を覗き込みながら興味を示した。
「実は、付き合ってた彼が浮気しててそれで、喧嘩別れした後に出会った人が居るんですが」
「男? 彼氏なの?」
話の隙を縫うように、佳生は夕雨季に尋ねた。
「はい。あっ、男性ですけど、彼氏ではないです。同居人って言うか。私が、その人のマンションに、居候させてもらってるみたいな感じで」
「一緒に暮らしてて、特別な感情はないの?」
「はい………。なんていうか、私より年下の子で、お互い恋人と別れたばかりで。あ、でも、その人は、好きだった人が死んでしまった状況だったので。お互い、そう言う気持ちにはならなかったです。けど、いつまでもお世話になっててもって、思っていたんですが、不思議と居心地がいいと言うか………その人も、住んで居ていいよって言ってくれてたので、言葉に甘えたまま、年月が経ってて………」
話しながら、夕雨季の頭の中に再びさっきの出来事が、映し出されるように甦った。
「けど、その人に恋人ができたみたいで。さっき、仕事から帰ってきたら、女性に邪魔者扱いされて。好意に甘えてないで、もう出て行ったらって………。そしたら、なんだか部屋に居づらくなって、どうしようもないけど今、こうしてここに居ます」
話しながら、喉の奥が熱くなり、目から涙が溢れそうになった。
「そうだったんだ。男女で暮らしていると、そう言うところがすごく厄介な感じだね? 住んでる者同士は良しとしても、そのパートナーの性格もあるだろうけど、気持ちの置き所が違うとルームシェアって大変そうだね。泣くほど哀しかったのかな? それとも、その彼女が末恐ろしかったとか?」
悪戯っぽく笑みながら、佳生は夕雨季に言った。夕雨季はそう佳生に言われて、少し考えた。泣いたのは、自分が甘えていた事で、渉に迷惑が掛かってしまい、恋人である女にも不快な思いをさせてしまっていた事だろうと思った。
「その人に、私が甘えていた事で、二人に迷惑とか、嫌な思いさせたって……」
「邪魔者扱いされた事に、傷ついた? 本当は、その人の傍に居たくて、一緒に暮らし続けていたいと思った………とかではなく?」
佳生は見透かすような目で、夕雨季を見つめて言った。夕雨季はチクリと刺さる、胸の痛みを感じたが、どこか腑に落ちなかった。
「確かに………居場所と思っていたから、邪魔者扱いされた事はショックでしたけど。でも、彼に恋人ができた事で、他人の私が邪魔なのは当然だと思います。居心地が良かったのも、事実で、この時間が続けばいいなって、思ったりもしたけれど、それは恋愛感情とかではなくて、何ていうか………家族みたいな………そんな感じです」
「そうなんだ。ごめんね。初対面なのに、ずかずか踏み込んじゃって。困ってる人見るとさ、放っておけなくて。夕雨季ちゃんが泣いていたから、つい………」
くしゃりと手で髪を掻くように、佳生は照れ隠ししていた。
「いいえ。帰るに帰れないし、一人でどうしようと思っていたので、お話したら、落ち着きましたし、胸がスッキリしました。ありがとうございます」
力なく笑んだ夕雨季に、佳生は夕雨季の視線を捕まえるように、じっと見つめていた。
「あのっ………。次は、佳生さんのお話を教えて下さい」
夕雨季は、一度視線を逸らして温くなったコーヒーを啜り数口飲むと、佳生の顔を見上げてそう言った。
すると、幼げな印象だった佳生の表情が、少し大人びたように笑みを見せ口を開いた。
「そうだね。俺は、最近帰国したばかりなんだ。それまでは、アフリカとかインドネシアとか行ってボランティア活動をしながら、バックパッカーで旅してた。世界でいろんな物を見て、感じたいって思ってさ。彼女がいたんだけど、日本出る前に別れたんだ。1年………少し前かな。それまでは、兄貴と一緒に3人で暮らしてたんだ。皆仲良くてさ。楽しかったけど、やっぱり俺には、結婚して家庭作って、って言うのは性に合わなくて。やりたい事に突き進んで続けていたいって、彼女と喧嘩別れしたっきり。で、帰国する当日に兄貴に連絡したら、兄貴が空港まで迎えに来てくれて」
夕雨季は、息を飲むと身が凍り付くような感覚が走った。
「あの………それって………帰国した日って日曜日ですか?」
「うん。そうだよ」
「あの………私も、空港に居ました。多分、佳生さんにぶつかって………覚えてますか?」
夕雨季の心臓が、ドクドクと早く大きく打ち付けていた。佳生は記憶の糸を辿り、夕雨季を見て驚いた。
「そうだ! ぶつかった! うん、覚えてる! すごい、偶然すぎるっ!!」
声が少し大きくなり、佳生は夕雨季を見てそう言った。
「あの………もう一つ、聞いていいですか?」
「うん? 何?」
「佳生さんの、お兄さんって………小野崎 夏生さん………ですか?」
「そ、そうだよ!! えっ!? 兄貴の知り合いだったの?」
「やっぱり………。どこか、似てる印象があって。空港で佳生さんにぶつかった時にそう思ったんです。今、こうして佳生さんのお話聞いていて、スッキリしました」
「なんだか、すごい偶然だ。夕雨季ちゃんは兄貴の………」
「あ、ただの仕事の関係者です」
佳生に聞かれ、夕雨季は慌ててそう言った。
「“ただの”って、所が意味深だよ」
佳生はクスクスと笑って見せた。
「本当です! 今、小野崎さん、海外行かれてて、週末帰ってくるって、会社の方が言ってたのよ。だから、週明けまで私達の会社、小野崎さんの写真待っているんです」
夕雨季がそう言うと、佳生の顔が一気に曇った。
「多分、しばらく帰ってこないよ」
「え? それ、どういう………」
お読みいただきありがとうございました。
お話が、佳境に差し掛かってきました。
もう少し続きます。どうぞよろしくお願いいたします。