二人の過去
環状線が緩やかな渋滞をしていた。排気ガスの空気が渉の鼻に付き、太陽の日差しの下で微かに暑さを感じていたが、車のエアコンのそよぐ風が心地良かった。
しばらく夏生が自分の素性を話していた。商業フォトグラファーとして仕事をしている事。年は、渉よりも一回り以上年上の40歳で、未だに独身だと言う事。弟の佳生は、夏生と11年が離れている事。
渉は、夏生に問いかけられる事には答え、自分から話し出そうとはしなかった。
「実は、凛も同業者だったんだ。主に建物なんだけど。まとまった休みがあると、海外に出かけて現地の建物や、歴史的建造物とか写真に撮ってた。写真集も出版されてるんだよ。知ってかい?」
滑らかな口調で、夏生は凛の話をすらすらと話していた。サングラスで顔の表情は隠れてしまっているが、口角は上がりほうれい線を作り笑んでいるのだと、渉は思った。
「いえ………。写真の仕事ってくらいしか」
「そうか。凛は、海外旅行先で佳生と出会った」
夏生の言葉が耳に入り込むと、胸の奥がチクリと胸を刺した痛みを感じた。渉は、真っ直ぐにフロントガラスの向こうの、前方を走る車のブレーキランプをただぼんやりと見つめていた。
「佳生は、大学のサークル活動の延長で、海外へバックパッカーしながらボランティア活動していたんだ。小さい頃から、気は優しい奴だから、困っている奴を放っておけない所があって。帰国しても、就職せずにアルバイトしながら、俺と暮らしてた。そこに、凛も一緒に暮らし始めたんだ。凛は、俺と年が近いし同業者だったのもあって、話がよく合った。けど、不思議と、凛と佳生も合ってたんだ。似てると所があるとは思ったけど、だから、仲いい割りに喧嘩もしてたな」
凛や佳生を思い出す夏生は、クスッと笑うと渉の方を見た。
「渉君の事は、凛が少し話してくれたことがあったんだ」
「俺の事?」
「そう。俺の家を出た後、俺と凛は連絡は取ってたんだ。それで“渉君って言う、男の子の所で暮らしてるから”って。キミの事、“佳生とは違って、大人しいコよ”って」
夏生の言葉に、渉の胸の中にふわりと風がそよぐような感覚が漂った。もう、既に過去の事だが、夏生を通して凛が感じていたその話は、気体のように一瞬にして宙に消えてしまうようだった。
「確かに、キミは大人しそうだね? それとも、初対面だから人見知りしているとか?」
「………話するの、あまり得意じゃないんです。人見知りも確かにするし………」
渉の小さな声は、車のエンジン音や周囲の走行する音にかき消されそうだったが、夏生の耳には届いていた。
渉は、夏生に誘われて、一緒に凛の実家にこうして向かっているのだが、内心は半分後悔する気持ちで居心地が悪かった。
『凛の過去には、自分は居ない………』
夏生の話を聞きいていると、妙な疎外感に襲われているようで、両膝を抱えて塞ぎこみたい気分だった。
渋滞が解消され、東名高速道路に入ると、夏生は軽快に車を飛ばしていた。右車線のレーンを走りながら、どんどん、左側の車線を走る車達を追い越していく。低速の時はそんなに感じなかったが、スピード感と直に感じる風に、絶叫マシンにでも乗っているかのような体感だと、渉は思っていた。
「せっかくだから、海岸沿い走ろう。ま、男と一緒だと、渉君のテンションは上がらないかな?」
海老名ジャンクションで高速を降りると、夏生はそう言って海の方へ車を走らせた。
「顔に風が当たるだけでも、かなりドキドキしてます。別の意味合で、テンション上がってますよ」
「あはは。そうだったんだ? さすがに男には興味ないから、緊張感高まっても、俺には惚れないでね。ほら、良く遊園地とか映画とか観て心拍数上がると、恋の気持ちが高まり易いって、言うだろう?」
夏生の言葉に、渉は、
『この人、おかしなこと言う人だな? 惚れる訳ないじゃんか………』
と疑問を抱き、無表情のままで夏生を見ていた。緊張感が高まっても、そんな気の迷いは起きない事は、渉は確信していたし、夏生の言っている事が冗談だとすれば、前向きな性格の人なのだろうかと、渉は考えていた。
「あははー。イタイね。やっぱ、おじさんは若い奴には受け入れ悪いかぁ」
苦笑する夏生に、渉は肯定も否定もせずに外の景色を眺めた。そうして、微かに香った潮の匂いに海が近い事を察した。
「そう言えば、凛が亡くなった時って、渉君は居たの?」
気持ちを切り替えたのか、夏生は渉に凛の話を持ち出した。そうして渉は、
「はい………」
と、答えて口を閉じた。未だに、鮮明に記憶が残っている光景に、渉はあれが凛との最後の時間だったと、悔やむ思いばかりが胸に募った。息を吸う喉の奥が微かに締め付けられると、溢れる涙を渉は堪えていた。
「………良かった。一人じゃなかったなら」
夏生は、囁くような声でぽつりと言った。それから少し、互いに何も言葉を交わさなかった。
海は穏やかな波で、砂浜には散歩する人が居るくらいで、シーズンオフの海には波乗りしているサーファーがぽつりぽつりと見えた。
しばらく走っていた海沿いを離れ、カーブの多い山道には、みかん畑や、みかんを運搬する細いレールが山の奥の方に伸びていた。そうして、小さな駅の前を通過すると、車に設置されたカーナビの案内に、夏生は右に曲がったり左に曲がったりと商店街を通り抜け、車は凛の実家付近まで来ていた。
「この先の道を右に入ると、多分………あった! あれが、凛の実家だ」
車が道を右に曲がると、徐行運転で夏生は辺りを見渡し言った。辺りには数件家が立ち並ぶ、物淋しい住宅地だった。2階建ての家の門には、“真下”と表札があり、その前で車を止めると、夏生はインターフォンを押した。渉も車を降り夏生の後ろに立ち、家を眺めていた。庭の植木だろうか、山吹色の花を咲かせた金木犀の匂いが漂っていた。
「お電話いたしました、小野崎です」
インターフォンから凛の父親の声が聞こえると、夏生は名乗って答えていた。すると、家の扉が開き、中から凛の父親が姿を現した。
「初めまして。小野崎と申します」
「凛の父です。ここまで、わざわざお越しいただいて、ありがとうございます。キミは確か、佐伯君だね。凛の事では、いろいろ世話になったね。ありがとう」
目を細め、穏やかに笑んだ凛の父親に、渉は会釈をして挨拶をした。
「お二人は、知り合いだったのですね。さ、中へどうぞ」
凛の父親に案内され、渉と夏生は家の中に入った。玄関に入ると、目の前には廊下があり右側の壁には2階に上がる階段が見えた。ふわりと漂う、凛の実家の匂いに渉は何処か懐かしさを感じていた。小さい頃、学校の友達の家に遊びに行くと感じる、その家々の匂い。それぞれ違っていて、それが渉には印象に残っていた。
リビングに案内されると、キッチンから姿を見せた凛の母親が、お茶の乗せたお盆を持って、現れた。
「どうも、初めまして。凛の母です。わざわざありがとうございます」
60代くらいの小柄な凛の母親は、深々と頭を下げて渉と夏生に挨拶をしていた。
「まずは、こっちへどうぞ」
凛の父親に声をかけられ、渉と夏生は仏壇のある和室に案内された。小さな観音開きの仏壇には、花が活けられ先祖の位牌に並ぶ中、割りと新しく綺麗な凛の位牌らしき物があった。そうして、その隣には、小さな写真たてに凛の遺影があった。いつの写真だろうか。渉の知る凛よりは、ずっと若くはにかんだ笑顔がキラキラしていた。
「この写真は?」
夏生が、凛の父に尋ねると、凛の父親は仏壇のろうそくに火をつけながら答えた。
「学生時代のお友達が、持っていたんです。20代後半位の頃だったかな? その事一緒に、海外旅行言った時のだそうです」
「いい笑顔ですね」
写真を見て顔を綻ばせた夏生の眼差しは、とても穏やかだった。
仏壇で線香をあげ、両手を合わせた行いに、渉は凛が本当に死んでしまったのだと言う現実に、酷い違和感を受け止めるしかなかった。
線香の細く宙を舞う煙と共に、その香りが部屋に充満していた。
「さ、こちらへどうぞ」
凛の母親に声をかけられ、名残惜しくも渉と夏生は仏壇の前から離れ、リビングへ案内された。
ソファーに渉と夏生は並んで座り、向かい合わせる様に凛の両親が座っていた。
「うちの娘は、大学の途中で家を出ましてね、それっきり………。ちゃんと、大学は卒業したらしいけれど、全く家には帰ってこなくて。連絡さえよこさない始末でした。もともと、一人っ子で、友達が多かったのは何よりだったんですが、好奇心が旺盛と言えば、聞こえはいいでしょうが、何せ年頃の娘でしたから………」
「お父さんは、とても心配してたんです」
二人は、交互に凛の話を渉と夏生にしていた。
「19の時に、海外生活をしたいだなんて突然言い出して。お父さんが止めたんですが」
「頑固な所は、私に似たんでしょうね………。それっきり。けど、高校の時の友達とかに風の便りで、凛の話をぽつぽつ聞くことはあったんです。それで、あぁ、それなりに元気にやってるんだなと、思ってました」
小さなため息が漏れ、凛の父親は視線を落とした。
「これは、ご存知でしたか?」
夏生が手荷物の中から、一冊の本を差し出した。それは、車の中で話してくれた凛の撮った建物の写真集だった。
「いえ………。これを、娘が撮ったんですか?」
父親はそれを手に取ると、パラパラとページを捲り、その隣に座る母親も覗き込んで、本の中の写真を見ていた。
「凛………。こんな事、してたのね………。綺麗な写真ね。お父さん………」
涙声になった凛の母親は、ティッシュを手に取り、涙を拭いながらそれを見ていた。渉も、向かい側からそれを見ていた。イタリアの教会やドイツの大聖堂。建築家の立てたデザインに優れたビルや公共の施設達。ファインダーを覗く凛の視線の先と、同じものを見てると言う間接的な共感が、渉には切なくも嬉しくも思えた。
凛の父親は、それから凛の幼少時代のアルバムを見せてくれた。
一人っ子とあって、写真がたくさんあり、アルバムが何冊にもなっていた。初節句や七五三では、華やかな着物を身にまとい、ぎこちなく固まった表情をした写真だった。
小学校の運動会では、俊足だったとの事で、リレーの選手となって軽快にグラウンドを走っている姿が収められていた。高校生の頃には、大人びた顔立ちの中、修学旅行先で無邪気にはしゃぐ写真もあった。
昼食を一緒にと、出前で寿司を取り、渉と夏生は両親にご馳走になった。その頃には、凛の話だけではなく、この辺りの地域の事や渉や夏生の話など、話題があれこれと耐える事がなかった。話す事はあまり好きではない渉だったが、和やかな雰囲気に心地よさがあり、自然と自分の仕事の話をしていた。
帰り際、渉は父親に凛の携帯を返した。
「いろいろ世話になったね。本当に、ありがとう。小野崎さんも、ありがとう」
門まで見送られ、父親に礼を言われると、渉と夏生は凛の実家を後にした。
「いいご両親だったね。凛の小さい頃の写真が見れるとは思わなかったけど」
夏生は顔を綻ばせながら、話した。渉は、それに同感して頷いて見せた。
「しっかし、若い頃からあの好奇心だったんだな!? 海外生活していたなんては、聞いていないけどなぁ。本当にしていたのかな?」
凛の両親の話を思い返しながら、夏生は渉に話しかけていた。そうして、ふと渉の口から夏生に問いかけた。
「弟さんは、今、どうされてるんですか? また、海外とかにいるんですか?」
渉の言葉に、夏生の笑みが消え、落ち着いた雰囲気で真っ直ぐ前を見たまま、口を開いた。
「佳生は、死んだよ………。1年くらい前に」
夏生の、暗い声のトーンと遠くを見る目が、何処か寂しい印象にも渉は感じていた。
「そうでしたか………」
「渉君の家に凛が転がり込んだ時って、多分、佳生と別れた時だと思う。アイツ、また海外行ってバックパッカーしたいって言いだして。凛は、そろそろ落ち着きたかったんだ。結婚て柄ではないって、自分では言っていたけど、やっぱりそれなりに付き合って自分の年齢も考えると、そう言った答えに着地したかったんだろうな。でも………」
渉は、夏生の話を黙って聞いていた。そうして、夏生は小さくため息を吐くと、赤から青に変わった信号を見て、アクセルを踏んだ。
「佳生は、そうはなりたくなかったんだ。凛とは、“恋人同士のまま、そうして自分の好きな事をしていたい”って。俺は、“大人になったんだか、少しは将来の事も考えろ”って話したことがあったんだけどね。俺よりも、凛と大喧嘩して。結局、海外に行っちまった………。しばらく、音信不通で、突然インドネシアの日本大使館から電話があって、佳生が事故に巻き込まれて死んだって」
「事故?」
「現地で喧嘩している人を止めようとした時に、ナイフで内臓刺されて。出血多量で死んじまった………。誰にも助けてもらえずに、道端に倒れたまま、独りで息を引き取ったらしい………」
「凛は、その事………」
「もちろん、知った。と、言うか、俺が教えたんだ。3日くらいは家にいて、飲まず食わずただ涙流してた。その後、渉君の部屋に戻ったと思うよ」
渉は、前に凛が泣きわめいていた事を思い出した。
もしかしたら、それがその時の出来事だったのだろかと、一瞬当時の事が頭を過ったが、それを振りほどいた。
「凛が、佳生の写真を持っていた事は、知ってたんだ。ポートレートは撮らないって言っていたけど、佳生の事になると凛はいつも、カメラを向けていた。愛おしそうに佳生見てさ。佳生はそれが、心地よかったんだろうな。だから、あのアルバムは二人の思い出として、俺が持っていたいと思ったんだ。すまないね、今朝は突然来て、ここまで付き合わせて」
夏生はちらりと渉を見た。穏やかな笑みを見せ、言った言葉が胸の奥を締め付けた。
「いいんです。アルバムは、凛のお父さんに渡せず、どうしようか困ってたから。ただ、一体誰なんだろうって、何となく恋人だろうっては思ってたけど、胸のつかえがとれました。凛にちゃんとお線香上げられたし。夏生さんは意外にいい人っぽいなって、思いました」
「以外!? いやー。いい人だよ。………渉君て、もしかしてさ」
言いかけた夏生の言葉に、渉は夏生を見た。夏生は、真っ直ぐ前をみたままだった。その横顔は、微かに強張っているようにも思えた。
「凛の事、好きだった?」
「それは………」
夏生の言葉に、渉は口籠り視線を逸らした。すると、夏生は力なく笑んで、
「同類だな。実を言うと、俺も惚れてた。だから、今年の凛の誕生日に、お祝いしようかと思ったんだけどね………」
と、言った後、なぜか小さくクスリと笑っていた。それが、渉の身近な存在の人物だと言う事は、夏生は知らなかった
お読みいただきありがとうございました。
余談ですが、
登場人物は皆、オリジナルなのですが、夏生のキャラクターが自分としては非常に書きやすい存在です。
お話はまだまだ続きます。
どうぞよろしくお願いいたします。