再会
夕雨季は、ネットショップに載せる撮影用の商品を鞄に入れ、依頼先の撮影スタジオの場所が、航の職場に近い事が分かると、出向く足取りが重くなっていた。
『会うわけがない………』
そう、思いたかった。そして、願いたかった。その気持ちを、悪戯されるかのように、オフィス街の向こうから、見覚えのある姿が目に留まった。
淡い水色のワイシャツにネクタイを締めた航の姿に、胸が締め付けられた。胸の奥でねじ込んで無理やり塞いでしまった、微かに残る愛情が、甦ってしまわないように夕雨季は視線の先を落とすと、行き交う人の流れに紛れ、航に気づかれない事を願った。
航との距離が近づき、夕雨季は顔を背け強く胸の中で願っていた。
『気づかないで………』
「夕雨季?」
夕雨季の願いは虚しくも叶わず、すれ違い際航は足を止めて夕雨季に声をかけた。
「久しぶりね」
夕雨季は、顔を上げて航を見ると、更に胸が締め付けられて、苦しさが胸の奥まで広がっていた。
「あぁ。詩織ちゃんの式以来………だな。仕事?」
航は微かに笑んだ。柔らかな笑みに懐かしさが漂い、昔に戻っているようなマヒしかけた感覚に陥るところだった。しかし、夕雨季はそれを必死に振りほどくように、自分の感情と格闘していた。
「うん。商品の写真を撮ってもらうの」
「夕雨季………少し、時間あるかな?」
航は真っ直ぐ夕雨季を見ていた。その表情からは微かな笑みは消え、真剣で雲行きが漂うような雰囲気に、夕雨季は腕時計を見た。初めて尋ねる会社だったため、夕雨季は時間に余裕をもって出向いていた。
「30分くらいなら………」
「よかった。じゃ、そこ入ろう」
歩道の並びにある店に入ると、航は慣れた様子で店員に声をかけた。すると、店員に連れられ奥の部屋に案内された。モダンな印象の店内は、客が入っている割に静かで落ち着いた雰囲気があった。
「よく、ここは上司とか、商談で来るんだ。その時は、大抵個室使うから。そこなら、ゆっくり話ができるし」
航の言葉に、夕雨季は
『瑠羽とも来た事があるの?』
と、問いかけたかったが、それは聞かずにかき消した。
席に着こうとすると、航は夕雨季の持っていた手荷物や鞄を手に取り、荷物置きようのバスケットにそれを置いてくれた。
「ありがとう………」
席に着くとすぐ、コーヒーが運ばれ、テーブルに置かれた。これまで、当たり前のように感じていたが、航は一緒に居てくれると相手を気遣ったり、スマートに注文したりしてくれていた。そんな出来事が、懐かしくも心地良さがふわりと漂ったが、現実に意識を戻した夕雨季には、それらすべてが苦しさで覆われてしまっていた。
「今、どうしてる?」
航に問われ、夕雨季は知り合いの所で少し置いてもらっていると、答えた。
「そうか………。ちゃんと、夕雨季に謝りたくて………。本当に、すまない。こんなことになってしまって………。詩織ちゃんの披露宴で、夕雨季の様子が気になってたんだ………。本当に、申し訳ない………」
席に座ったまま、航は深く頭を下げていた。浮気をされた甦る記憶と、沸き上がる怒りと、披露宴での二人の姿を目の当たりにした、惨めで虚しい気持ちがぐちゃぐちゃに混ざり合って、胸の中がざわざわしていた。それを、沈めるように夕雨季は小さくため息を吐くと、奥歯を噛みしめ、航を見て口を開いた。
「どうして………こんなことになったの………? 私、あれからずっと考えてた………。自分に何か原因があったのか。結婚の事や、子供の事や仕事の事………。私の不安が、航の気持ちを変えてしまったのかなって………」
声を出していると、喉の奥が熱くなり重苦しく締め付けられた。溢れそうな涙を堪えながら、夕雨季は航を見ていた。
力なく哀し気な表情の航と視線が合うと、航は目を伏せてまた深く頭を下げた。
夕雨季には、それが繋いだ手を振りほどかれたような、離れて行ってしまった気持ちを感じていた。
「そうじゃない………。俺が、夕雨季に甘えてたんだ。いつでも、帰る場所がある事に。仕事で悩んでた事があって。その時、フォローしてくれたのが瑠羽だった」
航は大きく息を吐き、顔を上げた。強張ったその顔を夕雨季は黙って見ていた。
「魔が………差したんだ………。俺が悪かったんだ。夕雨季の場所には、いつでも戻れると。甘えていたんだ………。それが、こんな結果になって、夕雨季には本当に、すまないと思ってる………」
ぽたりと、夕雨季の目から涙が零れ落ちた。別れを切り出された時から、諦めはついていた。浮気の原因が、自分ではなかったが、安定した日常を作っていた事にが、良くも悪くも原因があったのだろうかと、頭の片隅に浮かんだ。
そうして、航の言葉を、事その物の根源を確認した夕雨季の胸が、急激に冷却されたように、しんと静まり返った。
もう、互いの心の所在は、別々の所に着付いている。披露宴の席で会った時にも、実感はして頭の中では分かっていたが、再びこうして航に会い話をしたことで、夕雨季の気持ちに整理がつけた気がしていた。
そう、悟った夕雨季の涙が止まり、それをハンカチで拭うと、マスカラが微かに付着していた。
「分かったわ………。ありがとう。もう、これで本当におしまいね」
コーヒー口を付けず、夕雨季は席を立った。すると、再び荷物に手が伸び持ってくれた航の手から、バッと荷物を取ると、
「もう、優しくしないで。さようなら」
夕雨季は、航に言葉を突き刺すように言い、その場で航と別れ店を出た。
風が涙の後を撫で、微かにスーッとしていた。これで、本当にすべてが終わってしまった。もう、航に対しての愛おしい気持ちを呼び戻すことは、二度とないのだと自分に言い聞かせると、再び瞼が熱くなってきた。泣くのをぐっと堪え、化粧を直そうかとコンビニか何か店を探し、歩き出した。
「あ、やっぱり。夕雨季さんだ!」
通りすがった男性に声をかけられ、男は目の前に立ちはだかった。夕雨季が顔を上げると、一瞬で怪訝な表情を見せた。
「そんな、露骨に嫌な顔しないで欲しいね。連絡してもノーリアクションは酷いと思うけどなぁ………」
夏生は、グレーのパンツの裾を捲り、白いVネックのシャツの上に、紺色のネルシャツを羽織っていた。その表情には笑みが零れ、口角が上がっていた。
「偶然かな? それとも、俺に会いに来たとか?」
「何、言ってんですか!? 仕事です」
「そうなんだ? それにしても、夕雨季さんは会うたびにいつも、泣いてるのは何故だろう?」
黒縁メガネの奥に見える夏生の目が、夕雨季の顔を覗き込むように見ていた。
「なんでもないですっ!」
夕雨季は夏生を振りほどくように、足早にその場を離れようとしたが、夏生も一緒になって歩いていた。夕雨季は、さっきまで膨らんでいた航の思いに突然踏み込むように押し入った夏生を、避けたかった。
「もう! 付いて来ないで下さいっ!」
隣を歩く夏生に、夕雨季はムッとして言葉を投げた。しかし、夏生には全く応えている様子はなく、それよりも嬉しそうで顔が綻んでいた。
「歩く方向が一緒だから。せっかくだし、一緒に歩きたいじゃない」
「………」
全く怯む様子もない夏生の態度に、夕雨季は呆れて物が言えず口をへの字にして顔を背けた。
「それより、荷物重そうだね。持とうか?」
「結構です!」
「あー………。俺、そんなに酷い事したかな? 逆に、連絡くれない方が俺、傷ついてたんだけどなぁ………」
夏生の言葉が、夕雨季の胸にチクリと刺さった。電話やメッセージを無視していた事は、後ろ髪引かれる気持ちはあったのは確かだった。しかし、夏生のこの性格が夕雨季にはどうにも受け入れ切れなかった。
「それは………ごめんなさい」
「お。素直なんだね。いいよ。俺、気長なタイプだから」
「だから、そこです! その、態度がどうしても………」
口ごもった夕雨季に、夏生はスッと商品の入った荷物を手に取り、自分の肩に下げた。
「これが、俺の性格だから。けど、夕雨季さんが困るなら、少し改めるよう努力しよう」
ふわりと軽くなった右肩と、漂う雰囲気に夕雨季はハッとした。航と終わったばかりだと言うのに、不意打ちを食らうように気持ちが一瞬、夏生に動きかけた自分が居たのだ。そう、認識した瞬間、勢いよくそれをかき消し、身を引き締めた。
「どうして、そんなに私に構うんですか? 会って間もないのに」
歩きながら、真っ直ぐ前を見ている夏生の横顔を夕雨季は見ていた。そうして、夏生は夕雨季の方を見ると、大人びた優し気な眼差しで、
「夕雨季さんが、泣いていたからかな。捨てられた猫みたいだった」
「猫………ですか?」
「ごめんごめん。でも、ある人に、似てたんだよね。傷ついて泣いてるの見てると、ほっとけなくて」
夏生の表情から、力ない笑みが零れた。どこか淋し気で、これまで見たことのない印象に、夕雨季は抵抗する気持ちを少し緩めた。
「それって、あの日、お店で一緒にディナーするはずだった人ですか?」
「あー。正解! そうだよ」
「彼女さん?」
「うーん………友人? はっきり言えば、弟の彼女。あいつら、似た者同士でさ。仲いいんだけど、ぶつかり合う事も多くて。ま、弟が年下だったしガキっぽいのもあったけど、しょっちゅう喧嘩しては、彼女が泣いてるところ見かけてさ」
夏生は目尻に皺を作り、遠くを見ているようだった。
「そうなんですか………」
夕雨季の声に、夏生は視線を落とすと大きな掌をポンと軽く、夕雨季の頭にそれを乗せた。
「だから、俺が何とかしてあげたいなぁってね。ま、その人はもう居ないけど。目の前には、何とかしてあげたい夕雨季さんが居る」
夏生の優しくも穏やかな笑みを見て、夕雨季は胸がドキリとした。これまで、意識した事がなかった目の前の男にそう言われ、耳がカーッと熱くなっていた。
「何、言ってんですか!?」
照れた夕雨季は、そう言うと急に夏生の顔を見るのが気恥ずかしくなっていた。
「あ。照れてる? やっと、俺の気持ちが夕雨季さんに響いてくれたかなぁー?」
茶化すようにニコリと笑んだ夏生に、夕雨季は顔を背けていた。
「違いますっ! よく平気でそんな言葉がすらすら言えるなぁって、思っただけです」
歩いていた先に、目的の撮影スタジオのある会社が見え、夕雨季は足を止めた。
「じゃぁ、ここで。今度は、ご連絡いただいてもちゃんと、返事します。今まですみませんでした。あと、荷物持って下さって、ありがとうございました」
平常心を保とうとした態度が、変に事務的になりぎこちなくなっているのが、あからさまになっていた。すると、夏生はクスリと笑い、もう一度ポンと夕雨季の頭に手を乗せた。
「どういたしまして。夕雨季さん、可愛いですね」
夏生に言われ、更に顔が赤面した夕雨季は、会社のドアを開け中に入って行った。すると、後から夏生も一緒に付いてくるので、夕雨季は夏生の身体を押し付けた。
「仕事なんです。もう、付いて来ないで下さいっ!」
「うん。“仕事”しよう。俺、ここのフォトグラファーなんだ」
「えっ!? 小野崎さんっ、そうなんですかっ!?」
目を丸くして驚いた夕雨季に、満面の笑みの夏生がうんうんと頷いていた。後から、受付らしい女性が現れると、約束している仕事の担当が夏生であることが改めて分かった。
「どうぞ、奥のスタジオに。あ、小野崎さん、クライアントさんから修正のご連絡いただいてます。後、確認してください」
「ありがとう。デスク置いておいて。さ、夕雨季さん、行きましょう」
夏生は夕雨季をエスコートして、奥のスタジオに案内してくれた。夕雨季はまだ、驚いた気持ちのままだった。中に入ると、既に、撮影用に機材が準備されていた。
「商品のイメージは、事前に伺っていたから、あとは夕雨季さんが補足で“こうしたい”って、言ってくれるとより完成度が高まると思うから」
夕雨季が荷物の中から、ハンドメイド作家から預かったサンプルの商品達を出すと、夏生がカメラを持って現れた。
「えっと………今回は、秋物の雑貨をピックアップして売り出すので、落ち着きのあるけど、暗すぎない印象で撮って頂きたいんです」
説明している夕雨季に、夏生はファインダーを向けてパシャリとシャッターを切った。
「ちょっ! 小野崎さんっ! 何で、私を撮るんですかっ!」
「うん。可愛いかわいい。いいね。俺、今度、ポートレートやろうかな。夕雨季さんモデルになってくれるかな?」
満足げにデジカメの液晶を見ながら、笑んだ夏生は夕雨季に話しかけた。
「もうっ! それ、消してください」
「ダメです。これ、俺のカメラだし。さ、お仕事始めましょう」
さらりと夏生に交わされ、夕雨季は仕方なしに商品をセッティングし始めた。アクセサリー類は、用意して置いた小物で見栄えするように、レースやベルベットの生地の上に添え、次々に様々な角度から、何枚も写真を撮る夏生の姿に、夕雨季は見とれていた。
『普段から、こんな風に真面目だといいのに………』
ふと、そう思った瞬間、ファインダーから目を離した夏生が、夕雨季の方を見た。
「今、俺見てた?」
真面目な顔が解け、にこりとした夏生に夕雨季は小さく首を振って顔を微かに強張らせた。
「違います。商品、見ていたんです」
「そう? あとは、帽子とバックだったよね? もらったイメージなんだけど。これは、ここじゃなくて、外で撮ろう。実際の景色を交えた方が、映えそうだ。どうかな?」
見ていた事がバレていたけれど、夏生はそれが嬉しそうに見え、それでいて楽しんでいるようだった。
「でも、このあたりオフィス街ですよ?」
微かに首を傾げた夕雨季に対し、夏生は満面の笑みを見せ夕雨季に近づいてきた。
「なっ………何ですかっ!?」
夕雨季の目の前に立った夏生から、ほんのりと香水の爽やかな香りが漂っていた。夏生と目が合うと、夕雨季は視線を逸らす事が出来ずに、ただただ見つめながら、胸の鼓動が身体中に大きく響いていた。
「そんな風に見つめられると、夕雨季さんにキスしたくなる」
クスッと笑んだ夏生の言葉に、夕雨季は顔が熱くなったが大きく反論した。
「ほんっと、何言ってんですかっ!! お仕事してるんですからっ! 真面目にやって下さいっ!」
「ごめんごめん。それは、もう少し時間をかけてからだね」
動じる事もなく、夏生は余裕のある笑みで返したため、ムキになった自分に夕雨季は恥ずかしくなっていた。
「だから、そう言うんじゃなくて………」
呆れながらも困った夕雨季に、夏生はポンと夕雨季の頭に掌を乗せた。
「ホント、ごめん。仕事の話だけど、写真の納期は10日後だよね?」
「はい。そうですが………」
「じゃ、夕雨季さん。週末は予定空いてるかな?」
夏生の言葉に、更に呆れた夕雨季は頭に乗っていた手からスッと離れ、身を壁の方に寄せた。
「だから! 何ですがっ!? 急に」
「俺、明日は予定があるから………明後日はどう? 仕事になってしまうかも知れないけど、何処か自然があるところまで足伸ばして、商品の撮影をしたいんだけど。やっぱり、クライアントさんに一緒に来てほしいなと思って」
夏生の誘いに、夕雨季は答えを躊躇していた。さっきまで一緒に居た航の存在が、胸を掠めた。しかし、航との関係がもうはっきりと終わった事だと思い返すと、夕雨季は小さく頷いて夏生に返事をした。
「………分かりました。日曜ですね。ご一緒させていただきます」
「良かった! 夕雨季さんとデートだ」
眼鏡の奥の目を細め、目尻に皺を作って笑んだ夏生の言葉に、夕雨季は大きく否定した。
「それは違いますっ! お仕事として、ご一緒するんです!!」
「そうだね。よし。今日の残りの仕事、サクッとやっつけよう。日曜日の件は、メッセージで待ち合わせとか連絡します。ご自宅教えて頂ければ、そこまで迎えに行きますし」
「いっ! いいですっ!! どこか、場所決めましょう。それじゃ、私、そろそろ会社戻らないと。失礼いたします」
スタジオを後にした夕雨季は、さっきまでの胸の痛みが消え、くすぐったくなるようなフワフワした感情が膨らんでいる事に気が付いた。
お読みいただきありがとうございました。
お話はまだまだ続きます。
どうぞよろしくお願いいたします。