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表面張力  作者: フジイ イツキ
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雨の日に

過去に投稿した物です。ご了承ください。

久住くすみ 夕雨季ゆうきは、怒りと憎しみのそれらの感情を、ぐちゃぐちゃに混ぜこねた衝動を抱えたまま、上り坂を足早に勢いよく上がっていた。部屋から適当に詰め込んだ、必要最低限の私物の詰まった重量感のあるスーツケースを力強く引き、ガラガラと音を立てながら。

『………どうしてあんな事………ひどい。絶対………許せないんだからっ!!』

 頭の中に思い浮かぶたびに、かき消そうとしている御堂みどう わたるの顔に、夕雨季の感情は、爆発する寸前だった。

 肩で呼吸をし、怒りの中から堪えていた悲しみの存在をぐっと抑え、ただただ航と暮らしていたマンションから離れたくて、無我夢中で移動していた。行き先は、何処でも良かった。適当な所で、ビジネスホテルにでも泊まるつもりでいた。

 電車の車窓から公園が目に留まった夕雨季は、次の駅で下車すると、公園があるであろうその方向に向かって歩いた。駅前なのに、バスやタクシーの存在もなく、静かで殺風景な印象だった。

 堪えていた涙が、滝のように勢いよく零れ落ち、それをハンカチで拭いながら歩いた。

「ママー、あのおねーちゃん泣いてるよ」

 夕雨季とすれ違った男の子が、口を開けたまま、まじまじと顔を覗き込んだ後、指をさして母親に知らせていた。

「やめなさいっ!」

 母親は、見て見ぬふりをして急ぎ足で息子の手を引いて離れて行った。夕雨季の頭の中で何度も何度もリピートされている、航の言葉とその顔が、自分の感情が集中していたため、他人にどう思われようが、言われようが構わなかった。

 公園の入り口からは、石畳の下り坂を進み木の茂った園内に入ると、人気の少ない公園でとても静かだった。園の中央には大きな池があり、それを囲むようにベンチが等間隔で並んでいた。

 木陰になっているベンチに座り、夕雨季は両手に広げたハンカチを顔に押し付け、声を殺して泣きじゃくった。喉の奥が熱く、苦しさで時折咳き込むと、肩に下げていたショルダーバックからポケットティッシュを取り出し、鼻をかんだ。

 涙を拭い、ふーっと息を吐いて一呼吸ついた間もなく、夕雨季の頭の中に航の姿が浮かんでいた。

『できてたんだ』

 リビングのソファーに座っていた夕雨季と目を合わせずに、立ったまま航は左手で後頭部の髪を掻きながらぼそりと言い出した。

『何のこと?』

 視線が泳ぎ、落ち着かない雰囲気の航の態度に、夕雨季は何かしらの悪い虫の知らせではないかと察し、怪訝そうな表情をした。

『だから………つまりその………子供が』

『は? 何、言ってんのか、意味わかんない』

『いや、だから………夕雨季の他に、関係持ってた人がいて。その子が妊娠したんだ………』

 そう言うと、航は床に正座し夕雨季に頭を下げた。

『それで?』

『責任を、取ろうと思う。だから、夕雨季にはすまないけど………』

 更に頭を下げ、土下座の状態になった航に夕雨季の感情の糸が切れた。

『いつから?』

 怒りで声が震え、目の前の航の姿を直視する事が出来ずにいた夕雨季は、窓の方を向いて話しかけた。

『………去年の夏くらいから』

 浮気相手を問い詰めたが、それは頑なに言わない航の態度に、何かしら自分と繋がりのあるであろう女なのかと察し、その状況に更に追い打ちをかけて怒りが増していた。

『10年付き合ってた私をあっさり捨てて、子供ができた女を選ぶんだ? “すまないけど”? もっと、誠意込めて謝る気持ちないわけ?』

 夕雨季は航を睨みつけ、震えあがる怒りを堪えながら、淡々と言葉を吐きつけた。

 

 公園の脇を通過する電車の音が耳に滑りこむ。太陽に照り返すキラキラした眩しい池の水面をぼんやり見つめたまま、夕雨季は思った。

 期待していた自分が、何処かにいたんだ………。

 大学時代から付き合っていた航と、10年も付き合い同棲していた。30歳になろうとしているし、周りももう結婚すると思っていた。もちろん、当の本人ですらそう信じていた。

 だから、余計に辛かった。期待していた物が粉々に崩れ、更に1年も前から航は他の女と付き合い、挙句の果てに子供まででき、自分ではなくその女を選んだ。

 目から涙が流れ、生ぬるいそれが頬を伝う。そうして、大きくため息を吐きながら、その度に、自分の感情を沈めようとしていた。

 けれど、湧き水のように航との出来事が、とめどなく頭の中に溢れ出し、楽しかった思い出や、出会った大学時代のサークルでの事、日々の他愛のない日常が心地よかった事、いつも必ず出かける時は、航から手を指し伸ばして繋いでくれた事、がっしりとした体格に、柔らかくそれでいて低い声。愛おしかった気持ちが浮き沈む中、航がした過ちへの怒りがそれを押し沈めようとしていた。

 はーっと、また、大きくため息を吐く。足元を見ると、履いていたサンダルで靴擦れを起こしていた事に気が付き、親指の付け根がひりひりとした痛みを放っていた。

「これから、どうしよ………」

 ぼーっと、目の前にある池を囲む鉄柵を見つめたまま、夕雨季は力なく掠れ声で呟いた。

 蒸し暑さで喉が渇き、スーツケースを引いてひたすら歩いた疲労感と、消化しきれない航との出来事で、夕雨季の身体はひどく草臥れていた。

「泊まるとこ、探さないと………」

 日が傾きかけ、いつの間に日がオレンジ色に染まっていた。どのくらいここに座っていたのか分からなかったが、夕雨季は気力を奮い立たせて靴擦れで痛む足の中、ビジネスホテルを探しに出かけようとした時だった。

 ぽつん。と、木の葉の間から雫が夕雨季の頬に当たった。ふと、顔を上げると、さっきまで夕焼けだと思っていた空が一変して、どんよりとした重苦しい暗雲が広がっていた。

「うそ………雨? やだ、傘は持ってこなかった………」

 焦りだした夕雨季に襲い掛かるかのように、突然バケツをひっくり返したような豪雨が降りだした。遠くの空で、雷の音が聞こえると、夕雨季は辺りを見回して公園のボート乗り場の建物の屋根に逃げ込んだ。屋根が短く、豪雨が地面を叩き付け雨宿りにはあまりなっていなかったが、少しでもしのげられるならと、夕雨季は雨が弱まるのをただ待っていた。

 ザーっと降り続く雨に、自分の心も流されてしまえばいいのに。それで解決するならいいのにと、夕雨季は、現実逃避しながらぼんやりと線のように降り続く雨を見つめていた。

 通り雨だろうと思っていたが、雨は弱まることなくザーザー降り続いている。暗くなった公園には、街灯が着き始め人気がいない薄暗いその辺りの雰囲気に、ふと怖気づいてしまっていた。

「きゃっ!」

 雷が光、ゴロゴロと音が鳴り、更に夕雨季は怖くなってしまった。このまま、雨宿りしていてもと、意を決して歩き出し泊まるところを探すことにした。

 公園の石畳の上り坂を歩きながら、サンダルが濡れて足が滑り、靴擦れの足が痛み出した。俯きながら歩いていると、ふと雨が止んだ。

「え?」

 止んだと思ったのは、夕雨季の頭上だけで辺りは変わらず豪雨だった。そうして足元の先に白いスニーカーが見えると、ふっと顔を上げた。

「良かったら、使ってください」

 白いTシャツから伸びた細く白い腕と、華奢でほねぼったい手に持っていた傘を差出した大学生くらいの青年が、夕雨季に声をかけた。

「え? あ、でも。キミが濡れちゃう」

「いいです。うち、近いし。それに、傘さすの面倒くさいから」

 黒くさらりとした髪が目にかかり、顔があまりはっきり見えなかった。豪雨の音量にかき消されそうな、微かに聞こえる声が夕雨季の耳に届いていた。

「大丈夫です。駅まで走りますから」

「………」

 顔にかかった髪が動くと、二重の黒い瞳が真っ直ぐに夕雨季を見つめ、ぐっと傘を持つ手を夕雨季の顔に寄せた。

「でも………」

 20代くらいのその青年は、夕雨季の空いていた右手を手に取ると、傘の柄を持たせて歩き出した。

「待って!」

 くるりと振り返り、公園の方に向かう青年の姿を見ていた夕雨季は、その背中に何か自分と重なる想いを感じていた。

「あのっ!! やっぱり、良くないです。キミが風邪ひいちゃう。駅まで! 駅までご一緒してください。そうしたら、私、後は何とかなりますから」

 傘をさしている腕を上げ、夕雨季より10㎝以上は背丈の高い青年に、傘を差しながら夕雨季は必死に説得した。

「もう、お互いずぶ濡れですけどね………」

 ぺたんと張り付いた青年の黒い髪から、ぽたぽたと雫が垂れている。夕雨季は涙と雨で化粧が流れ落ち、履いていたデニムパンツがびしょびしょに濡れ、身体に纏わりついていた。

 お互いの状態を見合わせ、思わず笑っていたのは、夕雨季の方だった。そうして笑った夕雨季につられ、青年も小さく微笑んだ。

 黒い傘の中に、二人で入っているが豪雨であまり雨除けにはならなかった。夕雨季から傘の柄を再び取り戻し、歩き出した。

「ビジネスホテル? 2つ先の駅ならあると思う」

「え? ここにはないの?」

「うん………。ここ、何もないよ。急行止まらないし。大学の体育館があるくらいで、あとは北口から少し離れた通りに街道があって、そっちならチェーン店のいろんな店があるけど、南口のここら辺は何もない」

 何もないと言う言葉が、念を押されたように2度言われ、確信に至った夕雨季はこのまま電車に乗って2駅頑張ろうと、意気込んだ。

「泊まるところ、探してるならうち、来ますか?」

「え?」

「すごいずぶ濡れだし。あ、大丈夫。俺、手、出しませんから」

「キミって、淡々と話すけど結構大胆な事言ってるよね」

「………今は、誰かにそばにいて欲しいんです」

「えっ?」

 豪雨にかき消されそうな声で、青年が言った言葉が聞き取れず、夕雨季が聞き返したが、青年は小さく横に首を振り、

「なんでもないです」

と、答えた。

「じゃぁ、雨が弱まるまで。服変えたいし………」

「どうぞ」

「あ、名前。私、久住 夕雨季です。キミは?」

 夕雨季が顔を上げ、青年の横顔を見ると、整った顔立ちをしたその横顔が振り向き、夕雨季と視線を合わせた。

佐伯さえき わたるです」

 見上げた夕雨季の顔が、一瞬強張り胸の奥がチクリと痛んだ。

『わたる………』

「夕雨季さんの名前って、どんな字書くんですか?」

 すっと、視線を逸らし前を見ながら渉は尋ねた。

「夕暮れの夕に、雨の季節の季です」

「あぁ………今みたいだね」

 渉がそう答えると、夕雨季は大きく頷いた。

「そうなの! 祖父が付けたんだけど。ちょうど、こんな日に生まれたんだって、私。佐伯君は?」

「渉でいいです。俺は、“さんずい”に“歩く”で一文字。俺のは、歩美あゆみって10歳離れた姉が付けた」

 字が違えど、今は“わたる”の名前が夕雨季にとっては避けていたい名前だった。

 

 渉と一緒にたどり着いたマンションは、公園の近くにあった。

「どうぞ」

「ありがとう。ここに、一人で住んでるの?」

 バスタオルを差出し、靴擦れのするサンダルから解放された素足を拭き、フローリングの上を歩いた。さらりと廊下から見えたドアを数えると、3LDKくらいはあった。学生の単身者が住むには、間取りが多い気がし、それこそ夕雨季はさっきまで暮らしていた自分の生活を重ねていた。

「………今はね」

 意味深な渉の言葉に、訳もなく不安が漂い、夕雨季は胸に手を当てていた。

 ローテーブルに敷かれた2つのクッション。一つは淡い水色のカバー。もう一つは、淡いピンクをしていた。座って使い古され、窪みができているそれと、飲みかけのマグカップにはピンクの口紅がうっすらと縁に付いていた。

「彼女の? いいの? 私、やっぱり帰ろうか?」

 何かを察した夕雨季は、リビングの入り口に後ずさりしながら、渉に声をかけていた。

「………んだんだ」

「え?」

 俯き涙声の渉の言葉が聞き取れず、聞き返した夕雨季に、渉は顔を上げてもう一度口を開いた。

「死んだんだ………今日」

 渉の真っ赤になった目から、涙が流れ落ちていた。


お読みいただき、ありがとうございました。

バレンタインデーは、家族や職場、自分チョコなど至る所でチョコを口にしました。


お話はまだまだ続きます。どうぞよろしくお願いいたします。

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