【とある朝】
目が覚める。
いつも通り携帯電話の目覚ましアラームが鳴る前に目が覚めた。ここ何ヶ月か定着している。良いことだ。
目覚まし要らずの人間というのは、生活のプロフェッショナルだと思う。睡眠が一日のリズムを作るのであって、それが全自動で制御できるということを『プロ』と呼んでも過言ではないのではなかろうか。
自然に目覚める度に『流石は“俺”だな』と自己陶酔する。これで更に覚醒されるのだ。
――ただ、通常と違うのは今日の“起きた時間”である。
毎日朝六時に起きるのだが、今回はなんと三時なのだ。三時間も早い。
『なんで?』自分を疑うことは自然であった。
けど、俺は普段から時間をもったいないと思うタイプの人間であるから、仕事に出るまでの時間がたっぷりあることに嬉しがる。現金な性格はこういう場合、損得勘定が全てにおいて優先されるのだ。
特に朝の時間は貴重だ。『早起きは三文の得』という言葉はよくできた言葉だと思う。余裕として、時間を出社の準備以外に使える。これは大きな得と言わずに何と呼べば良いものか。
いや、待て。やっぱりこんな時間に目が覚めてしまってはやることに困る。余裕がありすぎてもいかん。仕事中に眠たくなったらどうしてくれようか。
とにかく、こんな時間に起きてしまった検証をしなければ……
まだ起き上がってもいないのだが、なんだか疲れているような気もする。
それに、悪い夢でも見たかもしれない。そうだとしたらきっとストレスが原因であろう。
チェックしていくと、早く起きてしまったのは心身に何らかの異常を来しているのではないか、という可能性に行き着いた。
そうなると、やるべきことは一つ。
――二度寝だ。
最近のマイブームはフローリングで直に寝ることなのだが、体力的、精神的に疲弊しているのならば布団で寝なければならないだろう。フローリングと布団で治癒効果が段違いだ。自愛の心が寝ぼけながらに自分を労ってくれている。
布団まで二メートル程度の距離があるのだが、のそのそとたどり着く。
やはり、布団は気持ち良い――
何日振りだろうか。
フローリングで寝始めて何日も過ぎていたことを理解した。
布団というものは、とにかくやわらかい。床に比べると沈み込むような錯覚に陥る。俺はその柔軟性に包み込まれるのだった。質感だけでなく温度もちょうど良かった。運が良い。
その感覚と感想は程々に意識は遠のいていく。目を閉じれば一瞬で寝落とされてしまった、布団の持つ魔力によって。
次に目覚めた時には、すでに日も昇っていた。直感的にヤバいと思ったら案の定、時刻が想定より進んでいる。
俺が仕事に行く時間から逆算して『この時間には起床していなければならない』と決めている時間を十分過ぎていた。セットしていた目覚ましにも気づいていない。
これはマズい……
しかし、こういう時は焦ってならないことは俺は十分に分かっている。落ち着いて考えると、まだ会社に遅刻したわけではないし、朝食や準備を短縮すればまだ取り返すことが出来る。とにかく冷静にならなければ。
一つずつ、ミスをしないように心がけた。
朝食のパンを落とさないこと。服や廊下を汚してしまってはならない。
シャツやズボン、ベルトや靴、靴下の組み合わせを迷わないこと。しかし、センスの組み合わせになってはNGだ。
シャツのアイロンで返ってまたシワにならないように掛けること。急ぎたい気持ちが手の速度を上げてしまうと、シワを伸ばすつもりが逆に強いシワを作ってしまう。二度手間は避けたい。
髭のそり残しのないこと、歯の磨き残しのないこと。時間短縮には省いても良いと思うのだが、第三者視点で不快を与えないようにしなくては。エチケットってやつだ。
正確に……迅速に…
すると、どうだろう。十分の遅れが五分に縮まっている。これだから朝という時間は奥深い。俺が朝の時間に無限の可能性を感じる所以がそこにはある。
そして、ある程度の準備ができて安堵していたのだが――
せ、洗濯物が残っている……
昨晩、洗濯機だけ回しておいたのだ。時間がある時に干すだけだと楽観的だったのである。そういう楽観主義は必ずと言って良いほど後で後悔する。
そろそろ出発するといったこの状況下で、『なぜ今?』と思い出してくれるのだ。
はっきり言えば、忘れてくれていた方が良かった。
しかし、家事はその都度処理をしておかねば積み重なっていく。積み重なると余計に処理に時間と労力を削がれる。
一人暮らし三年目の俺は最近になって漸くその点について理解を示しだしているところでもあったのだ。
正直、家事を済ませて行っても遅刻はしない。就業時間は八時半。俺がいつも出社の目処にしているのは八時前だからである。その差は三十分もある。流石に干すのに三十分もかかりはしないだろう。
しかし、少しでも早く行くべきなのだ。
何を気にしているのか。
答えは簡単で“調和”である。
俺以外の男性社員は八時頃に出社する。先輩二人と俺が八時前で、所長が八時過ぎ。ちなみに事務員の女性二人は八時半前だ。
洗濯物を干すと八時は過ぎる。でも、所長の出社時間よりは早く着く。先輩二人がどう思うかが焦点となる。
洗濯物を干すという洗濯をすれば当然先輩二人より遅れて出社し、『後輩のくせに』と思われるかもしれない。調和を大事にしなければ。
幸運なことに、今日は先輩の一人が出張で直行している。これはラッキーだ。私の遅れを見つめる冷たい視線が半分になるということだ。
そう思うとすでに右手で洗濯ばさみをつまみ、左手に湿ったパンツを握っていた。
――うちの営業所の名誉のためにも補足するが、俺を蔑むようなことを考えることは一人もいない――つまり、これは俺の独断と偏見、被害妄想なのである――
終わってみれば、洗濯物を干すなんてそんなに時間のかかるものではない。三、四分を使った程度なのだ。家事は些細な積み重ねなのだとまた痛感した。
さて、全ての条件を見たしいざ出発するわけだが、俺はいつも自転車通勤。
自分で言うのも変な話だが、格好いいロードバイクに乗っている。最近はロード乗りが増えてきたが、それでも通勤にロードバイクを駆っている人は多くはなく、そこは自慢の一言に尽きる。
朝から気怠そうにして出勤している俺――でも、自転車は格好いい――
ママチャリなんかと比べると遙か高級車――
そんなことがモチベーションなのである。
自転車をこぎ出して数分、今日という日は俺の気持ちを最高に高めてくれる偶然が重なった。
通勤にすれ違う女子高生が“体操服”なのだ――!
制服とは違う趣がある。というかエロい。何故か胸が強調されている。ブラウスに比べると厚手で、少し胸が大きく見える。
それに、自転車で通学する彼女らを阻む風が良い仕事をしているのだ。体操着が押しつけられているように体に密着している。
そして、その胸のところに名前が書いてあるため、一人一人のチェックが可能になっているのだ。
俺はスカシた振りをしながら薄目で胸元を物色した。
『小川さんの胸は良いな。山田さんはもう少しかな。黒木さんは将来性が高い』などと心で語ることができる。
一人の評論家として審議を重ねた。
いつもならすれ違いに相応の距離を取るのだが、今日は話が別だった。安全は二の次にして、『少々の接触ならば、寧ろ幸運』と息巻いて走った。
興奮状態の俺であったが、不幸なことに事故は起こらなかった。「くそっ」
その落胆は高校生の通学路が終わることによって更に深いものになったのだが、次なるマイブームが俺自身を救ってくれた――
俺の通勤経路と女子高生の通学路は国道でしか重ならず、それは時間にして数分といったところである。
それが終わったということは俺が路地に入ったことを意味する。同時に、孤高の楽しみが始まるのだ。
その娯楽とは、路地を挟む住居を観察することである。
俺が住む街は決して平均所得が全国に比べると高いとは言えない。住居に関しても立派な家と呼べるものは比較的少ないと思う。むしろ、昭和初期に立てられたような長屋が今も頑張っている。
低所得の住処を眺めながら通勤することが至福の時なのだ。
茶色いトタンの壁、角がすれたボロい玄関ドア……物干し竿なんかも古い物はポイントが高い。
クーラーやガスの配管に巻いてある保温材がベリベリになっているのを見るとと、口角が上がってしまっていることが多い。。
洗濯物もゴムがビロビロに広がった下着が何枚もまとめて干してあると、何故か俺は自身の中に喜びの感情が浮かんでくるのが感じ取れるのである。
このような情景を見ていると鼻歌でも歌いたくなるのであった。同時に自転車を漕ぐ足も軽くなるのだ。
女子高生の通学路、低所得の部落を次々に通り過ぎると、川を二本超える。その川に挟まれた区画が俺の住む街の中心地だ。川を越える為に当然のごとく橋が掛かっているのだが、堤防があるがために勾配が伴っている。
俺は下りの勾配を、車も抜かすほどのスピードで突っ切るのがたまらないと思っている。通勤はこの暴走行為が大きな醍醐味の一つである。中心地をぶっ飛ばすのが大好きなのだ。
自転車に法定速度はない。
時々、仕事していてお客様に『自転車で走るの見かけたよ』などと声を掛けて頂くことがあるのだが、その度に戦々恐々とならずにはいられない。
『お前の暴走行為、押さえたで』と言われたような気がするからである。
かくして、職場が近くなってきた。
今日は市で一番大きなショッピングセンターのロータリー入り口に、宗教活動をしている人がいないのが残念だったが、なかなか良い通勤だったのではないだろうか。
そう思いながら自転車を適当に置き、職場のドアのノブに手を掛けた。
こうして、俺の長い一日が始まる。