其の拾伍
夜が明ける前の暗い時間から天幕を出て、ずっと木に寄りかかり時を過ごす。
どれだけ待ったか解らないが、日が昇り小屋の方から保護している女たちも起き出して来た。
隠されていた食料などで朝食を作る者や、汲んで来ておいた水で顔を洗う者など、自分たちで役回りを決めて活動している。
ただ全員がミキをチラッと見ては『見てはいけない物を見た』と言いたげに視線を外す。
女房に逃げられた旦那がその帰りを待っている図にしか見えないのだが……ミキ本人はそのことには気づかず、勝手に居なくなった相棒を待っていた。
女たちの評価は何一つ間違ってなどいないのだが。
ふと何か聞こえた様な気がして彼は顔を上げた。
ビリビリと地面が微かに振動している。地鳴りでは無くて地面の上を何かが走る物だ。
馬にしては間隔が狭すぎる。何頭か連れ立って走っているのなら納得出来るのだが。
「……キ~」
声がした。聞き覚えのあるいつもの声だ。
「ミキ~」
木々の間を抜けてそれは飛び出して来た。
ゾウほど大きな六本足の猫。勿論化け物の一種であり、見つかれば兵士1千人程度の数で討伐隊が組織される恐ろしい生き物だ。だがそんな化け物の背に乗ったレシアはブンブンと手を振って、彼女を待つミキに対して名を呼び続ける。
「ミキ~」
彼の前を勢い余った化け物が通り過ぎる。
タイミングを見計らって飛び降りたレシアは、ふわりと着地して数歩たたらを踏んだ。普通の者ならその勢いを殺しきれず地面を数度転がるほどの勢いにもかかわらずだ。
天性の才能が成せる神業としか言いようがない。神業の無駄遣いに他ならないが。
「ミキミキミキ!」
「……」
「聞いてくださいミキ!」
「ああ」
「私はこんなに怒ったのは久しぶりです! あれです。いつだかミキが私のことを『寝て踊るだけの化け物』とか言われた時以来です。ああ。でもあの時の言葉は酷かったと思います。私は忘れて無いんですからね! ミキも悪いことを言ったらちゃんと謝るべきです」
ブンブンと体の前で握った両手を上下に振ってレシアが怒りをまき散らす。
係わらない方が良いととばかりに……出来上がった料理を持って女たちは小屋の中へと入って行った。
「あのことは後でもう一度話し合いです! でも今は違うんです! 酷いんです! 無理やり人質を取って、やりたくも無いことをさせられて終わったら殺されるなんてダメなんです! それも新しい命も宿っていると言うのに! ミキも怒るでしょう? だからビシッと……じゃ無くてガツッと怒ってください!」
「分かった。ならまずお前からな」
プンスカ怒るレシアの脳天に……ミキは手刀を叩き込んだ。
「ふにゃ~! なにするんですか!」
「……」
痛いと言うよりも反射的に頭を押さえて蹲る。
次の攻撃に備える習性がレシアには染みついていた。
それだけ相手に体罰込みで怒られていると言う事なのだが。
いつもと雰囲気が違うことぐらいレシアにも気づく。
彼の纏っている空気が普段と違うからだ。
相手が普段纏っている空気は、七色の綺麗な色をした不思議な物だ。
それを見て触れるだけでレシアの気持ちは安らぐし、何より自分もその空気を纏えるのが嬉しくて仕方が無い。
纏えば纏うだけ……自分の感覚が研ぎ澄まされて昇華していく気がするからだ。
しかし今彼が纏っているのは、明確な"怒り"だ。
自分に向けられているその空気に……レシアは初めて恐怖した。
「どこに行ってた?」
「えっと……あっちです」
蹲ったままで方角のみ指し示す。
「何をしてた?」
「お話をしてきました」
相手の怒りがピリピリとしていて、触れる度に焼かれるような感覚に襲われる。
「誰と?」
「ラーニャさんです」
そして沈黙。
時間とすればそんなに長くも無かったが……一秒が途方もなく長く感じられるレシアは我慢出来ずに顔を上げた。
大きなため息が一つ。まるで怒りを全て吐き出す様な……事実彼から怒りの空気は消えた。
「お前は、あっちに言って話してきた訳だ。ラーニャと言う人と」
「はい」
「一人で?」
「はい」
「……まあ友達に運んで貰ったから行き来の不安は無いだろうが」
言葉を切って彼はまた息を吐いた。
不安に駆られてレシアは立ち上がり、恐る恐る相手の顔を見る。
普段通り表情だ。表立っては。
「どうしてそんなことをした?」
「だってミキが毎日眉間に皺を寄せて悩んでたから……だから私も何かしなくちゃって思って」
「それで敵が居るガギン峠に一人で行って来たのか?」
「はい。でも兵士たちは街道から離れた場所に小屋とか天幕とかを建ててそっちに居ました」
その言葉にまたため息が聞こえて来る。
ビクッと身を震わせてレシアは全身を固くした。
怒られるのなら別に良い。良くは無いけれどそっちの方がまだ良い。
不安でレシアの心は砕けてしまいそうだった。
相手に……ミキに"嫌われる"と言う恐怖は、自分の中のどんな言葉を以てしても表現など出来ない。
それだけにレシアは泣く事さえも出来なかった。
恐怖のどん底にまで落っこちている彼女は、ただただ何かに祈り続けるしか出来ない。
「全く……この大馬鹿者が」
「え? あっ……」
スッと動いた相手に全身を硬直させているレシアは反応出来ない。
その結果……ミキは彼女を正面から抱きしめていた。
(C) 甲斐八雲




