其の拾玖
ずっと目を閉じていた。
いつからか……思い出せないぐらいずっと前からだ。
ただ自分の頬に触れる感触が懐かしい。懐かし過ぎて涙がこぼれる。
「お前は変わらんな。阿国よ」
「……旦那様?」
ゆっくりと目を開ければ、光が飛び込んで来る。
眩しさにまた目を閉じ……今度は気をつけながら目を開く。
彼が自分の体で影を作っていてくれた。
「久しいな」
「はい」
随分と老いて見えるが、その声は間違いなく夫のものだ。
静かに確かめるように一度頷き……阿国と呼ばれは女性は、右の拳を握り締めて相手の顔面に放った。
「遅い! いつまで待たせるのよ!」
「……変わらんな。お前は」
殴られた頬を摩って老人は笑う。
本当に何一つ変わっていない。気が強くて言葉より先に手が出る性分など昔のままだ。
そっと手を伸ばし……老人は妻を抱きしめた。
「ねえ?」
「何じゃ?」
「貴方がここに居るって言うことは……封印は?」
「解けた」
「そう」
抱き締めた妻が長く息を吐いて夫に抱き付いた。
「なら知ったわね? 私たちは最初から勘違いしていたことを」
「ああ」
「本当に馬鹿な話ね」
「そうだな」
妻と会話をしながら彼は自分が出会った存在が何であるのかを思い出した。
自分たちは最初から……根本的な部分から間違えていたのだ。
あれは決して閻魔などと言う存在では無い。強いて言えばそれ以上の存在だ。
「私はしばらく彼と話したわ」
「そうか」
「でも彼は信じてくれなかった。人と言う存在を」
「そうか」
「……今の巫女は彼を説得できるかしら?」
「どうだろうな」
笑う夫に阿国はその視線を向ける。
本当に愉快そうに彼は笑っていた。
「どうして笑っているの? 言葉を間違えれば人は滅ぶのに」
「ああ。でもきっと滅ばんよ」
「どうして?」
口元に笑みを残し彼は頷く。
「儂らの子孫は恐ろしい存在を生み出したからだ」
「恐ろしい?」
「ああ」
告げて彼は視線を巡らせる。
封印から出た"あれ"は、きっと今頃……想像もしていない強敵と向かい合っていることだろう。
「今代の巫女ならばきっとどうにかする。あれは……とんでもなく我が儘だ」
「我が儘?」
「そう。左右の手に乗る果実をどちらか一つ選べと言えば、全力で両方取ろうとする。強欲で我が儘……故にきっと負けんよ」
「……分からないわね。どうして私の子孫からそんな子が生まれるのかしら?」
「知らんよ。ある意味儂は納得しているが」
飛んで来た拳を頬に受け、老人は押し黙った。
「ねえ?」
「何だ?」
「……もう疲れたわ」
「そうだな」
優しく妻を抱いて老人は腰を下ろす。
少しずつ崩れ出している彼女は……もう腰から上しか残っていない。
「なあ阿国よ」
「なに?」
「もしまた……違う世界へと行けたのならば、儂と一緒になってくれるか?」
「ええ。放さないわ」
「そうかそうか」
笑い老人は妻を優しく抱き締める。
胸から下が完全に砕けた彼女の残る時間は長くない。
「ならば次は二人で静かに暮らそうか」
「ええ。でも子供は欲しいわ」
「分かった。好きなだけ産むが良い」
「良かった」
笑い妻は求めるように顎を上げる。
相手の行動を理解し、老人はその唇に自分の物を押し付けた。
「最後に一緒に居れて幸せだったわ」
「ああ。案ずるな……儂も直ぐに逝く」
「ええ。待ってる」
もう一度唇を交わし……そして彼女は全てが砕けた。
形を失くした相手を探し求めるように腕を動かした老人は、静かに頭を振って立ち上がる。
深く息を吐いて、微かに裂けている大気の隙間を見る。
「この果心居士……最後の秘術と参ろうか」
笑い老人は己の全てを解き放った。
舞台で踊るレシアは自身の頭上に生じた気配に気づいていた。
ただ形が整うのに時間がかかりそうなので、気にせず辺りに目を向ける。
正面で敵を食い止めているクベーはまだ大丈夫そうだ。
ただ他の仲間たちはもうほとんど居ない。旅立つのを見送ったから間違いない。
唯一元気に走っているのは南部の将軍たちと、そして彼だ。
ようやく相手を見つけたらしく真っ直ぐ向かっている。
問題は相手も気づいたらしく……百人程度の人間が手ぐすねを引いて待って居る。
(大丈夫。ミキなら平気)
自分の心に言い聞かせ、レシアは改めて意識を広げた。
理由はない。ただそんな気分だったから広げた意識が……それを見つけた。
東から来る力強い仲間たちの存在を、だ。
(ああ……ミキ。私たちにはこんなにもいっぱいの人たちが居ますよ)
涙が溢れそうになって我慢する。今日は泣かないと決めていた。
泣いたら仲間が逝ってしまいそうで……だからずっと我慢し続けているのだ。
『ならば儂が少しばかり力を貸そうかのう』
(お爺さん?)
何処から湧いて来た老人の姿を見てレシアは理解した。
(逢えましたか?)
『ああ。だからこれは儂からの最後の礼じゃよ』
言って老人は奇跡を見せる。
東から来る者たちの道を縮めたのだ。
(凄い)
『カカカ。これが怪僧果心居士様の実力じゃ』
笑い老人は優し気な眼差しを向けて来た。
『のうレシア』
(はい)
『お前はあの阿国の子孫じゃ。ならば大いに歌舞くと良い』
(かぶく?)
首を傾げる子孫に老人は笑う。
『ああ。頭上のあれにお前の全てを見せてやれ! そして大いに我が儘を言うが良い!』
(はい)
消えた老人に向け……一粒だけ涙を溢し、レシアは頭上の存在に目を向けた。
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