其の漆
にへら~とだらしのない表情で、テーブルに腕を枕で幸せそうにしている少女はそっとしておく。
この世界には"婚約者"という言葉は無かった。だからレシアにその意味を聞かれ、彼は『結婚することを前提に付き合っている相手に使う名称』とそれらしい返事をした。
それから少女は蕩けた表情で幸せそうだ。
「本当にお前の予想は凄いなミキ」
「ちょっとした知識があれば誰でも出来ることだよ」
「それでも凄い。本当だ」
機嫌良く笑っているクックマンは余程良い商売が出来たのだろう。
何でも売りが多過ぎて急遽残すはずだった"商品"を、何人か捨て値で売りさばいて買える人間の数を増やしたそうだ。それは人生を狂わされた人が出たと言うことだが……そこまで考えるのは人が良すぎることだろうと、彼は割り切った。
ミキは己の中の思考を止めて、新しいことを考え始めた。
酒に酔い上機嫌に語るクックマンが気になることを言ったのだ。
「もう一度、今の話を聞かせてくれ」
「んん? ああ……ハインハルは隣のブライドン王国に援軍を求めるそうだ」
「規模は?」
「それは知らんが、ブライドンには事前に話が回っていたらしくてな……たぶんアーチッンから近日中に兵が派遣されるそうだ」
「アーチッン?」
ブライドン王国のアーチッンは、ここイットーンから一番近い街だ。
ただアーチッンは商業の街だから在中している兵の数は多くない。それなのに兵を派遣する。それも近日中に?
引っかかった。ミキの思考に何か棘でも刺さる様な違和感と共に。
ゆっくりと目を閉じて思考の海に身を任せる。
「クックマン」
「何だミキ?」
「出来たら明日にでもこの街を離れた方が良い」
「おいおい。そりゃちょっと無理な話だ。着いたばかりで商売をして部下たちは全く休んでいない。出来たらここで少し休んでだな」
「商品を全て奪われるかもしれなくてもか?」
静かな声音で聞こえて来た言葉にクックマンの酔いは一気に引いた。目を瞠りミキを見る。
「おかしな話だったんだよ。最初から」
「おかしいって?」
「ガギン峠はコーグゼントの主要街道だ。あそこを押さえられるとハインハルは東西で物流が寸断される」
「そうだな」
「知っていると思うがあそこの周りは岩場だ。近くに在るのは木々と小川ぐらいだ」
「ああ」
「……何百人と兵が集まり拠点を築く場所にしては不向きだよな?」
そう不向きなのだ。
砦を築こうものなら"飲み水"の問題が浮上する場所。
元兵士だと言う触れ込みの賊たちがそんな場所を占領する物だろうか?
「そしてハインハルはブライドンに援軍を求めた。それを受けたブライドンは『近日中には兵を出す』と。まるでハインハルの討伐隊が負けるのを知っていたかのような準備の良さだ」
「……」
「考え直そうクックマン。もしガギン峠の賊が賊で無かったら?」
「賊ではないだと?」
「そう。元兵士は間違って無いだろうな。たぶんブライドンと、ハインハルの兵も混ざっているかもしれない」
「……何を言ってる?」
「可能性の話だよ。混合軍がその場を占拠し、寄って来るコーグゼンドの兵を打ち倒す。手の内を知っていれば簡単に返り討ちに出来るだろう。そしてイットーンからの討伐隊も返り討ちにした」
淡々と話すミキは……まるでそれを見聞きして来たかのように話す。
だが聞かされる方のクックマンは肝の冷える思いだ。
「ハインハルが援軍を求めた。違うな。最初からそう決まっていた。そしてブライドンは兵を動かす。近日中に動かせるのは準備を済ませてあるからだ。なら動いた兵は何処に向かう?」
「……ガギン峠じゃないのか?」
全身に嫌な汗をかきながらクックマンはそう答えた。
そうあって欲しいと言う思いを込めての言葉だ。だがミキは静かに頭を左右に振った。
「ガギンはもう制圧済みなんだ。攻める必要は無い。ならどこを攻める? ここだよ」
「……」
「イットーンはハインハルで王都を除けば1・2を争う街だ。何より今なら兵の数も少ない」
「だがミキよ。肝心なことを忘れている。両国は昔から堅い絆で結ばれた同盟関係があるだろう?」
「ああそうだな。でも同盟を結んだ当時の関係者はどこに居る? 確か全員墓の下だろ?」
「……」
両国の絆は、"長く"結ばれた同盟で有名な話だ。
時の王が、大臣たちが必死に交渉を重ねて結んだ同盟。
「今を生きている者からすれば……互いに攻め込まないこの同盟はさぞ身動きがとりづらいだろうな」
「どうして? 戦わなくて済むだろう?」
「そうだな。ただそれは両国が豊かであればだ。だが実際はどうだ?」
「……ハインハルはここ数年不作だ。ブライドンは奴隷不足で働き手が足りていない」
「それを一気に解決する方法は?」
「……ブライドンがハインハルの半分を占領する」
「ハインハルはまだ実りのあるガギン峠から向こうの東側を、ブライドンはハインハルの食えなくて困っている住人を奴隷として得る」
恐ろしい話だ。だが今まで何度もその考えが現実になっている彼の言葉に……クックマンは頭の中で算盤を弾き続けていた。
「両国のそこそこの地位を持つ者同士で話が作られているのだろう。知らないのはハインハルの王族ぐらいか。ここ数年の不作もあるが現国王は何もしていないからな」
人心が離れつつあるハインハルの現国王は、きっとこの事実を知って肝を冷やすだろう。
こんな恐ろしい話を聞かされた自分の様にと、クックマンは思わずにはいられなかった。
(C) 甲斐八雲




