67.交渉
『犬』の腕を叩きつけられた地面は大きく抉れその振動でローブの人物は足をよろけゆっくりと地面に仰向けに倒れていく。
ローブの人物は一瞬で近づいた『犬』にも倒れ行く自分の体にも何の反応も見せずに、手に持った短剣をゆっくりと自分の喉下に押し付けた。切っ先が喉の皮膚を突き破り赤い血の玉を作る。
『犬』は信じられないような顔でローブの人物を見つめている。
ローブからは間違いなくあのハーフエルフの臭いがする。しかしローブの内側にいるのは…
『今すぐここからこの洞窟から立ち去り2度とここへは近づかないと誓うのならば、彼女を解放しよう』
くぐもった声があたりに反響する。
ローブの中身は奴隷商のキャンプで待っているはずの奴隷の一人だった。
「ろーな!何故コンナトコロニイルンダ!?」
『犬』は目の前の奴隷に手を伸ばし顔を隠すフードを払った。
ローブの下には『犬』の予想した通り奴隷商の商品の一人の奴隷の顔があった。
今だ幼さの残るそばかすの浮いた顔は『犬』が目の前に顔を寄せても安堵の色も恐怖の色も浮かびはしなかった。
その視線の焦点は『犬』を通り越してどこか遠くに結ばれている。
『犬』は過去に何度か目の前の奴隷の様な魂の抜けた人間を見たことがある。薬であったり魔法であったりあらゆる方法で当人の意志を完全に抜き取らされた人間たち。
「ろーなニ何ヲシタ!?」
『犬』の怒声が辺りに響き渡る。
『今すぐここからこの洞窟から立ち去り2度とここへはこないと誓うのならば、彼女達を解放しよう』
しかし返って来たのは先ほどと同じ、くぐもった声。
『犬』はあたりを見回して音の出所を探そうとしてみるがドームの壁に変に反響して何処から聞こえる声なのか分からない。
いや、まて同じ言葉だったか?今ハーフエルフは彼女達と言わなかっただろうか?
そもそもキャンプで待っていた彼女がここに居るというのに一緒にいた他のもの達が無事である保障など何処にも無い。
『犬』がその考えに至った時、依然として首に短剣を構えたままの奴隷が器用に片腕だけで立ち上がりローブの内側から何かを取り出した。
『犬』は取り出された何かに一瞬身構え、そして疑問符を浮かべた。それほどまでに奴隷が取り出したものが何か分からなかったのである。
明かりが入り口付近にある青白い魔道具しかないためドームの中は大変暗い、しかも獣人の目は犬と似たような性能になっていて暗い場所で物をしっかり見るのに向いていない。
『犬』が突然出されたそれが一体何なのか分からなくても無理は無い。
しかし見えていなくとも犬よりも鋭い『犬』の嗅覚はそれから伝わる匂いを正確に嗅ぎ取っていた。
それは細く短い糸の様なものを束にし、麻紐で縛って吊るした様な物だった。細い糸は先の方がより痛み細く磨り減っており、長さもざんばらだ。
それが2本。濃い茶色と赤みがかった茶色、それはキャンプで留守番をしているはずの残り二人の髪の毛だった。
「!!!」
『犬』は胸の内に激しく燃え滾る衝動を必死に抑えながら震える手を握り締めた。
今ローナが首に突きつけている短剣に力を入れたとしても目の前に立っている『犬』ならその切っ先が首の血管を切り裂く前に短剣を弾き飛ばすことが可能だろう。しかしローナ以外の奴隷達も同じ状態にされているのならそんな事は出来ない。
奴隷商も死んだ今、ハーフエルフを狙う事に―『犬』の心情を覗けば―易はない。ここから自分達が立ち去るだけで何の咎もなしに解放してもらえるのならむしろこれは自分達にとって願ったりかなったりの事だ。
しかし―
「本当ニ我ガココヲ立チ去ルダケデ彼女達ヲ解放シテクレルノカ!?」
『お前がここから十分に離れれば彼女達も追って開放すると約束しよう、もちろんオートマタは置いていけ』
なるほど確かに今『犬』達の持つもので一番の財産になるものはあのオートマタだ。彼女達との対価としては十分かもしれない。
それに『犬』や奴隷達がオートマタを持っていても売却する相手もいない完全な持ち腐れになる、オートマタをここに捨てていっても『犬』の腹はちっとも痛まない。
「アト、モウ一ツ確認シタイ。もれあトあずるハドウシテイル!?」
この問いには沈黙が帰ってきた。『犬』はしばしハーフエルフからの返答を待ち、苛立ちを覚え始めた時、誰の事をさしているのか相手に伝わっていないのだと気がついた。
「私ノ部下ノかろりあ・べあ・うるふト奴隷ノ娘ダ!」
やはり暫し間があって『先頭を歩いていた犬と奴隷も見つけ次第開放しよう』と帰ってきた。
どうやら彼女達はまだ無事であるらしい。『犬』はこっそりと胸中で安堵の息を吐いた。




