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55.逃走

 「(えっ)!?」


 そう声を上げたはずが先ほどまで正常に動いていた喉はいきなり機能を停止した。立ち上がろうとしても膝が言う事を聞かない。


 私は傍らに転がる湯飲みに視線を送る。私が倒れた拍子に地面に転げた湯飲みはそこにわずかに残った液体が土に小さな染みを作っていた。

変わった匂いだとは思った。だが気づくのが遅かった、私は前にこの匂いを嗅いだことがあったというのに。


 セラが神官達に魔力生成器官を壊されていたあの部屋、あそこで焚かれていた香と同じ匂い。『羊飼い』が神官達に卸していたのか、神官達が『羊飼い』に渡していたのかは不明だが今問題なのはそこではない。

 お茶の匂いだと思って大して気にしていなかったが、気が付けばこの空間全体にあの香の匂いが充満している。周囲に張った布は香の効果を薄れさせないためだったのだ。空気があまりにも籠っていることを考えればさらに香の効果を逃さない細工がされているのかもしれない。

 しかし同じお茶を飲んで同じ空間にいる『羊飼い』は?私の体の自由を奪っても『羊飼い』も同じ状態ならば何の意味もない。私は首を何とか動かして『羊飼い』の方へと向ける。『羊飼い』は先ほどと同じ場所に座ってこちらを見ていた。しかし、立ち上がろうとはしない。


 「不思議に思っているようだな、確かにお前と同じ茶を飲み、香を嗅いだが俺は普通の人よりも薬に抵抗があるんだ。さらに普段から身近に使うせいでこの薬は効き目が薄くなってきている」

 今度はお面の様な笑顔ではない、粘ついた『羊飼い』自身の笑い顔をして奴隷商人は言った。


 「だがまあさすがにこの量の香を焚いて俺もまともに動けるわけじゃねぇ」

 そう言って『羊飼い』はゆっくりと立ち上がる。平衡感覚が侵されているのかどこかバランスの悪い、今にも倒れてしまいそうな立ち方だ。

 「だからこうするのさ」

 『羊飼い』は隣に控えていたオートマタに手を置いた。

 ゆっくりとオートマタが立ち上がっていく。


大きな熊の剥製。第一印象はそれだ、若干顔が熊と豚の中間のような造形をしているので作りが下手なCGグラフィックにも見える。

それがゆっくりと私の目の前に立ちふさがる。私は満足に動かない手足を動かして何とか逃げようともがく。


 「思ったより効きが弱いな、オートマタ早く捕まえろ」


 ゆっくりとした、しかし確実な熊の手足はあっさり私の体を拘束する。全身が毛でおおわれた体はベアという名にふさわしくなく手足の細部や全体のバランスが人に近く気味が悪かった。

 人に似た手足は私を軽々と持ち上げて肩の上に担ぎあげた。熊の体は大きく、肩の上にぶら下げられた私の顔は立っている『羊飼い』の顔の位置と大して変わらない。


 私ははくはくと音にならない言葉を話す。

『羊飼い』は私が抵抗できない状態でいる余裕のためかにやにやと笑いながら私に顔をよせる。


 「なんだ?言いたいことがあるなら聞いてやる、俺は奴隷思いのご主人様なんだよ。お前女か?なら可愛い態度をとれば調教も優しくしてやるさ、いやエルフに女も男も無いよな、大丈夫だ。エルフの様な肉の無い奴らが好きな変態好みに仕込んでやるから…」


 私はなおもべらべらと喋る『羊飼い』の顔めがけて口の中の物を吐き出した。距離が足らず思ったよりもスピードが乗らなかったそれは、それでも狙いたがわず『羊飼い』の左目に衝突する。

 言いようのない悲鳴を上げてのけぞる『羊飼い』は薬の影響で簡単に転がった。巨大犬が反応するよりも前に(ソウルイーター)は荷車で熊の背後から突進するとひざ裏にぶつかる。膝かっくんの要領で後ろに倒れる熊から投げ出された(ミコト)を荷車で回収するとUターンしてすぐさま走り出す。


 ぼこぼこと木の根が飛び出る山道を荷車は難なく乗り越え、舗装されていない道を車輪で進むには信じられないようなスピードで犬と『羊飼い』と熊を置いてきぼりにした。


◇◇◇


 犬は唖然としていた、ハーフエルフが口から何か噴出したと思ったら奴隷商がのけぞり荷車がひとりでに動きだしオートマタからハーフエルフを奪い返し逃げ出したのだ。

 いくらハーフエルフが口の中に仕込んでいたとしても荷車がオートマタに突進を掛けるのも不明だしそもそもオーガベアのオートマタが体制を崩しただけでハーフエルフから手を放すはずがないのだ。

 犬はふわふわとする足を叱咤して―香は仕掛けた空調を調節する魔法でハーフエルフの周辺に集まるようにしていたがそれでもまったく影響が無いわけではない―オートマタに駆け寄る、オーガベアのオートマタは地面に倒れたままだ、犬がしばし見つめていると跳ねるように起き上がった。一体オートマタに何が起こったのか魔法に詳しくない犬に分かるわけがない。

 その瞬間犬の肩に激しい痛みが襲った。


 「くそおおおおぉぉぉぉ!!」

 奴隷商は片目を抑えて起き上がっていた。

 「あのあまぁ!下手に出りゃ調子に乗りやがって!絶対後悔させてやる!肉部屋に放り込んで!達磨にして!加虐趣味の変態貴族に売り払ってやる!」


 先ほどとはうって変わってしっかりとした足取りで立ち上がる、どうやら怒りで薬の効果が何処かへ行ってしまったらしい。

 犬が痛みに耐えながら飛び出した。このまま奴隷商の視界にいるのは得策ではない。早急にあのハーフエルフを捕まえて奴隷商の元までつれてこなければ―犬の背後で女の悲鳴が上がった―奴隷の誰かが死ぬかもしれない。

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