28.フィオレ
「治癒の魔法は確かに存在しますし私たちも使うことができますが私たちにできる事は精々目に見える外傷を直すこと程度です。しかし彼女ほどの傷、それも内臓の損傷にもなると私たちでは内臓のどの部分に傷があるのかすら分かりません、ここまでくると人体に熟知した専門の人間でないと治癒の魔法は使えないでしょう」
つまり医術を習得していない人間にメスを渡して腹を裂かしても内臓の何処を切り離して何処を縫うか分からないように彼らも奴隷の体の中の何処を治せばいいのか分からないために治療をすることができないという事らしい。
「ここにその専門の者はいないのか?」
「イラリ上級神官様ならあるいは」
イラリ上級神官は上級神官Iの事だ。初老の上級神官は荒事には不向きだろうと置いてきた事を今更悔やむ。しかし悔やんだ所で後の祭りだ、幸い彼ならまだ外で火事の扇動をしているはずだから今すぐ呼べば間に合うかもしれない。私は『精神支配』のリンクを辿り上級神官Iを―
ぺたりと熱い手のひらで顔をつかまれる。女性にしては若干大きく、そして柔らかな手。
いつの間にか奴隷がこちらを向いて私の顔をつかんでいた。弱弱しく、しかし拒絶を赦さぬ力で私の顔を彼女の眼前まで引っ張り降ろす。鼻と鼻が触れ合うほどに寄せられた彼女の瞳はようやっと私に焦点を合わせた。もうそこまでしなければ見えていないのだ。
奴隷が口を開く。
「もういいのよ」
なにがだ。
「もういいの。私の人生はこれでお終い」
何を言っているのだ。
「いつもは私がずっと遠くにいた、遠く、ずっと遠い所で色んなものに遮られて私が見えなかった」
彼女は自身の血に彩られた唇で弧を描き笑った。
「でも今晩は不思議とそうでは無かったの」
それは―
「今日は私を遮るものが無く、ずっとはっきり前が見えてた」
それは―
「だからずっと考えてたの、貴方のために何ができるか」
「それは―私が『精神支配』をしていたからだ。貴女自身が考えたことじゃ無い」
『精神支配』が切れた今、彼女が日本語を理解できるはずも無い。だが彼女は私の言葉に微かにかぶりをふった。
「ずっと考えてたの。きっとこれが、私が私の事を自由にできる最後の機会」
ゆっくりと彼女の掌が私の頬から離れていく。
「この機会を与えてくれた貴方へ、いえ―」
彼女の腕が私の短剣を私の腕ごと彼女の胸の上に持ってくる。
「主よ―」
ごほりともう一度彼女は血を吐いた。
「主よ、我等の母なる生と死の神ティニトよ。御名を呼ぶことをお赦しください、主命を果たす事無く生涯を果てる我をお赦しださい」
それは聖句だった。神官たちの使う聖句とも違う。ただ純粋に神への敬愛を伝える言葉、神の愛を乞い願う言葉。言葉からして違うその祈りはおそらく、肌の色の違う彼女の生まれ育った土地の祈り。彼女の起源―
「そして願わくば我が命を捧げる事をお赦しださい―」
歌うように彼女は言葉を紡いでいく。
「そして、願わくば―」
短剣を自分の胸に押し当てる、じわりと剣先に血が滲む。
「主の愛し仔をお守りください」
彼女の生まれた場所には全てがあった。太陽と新鮮な空気、緑豊かな土地、毎年春になると可愛い子供を産む牛やヤギ。それが彼女の望む全てであり最上であった。
毎日朝早くから動物や麦や自分よりも小さな子の面倒を見、夜には家族全員で今日の幸いを感謝し、明日の恵みを神に祈り食事をとる。
糧を得るために仕事は幼い手足にはまだ辛いものだったが、誰も飢えることのない彼女たちの生活は満ち足りていた。
日々は勤勉に働き、祭りや祝い事があれば皆で盛大に祝う。彼女はとりわけ結婚式が好きだった。
彼女の住む村には祭事を取り仕切る者と別に祭事を行う者を十に満たない子供に担わせていた。子供を作る事のできない体はまだ神の所有物であると考えられていたからだ。
その日は彼女が祭事を行う日だった。一段高い祭壇の上は祭りに集まる人々がよく見えた。色とりどりの衣装に身を包んだ男女はとても美しく、彼女は眩しそうにそれを眺めていた。彼らはこれから互いが互いの所有物となり新たな神の子等を産み育んで行く。それが神から彼女たちに与えられた唯一の主命だった。
いつか彼女もそんな彼らのように誰かと互いに契りを交わし彼女の父母のような、誰もが幸せを感じられる家族を作りたいと思っていた。
作ることが出来ると思っていた。
彼女が異教徒として捕えられ、奴隷に身をやつしてから、多くの者たちが彼女の所有者となった。彼女に女を求めるものには、彼女を手酷く扱い喜びを得る者もいれば、彼女に愛を囁き彼女に愛を求める者もいた。しかしそのうちの誰一人として彼女の所有物になるものはいなかった。その後彼女に神の子を産む機会は幾度と訪れたがその全てが彼女の所有者やその周りの者達によって取り上げられてしまった。
彼女があれほど渇望した主命は終ぞ果たされる事はできなかった。




