25.ある年若い中級神官の夜明け前 2
この二人はもっと早くに小出しにするべきだったかもしれない
二人は床の跡を辿っていた。この跡がただの水だったなら気にすることなど無かったのだが、触れてみると粘度があり嗅いでみると独特の植物の臭いがするするそれはどうやら油のようだった。しかも調理に使う植物油。何故こんな物が床にばら撒かれているのかは不明だが、油を辿ればそれもおのずと分かるだろう。
二人は胸に静まる居住区を足早に歩く。
普段と違う居住区に不安でも感じたのか、ふいに下級神官が口を開いた。
「もしさ、器の男が見つからなかったらどうすんのかね?」
こんな時にと中級神官は眉根をしかめながらも同僚の問いに答える。彼もまた胸にくすぶる不安に見ないふりを決め込みたかったのだ。
「噂では奴隷を替わりに使うらしいぞ」
「奴隷ってどいつ?」
「あの、一番新しい奴」
「…ふーん」
「どうした?」
自分で聞いておきながら不明瞭な返答を返す同僚に中級神官はじとりと視線を送る。中級神官の視線に気がつた下級神官は、慌てて何か誤魔化そうとぱたぱたと手を振るがやがてゆっくりと手を下げるとぽつり言った。
「新しい奴ってあの…確か小さい…子供だったろ?」
「うん」
「…かわいそうじゃんか」
同僚の小さな呟きに中級神官はため息をついた。
「しょうがないだろ、それが奴隷の扱いだよ」
「でもよっ」
「僕は逆に幸せなんじゃないかと思うよ」
「へ?」
中級神官の言葉に下級神官はあからさまに顔をしかめた。この下級神官は魔力は別に低くないが腹芸が苦手だ。それがライナスの昇級を妨げている原因だと本人も理解はしているが直す事はできないらしい。そんな正直な同僚の態度を内心では好ましく思いながら中級神官は続ける。
「貴族の奴隷の扱い方って知ってるか?」
首を振る下級神官に中級神官はうなづくと簡単に説明していく。市井の人々にとって奴隷は財産だ、奴隷の健康状態さえ気を配れば何に使っても文句は言われないが、人一人買う事、人一人飼い続ける事は安くない金が要る。だから平民に飼われる奴隷は―特に若くて健康ならば―それほど不幸ではない。どんな重労働を課されてもどんな暴力を受けても、奴隷が働く事が出来なくなればそれは飼っている人間の損失に繋がるのでそれほど酷い無体は働かれない。
しかし貴族は別だ。貴族にとって人一人購入することは対しか金じゃない。更にいえばコネを作りたい奴に献上されたり、酷いところだと自分の領土から見目のいい地位の低い領民を攫ってくる奴もいる、貴族にとって奴隷はただの使い捨ての玩具に過ぎない。勿論そうでは無い貴族もいるが、圧倒的に少ない。奴隷は人間ではない、だからどんな扱いをしてもかまわない。それが貴族の考え方だ。
そして大体教会の上層部は貴族なのだ。
「目的を果たして僕達が王都に戻れても奴隷は奴隷のままだよ、ここで頭をおかしくして処分されるか、王都で頭をおかしくて処分されるかの違いしかない」
いや、と中級神官は言葉を切った。
「ここでの事を知っている奴隷を上級神官がわざわざ王都までつれて帰るかな?」
下級神官は苦いものを飲み込めない子供のような顔をしている。自分で言っておきながら己の顔も同じように歪んでいる自覚のある中級神官は思わず顔に手をつけて顔面の筋肉を揉み解した。中々に直らない顔の皺に表情のこわばり具合をまざまざと感じる。
そうやって視界を掌に隠していると頭に暖かい何かが置かれた。
「ごめんな、嫌なこと言わせて」
下級神官の落ち着いた声と掌にゆっくりと顔の筋肉が解け行くのが分かった。
「ありがとう、泣いてる訳じゃない。大丈夫だよ」
そういって顔から手を離すとライナスも頭に乗せていた手を戻した。
「ともかく、今はこの油の跡を追わないと」
「ああ、そうだったな。それにしても一体誰が何のためにこんなことをしたんだ?」
「それは油をまいた奴を見つけて聞けばいいことさ」
そういって幾度目かの角を曲がった二人の先にその人物はいた。二人はその人物が神官であることに安堵して声を掛けようとした瞬間。
ケラクットやポサピッレのようなボールをバットで打ったような音が響かせて、居住区の奥の方からそれが飛び上がった。恐らくこぶし大のボールの様な何か、それが視線の端に移る。大した高度も無く打ち上げられたそれは、しかし平屋ばかりの居住区の中でなら十分な高さで飛び上がりゆっくりと弧を描き落ちていく。
明かりも碌に無い薄暗い中、それを二人が視認できたのはそれ自体が光を放っていたからだ。燃えている。燃えているボールが打ち上げられた。
「?」
二人がいぶかしげに目を合わせたその瞬間、神官の指先から火の粉が生まれ―油に燃え移った。
10/30放火の合図描写を付け加えました。




