生憎、傘は持ち合わせていなかった。
「風邪、ひくよ?」
聞き慣れた男――長浜啓介の声が、耳元でする。
私――芹沢琴美は雨に打たれ、全身びしょ濡れだった。
「……もう少し、もう少しだけ。
このまま居させて」
一人暮らしをする啓介の部屋の小さな玄関に、私は小さな水溜まりを作っている事にも気づかずに。
抱きついていた。
――幼馴染みの男に。
「琴美、何かあった?」
大学の学食で、親友の田崎和佳奈は不思議そうに私を眺めていた。
「んー……。
変な夢を見ちゃって」
「夢?どんな?」
「雨に打たれた私が幼馴染みを訪ねて……抱きついている夢」
そう、あれは夢だった。
「なんだかリアルな夢ね……。
幼馴染みって、例のケイ……スケくん?」
「そう、啓介」
私と和佳奈の間で啓介の話をする事は今までにも度々あったが、和佳奈と啓介の面識はなかった。
「多田さんという彼氏がおりながら、ようやりますなあ」
和佳奈は語尾にハートマークをつけるように、いたずらっぽくそう言うものだから、私はなんだかムキになって、
「だから夢だってば!」
と言い放つ。
「ほら、予知夢とかあるじゃない」
「予知夢………。
和佳奈はそういう経験があるの?」
私が聞くと、
「んー……まだ、ないかな」
と、遠くを見るような目をして言った。
「……でも、私もリアルな夢見るよ」
今度は聞いてほしそうな顔をして言ったので、私は思わず「例えば?」とその顔を覗き込みます。
すると和佳奈はとても低いトーンでこう続けました。
「……禁断の恋をして、殺されかけるの」
と。
「やだ……禁断って何?」
「……そっち?
普通『殺されるの?こわーい』じゃないの?」
和佳奈はお茶目な動作をつけて言う。
「どっちみち怖いじゃない」
私が言うと、
「多田さんとの夢は見ないの?」
なんて話を変えてくる。
「見たことはあるけれど……いたって普通の夢ばかりよ」
「ふーん」
いつもの和佳奈の相槌が、その時に限って私には、なんだか適当なものに感じられた。
「もうすぐクリスマスだねー」
「ああ……」
多田洋平はいつもどこか気のない返事をする。
「会える……かな?」
「んー夜から職場の人と忘年会兼ねて飲む約束しちゃってさ」
「そっかー……職場の人だったら仕方ない、よね。
少しでも会えれば私はそれでも良いよ」
「んーありがと」
洋平さんは社会人だからと、私はいつでも大人の対応を意識していた。
子供だと思われたくなかっただけなのだけれども。
「え?クリスマスの夜に予定入れられてるって、多田さんひどーい」
「職場の人と忘年会兼ねて飲む約束って言ってたから、仕方ないかなって思うけど」
私は和佳奈に言われ、洋平さんの代わりに弁解をした。
「いくら職場でも……。
その言い方、相手が複数とも限らないんじゃないの?」
確かに和佳奈の言う通りだった。
“職場の人”では単数かも複数かもわからない。
「和佳奈はクリスマスどうするの?」
「私は夕方までバイトなんだあ。
どうせ彼氏もいないし……。
あ、夜はバイト先の人と飲むけどね、」
「それは複数?単数?」
私は思わず聞いた。
「さあ、どちらでしょう」
和佳奈は所謂“小悪魔風”な笑顔でそう言ったようだった。
「取り敢えず、ケーキだけ買ってきた」
クリスマスの日、私は彩られた街を一人歩き、クリスマスケーキを手に彼の家に向かった。
「人気有名店の限定ケーキ、実は予約してたの。
洋平さんチョコレート好きだから、絶対ここのって決めてたんだ」
「好きなのにすれば良かったじゃん。
ふわふわ真っ白クリームに乗った苺ちゃん……みたいな」
「え?」
洋平さんの口から出てきた言葉とは思えなくて、私は驚きました。
「私ってそんなイメージ?」
「いや、琴美くらいの子って、普通そんな感じなんじゃないかなって」
洋平さんの言う“普通”という言葉が、なんだか刺さりました。
「……確かに和佳奈だったら、そんな風に言いそうだよね」
私はケーキを切りながら言いました。
「和佳奈……ね、」
「そう。和佳奈のこと、覚えているでしょう?」
「うん、」
洋平さんと和佳奈は、啓介とは違って回数は忘れてしまったけれど、何度か会ったことがある。
「和佳奈、私と違って恋愛上手なのに、なかなか彼氏作らないのよ。
今日もバイトなんだって」
そんなはなしをしながら、私は彼の家で時間をかけて珈琲を淹れました。
――今まで一度もした事がないのに。
「珈琲か」
「好きでしょう、チョコレートに珈琲を合わせるの」
「そうだね」
私たちの間には、なんだか不思議な空気が流れているように感じます。
「……美味しい」
「うん、うまいな」
「……私、このケーキが良くてこれを選んだんだからね」
「そっか。
でも確かに、ビターなチョコレートにくるまれてるのに、中に甘酸っぱいベリーのソース隠してるところ。
琴美らしいかもな……」
「え?」
彼が珍しくよく喋るものだから、私はケーキを口に運ぼうとした手を止める。
「ん?深い意味はないよ」
私にそう言って珈琲を飲む彼は、一言そう言っただけでした。
「そういえば、クリスマスプレゼント」
少ししてから、彼は私に小さな紙袋を別室から持ってきました。
「なになに?開けて良い?」
「ああ、」
私は紙袋から小さな箱を取りだし、丁寧にリボンと包装紙をはがします。
「これ、この間私が雑誌で見ていたピアスと同じデザイン……」
入っていたのは小さな星がキラリと光る、ネックレスでした。
「ピアスホールがないからって、ピアスできる人が羨ましいって言っていたけれど、同じデザインのネックレスがあったからさ」
「覚えていてくれたんだ、ありがとう……」
私は思わず、隣に座る洋平さんをぎゅっと抱き締めました。
けれども彼は私の腕を解き、
「そろそろ時間だからさ、出る準備するわ。まだここにいる?」
と私に聞くのです。
「それなら私も一緒に出る」
「わかった」
「あ、余ったケーキなんだけど、お店に持ち込みできるなら、持って行ったらどうかな。
洋平さんの会社の人、食べてくれるかな?」
箱にあるケーキを私は指差しながら聞きました。
「そうだな……会社で待ち合わせだから、会社で食べてから飲みに出ても良いし……持っていこうかな」
「じゃあ、用意するね」
私はケーキの箱に保冷剤を入れ、丁寧に紙袋にしまいなおします。
「それじゃ、またね」
「うん、また」
私たちは駅前で別れました。
さて、これから私はどんな風に過ごしたら良いだろうか。
そんなことを考えながら、一度家に帰ることにします。
「あれ?琴美シングルベル?」
家の近所で声をかけてきたのは啓介でした。
「啓介こそ彼女は?」
「俺なー……先月末に別れたんだわ」
「うそ」
「そんなことで嘘つかねーって」
「じゃあ一人でクリスマスするの?
今一人暮らしでしょ?」
「そうそう、今実家に顔出した帰り」
啓介が手に持っている大きな紙袋に、おばさんが作ったクリスマス料理が入っているのだと察します。
「で、琴美は?」
私は仕方なく、今までの経緯を話しました。
「あーなるほど」
啓介は何かを考えながら短くそう言い、
「うち来る?これ、結構な量持たされちゃってさあ」
と紙袋を覗くのです。
「本当?久々におばさんの料理食べたい!」
啓介の実家は私の家のほんの裏にあり、小さい頃からよく行き来をしていて、私は啓介のおばさんの料理が大好きだったのでした。
私たちはその後、啓介の家でおばさんの料理を食べながら、クリスマスらしい映画のDVDを、ああだこうだ言いながら鑑賞したのでした。
クリスマスが終わると、私は和佳奈に年内に会っておきたいと言われ出向きました。
「あれ?そのピアス……」
待ち合わせ場所に来た和佳奈の耳に光るピアスに、私の目がとまります。
「あーこれね、クリスマスにもらったの。あれ?琴美のネックレスとお揃いだ!すごーい!嬉しい!」
和佳奈はそう言いました。
「琴美のそれは、多田さんからのクリスマスプレゼント?」
「うん。そのピアス可愛いって言っていたのを覚えていてくれたの」
「そっか、琴美ピアスホールないもんね」
私たちは行き慣れたカフェに入り、それぞれケーキと飲み物を注文しました。
「バイト終わったらね、ケーキを持ってきてくれてて、それが超有名店のケーキでね、ずっと前から予約しててくれたみたいで、すっごく美味しかったの!」
和佳奈のテンションの高さについていけずに、私は黙ってコップの水を口にしました。
そして和佳奈が少し落ち着いた頃、
「で、その人とは付き合い始めたの?」
なんて私は聞きます。
「んー……付き合いたいなって思うけど。そしたら私、
殺されちゃうからさ」
私は和佳奈の衝撃的な言葉に、一瞬怯みました。
「……誰に殺されるの?」
「えー?……誰、かなあ」
和佳奈は誤魔化し、急に黙り始めるものだから、私は言います。
「私に殺されるって言いたいんでしょう?」
「……こわいこと言っちゃって。
どうして私が琴美に殺されるのよ……」
顔をあげた和佳奈は驚いた顔をしました。
「なんで洋ちゃん……多田さんがいるの?」
「私が呼んだからよ」
「琴美、どういうつもりだよ」
呼ばれた洋平さんも、驚いた顔をしていました。
「私はいつから二人に騙されてたの?」
私はただ、そう聞きます。
「えー?
騙してるつもりはなかったよ?」
和佳奈の口調がこんなにも気に障るなんて、今まで思ったこともありませんでした。
しかし和佳奈は、
「初めて琴美に会わせてもらってから、私バイト探してて。
たまたま洋ちゃんの会社でバイト募集してるっていうから紹介してもらって。
それがきっかけ、かなあ?」
と悪びれた様子もなくたんたんと答えました。
すると、
「琴美はさ、いつでも大人っぽく振る舞って俺に合わせてただろ。
和佳奈はいつでも素で居てくれて、なんだかそういう所に惹かれちゃってさ」
なんて、洋平さんまでそんな風に言うのです。
「ケーキを予約したのは私だよ。
そのピアスが欲しかったのは私だよ」
私はネックレスをはずし、和佳奈に投げつけました。
「痛っ……!」
「琴美!お前……!」
うるうると目に涙を浮かべる和佳奈。
――泣きたいのはこっちだよ。
「和佳奈が人にバイト紹介してもらうんだって言ってたとき、はっきり“好きな人に近づくための口実なんだ”って言ってたの、私忘れてないよ」
私は財布からお金を取りだし、再び和佳奈に向けて投げつけてから、お店を後にしました。
「……最悪」
そう呟いたことが何らかのスイッチになったようで、涙が溢れ始める。
そして雨が降り始めました。
こんなことならば、傘を持って来れば良かった。
けれどもあの夢に、私は導かれていたのでしょうか……。
気がつくと、啓介の家に辿り着いていたのです。
「琴美?」
「この間、言っていたでしょう。
やっぱり浮気されてたよ。
しかも私の親友と……」
「そっか……」
クリスマスの日、私のはなしを聞いた啓介は、彼が浮気をしているのでは、と疑った。
そして私はすぐに相手が和佳奈だと思い、和佳奈が会いたいと言うものだから、チャンスだと思った。
年内に片付けられる、と。
覚悟はしていたけれど、やはりショックは大きい。
「風邪、ひくよ?」
聞き慣れた幼馴染みの声が、耳元でする。私は雨に打たれ、全身びしょ濡れ。
「……もう少し、もう少しだけ。
このまま居させて」
啓介の部屋の小さな玄関に、私は小さな水溜まりを作っている事にも気づかずに。
抱きついていた。
そう――あの夢のように。