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喫茶ノワール

 一章


          ※ ※ ※


 どうして私がこんな目に遭わなければいけない。どうして私だけがこんな非道い仕打ちを受けなければならない。私が何をした。私だけが悪い訳ではない。私だけが、私だけが償わなければいけない道理なんて有りはしない。

 

 この部屋に光は射し込んでこない。当然だ、窓等一切ない。

 

 かびが生えた石壁と石床の部屋に裸で放り込まれ、幾日も食事を抜かれた。天井の石の間から滴り落ちる水を舐めるとドブの匂いが口一杯に広がる。身をよじると石床に身体が擦れて酷く痛んだ。放り込まれる前に受けた暴力のせいだった。全身は赤黒く腫れているのだろう。仰向けになると、両手足に激痛が奔った。指先も、きっと折れている。瞼が腫れている所為で視界が酷く狭まって、確認のしようもなかったが。

 

 ――良くもこれだけやってくれたものだ。

 

 拷問ではないと奴らは云う。

 拷問ではないと何度も繰り返す。

 これは躾けだと平然と口にする。

 

 己の排便を口に押し込まれたことを思い出して、胃から込み上げる嗚咽を必死で堪えた。涙は出ない。此処に放り込まれて何年になるだろう、そんなものは既に失せていた。己の身体の何処にも有りはしない。只、獣一匹通らない地下深くで、手足を縛られたまま朽ちて、錆びていくような、そんな予感に心が折れそうだった。

 

 出せよ。出せったら!

 

 喉に詰まった血の塊を吐き出しながら叫んでも、響くのは己の声だけだ。誰も応えてはくれない。血に染まった唇を噛み締める。次に考えることは何か。一体どうしたらいいのか。思考は次第に一つに収束されていく。

 

 そう。どうやって此処を抜け出すかだ。そしてそれをやり遂げた刻、私はどうするべきか。決まっている。逃亡だ。己を排除、排斥しようとするこの世界からの逃亡だ。何処でも良い。このまま死を受け入れてやるものか。誰を犠牲にしても、生きてやる。目の前の溝水を啜る。先程よりもずっと旨い。何でもいい、誰でもいい、早く私を此処から出してくれ。


          ※ ※ ※


 安曇新町あずみしんまちの駅を東口に出ると、駅前にはタクシー乗り場がある。黄色い車が並んでいるのを横目に歩く。待ち合わせだろうか、噴水がある広場にはスマートフォンを片手に大勢の人たちが立っていた。誰も視線を合わせようとしない。太陽から目を背けて俯いてばかりいる。そのせいかどうか解らないが、どの顔も同じに見えた。

 

 噴水広場を抜けると商店街に這入る為の天蓋アーケードがあった。入口には表町おもてちょう商店街とある。昔から安曇新町には表町なるものがある。それでは裏町があるのかと云えば別にないのだが。

 安曇新町駅には新幹線も停車する。新興都市としては珍しい。国会議員となった元県議会議員の何とかという男性に政治的権力があったのか、はたまた偶然の産物に過ぎないのかそれは判らない。とにかくも幹線道路が敷設され、以前よりも街は活気づいた訳だ。田舎めいた商店は影を潜め、代わりに建設された大型商業施設ショッピングモールが我が物顔で蔓延はびこっていた。当然、駅前を行き交う人の数も着実に増していた。

 

 太陽の日差しから避けるようにして天蓋を潜る。左右に軒を連ねる商店の間口は狭い。此処には昔ながらの店舗が未だ数多く残っているのだ。店舗自体も精々が十坪程しかないだろう。それが左右にずらっと五百メートル程真っ直ぐに続いていく。中央を伸びる歩道の天井、アーチ状の天蓋が日光を遮っていた。

 

 明るい方が良いのに。

 

 性分なのだろう。物心付く頃から周囲には明るい子供で通っている。根明か根暗かと問われたら間違いなく前者だ。昏い場所に居ると誰かを思い出して息苦しくなるのだ。それが今日、ここを歩いている理由でもある。

 ゆっくりと左右を見渡しながら進む。左手に薬局と併設したドラッグストアが見えた。正直、どのような違いがあるのか判らない。精々、菓子が置いてある方がドラッグストアだと認識している程度だが、それが正しいのかどうかすら判らなかった。

 

 煙草屋にたいやき屋、ラーメン屋にうどん屋、モツ鍋屋まである。此処の商店街には昔ながらの活気があった。こぢんまりとして雑多な商店が並んでいると、ふと郷愁を感じることがある。歩調を少しだけ早めた。目的の場所が目前に迫ってきたからだった。

 

 そこは天蓋商店街の端に位置していた。

 

 煉瓦造りの建物が歴史を感じさせる。窓硝子は全てステンド硝子で統一されており、外から眺めても中の様子が窺えない。入口は上部が丸く、長方形の引き扉で、これまたステンド硝子が填め込まれている。一見さんからすればステンド硝子を売っている店だと勘違いされそうな、そんな印象を与える店構えだった。

 

 店の名前はノワールと云った。

 

 北長瀬里貴きたながせ・りきは戸惑いを拭うように大きく息を吸うと、その扉を開けて中へ這入った。店の中はひんやりとした空気が流れていた。冷房は使用されていないようだったが、それでも寒く、里貴は思わず身震いをした。店内は予想通り広くなく、手前から四人がけのテーブルが二つ、壁際の二人席が四つ、一番奥のカウンターには五つの椅子が並んでいるだけだった。只、濃赤色で統一された店内は、全体として落ち着いた雰囲気を醸し出していた。


「いらっしゃいませ。お一人様ですか? こちらへどうぞ」


 気が付けば店員が一人、彼の前に立っていた。両手を前で組み、木製のお盆を提げている。女性だった。背は小さく、里貴の胸元程しかない。里貴もそれほど高い方ではないから、これは小さいと評しても良いだろうと彼は思った。それから目についたのは両手に填められた革製の手袋だった。はっきり云って似合わない。怪我でもしているのかなと思ったが、お盆を持つ両手の動きはしっかりとしており、不備は感じられなかった。


 そして、それ以上に目立つ特徴が。

 外人さんだ。

 金髪だった。


 昏く沈んだ店内に浮かび上がる金色の髪。自らが光を発しているのではないかと勘違いしそうになる、それほど見事な色彩で、尚かつ自分を見上げる視線は碧眼だ。思わずメイドさんこんにちはと云いそうになった。


 カウンターへ案内されて座る。木目がしっかりと残ったカウンターテーブルを眺めているとすっとメニュー表が差し出された。慌てて受け取るとざっと目を通す。ブレンド、アメリカン、エスプレッソ、ミルクティーにレモンティー。アイスにホットもある。軽食の定番サンドイッチも数種類用意されていた。一通り見終える。なるほどしかし、望んでいたメニューはなかった。


 里貴はカウンターの中でコーヒー豆を選別している男性、おそらくマスターであろう人を見た。初老というには早く、前髪を全て上げているせいで実際の年齢よりも上に見られがちだろうが、おそらく四十半ばと云ったところだ。

 里貴がマスターに声を掛けるか迷っていると、


「ご注文はお決まりですか?」


 またしても女性店員が傍に立っていた。一体、何時近寄っているのだろうか。里貴は緊張から早る動悸を隠して、ゆっくりとこう云った。


「アイスコーヒー、全部乗せで」


 店員の瞳が幽かに揺らいだように見えた。


 しかし間を置かずして彼女はかしこまりました、と告げるとメニューを手にカウンターの奥へと姿を消した。マスターは里貴を、そして店員すら見ようとせず、まるで先程のやりとりが無かったかのように黙々と豆の選別を行っている。


 ちらほらと居る客は皆、各自が頼んだ品を堪能しているようで、此方のことなどお構いなしだ。店内に流れるクラシックが刻む一時ひとときを楽しんでいるのかもしれない。誰一人視線を上げない。里貴にはクラシックは判らない。お冷やを口に含んだりして時間を潰すことにする。


 しばらくして奥から女性店員が戻ってきた。手にしたお盆には大量のホイップクリーム、ミルクが入ったポット、それに一杯のブレンドコーヒーが乗っていた。目を剥いている里貴の前に彼女はそれらを音もなく置くと、


「お待たせしました。アイスコーヒー全部乗せでございます」


 事も無げに云った。


「え、ちょ、いや、待って」


 話が違う。

 彼が聞いていた内容とは程遠い。否、それどころか、まさか本当にアイスコーヒーが出てくるとは思わなかった。目の前に置かれた大量の品々を唖然と見つめる。女性店員は一礼し、それ以上用は無いとばかりにさっさと下がってしまった。周りの客はそれでもおもてを上げようとはしない。


 日常だと云うのか、これが。

 どうしろって云うんだよ。

 この店で間違いないはずだった。

 メニューも教わった通りに注文した。

 何か、手順が違うのだろうか。もう一度、里貴は頭の中で反芻した。


 安曇新町に噂が広まったのはここ一年程のことだ。噂という程には真実味がなく、かといって嘘だと云い切るにはそれは多数の人間に広まりすぎていた。強いて云えば都市伝説に近いのだろうか。一年程で出来上がる話を伝説と云うにはちと趣向が強すぎる感はあったが、とにかくそれは、里貴が通っている高校にも聞こえてきた。


 演劇部に所属していた里貴と友人の田中が他愛ない世間話をしている刻だった。田中がどこで聞いてきたのかは判らないが、彼はこの町には何でも解決してくれる、解決屋というものがあるらしいと云ってきた。


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