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アリスト・リスト

 零章


 ――灰色が積もっている。

 高層ビルの隙間に太陽が沈んでいく。目に映る風景は赤いが、彼女はその瞬間を灰色だと感じていた。白く眩しい昼間から黒く沈んだ夜へと変貌する刻。それは彼女にとって心が落ち着く瞬間でもあった。何故かは判らない。理由を探した覚えもない。只、どちらでもない曖昧な雰囲気が好きなのだと、そう思っていた。

 

 彼女――アリスト・リストが立っている場所も端的に言えばそういう処だった。道と云うには狭く、人通りもない。かといって此処は何だと問われたら、おそらく大多数の人がこう答える。道だ、と。曖昧、不確か、不確実、不確定、あやふや。ビルの隙間に管のように通されたそこは本来なら好ましい場所であるが、今はそうとは云えない。

 

 アリストは先程から足下に座っている一人の男を見下ろした。背中を丸め、身体を震わせている。一見すると背広を着た営業社員だ。事実、彼は今日の昼までは此処から三十分程歩いた場所にある建築事務所で汗を流して働いていた立派な一人の青年だ。

 

 但し、それは嘘である。

 彼女は識っている。

 

 彼の名前が飯井正いい・ただしであること。これは本当。しかし、中身が違うことを彼女は識っている。彼の本当の名前は識らない。識りたくもない。識っていても何も変わらない。これから行うことに嘘はない。真実を曝く。それが彼女のするべきことの一つでもある。今から行う行為もその一環に過ぎない。


「顔を上げて。早く上げなさい」


 彼女としては平静に対処しているつもりだった。しかしどうやら云われた方はそうと捉えなかったらしい。男は喉からしゃくり上げるような乾いた悲鳴を上げた。男の目には恐怖と云う感情が滲み出ていた。当然だろう、彼はこれから元居た世界へと帰るのだ。そこで待っているのは重犯罪者としての末路だけだ。


 同情の余地はない。


「頼む。見逃してくれ。俺は何も悪いことなんて何もしていない」

「本物の飯井正はどうしたの」

「それは……」


 男は口ごもった。

 黒目が異常な程に左右に揺れる。識っている。識っていて訊いているのだ。彼の顔を爪先で思い切り蹴り飛ばした。鈍い音がして男が身体ごと壁にぶつかる。軽く蹴ったつもりがつい力が入ってしまったようだ。

 男は口から血を流して呻いた。


「もういい。出して」

「くそっ。この、よくも」


 男が地面を幾度も叩く。この男の悔しがる様なんて無価値だと吐き捨てる。男はゆらりと立ち上がった。口から流れる血を拭い、アリストを見据えてくる。立ち上がった男の身長は彼女よりも頭二つ分は高い。

 今度は見下ろされる立場となったアリストはしかし、特にどうという感情を抱かなかった。


「早くして。そうすれば貴方は解放される」

「どうせ向こうに戻されるんだろうが。解放じゃねえ。俺は向こうから解放されたくてこっちに来たんだ。解放じゃねえ。解放なんかするわけがねえ!」


 男は激昂して殴りかかってきた。

 アリストはそれを溜息と共に首をいなして躱すと一歩前へ足を踏み出した。掌底で男の顎を揺らし、肘で鳩尾を打ち抜いた。それだけで男は膝から崩れ落ちた。再び腰から下になった男の頭上目がけて、アリストは振り上げた踵を躊躇なく振り下ろした。男の顔面が地面を幾度かはね返る――彼はそのまま動かなくなった。


 下らない。

 この男だけではない。


 大抵の輩はそう、自分の行いを悔いることもなく、手前勝手に逆上する。好き勝手な理屈を云い、相手の言葉には耳を貸そうとしない。アリストはそこまで考えて肩を竦めた。

 男を爪先で転がすと、背広を強引に剥ぎ取った。欲しい物があるとすれば此処だろう。内ポケットに手を入れると目的の物の手応えがした。取り出す。掴んだ指の隙間から光が漏れている。広げた掌にはピンポン玉とほぼ同じ大きさの光玉があった。昏く沈んだ路地裏を照らす幽かな煌きに思わず目を細める。


 アリストは静かに語りかけるように、


人造光フォトニック結晶体。――【収束コンヴァージ】」


 と云った。


 突如、人造光結晶体が輝きを増した。ぐんぐんとその光度を増していく。仰向けの男の身体が光に呼応するように発光している。男が発する光は宙を舞い、玉へと集まっていく。人造光結晶体が吸収し、収束しているのだ。


 次第に男の容姿が変貌していく。二十代の張りのあった皮膚には皺が幾つも入り、黒かった毛髪が白く染まっていく。醜く、変わり果てていくその姿に一層苛立ちを覚える。男の風貌は今や五十代を過ぎた男性のそれと変わりなかった。


 先程の飯井正とは似ても似つかない。

 これが本当の姿か。

 飯井正だった、それを蔑む。


 人造光結晶体の光が収まると、アリストはそれをホットパンツのポケットにしまい込んだ。そして片手で男の襟元を掴んで歩き出す。気を失ったままの男を引き摺る音が路地裏に小さく響く。路地は一層狭く、昏くなっていく。男を帰すのだ。路地裏の奥へ――元の世界へ戻す為に。


 人造光結晶体――アリストが居た世界の科学技術で生み出された代物だ。光学迷彩とは違い、これを使えば本人そのものに成りすますことが可能となる。彼らは重犯罪者だ。様々な理由で刑務所に拘置されていた者たちが今、元の世界から逃げ出してこの世界の人たちに成り代わって刻を過ごしている。身長や性別、骨格や筋肉の質、声色、DNA配列まで。ただ一つ、記憶だけを残して全てが元の本人と同じになる。見た目では誰にも区別はできない。そうして彼らはこの世界の住人の代わりとなって生きていく。


 成り代わり(ドッペルゲンガー)――アリストはそうした者を捕らえて元の世界へと送り帰す仕事をしている。悪戯な風が彼女の帽子を攫っていく。浮かび上がったのは目映い金髪ブロンド、青く澄んだ碧眼ブルーアイズ。彼女を送り込んだ組織は、彼女のことをこう云った。


 人造光結晶体の化身フォトニックレイヤー、と。


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