6 姉弟対面
ウィヴァーゼンとの遭遇以後、ヘルムート一行は何事もなく前進し、帝都出立から一週間が経過していた。ロゼッタ最大の軍事拠点『バルム城塞』の門をくぐると、戦場さながらの重装備に身を固めた傭兵達が目についた。城内では、貿易商やら武器商やらが忙しく走り回り、軍需物資を補充している。
しばらく城内の待合室で待たされた後、部屋に入ってきたのは、この城の警備責任者だった。彼はヴィエリと名乗り、ヘルムート達に客室を貸し与えてくれた。
「客室……ねぇ」
釈然としない表情でリヒャルトが呟いた。
「あまり清潔な部屋は期待できないね」
「全くだ」
オスカーの言葉に頷くと、彼は近くでヘルムートと談笑しているシャロンに目を向けた。
「可憐で綺麗な“お姫さん”だこと。それに――」
含みのある口調で呟くと、ローブを脱いで薄着になった少女の胸元に視線が落ちた。
「こっちも、余裕で合格」
兄の独語がオスカーには届いていたため、その鍛え抜かれた拳が、瞬時に兄の顔面を捉えたことは言うまでもない。
「これだけの騎士を連れて行くのは難儀ではありません?」
双子が不毛な争いを始めた頃、ヘルムートとシャロンは、談笑から真面目な話題に移っていた。
「ロゼッタ領内を出てからは帝国軍国境防衛団の護衛を手配してあります。なので、彼らのほとんどはこの地で任務完了となり、最前線にある我が隊の本拠地まで直接向かうことになります」
「では、食糧の心配はありませんのね」
「無論です」
このような問答をしながら、ヘルムートは驚きを禁じ得ない。この“異国の姫君”は、軍事学に関する事柄をあれこれと彼に訊ねてくるのだ。それも、根幹たる戦略理論を踏まえた上で、確認するかのように。
無論、高名な将軍である父親の影響はあるだろうが、“深窓の姫君”を具現化したように美しく可憐な愛娘に、血生臭い行為の細部まで教えようとするとは思えなかったのだ。これは論理面よりも感情面の反発に属する考えであったが、こういった先入観があると容易には見つからない答えが自ら彼の前に現れた。
「このような理論って、面白いですわ」
同時に、ヘルムートの両目が見開かれた。しかし、その反応はシャロンの発言に対する確信ではなく、扉を開けた長身の人物の姿をシャロンの肩越しに認めたからであった。
「姉さん?」
ヘルムートが静かに口走った言葉に、シャロンはゆっくりと振り向いた。
青年騎士の姉は、弟に向けて、
「やあ、ヘリー」
と声をかけたきり、クリーム色の髪の少女に視線を転じていた。
「あなたがシャロンね。私はこの城の城主リディアよ。よろしく」
弟とは対照的なリディアの言動に、少女は内心たじろいだが、優美な動作で、差し出された手を握った。
「シャロン・アポロニア・ハートベイカーです。こちらこそ、よろしくお願いしますわ」
型通りの社交辞令が済むと、すぐにヘルムートは姉の私室に招かれ、今後の日程が話し合われた。
「あなたの部下九五名は、一一名を残して本拠地に戻ることになる。それはわかっているね?」
リディアは、目の前の弟と同じ色の瞳を煌めかせた。
「ええ」
「あなたに命令を発した上官が、補給を軽視する人物なのか、大軍なら安全だと思い込んでいる精神構造なのかは知らないけど、これだけの護衛を連れて、よく餓死しなかったわね」
「無能で鳴らす軍務次官が編制しましたから、数も物資も破天荒なのです」
弟は苦笑して応じた。
「困った次官殿ね。
とにかく、国境の防衛隊と合流するまで少数の兵で頑張ってもらうよ。それと、通行許可証を明日までに用意するから、アルピアス街道を通るといい。あそこはリグリアの傭兵隊が確実な“害虫駆除”を行っているし、ほかの道を使うよりも早く国境に到着できるから」
東方の自治区リグリア辺境領出身の傭兵は、過不足なく仕事をこなすことで有名であった。そのため、ルシタニア帝国では、勅選傭兵隊の三分の一がリグリア人部隊で構成されている。
「では、その道を使わせて頂きましょう。私は四〇名の護衛と一人の特使を連れて、明日にでも発ちます」
弟の答えに頷き、リディアは自ら戸を開けて、
「また会おう、ヘリー」
やはり男っぽい口調で言った。
その日の夜、ヘルムートは用意された質素な服に着替えて、割り当てられた部屋で赤ワインを手に取った。
寝椅子に身を委ね、ゆっくりと今後の行程を見直す。
「アルピアス街道まで半日、街道を抜けるまでに三日……」
一息おいて、
「予定の二週間より早く着きそうだな」
と彼は呟いた。
旅の疲れを癒すため、あちこち見て回るのも良いかもしれない。いずれ、再び戦いに身を投じる時がやってくるのだから、これくらいの息抜きは許されても良いはずだった。
彼が思考の駒をのんびり進めていると、誰かが部屋の扉を遠慮がちに叩く音が聞こえた。
「どうした?」
「ジェクス殿がお見えです」
「構わない、通してくれ」
筋骨隆々の異邦人は、足音も立てずに部屋に入ってきた。丁寧に一礼すると、左手に握った酒瓶をぎこちなく差し出した。
「我が国の流儀でして。本国産の安ワインですが……一杯、いかがですかな?」
「……良いだろう」
ヘルムートは唇の両端を僅かに吊り上げた。彼は、この客人に対して言葉遣いを変えるつもりはないようだった。
無言で酒を酌み交わすことが三往復に達した頃、若い騎士の方から沈黙を破った。
「そういえば、以前からハートベイカー将軍はどういったお方なのかお聞きしたかったのだが……」
英雄に対するヘルムートの興味がそう言わせたようだった。
「一言で言えば、とても質素なお方です。愛娘たるお嬢様にもそれだけは徹底させておりました。そのため、貴族に異端児の如く扱われ、政治家からも冷淡な目で見られているようでして」
「英雄というのはそんなものだ。能力的に優れた者であるが故に、理解者に恵まれることは少ない。人によっては、英雄を英雄と認めることもできず、見下すこともあるのだろう。逆を言えば、一部の英雄は、理解者に恵まれたからこそ認められたとも言えるが、実際はほとんどいない。あのゼフィオン大帝ですらそうだった」
ヘルムートはつくづく思うのだった。過去の歴史において、強大な才能に対する嫉妬と羨望の夫婦は、必ず危機感という名の子供を生んできた。そして、英雄という名の宝石は、近くで見るには眩し過ぎ、素手で掴むには熱過ぎた。嫉妬と羨望の子供は、時に失明で理性を失い、時に火傷に憤怒して、あらゆる宝石を溝の中に捨て去る。その多くが自分の責任であり、自分の生存に必要な存在であることも忘れて……。
「古来、戦場に倒れる名将はほとんどおりませぬ。私には、名将の名将たる所以はそこにあると思われますがな。
指揮官には、戦に勝つことだけでなく、戦場に倒れることなく部下に対する責任を全うすことにもあるのですから」
ジェクスは、そう言いながらグラスにワインを注いだ。
「戦に勝ち、部下を生き残らせ、自らも生き残って、任務を終えるまで部下を統率する。ハートベイカー将軍はそれをできる方なんだろうな」
「左様です」
壮年の少佐が頷くと、銀髪の騎士は小さな笑みを浮かべて言った。
「謀将という言葉だけで括れる方ではないな。一度、将軍のもとで戦ってみたいものだ」
再び時が静かに踊り始めると、二人の勇者は微笑を交わして、同時にグラスを空けた。
毛布を華奢な身体に巻きつけて、シャロンはバルコニーに佇んでいた。空から降り注ぐ蒼い光が彼女の透き通るような肌を艶かしく彩り、より一層その存在を儚げに見せている。
「あの方に会ってもらいたいものですわ、お父様」
正面に広がる街並みを見つめ、この遥か先で大軍を率いているはずの父親に囁いた。
それっきり、彼女が言葉を発しなかった。ゆっくりと背伸びをして、夜空に輝く星々に両手を伸ばし、優しく包み込んだ。
翌朝、四一名の勇士は準備が整い次第、ヘルムートを先頭に出発することになった。見送りに来たのは、リディアと三名の護衛兵だった。
「あれ、警備責任者のおっさんは?」
リヒャルトが弟に訊ねた。彼は“おっさん”の名前はすでに忘れていた。
「さぁな。用事でもあるんだろう」
オスカーは肩をすくめて辺りを見回した。
「兄さんは?」
リヒャルトは、門の前に立っている兄に人差し指を向ける。
「あそこで“楽しいお話”さ」
彼らの兄は、“楽しい”というには深刻過ぎる顔でジェクスと話していた。
「行程は昨日の夜に説明した通りだ。護衛部隊の配置は先日と同じで、前衛に私の部隊、後衛に貴殿の部隊、決して前後離れることのないようお願いしたい」
「お嬢様の場所は……」
「後衛の中央だ」
「承知しました。私は部隊に戻らせて頂きます」
ジェクスが歩み去ると、今度はリディアがヘルムートに話しかけた。
「大変ですかな。美しく愛らしい姫君を守る時だけは、副官に一切を任せずに自分でやるのは」
「ナダルには部隊から抜けた騎士達をまとめてヴェスヴィオ砦に送り返すという任務がありますから」
ヘルムートは、表情一つ変えずに応じた。
「……それだけか?」
「否定していなかったと思いますが」
リディアは鼻を鳴らし、きつく弟を抱きしめた。背は彼女の方が低いため、遠目からでは恋人同士の抱擁に見えなくもない。
「気をつけな」
「言われるまでもありません。というか、やめてくださいよ」
「相変わらず、可愛げのない弟だな、お前は」
彼女は弟を解放してやった。
「……誰に似たんでしょうね」
顔を背けて、可愛げのない弟は呟き、続けた。
「じゃあ、またしばらくお別れです」
彼は馬に飛び乗り、自分と同じくリディアに呼び止められた双子の弟が何事かを囁かれて抱きしめられているのを見つめていた。
「出発だ。目指すはルシタニア=ディスメルド・マーチ国境地帯。そこには警備隊の連中が待っているそうだ。お姫様を送り届けたお礼として、ここらでは見られないものを食わせてもらえるかもしれんぞ!」
双子が帰ってきたのを確認したヘルムートが声を上げると、騎士達は雄叫びで応じ、ゆっくりと歩き出した騎士隊長について行く。三人の弟達は、それぞれのタイミングで遠ざかる姉に一度だけ振り向いた。