5 出立
ナダルに勅命の概要を伝えると、ヘルムートはペルガモン城内の自室に戻って、重武装に身を固めながら独語した。
「彼女を送るとなれば、故郷を通るな」
帝都からディスメルド・マーチ連合領を目指すには、『ロゼッタ』という地方を通過するのが常道だった。それは彼の祖父イアドランが統治を委任された地でもある。聡明で美しい姉リディアが警備軍副司令官と憲兵隊司令官を兼ね、柔和で沈着な兄ロビンが領主補佐を任されている。
「リディアとロビンが逆の性で生まれてくれば……」
というのが祖父の評価である。リディアには貴族社交界の体面もあったし、ロビンには逞しく育ってほしかったのだろう。孫二人の反撃については明らかになっていないが、リディアからは怒号、ロビンからは無言の苦情が届いたとヘルムートは見ている。
……ヘルムートが意識を水面下から引き戻すと、自分を呼ぶ小さな声が聞こえてきた。
「……アンゲルス卿」
ヘルムートの自室を守る警備兵だった。
「どうした?」
「閣下の弟を名乗る青年が二人、お見えになっていますが――」
「ふむ……」
彼は双子の弟のことを即座に思い出し、警備兵に指示を与えた。
「武装を解いた状態で通してくれ」
ヘルムートの弟を名乗る二人は、彼の前に非武装で姿を現した。
「お久しぶりです、兄上。リヒャルトと弟のオスカーでございます。
此度、我ら兄弟は兄上の護衛を最優先任務するよう、お祖父様から仰せ仕りました」
双子の兄がギクシャクした口調で言うと、ヘルムートは冷たく言い返した。
「お前達兄弟の顔なら、一目でわかる。
……で、何のための護衛だ?」
声の高低差以外は聞き分けのつかない兄弟は、兄の心に立ち込める憤激の暗雲に気がついた。
「……えぇと、兄上の身を案じて――」
銀髪の兄がクレイモアに手を伸ばす光景が、オスカーの言葉を途切れさせた。
「あのご老体が私の身を案じるとしたら、もっと早く手を回していたはずだ。
……ナダルか誰かの差し金だろう。違うか?」
「ご明察の通りです」
そう答えながら、冷たい汗が背筋を伝っていることを、リヒャルトは自覚した。末弟のオスカーは“面倒な問答”の全てを兄に任せているようだった。
「では、残りの話は“お節介な副官”に訊くとしよう。
……お前達も準備を整えておけ。すぐに出立する」
威圧感を含んだ上官の言葉に、双子の護衛兵は従うしかなかった。
「やっぱり、兄さんは貴族の面目を保とうとしている気がするよ」
オスカーは静かに言った。
「ああ、俺らが貴族の子弟なのに騎士叙勲をしないで、傭兵隊に志願したからだろう」
欠伸をしながら、リヒャルトは同意した。
「やっぱり、傭兵は評判が悪いんだなぁ」
「当たり前だろ。“あの事件”の傷痕は、そう簡単に癒えるもんじゃないさ」
答えながら、双子の兄は思いを巡らせた。
あの事件……“大乱の闇夜”と呼ばれた、傭兵隊による大量虐殺と大強姦事件。先帝ヴァンダレイ三世の三女(皇帝ルーファウスの妹)も犠牲になったと言われている。
オスカーはゆっくりと歩き出した。戦争と殺人と強姦は、人間の歴史の中で絶えることのない三大悲劇だ、と呟いて。
少しずつ太陽が顔を見せ始めた頃、その控えめな陽光に照らされた少女の姿は、一輪の冬薔薇を思わせた。
彼女の側にゆっくりと近寄る者があった。紫色の奇妙な甲冑を身につけ、歪曲した剣を腰に提げている。
「信頼できるお方ですわ」
無言で直立する護衛隊長に、少女は半ば独語するように言った。
「かといって、全面的な信頼は置くわけにはいきません、シャロン様。今でこそ盟友と呼べますが、この国はかつての敵国ですから……」
返答した男の表情は、口だけが動いているように感じられるほど硬かった。
「少なくとも、騎士殿は信頼に値するお人柄でしたわ。そうでしょう、ジェクス少佐?」
「あの方は確かにそうでしょう。ですがやはり、油断はなりませんぞ」
矛盾したことを深刻な顔で言うと、
「心得ております」
シャロンは、厚手のローブの下に納められた四本の短刀を腹心の男に見せた。その顔は不敵な笑みに満たされている。
「心配ありませんとも」
繰り返し言うと、不敵な笑みを奇怪な微笑みに変えた。そして、少女はゆっくりと背を向けて歩き出す。
彼女が父親から受け継いだものは、末恐ろしい資質だったのかもしれない、とジェクスは後に語った。
重武装した騎士団の一隊が、正規軍帝都警護部隊から“異国の姫君”以下三〇名の護衛兵を引き受けたのは、それから間もなくのことであった。
「身命に代えましても、貴女をお守り致します」
銀髪の若者は、護衛対象たる少女に安心させるつもりで声をかけ、護衛隊長ジェクス少佐と無言で握手を交わした。
円陣で護衛対象を囲みつつ、ゆっくりとした足取りで進む騎士隊に、ある凶報がもたらされた。
「“ウィヴァーゼン”一個小隊が接近しつつあり」
騎士達の表情は驚愕と恐怖に歪んだ。
「ウィヴァーゼン……?」
シャロン姫は、おっとりとした口調で語尾に疑問符をつけた。
「非合法的に組織された私兵集団の総称です。大貴族による個人創設が主な発信源で、法的保護は得られず、任務と共に略奪・暴行を――」
「つまり、捕虜になって殺されても文句は言えず、武装だけはいっちょ前の略奪集団ってことです」
ヘルムートの護衛として控えていたオスカー・アンゲルスの言葉を、ヘルムートが簡略化して遮った。
「まぁ……大丈夫ですの?」
口ほどには驚いた様子もない少女は、遠くの略奪集団を眺めた。
「略奪される前に与えてしまえば良いのです」
「……というと?」
「実演を御覧あれ」
ヘルムートは小さく笑い、四騎の配下を引き連れて馬を走らせた。
「ウィヴァーゼンの大将に告ぐ、私はルシタニア帝国軍イズアル騎士団のヘルムート・アンゲルス子爵だ」
自分の名を振りかざすことに抵抗がなかったとは言えなかったが、彼は任務優先の軍律を守ることにしたのだ。
「人質にしようとするのではないか」
身辺でシャロンを守るナダルは呟いたが、彼女はそれに同調しなかった。彼の鬼神の如き活躍は、国内であれば、情報網に疎い貧困層ですら知るところであったから、ウィヴァーゼンのような無法者も迂闊に手出しはできないと思われるのだった。
「貴殿らの大将と話がしたい。大将は私と同数の配下を従え、こちらに来て頂きたい」
しばしの沈黙の後、数十人の無法者の中で比較的背の低い栗毛の男が前に進み出た。毛皮のコートを羽織っていて確認はできないが、武器は所持していないようだった。
「俺達に喧嘩をふっかけてきた、今までの坊ちゃん方とは格が違う奴のようだな」
尊大に男は言うと、一人で騎士達に近づいてきた。ヘルムートは、目配せして配下の騎士を下がらせた。
「貴殿らと争う気はない。事を穏便に進めたいのでな」
ヘルムートが馬を降り、男を見下す形で対峙した瞬間、二人を隔てる空間の一部が輝いた。
「よく止めたものだ」
「……“暗器”か」
ヘルムートが目を移すと、逆手に握られた長剣とコートの袖から取り出された小刀が競り合い、小刻みに震えていた。
状況の急展を交渉の決裂と見なしたナダルらであったが、剣戟を交わした両者が武器を収めたことを遠目で確認すると、安堵の溜め息を吐いて今度こそ静観を決め込んだ。
やがて、交渉は首尾良く進んだようで、騎士達の若き上官は“五体満足”で戻って来た。
「戦場では命令伝達の苦労、平時では軍令の苦労、任務では上官の苦労があるものだ」
とは、この時のナダルの心情であったが、口から流れ出した言葉は少し違っていた。
「子爵、今少し自重をお願い申し上げます」
「……ああいう奴らは、頭目同士が話し合ったり討ち合ったりすることを己の美学にしているのでな」
笑顔で答えたヘルムートから謝罪や反省の言葉はない。
「ですが――」
「もう良いでしょう?」
ナダルを一瞥し、シャロンはゆっくりと遮った。
「子爵様が無事なら、何も問題はありませんわ」
ナダルは無言で頷き、少女の正しさを認めた。
「それにしても、お金の力というのは……」
騎士隊が広大な荒野を歩き始めると、シャロンは呟いた。
「恐ろしいものですか?」
「いいえ、美女の色香よりも魅力的な武器ですわ」
ヘルムートの質問というより好奇心に笑顔で答えたが、相手の表情の激変に顔を赤らめ、俯いてしまった。
上目遣いでゆっくり見返すと、女性に似合わぬ冗談は言わない方が無難ですぞ、と言いたげな表情は消え失せていた。
「私は“色香派”ですよ」
という、片足が一線を超えた耳打ちと引きつった笑顔がシャロンを迎えたのだった。彼女の幼げな顔の向きが、また地面に固定されたことは言うまでもない。
美しい特使に対する言葉が“冗談”であったのか、“本心”であったのかが判明するのは、もっと先のことであった。
果てしない空の下、若い騎士の物語は始まったばかりであった……