3 陥穽
敵の退路周辺に陣を張ったヘルムート・アンゲルスは、敵少数部隊接近の報を受けると部隊を移動させた。
敵部隊から逃げるように戦場を騎兵隊は駆け回り、数分後に敵本隊の接近を知ると、今度は急速反転に及んだ。
緩やかな弧を描いたヘルムート隊は、その機動力に対応しきれなかった同盟国軍偵察隊の側面に矛先を向けた。騎士達の雄叫びと馬の足音が地を揺るがし、敵兵を戦慄の淵に叩き落とす。ヘルムートは槍を振りかざし、敵兵を馬から突き落とした。一回転した槍は鞍に掛けられ、長剣が見せ場を迎えた。キショウと名乗る豪傑を相手に数合打ち合うをするも、なかなか勝敗は決せず、お互いに兵士の群れに身を潜めた。
「この状況下で、何をしようというのです? 戦火を交えても、ほとんどは逃げているではありませんか」
ヘルムートと併走している、西国の戦闘部族出身の勇士ユーリが、浅黒い顔をしかめて言った。
「まぁ見ておけ。あれを使うんだよ」
ヘルムートは足元の草地を指し示した。そして、彼は辺りを見回し、数秒後に大声を上げた。
「全隊に合図を!」
ヘルムートが指示を出すと、騎兵隊が横列に展開し、薄く広い陣形で反撃を開始した。
騎士隊長自身が放った火矢を合図に、近距離に控えていた弓騎兵隊も火矢を二本ずつ弓の弦にかけ、それを放った。やがて、穂先から根本にかけて炎に包まれた矢が、広大な草原に等間隔で墜落した瞬間、地獄の業火は同盟国軍本隊を包囲した。
偵察隊を敗走に追い込んだヘルムートが、剣を鞘におさめて声を張り上げた。
「貴殿らの勇戦に敬意を表す。この上に残された道は、虜囚たることを受け入れ生を全うすか、燃え盛る業火に呑まれるか、それだけだ。もし、前者を受け入れるつもりであれば、火炎の壁に活路を開き包囲網を敷いてある。諸君が武器を捨てて投降を選ぶのなら、我が軍は人道に基づいて諸君を迎えるであろう」
ヘルムートは、戦争自体が人道に反する行為であることに皮肉を覚えながら、敵軍に呼びかけていた。
やがて、名目上の降伏勧告、事実上の脅迫は功を喫した。
その時、同盟国軍将兵にとって、心地良いはずの風は死神の息吹でしかなかった。自らを撫でつける風の体感温度は、上がるばかりである。
熱風に煽られながらも、兵士達は言葉と視線を交わし合った。
「おい、どうする?」
「部隊長の首でも手土産に降伏しようか」
「火炎を越えて、栄誉ある戦死を遂げよう。誰か、私に水をくれ!」
「いっそ、敵の戦力に組み入れてもらってもいいだろう」
そんな中に、一人だけ冷静な判断を下す部将がいた。
「俺は閣下の指示を待つ。部下を大事にしてくれる将軍だからこそ、今まで命を投げ出してきた。このまま無為に死を待つのも悪くないが、あの方はそんな意味のない死を選ばないだろう」
その言葉を裏付けるように、部将のもとへ伝令が駆けつけてきた。
「司令官閣下から伝令!
“我が軍は、今日をもってアランドラ同盟国軍から白旗集団と成り下がる。武器を捨て、速やかに降伏せよ。自害または挺身突撃、その他殺傷行為は命令として一切禁ずる。しばし神に授かりし身を休め、来るべき解放と再戦の時に備えるべし”
以上」
部将は短めの赤髪を撫でながらため息をつき、部下に命じた。
「聞いての通りだ。我が軍は武器を放棄、全面的に降伏を受け入れる。お前らの命は、この私、ウェイン・ロムに与えられた全権の許す限り保護に努めよう」
彼の言葉を聞き終えると、狂喜した兵士達は武装を解除し、不安げに炎の壁を抜けていった。それを見送った赤髪の部将は、まるでピクニックにでも行くような調子で呟いた。
「さて、司令官のところにでも行ってくるか。
……勇敢な『銀翼の戦神』の言葉に甘えるために」
本陣では、参謀ハルデスや多くの情報統制官が慌ただしく命令文書や作戦文書の焼却に励んでいるようだった。その中をのんびりと歩く赤髪の部将に気づいている者はほとんどいない。
「タニア・ロム将軍」
聞き慣れた声に、将軍は振り返ることなく呟いた。
「……見事にやられたよ、ウェイン。私の戦争は、ここで終わりのようだ」
ややあって、ロムの弟は口を開いた。
「そんなことはありません。今は虜囚となる他ないでしょうが、必ず味方が助けに来るでしょう」
「しかし、それは何ヶ月も先の話だな。我が軍はこの戦いに一万三〇〇〇余、敵軍も同等かそれ以上の兵力を投じたんだ、しばらくは侵攻らしい侵攻はしないだろう」
帝国軍の全兵力は二二〇万、同盟国軍は一九〇万。双方にまとまった兵力があるとしても、それを動かすに不可欠な兵站は、今回の負担が重なって悲鳴を上げる。
「だからこそ、気長に休暇でも楽しむ気分で待ちましょう、兄者」
拷問やら死刑やらが待ち受けているかもしれないが、とウェインは心の中で呟いた。
こうして、エトルランドの戦いは幕を閉じた。この戦闘での活躍が著しいヘルムートとジュリアスには、それぞれ兵権の拡大と特別給与が約束され、国内外にその名を知らしめた。
部将ウェイン・ロムの「銀翼のマルス」という言葉は、いつしかヘルムート・アンゲルスの異名となっていたのだった。
ルシタニア帝国軍参戦兵力:一万五八〇〇。戦死・行方不明者六〇〇〇余。負傷者三五七一。第五軍司令官ラウル将軍、戦死。
アランドラ同盟国軍参戦兵力:一万三五〇〇。戦死・行方不明者九〇〇〇余、負傷者二〇六九。全軍降伏、壊滅。