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9 出征

 二月一五日の夜。他家の令嬢達との食事会を終えたシャロンは、散らかったままで出ていった自室に戻った。

「出征前ですのに、お父上のもとへ行かなくてもよろしいのですか?」

 絹のドレスや分厚い本が散乱している部屋を片づけ、暖炉に薪を放り込みながら、侍女が遠慮がちに訊ねた。

「きっと、お父様には出兵の日に会えると思うわ」

 シャロンは静かに答えて、身振りで侍女に下がるよう命じた。

 彼女は、侍女が出ていったのを見計らって、着替えるために上衣を脱ぎ捨てて裸になったものの――良家の令嬢は、一人で着替えをすることは許されていない――、寒さが身体を包み込もうとしてきた。

「……寒い」

 そう呟くと、彼女は上衣を羽織り、暖炉に向かって歩き出したが、誰かが部屋の扉を軽く叩く音が聞こえてきたため、立ち止まった。

「どなた?」

「シャーリー、父さんだよ。開けておくれ」

 紛れもなく父の声だった。二人で話す時だけ使う愛称で呼びかけているため、父が一人であることを彼女は予想した。急いで下着を身につけ、父を部屋に招き入れた。父のもとへ行くのを遠慮したというのに、まさか自分から来るとは思わなかった。

「軍備の方は良いのですか? 副司令官というのは、部隊の編制やら運用やらで大忙しかと思っていましたわ」

 シャロンは驚いたような表情で言った。

「ああ、大丈夫だ。少し時間ができたものでな」

 ハートベイカーは笑顔で答える。

「少し、お前に訊きたいことがあるんだがね」

 すぐに、父の顔から優しい笑顔が消えた。

「……何ですの?」

 シャロンは表情を変えず、後に続く言葉を促した。

「お前は……こんな短い付き合いの中で、あの騎士隊長殿に想いを寄せるようになったのか?」

 美しく可憐な少女の驚いた表情は、ますます深みを増した。

「え、いえ、そんな……」

 父の目に映る愛娘の姿は、否定しようかしまいか、悩んでいるようだった。

「……好きかどうか、自分でもわかりませんの。でも、強く惹きつけられていることは、なんとなく感じていますわ」

 その言葉に嘘がないことを見抜くと、ハートベイカーは口を開いた。

「そうか。変なことを訊いて悪かった」

 父の言葉に、シャロンは無言で首を傾げる。父親は恥ずかしそうに微笑し、

「じゃあな」

 と言って、娘の疑問に応えることなく部屋を出ていった。

「……それだけが訊きたかったの?」

 やがて、シャロンは一人で呟いた。


 二月。

 酷寒の地で、七万の軍を率いている一人の女性がいた。

コルマール民主共和国のディスメルド・マーチ侵攻軍司令官クララ・ハッキネンである。

波打つクリーム色の長髪、小柄だが優美で敏捷そうな身体、知性と自信に満ち溢れた笑顔を持つ、成熟した美女だったが、実年齢は不詳で、公式記録にも二〇年以上昔の軍歴は残っていないという、謎多き女性司令官であった。兵士達の間では、目尻に小さく刻まれたシワや手の質感など肉体的な特徴から五〇歳前後と思われている。

 アランドラ同盟国の支援の下、コルマール軍は、ディスメルド・マーチ連合とアランドラ同盟国の国境地帯に大規模な宿営地を建設した。

それは寒い中でもある程度の暖が取れる小さな街となっている。宿営地とはいえ、敵襲の可能性は極めて少ないことから見張り台は設置されておらず、警備にあたる兵も少ない。現在、偵察部隊の指揮官から報告を受けている司令官が寝泊まりする幕舎も、三人の兵士によって入口を警備されているだけであった。

「失礼します、ハッキネン司令官。偵察状況の報告に参りました」

 そう言ったのは、偵察部隊の指揮官エミール・リュティだった。全体的に細長い印象を受ける彼の身体は、神経質な彼の性格を反映していた。独創性よりも正確性に優れた思考力は、偵察任務にうってつけの人材だった。

 上官が頷くのを確認すると、明瞭な言葉で報告し始めた。

「捕らえた使者を尋問したところ、偵察隊が掴んだ情報の通り、敵の総大将はリドリー元帥で間違いないようです。彼は、指揮官としてよりも策謀家として名の知れた男。戦術面より戦略面に注意を払うべきでしょう」

「……言われなくてもわかるわ。敵軍の指揮官には私の“よく知る人物”もいることだし、少しも油断をするつもりはないわよ。

 それと、使者には乱暴をせぬよう伝えておいて」

 コルマール第七軍司令官クララ・ハッキネンは憎々しげに答えた。苛立ちを隠しきれないとでも言うように、机の端を指先でつつている。

「承知いたしました。

 しかし、妙なこともありまして……」

 リュティが呟くと、ハッキネンは綺麗に整えた眉を上げて訊ねる。

「……何?」

「冬場の国境地帯だけあって、敵の大部隊がないのは珍しくはありませんが、敵地に入り込んだ部下達は、敵の警備軍だけでなく、村々に農民の姿さえも見かけなかったと言っているのです」

「それを先に言って欲しかったわね」

「申し訳ありません。これは、何かの策略だと思われますが……」

「策略?」

 女将軍は鼻を鳴らして言った。

「策略というほどのものではないわ。心配はいらない。

 恐らく、ディスメルド・マーチの迎撃方法は焦土作戦よ。素人でも思いつく、簡単な作戦ね。でも、有効ではあるわ……」

 そう言ったきり、ハッキネンは一人で考え込んだ。

 リュティは、これ以上の問答はが自分の関知するところではないと思い、敬礼しても答礼をしなくなった上官のもとを去った。

 しばらくして、ハッキネン自身も外に出た。すると、雪を払って地べたに座り込んだ兵士達が、星の瞬く寒空を見上げて歓声を上げていた。

「土地が違うだけで、見える星も違うんだなぁ」

 兵士の呟きにつられて、彼女も空を見上げる。星を見ることが少ないため、よくはわからなかったが、数が全く違うことだけはわかった。

 夜空には、極彩色の星々が輝いていた。ビーズのように見える星もあれば、ルビーを思わせる星もある。

「綺麗……」

 その呟きで、自分達の司令官が近くにいることに気づいた兵士達は、立ち上がって敬礼をしたが、司令官は答礼を返さずに言った。

「戦場ではあるまいし、そんなお堅くならなくてもいいわ。みんなで見ましょう。

 もし、あなた達の中で星について詳しい者がいるなら、色々教えて頂戴」

 兵士達は意外そうに顔を見合わせ、ハッキネンのもとへ駆け寄った。

 星の名前と星雲の名前を聞いているうちに、コルマール語で“|破砕者<<ハブート>>”と呼ばれる星が彼女の目に止まった。赤い輝きを放つ大きな星。輝き続けているのではなく、明滅しているように見える。

 わたしは、“あれ”になろうとしているのだろうか。彼女は思った。

 かつて、巨大な国を一軍で滅ぼし、多くの人を殺した自分。最近は、戦いに疲れを感じるようになってきた自分。どこかで戦いを望んでいる自分。

「戦いの意味を、どこに見出せば良いのだ……」

 盛り上がる兵士達の輪から彼女は離れ、自分の幕舎の正面に立った。そして、炎が微かに揺れている松明に手をかざした。

「気づけば……戦いの目的など、忘れてしまうのかも知れない」

 彼女は独語し、手をこする。

「だが、戦い自体に意義を見出すようなことにならなければ……良い」

 また独語し、彼女は幕舎の中に入っていった。




 二月二五日。駐屯地には、戦場へ向かう兵士達の家族や恋人が多く訪れていた。その中には、ハートベイカー父娘の姿もあった。

「お父様!」

 小柄な娘は、唯一の肉親である父親に抱きついた。

「シャーリー、行ってくるよ。私が外征している間に寝泊まりする別荘の管理とアンゲルス卿らの世話は、ジェクスに任せておいたから安心していい」

 ハートベイカーは笑顔で囁いた。

「はい、わかりました。

 ……お父様、どうかご無事で」

 シャロンの腕がきつく締まる。

「大丈夫だ、心配ない。将軍というのは最後に死ぬものだ。もし危なくなっても、さっさと逃げてくるさ」

 ハートベイカーは冗談半分に囁き、抱きついていた娘を地面に下ろした。

 その直後、駐屯地に備えつけられている角笛の低い音が大地を震わせた。

「……さ、そろそろ父さんは出発だ。

 全軍に合図を出せ!」

 副司令官の声に、兵士が鷹を象った軍旗を掲げ、一〇万の大軍は出撃した。




 窓から身を乗り出したヘルムートは、しかめ面で外を眺めていた。その視線の先には、ディスメルド・マーチ軍の駐屯地が小さく見える。軍旗を一斉に揚げた軍隊が駐屯地から出て行くのを遠目で見送ると、彼は窓から離れた。

「勝てるかな……」

 彼は溜息と一緒に呟いた。いかにディスメルド・マーチに謀将があり、大兵力と豊富な兵站を保持していると言っても、ハートベイカーは完璧な人間ではないだろうし、敵の司令官――クララ・ハッキネンの方が知謀に長けていたら……言うまでもない。

「兵力の多さと補給のやり易さは反比例しますからな」

 声のあった方に振り返ると、ナダルが壁に背を預けて苦笑を浮かべていた。

「いつの間に……」

「勝手に入って申し訳ありません。お姿が見えなかったものですから」

 ナダルは肩をすくめた。

「いや、構わないが……

 やはり、お前も危険を感じたか」

「ええ。焦土作戦に出るとなれば尚更です。リドリー元帥は何を考えているのでしょうか」

「自暴自棄だと思うか?」

 ヘルムートは彼の肩に手を回し、ゆっくりと言った。

「いいえ、全く。深慮遠謀があって然りでしょう」

「愚将では元帥になれないだろうからな……」

 ヘルムートは不安げな表情を見せた。一軍を統率できる中将や大将には、稀に能力の低い人物がいる。社会的身分によって、将官まで登り詰めることもできるからだった。

「しかし、ディスメルド・マーチ連合において、元帥へと昇進する場合は、軍首脳陣からの推薦と兵士達からの信任投票が必要であるため、能力や身分以前に軍全体からの信頼が欠かせません。つまり、信頼の大きさと能力の高さは比例している、というのが大部分でしょう」

「そうだろうな」

 答えたヘルムートの不安げな表情は、全く消えなかった。

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