にんげんさんかんさつきっと
『にんげんさん〈ささら〉の かんさつを かいし します』
誰かの声が聞こえたような気がして、目を覚ました。
いつの間にかベッドでまるくなって眠っていたらしい、が。
「……ここはどこ」
寝起きの不機嫌な声で低くつぶやく。
あたしの名前は両親がマンガに影響されてつけたとかいう「ささら」で、十六歳で、好きな食べ物はクリームシチュー。
そんなどうでもいいようなことは覚えているのに、両親の顔も名前も、眠る前なにをしていたのかも記憶にない。
とりあえず手足があり、体のどこにもケガをしておらず、服 (着古した赤白チェックの夏用パジャマ)を脱がされた様子もないのを確認してから、ぐるりと部屋を見まわした。
ちいさな洋風の寝室だ。
木造の建物で、磨きこまれた木のいい匂いがする。
部屋の真ん中に置かれたふかふかベッドは天蓋付きで、薄いカーテンに覆われていて、その周りにはウサギやリスやバンビのぬいぐるみが散乱していた。
壁際にはメルヘンチックなクローゼットと大きな鏡がついた化粧台もある。
少女誘拐犯の監禁部屋か?
それにしてはあたしの年齢十六だし、大きな窓は片方が開けっ放しで気持ちの良い風が入ってくるのだが。
首をかしげていたら、ぬいぐるみの中からふわりと何かが浮き上がって、声をかけてきた。
「おはようございます、ささら」
それは淡々とした口調で言った。
「わたしはあなたのお手伝いをする妖精さんです」
「……ようせいさん?」
空中に浮かんでいるソレは、どう見てもSF映画とかに出てきそうな緑のランプをともしたボール型ロボットだったので、あたしは半眼で睨んだ。
もとから寝起きは機嫌が悪いし、今は混乱しているので愛想ゼロだ。
しかし、おかしいな?
あたしがいたのは、こんな空中浮遊するロボットを造れるような文明レベルの世界だっただろうか?
内心で考えこんでいると、ロボットも何かを考えるように黄色のランプを点滅させ、やがて緑のランプに戻った。
「お手伝い妖精さん設定はお気に召しませんか。それならあなたを教え導く守護天使さんにしますので、お気軽に天使さまと呼んでください」
「ぜんぜんお気軽な呼び方じゃないです。むしろそのフォルムで守護天使とか、どんだけ図太いのかと問いただしたい。素直にロボットです、でいいじゃない」
思わず言うと、ロボットは黄色のランプを点滅させた。
「いえ、わたしはロボットではありません。ささらの守護天使さんです。あまり何度も設定を変更することはできませんので、天使さんという呼称に問題があれば名前をつけてください」
「じゃあロボで」
「提案は却下されました。適切な名前をつけてください」
「……心の狭い守護天使さまだな」
その他、「ボール」「タマちゃん」等が却下され、最終的に案内役の「ナビ」で落ち着いた。
名前ひとつでこんなにこだわるなんて、面倒くさいやつだとため息をついてあたしはベッドから降りる。
「それで、ナビ。ここはどこなの?」
「ここはささらの家です。自宅です。生活の場です」
「言い方変えて三回も説明されなくても理解できるよ。何も覚えてないけど、とにかくここはあたしの家なのね。それじゃお腹空いたから、食べ物のある所を教えて」
「はい、こちらです」
ふよふよと飛んでいくボール型ロボットの後について部屋を出ると、扉が二つと下へ続く階段があった。
「こちらの扉は手芸用の作業部屋、こちらの扉は物置き部屋。キッチンは下にあります」
階段を降りる前に、いちおう二つの扉を開いて中に誰もいないのを確認する。
手芸部屋は足踏みミシンとか裁縫箱とか大量の布があって、物置き部屋は大小さまざまな木箱やら紙箱やらが山積みにされていた。
「この家には他に誰もいないの?」
「ここはささらの家です」
つまりはあたし以外のものの家ではない、という意味のようで、確かにキッチンへ行くまでにのぞいたガラス張りの広いサンルームにも、脱衣所に洗濯機の置かれたお風呂場やそのそばにあるトイレにも、誰もいなかった。
マンガに影響されて子どもに「ささら」なんていう変な名前つけた父さんと母さんは、どこへ行ったんだろう?
首をかしげつつ、カウンターを挟んでリビングとつながっているキッチンに入る。
洗い場で蛇口をひねり、ざぶざぶと顔と手を洗って、近くにあったタオルで拭きながら何があるのか見てまわった。
調理器具と調味料一式が揃っていて(『くりーむしちゅーのもと』もあった)、冷蔵庫もあるが、一番大事な食材が無い。
「それで、ナビ。何を食べろって?」
「冷蔵庫の奥に『えいようどりんく・いっしょくぶん』があります。あくまでも食材が無い場合の緊急用ですので、多用しないでください。意図的に多用された場合、副作用が出ても損害賠償請求には対応しておりません」
「副作用とか損害賠償とか、なんかコワイ単語が出てきて意味不明な物体を飲むなんて嫌なんだけど。ほかに何か、もっとマシなものはないの?」
「野菜の種があります」
「植えて育てろって? 種を植えて野菜がとれるようになるまでどれだけ時間かかるか、知らないで言ってる? それとも遠まわしに餓死するか、あやしげなドリンク飲んで副作用に苦しむか選べって言われてるの?」
「種を植えたら半日後に収穫できる種類の野菜があります。今から植えればお昼にはとれます」
そんなおかしな話があるか、と思ったが、ここは空中浮遊して名前にこだわる変なロボットがいる世界だ。
野菜も半日で成長するのかもしれない。
先ほどからお腹がぐーぐー鳴いて「たべものくれー」と主張しているので、とりあえず『えいようどりんく・いっしょくぶん』を飲んでみた。
バニラ味で意外とおいしく、お腹もふくれたが、できれば二度と飲みたくない。
玄関先にあるという畑へ行く前に、二階へ戻って服を着替える(ついて来ようとしたナビはウサギのぬいぐるみで廊下へ叩きだした)。
寒くはないがちょっと気温が低めだったので、無地の白い長袖シャツと青いジーンズに着替えて、一階へ降りた。
玄関で、あたしの足のサイズぴったりな靴がいくつか入れられた靴箱から、花柄の長靴を取り出して履く。
木製のドアを押してみると、上に取り付けられたベルがどこぞの喫茶店のようにカランカランと鳴り、普通に開いた。
玄関先にはよく耕されて黒々とした土の畑があり、その周りは芝生のような緑の草原になっていて、そのすべてを深い森が取り囲んでいた。
ドアを閉めて草原を歩き、振り返ってみれば草原の中心にはツリーハウスのような、木と混ざった家のようなものがあって、それが今まで自分のいた家の外観なのだと気づく。
家から木が生えているような、木に家が寄生しているような?
中身はごく普通の木造住宅だったのに、ともかくそれはおかしな家で、屋根のかわりに勢いよくのびた枝が緑の葉を生い茂らせ、吹く風にさやさやと揺れていた。
「なんてファンシーな。どっかの絵本に出てきそう……」
「ささら。野菜の種があるのはこちらです」
ふよふよと空中を浮遊するナビに呼ばれ、その家の横手にあった物置き小屋の戸を開けた。
スコップやクワやジョウロなどと一緒に、たくさんの野菜の種の小袋が詰め込まれた木箱があった。
しかしそれはビニールっぽいパッケージに野菜の絵がプリントされているだけで、ひっくり返してみても説明がない。
「ナビ。さっきの半日でとれる野菜って、どれ?」
「緑のパッケージが半日、オレンジ色のパッケージが一日、桃色のパッケージがとれるようになるまで一日半かかるものです。種をまける畑は六つですので、まずは緑のパッケージを六つ選んでみてください」
ナビの言葉に、野菜作りというよりゲームをしているみたいだ、と思う。
野菜がそんな簡単に作れてたまるか。
しかし作れないのも困るので、あたしは何も言わず緑のパッケージのじゃがいもとニンジン、玉ねぎとサツマイモ、トマトときゅうりを選んだ。
そしてスコップを持って綺麗に六つの正四角形に区切られた玄関先の畑へ行き、「袋ごと一つずつ中央に埋めてください」という変な指示に従った。
スコップでざくざくと畑の真ん中を掘りながら、「何やってるんだろうあたし……」とつぶやく。
これが夢なら早く覚めてほしいのだが、自称“守護天使さん”のボール型ロボットが「ささら、深く掘りすぎです」と注意してくるだけというこの現実。
てきとうに「ハイハイ」と返事をして袋を埋めるとスコップを片づけ、ジョウロを取り出して小屋の戸口のわきにある水道で水をくみ、畑にまいた。
ふぅ。
「あ、そういえば。主食にご飯かパンが欲しいんだけど、どうすればいいの?」
「お米とパン、どちらが必要ですか?」
「とりあえずパン。でもお米があるんならその場所も知りたい」
「では森に入りますので、準備をしましょう」
お米とパンをとりに森へ行く?
意味不明だったが最初からこの世界は意味不明なのだ、もう何も言うまい。
家へ戻って寝室のクローゼットにあった薄い布地の長袖コートをはおり、サンルームの戸棚にあったピクニック用のバスケットを手に持って、ブーツを履いた。
三十分後、あたしは森の中でぼうぜんとしていた。
「米が木の実の中に入っている……。小麦も木の実の中に入っている……」
お米は水田で育てられるものだし、小麦も畑で育つものだというのに、この世界はどちらも木の実の中に入っているのだから絶対に変だ。
「というか、こんなおかしな物を食べて大丈夫なの? さっきの『えいようどりんく』みたいに副作用がナントカとかないの?」
「木になるものに副作用はありません。必要な分だけ収穫して持ち帰ってください」
「え。木になるものには、って限定するってことは、つまりキッチンにあった調味料とかは危ない?」
「大量に使うと副作用が出る可能性がありますが、適正な量であれば問題ありません」
帰りたい、と切実に思った。
お米が木になるのではなく、水田で作られる世界へ帰りたい。
「リンゴやモモ、イチゴなどがなっている木もありますが、デザート用にとっていきますか?」
「季節というものを完璧にスルーしたこの森がだんだん楽しくなってきた気がする」
「楽しんでいただけて何よりです」
「ちなみにこういうのを“現実逃避”っていうんだけど、知ってる?」
「困難な現実から目をそらし、不安から逃れようとする精神の防衛機制のひとつですね。しかし、その言葉には疑問があります。ささらが現実逃避しようとする原因の、“困難な現実”とは何ですか?」
お前だよ! この世界のすべてだよ! と内心で叫び、はぁ、とため息をついて言った。
「モモとイチゴとって、帰る」
家へ戻ると、玄関先の畑で野菜の種がもう芽吹いていた。
緑の葉がすくすくと育ち、大きくなっていく。
そんなバカな、と思うのにはだいぶ飽きてきたが、それでもその異常な成長速度には目をみはった。
しかしこれでお昼ご飯は『えいようどりんく』に頼らずにすみそうなので、なんとも複雑な心境だ。
ブーツを脱いでリビングに入り、キッチンで手を洗うついでにバスケットからイチゴをとって一緒に水洗いした。
ひとつぶ食べると、甘酸っぱい味が口の中にひろがる。
水がざぁざぁ流れていく音を聞きながら、ぼんやりとナビに訊いた。
「あたしはいつになったら帰れるの?」
ナビは答えた。
「ここがあなたの家です」
リビングのソファに寝転がっていたら、いつの間にか眠っていたらしい。
ふと目を覚ますと、ナビが「野菜ができましたよ」と言った。
長靴をはいて畑へ行き、スコップ片手に野菜収穫。
じゃがいもやニンジンは土の下に、トマトやキュウリは土の上になっていたので、それだけでちょっと安心した。
収穫した野菜をさっそくキッチンへ持って行き、トマトときゅうりは冷蔵庫の野菜室へ入れ、他のものは一個ずつてきとうな大きさに切って鍋に放り込んだ。
鍋をコンロへ置いて火にかけ、残った野菜を冷蔵庫へ入れてナビを見る。
「ナビ。牛乳と卵とベーコンも欲しいんだけど、手に入る?」
「はい。牛とニワトリと豚の種を畑に植えてください」
あたしは無言でしゃがみこみ、膝をかかえてまるくなった。
うん。
そうだろうね、そんな気はしてたんだ……
「すべて桃色のパッケージですので、実るまでに一日半かかります」
問題はそこじゃないんだ、ナビ。
家族の記憶は無いのに、動物は畑でとれるものじゃない、という記憶はあるこの不思議。
いや、完全なる記憶真っ白状態になりたいわけじゃないけれども。
「……うん。まあ、いいや。昼ごはん食べたら植えてみる。あ、パンの作り方は?」
「炊飯器に洗った小麦を入れてスイッチを押してください。三十分後にできあがります」
もう何も言うまい。
なにも言わないぞ……!
ひくひくと引きつる唇を真一文字に引き結び、バスケットの中から小麦入りの木の実を取った。
中身の小麦をザルにあけて水で洗い、炊飯器に入れてスイッチを押す。
しばらくして鍋の野菜が煮えてきたので、『くりーむしちゅーのもと』を入れた。
……ヒマだ。
「ナビ。テレビとかマンガとかインターネットはないの?」
「ありません」
「それなら簡単なパズルとか、遊べるものは?」
「ありませんが、紙や布、糸などの材料ならあります」
あたしに作れと?
そんなの考えるまでもなくムリだ。
「あー、ひまー。ひまひまひまひまひまー。あうー」
リビングのソファにひっくり返ってジタバタしていると、ナビが「ピコン!」と鳴った。
う?
「ペットの購入が承認されました。リストを提示します」
ヴン、とちいさな音がして空中に半透明のディスプレイが現れ、犬や猫、鳥や魚の映像が表示される。
ナビが「この中から選んでください」と言い、ソファの上で身を起こしたあたしは顔をしかめた。
「ペットの購入が承認されたって、誰に承認されたの? そのリストは誰が作ったの? もし選んだらその動物はどこから来る? あたしみたいにさらってくるつもり?」
何を訊いても、どれだけ待っても、ナビは答えない。
あたしは肩を落とし、空中に映像を表示するディスプレイの中から『ふしぎなたまご』を選んだ。
「これにする」
ディスプレイに映された白い卵に触れると、ぽんっと音がしてディスプレイが消え、空中に実物が現れる。
あたしは「うわっ!」と声をあげ、あわてて白い卵をキャッチした。
するとあたしの手に触れた瞬間、卵が液体金属みたいにうねり、床の上に流れ落ちて一つの動物の姿へと変化する。
「わんっ!」
白い犬だ。
赤い首輪をつけてやりたくなるような白い犬が、ぱたぱたと尻尾をふっている。
なんだこの未来世界の機械か地球外生命体っぽいのは。
思ってから、そういえばあたしのいたところは地球っていうんだ、と気づく。
記憶が穴だらけて、何を覚えていて何を覚えていないのかすらあやふやだ。
「『ふしぎなたまご』が形状を選択しました。健全な生命維持に必要な道具の購入が承認されました。ささらの家の各扉にペットドアが取り付けられました」
ナビがアナウンスし、ソファの前のテーブルにブラシやエサ皿や水皿、ペットフードの缶詰めの山が現れる。
「『ふしぎなたまご』の名前を設定してください」
ぼけーとソファに座っていると、足元に来た白い犬がちょこんと座った。
無駄吠えせず、顔をなめてこようとしないところは好感が持てる。
「白いから、シロ」
「『ふしぎなたまご』の名前、「シロ」を認識。設定が完了しました」
あたしは手をのばし、そーっと頭を撫でてみた。
シロは気持ち良さそうな顔をする。
その間にキッチンへ移動していたナビが、黄色のランプを点滅させて言った。
「ささら、鍋が焦げつきそうです」
クリームシチューとパン、トマトときゅうりのサラダ、デザートにモモ。
飲み物に珈琲かお茶が欲しいと言ったら、「桃色のパッケージです」という返答がきたので水を飲む。
この世界の水は味が無かった。
昼食の後、長靴を履いて外へ出る。
「前の野菜を抜いて、クワで畑を耕してください」
小屋にあった軍手をはめ、クワを持って畑へ行く。
そしてあたしが野菜を抜いて畑の土をえっちらおっちら耕している間、シロは尻尾をふりふりしながら近くの草原を歩きまわっていた。
抜いた野菜は畑の隣に放置しておいていいらしいので、ぽいと放って山積みにする。
畑が片付くと小屋へ戻って木箱をあさり、桃色のパッケージを探した。
すぐに底の方にあることに気づいたので、そこからミルク缶とセットでプリントされた牛と、卵とセットでプリントされたニワトリ、そして豚と珈琲と緑茶の小袋を取り出す。
ちょうどあと一枠畑が余ることになるので、緑のパッケージのカボチャも一緒に植えることにした。
カボチャは今日の夜、桃色のパッケージは明日の夜中に収穫できるようになる。
「すぐには収穫できないけど、枯れたりしない?」
「収穫できる状態になったものはその状態が一日続き、二日目に入ると枯れます。牛とニワトリ、豚は成熟すると地面に落ちますので、明後日の朝には庭を歩いているでしょう」
ジョウロで水をまきながら、ううむ? と首をかしげた。
牛からミルク、ニワトリから卵はまだいいとして、豚をベーコンにすることは自分に可能だろうか。
この世界のことだから、豚を何かに入れたら「はい、ベーコンのできあがり!」となりそうだが、いちおう聞いておこう。
「ナビ。豚をベーコンにする道具ってあるの?」
「あります」
「具体的にはどんな道具?」
「屠殺用の刃物と燻煙材、燻製にする時の」
「もういい」
ジョウロを置いて畑を掘り返し、豚のパッケージを取り出した。
なんでそんなところだけリアルなんだ! とぶつぶつ言いながら。
空いた畑には桃色パッケージのチョコレートを植えておく。
パッケージのプリントがカカオではなく板チョコだったことに猛烈な理不尽を感じながら、ジョウロで水をまいた。
この奇妙な世界での生活はしばらくの間、何も起こらない平穏なものだった。
あたしはとくに料理が好きなわけではなかったが、『かれーのもと』やら『すーぷのもと』やら他にもたくさんの『もと』があったので、てきとうな煮込み料理でごはんは何とかなる。
それに牛やニワトリも無事に成熟して玄関先の草原をのんびり歩きまわっていて、おどおどとした人間の小娘がはじめての乳搾りに「うひー」と半泣きになるのにも、シロが見つけて教えてくれるニワトリの卵をちょうだいするのにも、まるで無反応だった。
あまりにもヒマだったので手芸部屋にあった布で赤いスカーフを作り、白い犬の首に巻いてやった。
シロはきょとんとしていたが、よく似合っていたので作ったあたしは満足した。
他にも布に綿をつめこんでいびつなボールを作り、シロと草原で遊んだ。
なにしろ他には何の娯楽もなかったので、あたしはすぐにシロに慣れ、『ふしぎなたまご』から現れた白い犬はだいじな遊び相手になった。
あたし達は庭先で遊び、リビングで昼寝をして、森の中を遊び歩きながら木々になる果実をつまんで食べた。
森はどんな方向へ進んでも、いくらか歩くと家に戻ってきてしまうというループ構造だったので、どこへも行けないかわりに迷子になることもなかった。
時々、こわい夢を見た。
そんな時は自分のあげる悲鳴で目を覚まし、ぼろぼろと泣きながら部屋のすみっこへ這っていって、心配そうに「くーん」と鳴くシロを抱いてふるえた。
ナビは「悪夢は誰かに話すと実現しなくなります」と言って夢の内容を聞こうとしたが、あたしは「おぼえてない」の一言で通した。
本当に、何も覚えていなかった。
なのにその夢はとてつもなくこわくて、こわくて、なかなかふるえが止まらないのだ。
「実体のない不安やストレスが夢になって現れるのでしょう。何か思うところがあるのなら、お聞きしますよ」
ナビは言い方を変え、何度も聞く。
「わからない」
あたしの答えは変わらない。
そうして何日か経ったある時、いきなりどこかから声が聞こえた。
『にんげんさん〈ささら〉の はんしょくめんせつを かいし します』
昼食後、リビングのソファに寝転がってくつろいでいた時のこと。
玄関の方から「おわっ!」という声とともに、ドサッと何か重たい物が落ちる音がしてものすごく驚いた。
あわててキッチンへ駆け込み、包丁を取り出して右手に握る。
シロは玄関の方に走っていって「わんっ! わんっ!」と吠えた。
「うわ、ここは犬か。ダイジョーブだって、俺は無害だから。つーか同じ被害者だから。もう熟練の被害者よ。で、お前さんのご主人はどこだい?」
ずいぶんと軽い口調の男性の声が聞こえ、シロが吠えるのをやめた。
「おー、利口だな。助かるわ」
とてとてと歩いてきたシロについて、声の主が現れる。
金色の髪と緑の目をした青年だ。
映画かドラマに出てくる俳優のように整った顔立ちをしている。
「おや、黒髪のアジアン・ビューティーだ。俺って幸運。はろー」
軽く手をあげて挨拶してくるのに、カウンターの下で包丁を握ったまま訊く。
「あなたは誰ですか?」
「俺の名前はジェイ。苗字は思い出せないんだ。ミドルネームも何かあったはずなんだけどな。それで、君はなんてーの?」
「ささら」
「ササラちゃんか。可愛いね。何歳?」
「十六」
うは、とジェイが手で額をおさえた。
「幸運じゃなかった。おい、フェアリ。ちょっと出てこい」
「どうしました? ジェイ」
ジェイのすぐそばに、ナビとそっくりの同型ロボットが現れた。
金髪青年は空中浮遊するボールに文句を言う。
「十六歳って若すぎだろ。すげームリ。俺めちゃくちゃ警戒されてるし、この状況だとたぶんササラちゃん手に刃物とか持ってるんじゃね?」
「はい。ささらは包丁を持っています」
フェアリと呼ばれたボールではなく、あたしの隣で浮いていたナビがさらっと答えた。
こいつ叩き切ってやろうか、とあたしは一瞬真剣に思ったが、ジェイはとくに気にする様子もなく言った。
「ほれみろー。そんな子にいきなり出てきた男と仲良くやれってのはムリだぞ。今回は失敗。いさぎよく諦めとけ」
「相手の同意が必要です」
フェアリが言うと、ジェイがあたしを見た。
「ほれ、お嬢さん。イヤだって言ってやれ」
「嫌」
一言答えてから、困惑ぎみに訊く。
「でも、何が?」
「そうか、俺が初めてなんだなー。さすがアジアの十六歳、初々しい」
ジェイはうむ、とうなずいて、「ちょっと話をしようか」と言った。
そうして語られたのはこの世界の奇妙な仕組み。
ジェイはあたしと同じようにある日突然この世界で目覚め、フェアリに色んなことを教えられて生活してきて、慣れたところで女性の家へとばされた。
その女性はとても開放的で退屈していたので、仲良くなって恋人になって、二人の間には子どもができた。
そうしたら翌日、ジェイは別の女性の家へとばされた。
「自分の家へ帰りたいって言えば帰してもらえるんだけど、子どもができた彼女の家には行かせてもらえない。とまあ、そういうワケでね。転々としてるんだ」
「じゃあ今も、前の女性に子どもができたから、次の家へとばされたってこと?」
「おーいぇー!」
ジェイは軽い調子で笑った。
屈託のない笑顔で、恋人に会えないことも子どもに会えないことも気にしていないように見える。
あたしは思わず顔をしかめ、ジェイはそれに気づいてまた笑った。
「あんたはここの生活に向いてなさそうだな、ササラちゃん。まあまだ若いし、君の反応の方が当たり前なのかもな」
「ジェイは何歳からここにいるの?」
「んー? 十七だったか。俺はわりと早く馴染んじまったからなぁ。いろんな女の人に会えるの楽しいし」
その時になって、先ほどから黄色のランプを点滅させていたナビがジェイに訊いた。
「ささらは何歳から適切になりますか?」
「うん? 男の相手するのにって意味?」
「はい」
「いやー。年齢だけじゃないからね、こういうの。性格が合わなかったら一生ムリだし、男嫌いな女性もムリだろうし」
ナビは初めて赤いランプを点滅させ、あたしに訊いた。
「ささらは男性が嫌いですか?」
どくん、と心臓が高鳴る。
初めてこの世界の出口につながる扉の、ノブに触れた気がして。
あたしはすぅっと息を吸い、大声で叫ぶ。
「だいっきらい!」
どこかから声がした。
『にんげんさん〈ささら〉の はんしょくめんせつ しっぱい』
ガラスが割れるように、パリンと世界が壊れた。
赤いスカーフがひるがえり、白い犬があたしのところへ走ってくるのに「シロ!」と叫び、握りしめていた包丁を捨てた。
あたしの大事なシロ。
こんなところに置いていきたくない。
『にんげんさん〈ささら〉の かんさつを いちじていし します』
あたしは腕の中に飛び込んできたシロをぎゅっと抱きかかえ、まぶたを閉じて体をまるめた。
◆×◆×◆×◆
セミの鳴く声がする。
暑い。
こんなに暑いのに、なんであたしは長袖のシャツなんか着てるんだろう?
もそもそと服を脱ぎ、半袖のシャツと短パンに着替えると、シロを連れて部屋を出た。
ものすごく長い間寝ていたような気がする。
頭が重たい。
目をこすり、ふあーとあくびをして台所へ入りながら言った。
「母さん、おなかすいたー」
台所で朝食をとろうとしていた家族は静まり返り、次いで大騒動になった。
「ささら! あんた今までどこいってたの?!」
「その犬はどこから連れてきたんだ?!」
ええ? と混乱するあたしに、家族は「お前は八月の頭から行方不明だったんだぞ」と言う。
それもごく普通に「おやすみー」と夜に自分の部屋へ行き、朝になったらいなくなっていた、という状況。
携帯電話も財布も着替えもすべて残っていたことから家出ではないと判断した家族は、さらわれたのではないかと心配していたそうで。
「今日は八月二十九日だぞ! 今までどこで何してたんだ?!」
そんなこと言われても、あたしだって普通に寝て起きたら一ヵ月近く経過したとか、冗談じゃないの? という感じだ。
夏休みがほとんど丸ごと潰れたことになるんだけど、マジで? と訊きたい。
しかし家族に取り囲まれて正座させられ、シロを庭に放り出されそうになったので慌てて腕に抱きかかえている今、とてもではないが冗談という雰囲気でないのは察した。
困惑しきって涙目で答える。
「そんなこと言われたって、ほんとに覚えてないんだもん」
その時一瞬、母さんの後ろに緑のランプがついたボールみたいなものが浮かんでいたように見えたけど、まばたきをしたら消えていた。
なんだろう?
うまく言葉にできない不安を覚えてシロをぎゅっと抱く。
赤いスカーフを首に巻いた白い犬が、「くーん」と鳴いた。
「ささら? 聞いてるの?」
家族の声にまぎれて、どこからともなく声が聞こえる。
『にんげんさん〈ささら〉の かんさつ だいにだんかいを かいし します』