バジル
小島家は犬好きである。そして一軒家に移り住むときには当たり前のように番犬を飼うと決めた。最初は家の外で飼うつもりだったが、生後3ヶ月の可愛い可愛い子犬を真冬の寒さの中で外に出しておけないから始まり、こんな暑さじゃへばっちゃうとなり、気付けば家犬となっていた。よくあるパターンである。
バジルが小島家にきて3年ほどたったある日、姉がバジルの夢を見たと言った。
「そういやバジルの夢見たことないな。ねぇちゃん、どんな夢だったの?」
きょとんと首をかしげるバジルを見ながら家族はみんな興味を持った。バジルも姉の話で自分の名前を拾い、自分の話してるよね?とこちらの話を聞いている。中身はわからなくても食べ物の話と自分の話の時にはよくこうして聞いている。いくつか気になって覚えている単語があるようだ。
「黒猫に追いかけられて、逃げ回っていたんだけど。ついに追い詰められたとき、その猫は凄く大きな黒い煙になって。すごく怖かった。そしたらバジルが現れて、ぱくっと。『バジル、そんなの食べちゃダメだよ!』って言ったらバジルが『空気を読んだ』っていってこんな顔してたの」
バジルはさっきから変わらず小首をかしげて姉の話を聞いている。確かにバジルならこんな顔でそんなことを言いそうだ。
「流石バジル。ねぇちゃんを救ったか。バジル、こんなときこそ真理子に好きなおやつをリクエストしなさい」
父は現実に起こった事の様にバジルを褒める。母もほほえましいという顔でバジルを見ている。
「そうねぇ。空気を読んで私に出来そうなものでお願いね」
姉はバジルの頭を撫でる。そのときだった。
「じゃあじゃーきー」
激震が走った。両親は固まっている。姉は驚きながらも可愛い末の弟のために平静を装って答えた。
「どこのメーカーのがいい?たくさんは食べられないから好きなところを教えてちょうだいよ」
僕は姉を尊敬した。バジルと比べて大して可愛がってもらえなかったけれど、この度胸をもつ姉を邪険にすることは出来ないと思い知った。
「おねえちゃんがたまにくれた、らむのやつ」
ああ、たまに姉は彼氏とのデートのときに買って来ていた。どこのペットショップにも置いていない高級そうな奴だ。姉の彼氏の家の側にあるマダムっぽい人のためのピンク色のセレクトショップが輸入している。僕も一度バジルの誕生日に大量に買いおこうと思ったが店の外観から挫折した覚えがある。
「ああ、あのちょっとしか入ってない奴ね。バジルはあれが一番好きだったんだね」
「いちばんはおさかな。でもおさかなはおやつじゃないから。おやつはじゃーきーがいいの」
固まっていた母はすぐに出かけ、バジルのために魚を買って来ていた。犬が喋るだなんてかなりなことだったのだけれど、うちの家族はバジルが可愛くて仕方なかったから僕以外は当たり前のこととして受け止め、当たり前のように夕食が魚になった。
「ねぇバジル。なんでお話できるようになったの?」
夕食になり母は確信をついた。家族の中で一番空気を読めるのがバジルであれば、読めないのは母である。
「わかんない」
「ねぇ、あの猫のせいじゃないよね?」
「かもしれない」
猫は姉の夢の話だったはずだ。だけれども、その後からバジルが喋れるようになったのは事実である。というより前例がないので何で犬が喋っているかなんてわからない。うちの家族はやはり僕とは違い、猫のせいだと判断した。そして、バジルが喋れるようになったのは嬉しいけれど、あんな悪そうなものを食べたのだから体は大丈夫なのかと心配した。
「びょーいんきらい」
「でも悪そうなもの食べたんだから調べないと。これから先お魚食べれなくなっちゃうかもしれないわよ?」
姉の脅しにバジルは唸る。バジルにとって病院は嫌な場所でお魚が食べられるかどうかはかなり重要なことだったらしい。
翌日、父は会社を休み、姉も大学を休み、僕も当然のように学校に休みますと電話をかけられていた。家族総出で動物病院に行く。いつもと違いバジルは覚悟を決めた男の顔をしていた。犬だけれども。
「小島バジル君ー」
「はーい」
受付のお姉さんに呼ばれてバジルは普通に返事をした。受付のお姉さんは固まった。家族はそんなお姉さんに見向きもせず、ひたすら心配そうにバジルを気遣っていた。僕も心配だったのだが、そういう心配だけじゃないだろと言いたい。けど黙っている。
「こんにちはーバジル君、今日はどうしたかな?」
「くろいのたべちゃったの」
獣医さんの動きが止まる。そしてきょろきょろと家族を見回す。誰も腹話術なんかしていませんよ。
「おさかなたべてもいいかみてもらうの」
バジルは獣医さんを見ながら懇願する。魚を食べて良い言ってくれと見つめている。
「えっと。バジル君?」
「なぁに?」
先生はバジルが喋っていることを認めた。そして直接バジルに話かけることにしたようだ。
「僕は犬と喋るのははじめてだよ。これは僕が聞き取れるようになったのかな?それとも君が話せるようになったのかな?」
僕は理解した。先生は動物と話が出来る獣医の物語が好きであると。
「たぶんぼく。くろいのたべたから」
獣医さんは少し落ち着いた。確かに動物と話せるのは夢だよね。ましてや、獣医さんだ。ものすごく夢見ていたんだろう。
「黒いのって何かな?」
「おねぇちゃんについてた。わるいやつ」
獣医さんが姉を見る。姉が言葉を引き継ぐ。
「私の夢の中で起きたんです。嘘みたいな話なんですが。夢の中で黒猫に追いかけられて。その黒猫が黒い煙になったところをバジルが食べたんです。そしたらバジルが話せるようになっていました。喋れるのは喜ばしいんですけど、見るからに良くないものだったのでバジルの体が心配できました」
獣医さんが難しい顔をする。真面目に考えているように見えるがパニックだろう。僕もパニックだった。この家族がおかしいんですよ。
「とりあえず何を食べたのかはわかりませんが、体が正常か調べたいのですね?予約はされていませんが緊急で割り込ませましょう。このまま犬ドックです。MRIも割り込みで受けさせたいと思います。全ての検査にかける。よろしいでしょうか?」
「はい、お願いします。幾らかかってもいいのでバジルが健康であるか調べてください」
「こわいよぉー」
獣医さんは考えることを後回しにしたようだった。一先ず出来る限り調べながら考えようと思ったのだと思う。1月前から予約の要る検査も最優先でしてくれるらしい。一方バジルは検査と聞いて怖くなったのか母の足の間に頭を突っ込んで震えていた。
そして丸一日バジルの検査が行われた。普通は預けてみんな終わるころに迎えに来るのだが如何せんバジルは喋る犬である。検査室から「おかーさーん」「おとーさーん」「おねーちゃーん」と叫び、呼ばれたらすぐに宥めに行くため全員病院で待っていた。ちなみに僕は呼ばれていない。なんでだ。
そんなこんなで検査は終わった。バジルは喋れる以外健康体そのものである。
「おさかな、いいの?」
「大丈夫だよ。お魚食べても大丈夫。先生が保障しよう」
「やったー」
獣医さんは一日検査にくっついていた。そして喋れるバジルにメロメロになっていた。普通は気味悪がったり、研究対象にしたいと思いそうなものなのに、横でバジルの話す家族の話なんかを聞いているうちに優しげに頭を撫でるようになっていた。ちなみに、僕の話は出てこなかった。なんでだ。
「バジル君、人とはお話できるようになったけれど、他の動物とは喋れるのかな?」
獣医さんは家族に囲まれて帰る体勢になっているバジルに話かけた。
「なんとなくわかるよ。まえからだよ」
「そっかー。じゃあ、わんちゃんの世界でも大丈夫そうだね」
「ほかのこもわかるよ。まえからだけど」
「それは羨ましいな。バジル君、よかったら病院の他の子が何を言ってるか教えてくれないかな?」
「もういたいのしない?」
獣医さんにたのまれてバジルは入院している患畜の部屋についていく。家族もその後をついていく。帰る気だったのに獣医さんがお駄賃として鳥の軟骨を見せたためバジルは買収されていた。これではちょっと心配だ。騙されて連れ攫われないだろうか。
「ももちゃんはおなかいたいって」
「ああ、手術したからね。お薬飲んでたら楽になるよって言ってくれる?」
「わかったー、ももちゃーんおくすりのんだら、らくだってー」
「おくすりわかんないってー」
「ごはんに入ってる白い粒だよ」
「あれぼくもきらーい。ももちゃん、ごはんのしろいやつだってー」
バジルは普通に人間の言葉で繰り返しているが相手の犬には伝わっているようである。本当によくわからない。
「たろうくん、おかあさんにあいたいって。さみしいよーしてるよ」
「明日退院だよ。明日のあの時計が3回音楽が流れたらお母さんがくるよ」
「あのまるいのが3かいなったらあえるってー。よかったねー」
バジルは犬やら猫やら兎やら、動物を問わず話をきいては獣医さんに知らせた。獣医さんもその言葉に優しい言葉を返してバジルに翻訳をさせている。返答までしていたものだからすっかり遅い時間になっていた。獣医さんに貰った鳥の軟骨はバジルの夕食になり、家族はバジルを褒めちぎった。バジルは報酬を貰ったことで鼻高々である。
それから数日が流れた。僕は姉についていたらしい黒い何かが気になって仕方がなかったが、バジルの体が健康であるとわかるとみんなそれ以上の興味をなくした。それよりもバジルと話せるようになったことに夢中になっていた。体は犬であるから負担がかからないように普段バジルが起きている時間におしゃべりをして、いつも通り寝ている時間には放っておいた。そしてご飯のリクエストをするようになったり、散歩中色んな犬と飼い主さんを交えておしゃべりするようになる変化もあった。僕は外でバジルが喋るのは良くない事だと思ったが、バジル本人が「おともだちだもん」と言い、家族もバジルが好きなようにしたらいいと言い僕の意見は捨て置かれた。
そしてそれは起こった。
「バジル!バジル!」
「おーい、バジル!」
「どうしよう、バジルがいないわ」
「話せなくなったんじゃないよね?いないんだよね?」
散歩の時間になったくらいに母と姉が慌てていた。僕はいつまでもバジルを呼ぶ女性陣の声を不審に思って二階から居間におりた。
「どうしたの?バジルがいないの?」
「そうなの!!バジルがいないの!!」
「いつもならお昼寝から覚めてかわいく『はーい』って言うのよ?どうしよう、どうしたら、ねぇ何が。お母さんどうしたらいいの?ねぇどうしたら!!」
母はパニックに陥っている。姉は言うほど騒ぎ立ててはいないが必死できょろきょろとバジルを探している。
「最後にバジルをみたのはいつ?」
「私は学校から帰ったばかりよ。間に合ったから私が散歩に行こうと思ってバジルを呼んでいたのよ。なのに返事がなくてお母さんと一緒に」
「いや、そこはいいから。母さんはバジル最後に見たのはいつ?」
「3時のおやつに林檎をむいてあげたのよ。もっとほしいって言うけどお昼寝しなきゃおさんぽがしんどくなるわよっていって」
「うん、3時ね。3時から今まで母さんは家にいなかったの?」
「ええ、バジルが夕飯はいりこのお出汁でお米たっぷりのが食べたいって言ったんだけどいりこが切れてたからスーパーに」
「そこはいいから。帰ってきてから会ってない?」
「寝てると思って静かに帰ってきて今まで静かにしていたわ」
バジルを最後に見たのは3時すぎ。バジルのおやつタイムは30分くらい母と駄弁っているので母がスーパーに行ったのは3時半過ぎくらいだろう。現在時刻6時である。いなくなって2時間半経っている。
「母さん、ご近所さんに不審な人がいなかったか聞いてきて。おねぇちゃんはお父さんにメール打って獣医さんに連絡して。一緒に探してもらえる人に伝えるんだ。3時半から6時の間にいなくなってるって伝えて。僕は警察に行って来る」
母は玄関を飛び出して隣の家のベルを連打しにいった。姉は震える手で父にメールを打ち始めた。僕は鍵を持って靴を履く。バジルは僕に対抗心を持っていてあんまり甘えなかったけれど可愛い弟である。自分が意外と動揺していることに驚きながらしっかりせねばと奮い立たせる。恐らくこれは誘拐だ。言葉を理解して話せる犬だなんて誰が興味を持ってもおかしくはない。絶対助けてやるからな。バジルはただの犬でもペットでもない、僕の家族だ。可愛い弟なのだ。
警察に行く途中僕の携帯電話には次々と連絡が入った。母が話すことを要約するとご近所さんは4時ごろに家の前に車が止まっていたのをみたらしい。田舎町だとよく見る白い普通の車。生憎その奥様方には車種はわからなかったらしいが、軽自動車かファミリー向けのボックスカーが多いこの地帯では営業車として行きかうものくらいしか見ることはない。よそ者の犯行だと思われる。続いて姉のメール、父はすぐに帰宅するらしい。あと、獣医さんは病院を閉めてこちらに向かっている。父は帰宅前だし、母はテンパってるし、姉が震える声で話していたせいか、僕と一緒に警察に行ってくれるらしい。大人がいてくれるだけでだいぶ心強い。ついでに近所の犬好きの皆さんの家に電話をかけて情報収集の協力を頼んだらしい。犬好きの皆さんをなめてはいけない。ご近所中のわんちゃんと飼い主を記憶しており、すぐに特徴を挙げられる。体調や性格なんかも知っており、いつもバジルは母と散歩しているのをみているせいか、僕が珍しくバジルの散歩をしていると「あら、バジルちゃん。今日はお兄ちゃんとお散歩なのね、よかったわね。お兄さん、もうちょっとゆっくり歩いてあげて。いつもより早いみたいで疲れているわよ」なんて言って来る。一瞬でバジルと判断できる犬好きの皆さんは、きっとバジルが家族以外と一緒にいたら気付いてくれるはずだ。
「小島さん!!」
警察署前で携帯に届いた情報を整理していると獣医さんがやってきた。
「佐久間さんがバジル君を連れて行った男をみたそうです!」
佐久間さんはご近所でも一際犬好きと知られるおばさんである。近所中のわんちゃんを集めて一斉に予防接種を受けるための手続きをボランティアでしてくれている。犬を飼っていて佐久間さんを知らないご近所さんは絶対にいない。
「どんな男だと?」
「どんなというかコーギーのももちゃんの飼い主さんだそうです。ももちゃんは隣の市の高坂さんの犬です」
隣の市だと?よそ者だとは思っていたがこんなに近かったなんて。というか佐久間さんよく知っていたな。そんなことを思っているのが顔に出ていたらしい。
「佐久間さんはご近所だけでなく、病院であったわんちゃんも全部覚えていらっしゃるんですよ」
佐久間さんちには足を向けて寝られない。とりあえず病院につれていく犬を飼っている人に誘拐されたということで、変な機関だとか変な研究機関だとかではないだけほっとする。早く助け出してやりたいが、酷い目にはそこまであってないはずだと希望が持てた。
「警察は後回しにしましょう。組織的な犯罪でないのであればバジルが話せることを伝える必要はありません」
僕は獣医さんの案内で高坂家に向かう。家族にも連絡を入れたら自分達も向かうと返答された。気が動転している家族である。車でくるなとだけ伝える。車でこないせいか高坂家についたのは僕達が先であった。高坂家のベルを押す。返事がない。
「バジル!バジル!」
高坂家の庭に無断で立ち入りバジルの名を叫ぶ。
「こうたろー!ここだよー!」
バジルの声がした。ガラス窓から声がしたが生憎窓ガラスを破壊するほどの度胸が僕にはなかった。玄関に回ったり裏口にまわったりしたがあいていなかった。僕はバジルの声がした窓ガラスを叩く。
「バジル!!バジル!!」
「はーい、こーたろーこれないのー?」
バジルの声は暢気だった。少し冷静になった。獣医さんは携帯電話で誰かと話している。
「バジル、どうしてこんなところにいるんだ」
「ももちゃんがね、なにかいってるからって。ももちゃんのぱぱが、ぼくに"あるばいと"してって」
「はぁ?アルバイトって翻訳の?」
「うん、そう」
なんてこった。僕が以前心配したようにバジルは餌に釣られて誘拐されていたのだった。
その時、しめられていたガラスドアが開いた。
「すみません。本当にすみません。少しだけほんの少しだけバジル君をお借りしました。ちゃんとお家までお返しするつもりでした。本当に申し訳ない。あと少しもう少しとこんな時間まで」
高坂氏は禿げた頭をこれでもかと僕に向けながら謝ってきた。
「一体どうしたっていうんです?とりあえずバジルは返してもらいます」
中型犬でなかなか重いバジルがドアの隙間から顔を出していたのでそのまま抱き寄せる。
「あるばいとだよー」
「バジルは少し黙ってて。高坂さん、誘拐ですよ。バジルはうちの家族です」
「実は…」
高坂さんの飼い犬、ももちゃんは先日動物病院で避妊手術を受けていた。高坂さんがももちゃんを迎えに行ったとき、動物病院ではバジルの話題で盛り上がっていたらしい。丁度バジルが検査に行った日のことである。なんでも人間のようにおしゃべりが出来る犬がいて、病院にいた動物達はバジルとおしゃべりをして病院での恐怖をまぎらわしていた、と。半信半疑であったが高坂さんも愛犬家である。お前もおしゃべりできたらなぁと、ももちゃんを抱きながら話題にのると、病院のスタッフがももちゃんもバジル君とお話しましたよ、と話したらしい。薬嫌いのももちゃんが痛み止めの白い錠剤を残さず食べるのをみた高坂さんはそんなに流暢じゃなくとも、ももちゃんに薬を飲むように言ってくれたんだろうなとバジルに感謝をした。
しかし、退院してから幾日が経つがももちゃんの体調は思わしくなかった。ご飯を残すようになり、大好きだった散歩も行かず部屋でずっと寝ているようになった。薬はちゃんととるのにご飯を食べない。病院に問い合わせたが、避妊手術のあとはよく起きることであると説明された。解決策もなく、元気がなくなったももちゃんをみていた高坂さんは一体ももちゃんに何がしてやれるのかと思い悩むようになる。そしてバジルなら、バジルならももちゃんの何が苦しくてどうしてほしいかを聞いてくれるのではないかと思ったそうだ。
「しかしですね、いくらなんでもうちに相談なくバジルを連れ出すなんて犯罪じゃないですか」
「ええ、一秒でも早くと思ってお伺いしたのですが生憎留守で。そしたら窓からバジル君が顔をだしてくれまして付いてきてくれると。ご家族が心配するだろうと思いましたが気持ちが逸り、メモだけ書いて連れてきてしまったんです」
「めも?」
「ええ、バジル君が協力してくれるというので少しの間うちで預からせてくださいと。メモの住所をみてお迎えにきたのでは?」
「すみません。うちの家族はそれどころじゃなくパニックでして、メモ、誰も見つけていません。ちなみにどこにメモを?」
「ポストの中に。玄関は開いていたのですが勝手にお邪魔するのも悪いので私は扉を開けただけで、あとはメモを車で書いてポストの中にいれました」
最初から犯人は名乗っていたらしい。高坂さんが悪いのは確かなのだけれども、なんだか自分達の慌てっぷりが恥ずかしくなってきた。
「バジル、メモなんかで勝手に出かけちゃダメだ。何処かに出かけるときは誰かと一緒に行くように」
「こーたろーもひとりでおでかけしてるよ。ぼくもできるよ」
「それでもだ。母さんがバジルがいないって泣いてたぞ。ねぇちゃんも泣きそうだった。父さんも大慌てでバジルを探しているんだぞ」
「でもみんなもおでかけしてるよ」
「みんな出かける前にどこに行くかを言っていってきますって言うだろ?バジルは誰にもいってきますをしなかったんだ。だからみんな心配したんだ」
「いってきますっていったらいいの?」
「いってらっしゃいって言われたらな。いってらっしゃいが無い時は行っちゃいけないときなんだ。だからみんな言うんだよ」
「わかったー。いってきますといってらっしゃい。だいじ。おぼえた」
バジルの頭を撫でてやる。その後、家族も到着し、高坂さんは同じ説明を行った。高坂さんは謝りっぱなしで、獣医さんは迂闊に話題にしてしまったと謝る。正直、近所中でバジルはおしゃべりをしていたからすぐに家がわかったのである。獣医さんだけの責任ではない。それと、母は家の鍵を締めずに出かけたのが悪い。
バジルは父さんに滅茶苦茶怒られた。母を悲しませるのは雄として最低であると言われてへこんでいる。姉はバジルに軽く注意をしたが、無事でよかったとこねくり回してバジルの頭の毛を逆立てさせている。へこんでいるが頭を撫でられて隠し通せない尻尾が元気に振られている。母は本当によかったと繰り返しバジルのご飯を大盛りにしようとした。父はそれを見て母に教育に悪いとストップをかけた。今度は母がへこみバジルはそれをなぐさめている。僕は先に言いたいことを言ったせいかこれらのことに関わっていない。なんでだ。
「なぁバジル。なんでバジルはアルバイトをしようと思ったんだ?」
「ほんやく、みんなえらいってほめた。なんこつ、おいしかった。みんな、ぼく、えらいえらいってほめた。びょういんのとき、みんなえらいっていった。またえらいほしかった。ぼく、えらいほしかった」
どうやらバジルは動物病院で褒められたことがよっぽど嬉しかったらしい。餌に釣られた節もあるが、家族が褒めすぎたので味を占めたらしい。なんとなく家族全員が申し訳なさそうに肩をすくめた。
それからもバジルは近所のスターとしてあり続けた。誘拐事件でこりたのか散歩以外の時間も出かけたいときは、誰に会いたいとか母に連れて行ってとせがむようになった。
元のようではないが落ち着いたももちゃんに会いに高坂さんの家に遊びに行ったりするようにもなったし、佐久間さんがボランティアをしている恒例の定期予防接種で誘導係りの"あるばいと"もするようになった。動物病院にもたまに呼ばれていてお駄賃の鳥の軟骨を食べるときには自慢げである。
しゃべる犬として世間では一風変わった存在になってしまったが、バジルは小島家の末の弟として元気に日々を送っている。
・犬は家族の中で自分の序列を下から二番目だと思い込むことが多いです。家族は一番下の末弟だと思っていますが。
・家族序列で一番下だとみなした弟や妹に対して対抗心を持ち、自尊心を守ろうとします。
・ラムのジャーキーも鳥の軟骨も存在します。変り種で言うと鳥の鶏冠のドライフードもあります。そして魚も食べます。家で飼っていた犬は納豆も食べました。果物と魚を愛する愛犬は出汁の出た調味料抜きの煮物が大好きでした。
・避妊手術のあと、性格が大人しくなることは良くあるそうです。ホルモンバランスが変わるので性格や趣向がかわることは珍しくないとのことです。
・最後に仮名佐久間さん、そして愛犬ミントに12年の感謝と愛をこめて。