第一章 星の消えた夜 二〇二六年十月十二日、午後十一時四十七分。
第一章 星の消えた夜
二〇二六年十月十二日、午後十一時四十七分。
東京。
夜空には、無数の星が輝いていた。
少なくとも、誰もがそう思っていた。
黒瀬零は、コンビニの袋を片手に、人気のない歩道を歩いていた。袋の中身は、賞味期限が近くなって値引きされた弁当と、安い缶コーヒー。それが、彼のいつもの夕食だった。
十八歳。
高校を卒業してから半年。大学へ進む余裕もなく、アルバイトを掛け持ちしながら、東京の片隅にある古びたアパートで一人暮らしをしている。
両親は、三年前の交通事故で亡くなった。
それ以来、零の人生から特別なものは消えていた。
夢も、希望も、未来への期待も。
だからだろうか。
彼は、夜空を見上げることが好きだった。
星だけは、何も尋ねてこない。
何も要求しない。
ただ、遠い場所で輝いている。
「……明日も仕事か」
零は小さく息を吐いた。
そのときだった。
視界の端で、一つの星が消えた。
「ん?」
雲に隠れたのかと思った。
しかし、空には雲一つない。
零は足を止め、もう一度その場所を見つめた。
二つ目。
三つ目。
星が、消えていく。
流れ星ではない。光が弱まっているわけでもない。
まるで、誰かが夜空から星を一つずつ摘み取り、どこかへ持ち去っているかのようだった。
「……なんだ、これ」
その瞬間、街の音が消えた。
走行中の車も、遠くの電車も、信号機の電子音も。
世界から、音という概念だけが切り取られた。
零は反射的にスマートフォンを取り出した。
画面には、緊急速報の通知が表示されていた。
『気象庁よりお知らせ――現在、全国各地で原因不明の天体現象が観測されています。屋外にいる方は、速やかに屋内へ避難してください』
続いて、画面が激しく点滅した。
通知が一つ増える。
さらに、もう一つ。
そして、すべての文字が消えた。
黒い画面の中央に、見覚えのない一文だけが浮かび上がる。
『観測を開始します』
「……誰が?」
問いかけた直後。
頭上で、最後の星が消えた。
世界が、暗闇に沈んだ。
*
午後十一時五十九分。
東京だけではなかった。
世界各地で、同じ現象が発生していた。
ニューヨークでは、タイムズスクエアの大型ビジョンが一斉に停止した。
ロンドンでは、時計台の針が動きを止めた。
ロシアのモスクワでは、赤の広場に集まっていた人々が、夜空を見上げたまま動けなくなっていた。
そして、世界中の観測施設が、同じ異常な数値を記録していた。
星の数――ゼロ。
だが、望遠鏡の故障ではない。
星が見えなくなったのでもない。
そこに存在していたはずの星々が、観測上だけでなく、宇宙そのものから消失していた。
天文学者たちは理解できなかった。
何万光年、何億光年という距離を隔てた天体が、どうして同時に消えるのか。
そもそも、星が消えたことを、なぜ世界中の機器が同時に認識できるのか。
答えを知る者は、一人もいなかった。
ただ一つ。
世界中の人間が気づいていないことがあった。
星が消えたのではない。
星の向こう側にあったものが、初めて人類を見たのだ。
*
零は、歩道の真ん中に立ち尽くしていた。
スマートフォンは反応しない。
街灯も、建物の窓も、すべての光が失われている。
それなのに、彼には見えていた。
空が。
いや、空の向こう側が。
黒い天蓋の中央に、巨大な円形の亀裂が開いていた。
その向こうには、星も銀河もなかった。
代わりに、無数の白い線が交差している。
まるで、世界全体が透明な箱の中に閉じ込められているようだった。
そして、その箱の外側から。
何かが覗いていた。
零の背筋に、冷たいものが走った。
それは目だった。
人間の目とは違う。
瞳も、虹彩も、まぶたもない。
ただ、白く巨大な円が、暗闇の中に浮かんでいた。
それが零を見つめていた。
いや。
正確には、世界中を見ていた。
その視線が、ゆっくりと零の方へ向く。
瞬間、彼の頭の中に無数の映像が流れ込んできた。
見たことのない都市。
空から降る黒い雨。
人間の皮膚を破って現れる角。
何十もの腕を持つ、巨大な怪物。
光をまとった翼を広げながら、泣いている何者か。
そして、玉座の上に座る、顔のない神。
すべてが一瞬で消えた。
「――っ!」
零は膝をついた。
頭が割れそうだった。
吐き気がする。
呼吸ができない。
それでも、彼の目は空から離れなかった。
巨大な白い円の中心に、細い黒線が走った。
まるで、目が笑ったかのように。
『見つけた』
声が聞こえた。
耳からではない。
脳の奥でもない。
自分の存在そのものに、直接刻み込まれるような声だった。
『まだ、ここにいたのか』
「……誰だ、お前は」
零は震える声で尋ねた。
返事はなかった。
代わりに、視界の隅に奇妙な文字が浮かび上がった。
それは日本語でも、英語でも、彼の知るどの言語でもなかった。
なのに、意味だけは理解できた。
――観測対象を確認。
――適合率、測定不能。
――異常個体を発見。
――記録を開始します。
零は息を呑んだ。
最後の一行が表示された瞬間、白い目の奥で何かが動いた。
そして、空に浮かぶ無数の白い線が、一斉に彼へと伸びてきた。
「やめろ……!」
零は逃げようとした。
しかし、足が動かない。
線が体に触れる寸前。
胸の奥で、何かが目を覚ました。
心臓の鼓動が止まる。
世界が、完全に静止した。
飛び散る小石も。
空中を漂う埃も。
遠くの道路を走っていた車も。
すべてが動きを止めた。
零の目の前に、一つの黒い星が浮かんでいた。
星というより、光を吸い込む穴に近かった。
その表面には、銀色の細い亀裂が走っている。
零は直感した。
これに触れてはいけない。
触れれば、何かが終わる。
だが、同時に理解していた。
これに触れなければ、自分はここで終わる。
彼は、ゆっくりと手を伸ばした。
指先が黒い星に触れる。
その瞬間。
星が、彼の手の中へ沈み込んだ。
痛みはなかった。
ただ、胸の奥に、底の見えない夜が広がった。
そして、世界が動き出した。
*
午前零時。
零は、路上に倒れていた。
空には、再び星が輝いていた。
車の音が戻り、信号機が点滅し、遠くから誰かの叫び声が聞こえる。
まるで、先ほどの出来事など存在しなかったかのように。
零はゆっくりと起き上がった。
「……夢?」
そう呟いたとき、スマートフォンが震えた。
画面には、ニュース速報が表示されていた。
『世界各地で発生した天体異常、原因は依然不明』
『各国政府、緊急合同会議を開催へ』
『複数の地域で原因不明の停電と集団意識障害を確認』
零は画面を見つめた。
夢ではなかった。
あの目も。
あの声も。
そして、胸の奥に沈んだ黒い星も。
すべて現実だった。
彼は自分の手を見下ろした。
右手のひらに、黒い円が浮かび上がっている。
その中心には、針のように細い銀色の亀裂が一本。
零がそれを見つめた瞬間、視界が歪んだ。
目の前に、半透明の文字が現れる。
今度は、はっきりと読めた。
【固有能力:未登録】
【観測権限:第一階位】
【警告:あなたはすでに観測されています】
零は動けなかった。
最後の一文が、何度も頭の中で繰り返される。
あなたはすでに観測されています。
そのとき、背後から声がした。
「――やっと見つけた」
零は振り返った。
街灯の下に、黒いコートを着た男が立っていた。
年齢は三十代ほど。
顔の半分は影に隠れている。
男の手には、銀色の懐中時計が握られていた。
時計の針は、逆方向へ回っていた。
「黒瀬零。十八歳。家族なし。特異な経歴もなし。これまでの観測記録では、完全に一般人だった」
男は淡々と告げた。
「それが今夜、星の消失と同時に未登録の権限を獲得した」
「……誰だ、お前」
男は答える代わりに、懐中時計を閉じた。
カチリ。
その音だけが、不自然なほど鮮明に響いた。
「質問はあとだ。今すぐここを離れるぞ」
「断る。説明しろ」
男の表情が初めて変わった。
彼は零の背後に目を向けた。
「……遅かったか」
零も振り返った。
歩道の向こう側。
街灯の光が届かない暗がりに、人影が立っていた。
人間の形をしている。
だが、頭部には二本の黒い角が生えていた。
腕は異様に長く、関節はあり得ない方向へ曲がっている。
顔には、目も鼻もなかった。
ただ、口だけがあった。
耳まで裂けた口が、ゆっくりと開く。
「ミツケタ」
それは、人間の声を真似ていた。
「ホシノ……ニオイ」
零の手のひらに、焼けるような痛みが走った。
黒い円が脈打つ。
視界に、新しい文字が浮かび上がった。
【対象を確認】
【分類:異形種】
【危険度:測定不能】
【推奨行動:逃走】
男が舌打ちした。
「初覚醒で異形種に遭遇するとはな。運が悪いにもほどがある」
「異形種……?」
「説明は生き残ってからだ!」
男が懐中時計を開いた。
その瞬間、周囲の空間が歪んだ。
しかし、異形は動かなかった。
ただ、零を見つめている。
目のない顔で。
まるで、彼の中にある何かを探しているように。
そして、異形の口が再び開いた。
「カエセ」
その声を聞いた瞬間、零の胸の奥で黒い星が震えた。
異形が、一歩踏み出す。
「ソレハ……オマエノモノジャナイ」
零は理解した。
こいつは、自分を殺しに来たのではない。
自分の中にある何かを、取り戻しに来たのだ。
男が叫んだ。
「黒瀬零! 目を閉じろ!」
だが、零は従わなかった。
彼は異形を見つめ返した。
その瞬間、世界が再び静止した。
零の視界に、異形の体を覆う無数の線が現れる。
頭部。
首。
胸部。
腹部。
それぞれの線の奥に、黒い文字が浮かんでいた。
零には読めないはずの文字だった。
それなのに、その意味が理解できた。
――存在の綻び。
――観測の死角。
――消去可能。
零の唇が、無意識に動いた。
「……見つけた」
異形の体に、銀色の亀裂が走った。
次の瞬間。
その左腕が、音もなく消失した。
血は流れなかった。
悲鳴もなかった。
ただ、そこに存在していたはずの腕が、最初からなかったかのように消えていた。
零は息を呑んだ。
自分が何をしたのか、理解できなかった。
異形が初めて後ずさった。
男もまた、信じられないものを見るように零を見つめていた。
「まさか……存在の綻びを直接観測したのか?」
その声には、恐怖が混じっていた。
零の視界が暗くなる。
最後に見えたのは、異形の顔だった。
目のない顔の中央に、白い光が一つ浮かび上がっていた。
それは、あの夜空の目と同じ光だった。
そして、零の意識が途切れる直前。
どこからともなく、あの声が聞こえた。
『第一の星を確認』
『観測者の器、起動』
『――これより、記録を再開する』
*
同じ時刻。
地球から遥か遠く。
人類の観測機器が到達できない、現実の外側。
そこには、無数の黒い星が浮かんでいた。
その一つに、銀色の亀裂が走った。
黒い星の前に、白い仮面をつけた存在が立っていた。
「目覚めたか」
仮面の奥から、低い声が響く。
「だが、まだ早い。彼が真実を知るには、あまりにも多くのものが欠けている」
存在は、亀裂の入った星に手を伸ばした。
すると、星の表面に一つの文字が浮かび上がった。
――零。
白い仮面の存在は、しばらくそれを見つめていた。
やがて、静かに呟いた。
「今度こそ、彼を神にしてはならない」
その言葉と同時に、背後に広がる無限の闇で、無数の目が一斉に開いた。
そして、世界のどこにも存在しない鐘の音が鳴り響いた。
第一の星が、喰われた。
観測は、始まったばかりだった。




