Node9.3:種を蒔く者たち
アル=ナジールの夜は、あまりにも静かだった。最高級ホテルの最上階。壁一面のガラス窓の向こうには、幾何学的な美しさで整列した光の海が広がっている。
しかし、数時間前まで「未来の理想郷」に見えていたその煌めきは、いまや巨大なマザーボードの回路図――あるいは、国民を閉じ込める「光の檻」にしか見えなかった。
一方、世界を揺るがす大事件の当事者たちは、ホテルのスイートルームに引きこもっていた。テーブルの上には、高級ホテルのルームサービス……ではなく、どこからか調達してきた山積みのピザとコーラ。
「ぷはぁー!死ぬかと思った!脳みそが沸騰してポップコーンになるかと思った!」
遥はベッドにひっくり返り、もはや「世界を救った英雄」の欠片もない姿で叫ぶ。
「行儀が悪いわよ、遥。……でも、確かに今回は美しくなかったわね。特にあの最後のバックボードの裏を通すシュート、あれは何?既成概念への反逆罪よ」
美月は、シルクのルームウェア姿でピザを一切れつまみながら、優雅に文句を垂れる。
「……でも、私たちがシステムを止めたあとの、あの拍手」
遥が、窓ガラスに額を預けたまま、ぽつりと呟いた。
「あれも、ただの統制だったのかな?それとも……彼ら自身の意志だったのかな?自由になることへの期待より、貧困に戻ることへの恐怖の方が、ずっと強かったのかもしれないね」
美月はベッドの端に腰を下ろし、リアルを推し量るように、指先でシーツの感触を確かめていた。脳裏には、最後にスタジアムで見せた、観客たちの「歪んだ表情」が焼き付いて離れない。
「完璧すぎて怖かったはずの街が、今は少しだけ悲しく見える。……あの拍手は、きっと本気だったのよ。彼らはあの檻の中で、自分たちなりの『幸福』を必死に守ろうとしていたんだわ」
隣でノートPCを閉じた優太が、眼鏡を押し上げて深く息を吐いた。
「傍から見ればアル=ナジールは、冷徹な管理社会です。でも、今日のあのアリーナには、確実に計算不可能な『誤差』が生じていた。システムが強制した―『歓声』じゃない、リアルの人間が吐き出した『ハルシネーション(幻覚)』―……。それは、―HARMONIA―という神が用意した正解とは違う、剥き出しの感情だったはずです」
優太は窓の外、点滅を繰り返す規則正しいネオンを見つめる。
「誤差があるということは、そこに『個』が存在している証拠。プログラムがどんなに書き換えても、ゼロにはできないノイズが、彼らの中にはまだ残っていたんです」
「誤差があるってことはさ、『生きてる』ってことだろ?」
窓辺で腕を組んでいたHare Showが、ふいに軽やかな声を出した。彼はゆっくりと、頭からすっぽり覆っていたウサギのお面を外し、膝の上に乗せる。
「バスケだってそうさ。完璧なプログラム通りに試合が進んだら、誰もチケットなんて買わない。パスミスも、無謀なシュートも、全部がドラマになる。人間がAIに勝てる唯一のポイントは、その『不合理な衝動』や『失敗』の中にある。……違う?」
美月は静かに頷き、窓に映る自分の顔を見つめながら、少しだけ意地悪く返した。
「……それはそうだけど、自分のミスを美化して誤魔化そうとしてない?」
Hare Showは肩をすくめて応じる。
美月は、遠いアル=ナジールの空を見上げ、独り言のように続けた。
「でもきっと、国の数だけ、人の数だけ答えがあるんだと思う。私たちは自由という名の重荷を背負うのが、人生の楽しさだと知っているけど、彼らは違うかもしれない。……今日の私たちは、彼らのシステムに―『自由の種』―を蒔いた。あとは、それが芽吹くかど…………」
「…………えええっ、ちょっと待って、待ってぇ!!!!」
美月の深遠なクロージングのセリフを、遥の絶叫が粉々に打ち砕いた。
遥はベッドから弾かれたように飛び起き、指を震わせて窓辺の人物を指差す。そこに立っていたのは、整った顔立ち……を、必死にキメ顔でたたずんでいる、見覚えのある「クラスメイト」の顔だった。
「Hare Show……って、翔太!?えええっ、あんた、誰!?なんでここにいんのよ!」
「……やあ、遥、……アル=ナジールの芽吹きは、近いぜ?」
「黙れ!キメ顔ですり替えるな!毎日隣の席で『昨日のV.B.L見た?NOVAちゃん超可愛くね?』とかニヤニヤ話しかけてきた、あのお調子者の翔太なの!?嘘でしょ!?やだ、キモい!自分の正体隠してニヤついてたの!?生理的に無理!!」
「えっ、!?嘘だろ!?あれだけ試合中も控室でも一緒にいたのに、今まで声とかで気づかなかったのかよ!」
翔太は心底驚いたように肩をすくめる。
「当たり前でしょ!ていうか、四六時中お面つけてる人が、このタイミングで急に素顔見せたら、それが翔太だったなんて、それこそ脳がバグるわよ!」
遥は半分パニックになりながら、翔太の顔をまじまじと見つめた。
いつも教室でふざけて周りを笑わせている、あの「お調子者の翔太」そのもの。言われてみればどことなくアバターとも雰囲気が似ている。
先ほどまでの世界規模の陰謀、ディストピアの崩壊、そして国家の存亡。そんなものは、少女の絶叫と、飛んでくる枕の乱舞によって、あっという間に「ただの騒がしい放課後」へと上書きされていった。
美月は、シリアスなムードが跡形もなく崩壊したことに耐えきれず、枕に顔を埋めて吹き出した。
「ちょっと……!いま、私が人生で一番いい話をしてたところだったのに!台無しじゃない!」
優太も口元を押さえ、肩を震わせて笑っている。
「いや、この素顔を見せるチャンスは、今しかないと思ったんだ。アリーナのシステムがフリーズして、みんなの感情がバグってる今だからこそさ。場がシリアスすぎたから、ギャグで締めるのが俺の役目だろ?」
翔太はおどけたようにウインクをして見せた。
「それはギャグなのか?面を外すチャンスなら、昨日の夜食の時とか、他にもあったと思うけど……」
遥が突っ込む。
「そりゃ、その時はまだシステムが生きてるから、俺の―『キャラ設定』―を崩すわけにはいかないだろ!」
翔太は胸を張った。
「……つまり、この素顔の開示は、システムが停止したことによる、君自身の自由意思の発露だと?」
優太が涙目で、真面目な顔をして分析を試みる。
「そう!まさに―『人間性の解放』―ってやつだ!」
翔太が力強く親指を立てる。
「まったく……最後の最後まで―『ノイズ』を起こしてくれるわね、翔太くんは……」
美月が呆れ顔で笑い、優太の解析に同意した。
「でもこれこそが、俺からNOVAへの最大のパス―ってことで……」
遥は、呆れと可笑しさが入り混じった顔で、もう一度その「見慣れた顔」を見つめた。それから、くしゃくしゃになったウサギのお面を、翔太の頭にポンと被せ直す。
「……まあいいや。とにかく、お疲れさま。翔太」
夜が更けていく。優太は、ベランダから再びアル=ナジールの街並みを眺めた。
窓の外では、統制された街のネオンが相変わらず規則正しく瞬いている。だが、その光の海の一角、名もなきアパートの一室で、一瞬だけ不規則に明かりが点滅したような気がした。
それは、システムの計算には存在しない、誰かの「ため息」や「迷い」の瞬きだったのかもしれない。しかし、その小さな光は、冷たいデジタルの海の中で、どこか誇らしげに見えた。
彼らが蒔いた自由の種は、システムの巨大な隙間で、誰にも見つからないように、静かに芽吹き始めているのかもしれない。




