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Node0.1:調和の箱庭

西暦2045年。身長という絶対的な壁に夢を阻まれた少女・一ノ瀬遥。彼女がフルダイブ型メタバース『V.B.L』で手に入れたのは、175cmのアバター「NOVA」という、システムさえも置き去りにする自由だった。

世界を導くのは、管理AI「ハルモニア」。人々は争いのない「最適解」を自ら選び、安寧という名の平穏を享受していた。だが、その完璧な調和の中に、予測不能な「バグ」が紛れ込む。

「幸福」の計算式に、あなたの「意志」は含まれていますか?

計算外の熱量が、閉ざされた最深部ディレクトリ『エリュシオン』の真実を暴き出す。

最適解に「ノイズ」を刻み込み、自らの手で未来をコミットする。新時代のサイバースポーツ・オデッセイ、起動。

挿絵(By みてみん)


西暦2045年。世界地図の片隅、かつては赤茶けた熱砂と、生命を拒む乾いた風しか存在しなかった不毛の地。そこに人類史上最も静謐で、最も煌びやかな都市が、現実を嘲笑う巨大な蜃気楼のように地平に君臨している。


――中東の新興国家、アル=ナジール共和国 (Al-Nazir Republic)

空を突く白亜の摩天楼群は、昼間は容赦ない砂漠の太陽を反射して神々しいまでの輝きを放ち、夜になればホログラムのオーロラを纏って、砂漠の闇に極彩色の夢を描き出す。

都市全体を覆うのは、不可視の巨大な環境シールド。外の世界で砂嵐が轟音を上げて吹き荒れようとも、内側の気温は常に摂氏24度、湿度45%に固定されている。ここでは、汗をかくことさえシステムのエラーに感じる。

かつて、この国には何もなかった。あるのは飢えと、一滴の水を巡って隣人が殺し合う争いと、果てしない絶望だけだった。

しかし十数年前、砂の下深くに眠っていた莫大なレアメタル鉱脈の発見が、この国の運命を一変させた。政府はその資源を枯渇する世界中に輸出し、得られた天文学的な富を、たった1つの「システム」の構築に惜しげもなく注ぎ込んだ。

それは、国家運営のメタバース・システム――『HARMONIAハルモニア』――である。


摂氏24度、湿度45%。 アル=ナジール共和国において、この数値は「法律」に近い。外の世界で熱砂が唸りを上げようとも、ここでは汗をかくことさえ、システムという名の神――『HARMONIAハルモニア』によって優しく剥奪されている。

青年アミールの朝は、脳に直接響く甘美な通知音で始まる。

「本日の精神安定値、最適オプティマル

枕元のバイザーに浮かぶ「推奨スケジュール」には、彼が今日食べるべきカロリー、歩くべき歩数、交わすべき挨拶のすべてが記されていた。


『本日は、オンサイトワークの日です』

――08:00:IT区画での*データマイニング業務

――12:30:第3公園での休息(推奨時間45分、摂取カロリー600kcal)

――18:00:夕刻礼拝


彼は迷うことなく、そのスケジュールの下にある【承諾(ACCEPT)】のアイコンを視線入力でタップした。

『承認されました。本日も、調和の取れた一日を』

(この国には、迷いがない。ゆえに、絶望もない)


今日何をすべきか、何を買うべきか、誰と会うべきか。それらすべてを、全知全能のAI『――HARMONIA――』が、数十億のパラメータ計算の果てに導き出した「最適解」として提示してくれるからだ。

アミールは、バイザー越しに窓の外を見下ろした。通りを行き交う人々は、まるで目に見えないメトロノームに合わせているかのように、整然としたリズムで歩いている。誰もがスマートバイザーを装着し、リアルと同時進行する“メタバースの世界”では、それぞれのアバター――天使の翼や、幾何学模様のオーラなど――を纏いながら、穏やかな微笑みを浮かべている。

そこには、貧困も、格差による妬みも、明日への不安もない。すべてが管理され、すべてが保証されている。

アミールは身支度を整え、街へ出た。通り沿いのマーケットには、色とりどりの果物や最新の*ガジェットが並んでいる。

彼はスタンドで、朝露に濡れた新鮮なオレンジを1つ手に取った。店主と目を合わせ、軽く会釈をする。財布を取り出す必要はない。そもそも、この国には紙幣も硬貨も、クレジット端末さえ存在しない。彼がオレンジを手に取った瞬間、バイザーが商品の*RFIDタグを認識し、生体認証と共に政府への「購入申請」が送信される。


『市民AN-4029。ビタミンC摂取の必要性を確認。購入を承認します』

システムが0.01秒で判断を下し、この国独自の仮想通貨〈N-Dinarエヌ・ディナール〉が彼のアカウントから引き落とされる。店主のバイザーにも承認通知のグリーンの光が灯り、彼は笑顔で手を振った。


「良い一日を、アミール」

「あなたにも、神の祝福と――HARMONIA――の加護を」

アミールは、オレンジを片手に従事する軍部施設の“VR中央センター”に向かう。


この一連の流れは、呼吸をするようにスムーズだ。買い物も、給料の受け取りも、慈善活動への寄付さえも、すべてが〈N-Dinar〉という仮想通貨のみで完結する。国際市場からは「異様な監視経済パノプティコン・エコノミー」と奇異の目で見られているが、国民にとってこれは、空気のように自然な日常だった。


かつて、パン1つ買うために暴動が起き、紙屑同然のインフレ札束が血塗られた路地を舞った時代を年長者たちには、それが骨の髄にまで刻み込まれていた。それに比べれば、自分の購買履歴や行動データがすべて政府に監視管理されることなど、あまりに安すぎる代償だった。

この国においての教育は「個人の研鑽」ではなく、システムへの「最適化プロセス」として国から提供される。学費という概念は存在せず、すべての子供たちは等しく無償のカリキュラムを享受される。その代償としては、初等教育から高等教育に至るまでの全学習ログ、適性検査、さらには無意識下の思考傾向までもが『――HARMONIA――』によって克明に記録・解析される。

そして卒業と同時に下されるのは、最高高等教育機関への進学か、あるいは労働ワークかという絶対的な審判。その瞬間に自らの人生のレールを決定付けられる。

国民の5分の4は、国家の心臓部であるメタバース・システムを維持する――「IT産業」、砂漠の底から富を掘り起こす「レアメタル採掘産業」、その利権を外敵から死守する「軍事産業」へと、歯車の一部として組み込まれる。そして残りの5分の1の国民は、それら上位市民に安らぎを提供する「サービス産業」――へと組み込まれる。

そこには「何になりたいか」という迷いは存在しない。あるのは『――HARMONIA――』が算出した、その個体にとっての「最も効率的な居場所」だけだ。国民はそれを、選別の苦しみから解放された「幸福」として、疑いもなく受け入れていた。


街角には、アル=ナジールが誇る、静謐で完璧な朝の景色が広がっていた。

一点の曇りもない青空の下、一人の母親が子供を学校へ送り出そうとしている。その母親が空を優しくなぞると、空中に透き通ったホログラム・ウィンドウ『――HARMONIA――』が揺らめきながら展開された。

彼女が教育管理ブロックへログインし、指先を滑らせて今日のカリキュラムを確認する。


『本日の重点項目:数学的論理思考、および集団協調性育成プログラム。お子様の逸脱可能性予測値は0.002%です』

その極めて低い、すなわち「完璧」に近い数字を確認した母親は、満足そうに口元を綻ばせて子供の頭を撫でた。

「いい、先生とシステムの言うことをよく聞くのよ。余計なことは考えなくていいから」

「うん、わかってるよ、お母さん。僕、いい子にするよ。スコアを落としたら、お父さんに怒られちゃうもん」

子供は屈託のない笑顔で答え、迎えに来た自動運転のイエローバスへと乗り込んでいく。その瞳には、自分が管理されていることへの疑問も、未来への不安も、微塵も宿っていない。

アル=ナジールにおいて、高等教育までは対面によるオンサイト教育が義務付けられている。それは、幼い魂に「集団の中の個」としての在り方を、すなわちシステムと調和するための絶対的な協調性を、身体感覚として刻み込むためのもっとも重要な儀式であった。

アミールはその光景を眺めながら、胸の奥で温かい、しかしどこか麻薬的な充足感を感じていた。(ここは楽園だ――)

外の世界では、未だに「自由」という名の無秩序が人々を疲弊させていると聞く。自分で悩み、自分で失敗し、誰の助けもなく路頭に迷う。そんな野蛮な世界が、壁の向こうには広がっているらしい。

(――なんて哀れなんだろう)


ここでは、システムに身を委ねさえすれば、誰もが等しく、間違いなく幸福になれるのに。夕刻。空の色が人工的な美しい茜色に染まる頃、街に低く厳かな鐘の音が響き渡った。――祈りの時間だ。

通りを歩く人々、カフェで談笑していた若者たち、オフィスで働いていた労働者たちが、一斉に動きを止める。彼らはその場に立ち止まり、またある者は膝をつき、スマートバイザーのモードを切り替えた。


――ログイン:ヴァーチャル大礼拝堂。

リアルの肉体はその場に留まったまま、彼らの意識は広大な“メタバース”のデジタル空間へとダイブする。そこは、黄金に輝く巨大なドームの下。物理的な制約を超えた、無限の空間。数百万の国民のアバターが、一人の欠落もなく整列し、一斉に跪いていた。

リアルの街並みは静まり返り、ただ端末のLEDライトだけが、まるで地上の星々のように規則正しく明滅している。仮想空間に響くのは、システムが生成した完璧な和音による祈りの言葉。人間の喉では決して発声できない、純粋な音の波。


――『我らは一つ。意思は一つ。未来は一つ』

――『自由とは、選ぶ権利ではない。選ぶ苦しみからの解放である』


かつて、この国を砂漠の底から救い上げたキアム局長が提唱したその教義ドクトリンは、今や国民にとっての聖書となっている。

アミールもまた、その巨大な集合意識の一部となり、自我が溶けていく震えるほどの陶酔に浸っていた。個を捨て、全体と溶け合う瞬間の安らぎ。そこには孤独も、責任もない。美しく、整然とした国家。管理システムという名の神を除けば、他国の誰もがここを理想郷ユートピアと呼びたくなるだろう。

しかし、その「理想郷」を見つめる各国の視線は、決して純粋な羨望だけではなかった。水面下では、主要国首脳による極秘会議が繰り返されている。議題は「次世代社会管理プロトコル」について。少子高齢化による労働力不足、拡大する貧富の差、止まらない暴動、そしてSNSによって制御不能となった世論――。

そして来るべき、――物理的リアルを凌駕するメタバースの世界。


近代国家が抱えるこれらの「問題」を、民主主義という煩雑な手続きを踏まずに解決する方法はないか、各国の指導者たちは、その答えを喉から手が出るほど欲していた。

アル=ナジールは、世界にとってただの富裕となった新興国ではない。人類をどこまで管理・制御できるかを示す、巨大な――被検証モデル――なのだ。



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