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婚約…延期?解消?破棄?

私のモノをなにもかも欲しがるような人なんて姉なんかじゃありません!!

作者: HIME-HIRO
掲載日:2026/04/27

欲しがり妹モノではないものを描いてみたくて……

 一点の曇りもなく磨き上げられた鏡の前に立つ少女は、静かに息を吐いた。


 パトリシア・ナイト、十六歳。


 白磁のように滑らかな肌に、淡く光を帯びた金の髪。整いすぎた顔立ちは、可憐というよりも――冷ややかな理性を感じさせる美しさを宿していた。


 本来ならば、今夜は彼女にとって特別な夜になるはずだった。


 デビュタント――

 社交界への正式なデビュー。


 婚約者にエスコートされ、満場の祝福を受け、未来への第一歩を踏み出す――そのはずの夜。


 だが……


 王家主催の夜会会場――


 華やかな音楽と笑い声が満ちる中、ひときわ落ち着いた存在感を放つ青年がいた。


「緊張しているか?」


 低く穏やかな声。


 デビット・ナイト、二十歳。


 長身で引き締まった体躯、濃い色の髪を後ろへ流し、理知的な瞳が印象的な青年だった。派手さはないが、静かな威圧感と安定感を併せ持つ、いかにも“家を継ぐ者”の風格。


「いいえ、まったく……」


 パトリシアは即答した。

 その声音に微塵の揺らぎも感じられない。


 緊張ではなく――すでに覚悟を終えた者の静けさだった。


「……そうか」


 短く応じるデビットの視線は、ほんのわずかに柔らいでいた。


 彼は知っている。

 この少女が、これまでどれほど理不尽を飲み込んできたかを。


 そして今日、その積み重ねが何かの形で表に出るであろうことも。


「行こう。主役は君だ」


 差し出された腕に、パトリシアは静かに手を添えた。


 本来そこにあるべきだった人物のことなど、もう思い出す必要もない。


◆ ◆ ◆



 三年前――――


 ナイト伯爵家の応接室は、過不足のない格式を備えていた。


 過度な華美は避けられ、だが質の高さは隠しようもない。

 壁に掛けられた絵画や調度品の一つ一つが、この家の歴史と財を静かに物語っている。


 その中央に、両家の人間が向かい合って座っていた。


「本日はお越しいただき、ありがとうございます。デボンズ伯爵」


 当主のエドワード・ナイトが穏やかな声音で口火を切る。


「いえ、こちらこそ。良きご縁に恵まれたこと、嬉しく思っております」


 形式的な挨拶が交わされる。

 そのやり取りは滞りなく、何の問題もないように進んでいった。


 ――ただ一人を除いて。


(……綺麗だ)


 シャイアック・デボンズは、完全に別のものを見ていた。

 視線の先にいるのは、当主の隣に立つ少女ではない。 


 そのさらに隣、控えるように立つ女性。

 

 落ち着いた佇まいと、柔らかな空気を纏ったその姿は、場の中で不思議な存在感を放っていた。


 艶やかに整えられた髪は光を柔らかく弾き、肩口にかかるその流れは無造作でありながら計算された美しさを持つ。顔立ちは整いすぎるほど均整が取れており、どの角度から見ても破綻がない。


 若すぎるわけではない。

 だが年齢を感じさせる要素が、どこにもない。


 そして何より――

 ふと目が合った、その瞬間。


「……ふふ」


 軽く、微笑まれた。

 それだけで、胸の奥が強く打つ。


(……なんだ、今のは)


 思考が、わずかに遅れる。

 その間にも、話は進んでいく。


「……こちらが娘のパトリシアです」


 隣に立つ少女の肩に軽く手をかけながら紹介するエドワードの声。


 だがシャイアックの意識は、すでに散っていた。


「あ……ああ、はい」


 視線を向ける。

 確かにそこに少女がいる。

 整った顔立ち。品のある立ち姿。

 だが――


(さっきの人の方が……)


 比較してしまった時点で、すべては決まっていた。


「パトリシア・ナイトと申します」


 丁寧な挨拶。

 だがその言葉は、彼の中にほとんど残らない。


「ええと……シャイアック・デボンズです」


 形だけの返答。

 その間にも、意識は逸れていく。


「そしてこちらが――」


 エドワードが続けてパトリシアの隣に立つ女性を紹介する。


「……マミーア・ナイト……」


 エドワード伯爵がなにか色々と喋っているようだか、シャイアックの耳には、女性の名前……


 ――マミーア――


 ……という麗しい響き以外ほとんど届いていなかった。

 いや、届いていたとしても――意味として処理されていなかった。


「はじめまして、シャイアック様」


 マミーアが前に出る。


 近い――

 距離が、自然と近い。

 その声も、仕草も、どこか柔らかく――無防備だった。


「……あ、はい」


 思わず姿勢を正す。

 胸の奥が落ち着かない。


(この人が……)


 何か特別な存在であるかのように感じる。

 理由は分からない――だが、そう感じてしまった。


「仲良くしてくれると嬉しいですわ」


 軽く首を傾げる。

 ただそれだけの仕草。

 それだけで。


(――この人だ)


 根拠のない確信が、生まれる。


 その瞬間――


 パトリシアとの婚約は、彼の中で意味を失っていた。


 その後の会話は、滞りなく進んだ。

 今回の婚約は、特別な政略を伴うものではなかったからだ。


 ナイト伯爵家とデボンズ伯爵家は隣接する領地を持つ家同士であり、以前から緩やかな交流を続けてきた関係にある。年頃の近い子息と令嬢がいることから、将来を見据えた縁組として話がまとまったに過ぎない。


 婚約後の流れも、あらかじめ定められていた。


 まずはパトリシアのデビュタントを経て社交界へ正式に披露され、その後およそ一年の準備期間を置いて結婚へと至る。


 シャイアックはデボンズ伯爵家の次男であるため、結婚後はナイト家へ婿入りすることが決まっていた。


 そして、ナイト伯爵家が保有する子爵位の一つと、それに付随する小規模な領地を譲り受け、夫婦でその地を治める――それが本来描かれていた将来像である。


 大きな野心や複雑な思惑はない。

 穏やかで、無難で、問題の起こりようもないはずの未来。


 ――少なくとも、表向きには。

 すべてが問題なく、円滑に。


 ただ一人を除いて――


「……シャイアック?」


 母の声に、彼はわずかに顔を上げる。


「ああ、すみません。少し考え事を……」


 取り繕うように笑う。


 だがその視線は、また無意識に逸れていく。


 マミーアの方へと――


 それを見ていたパトリシアは、静かに理解した。


(……ああ)


 ほんの短い時間。

 それだけで十分だった。


(この婚約は……成就しないかもしれない……)


 感情は動かない。

 怒りも、悲しみもない。


 ただ、事実として認識する――目の前の青年は、自分を見ていない。


 そしてこれからも――見ることはないだろう。


 それだけだった――


 この瞬間から。

 避けようのない喜劇が、静かに始まっていた。


◆ ◆ ◆


 ナイト家の中庭に面したサロンに差し込む午後の光は、柔らかく、穏やかだった。


 本来この時間は、婚約者同士の親睦を深めるために設けられたものだった。

 形式ばった場ではなく、互いを知るための気軽な交流――そのはずである。


 だが――

 いつの頃からか、その場には必ずもう一人が加わるようになっていた。


「ねえ、今日は何の話してるの?」


 軽やかな声とともに、マミーアがサロンへと姿を現す。

 遠慮も躊躇もない、あまりに自然な入り方だった。


 止める理由はない――

 だが、諸手を挙げて歓迎されているわけでもない。


 それでも彼女は当然のように席に加わり、空気の中心へと収まっていく。


 そして――


「……あうっ!……」


 右肩に手を当てて、マミーアが呟く。


「どうかされましたか? マミーア様」


 シャイアックがすぐに身を乗り出す。


 端正な顔立ちに浮かぶのは、過剰なほどの心配の色だった。 

 

「平気よ、ちょっと肩に張りがあっただけ…」


 あっけらかんと笑う。


 だがその言葉は、彼の中で別の意味を持って沈んだ。


(“張り”……?)


マミーアがティカップに手を伸ばしたその瞬間だった。


 わずかに肩が露わになる。


 ――その白い肌に、淡く残る青い痕が見えた。


「……っ」


 シャイアックの呼吸が、止まる。


 ほんの一瞬――


 だが、それは見間違いではなかった。

 薄く、だが確かに残る青痣。

 衣装の隙間から覗くそれは、隠しきれない“何か”の痕跡のように思えた。


(今のは……)


 視線を逸らそうとして、逸らせない。


 胸の奥で、何かが音を立てて湧き上がっていく。



 誤解は、さらに深まっていく。


「……くっ、痛っ……」


 ある日、マミーアがうめき声を上げ、ほんの一瞬顔をしかめる。


「どうしました!?」


 シャイアックが慌てて駆け寄る。


「大したことないのよ。さっきちょっとコケそうになって捻っただけ……」


 軽く足先を振って見せる。


 その横で、パトリシアは本を閉じただけだった。

 何も言わず、何も反応しない。


 その無関心さが、シャイアックの中で“冷酷さ”へとすり替わっていく


(まさか、日常的に……)


 断片が繋がる――

 痛み。無関心。沈黙。


 すべてが、自分の中の“真実”を裏付ける材料になる。


「……無理はなさらないでください」


 その言葉は、すでにパトリシアの婚約者ではなく、マミーアの救済者のそれだった。


「ありがと」


 マミーアは、ただ笑う。

 何も知らないまま。



 さらに別の日――


「マミーア様、昨夜はお休みになれましたか?少し顔色が……」


「……ええ、まあまあかしら。でも少し寝不足で……」


「やはり……!」


 シャイアックの表情が曇る。


「また、夜中に呼びつけられたのですか?」


「え……?」


 マミーアは一瞬、きょとんとした。

 だがすぐに、ふわりと笑う。


「……ああ、そういえばそんな話もしましたわね


 そうそう……前はよく夜中に起こされていたわね」


 その言葉だけを、彼は拾い上げた。


(やはり……!)


 確信は、さらに強固なものになる。


 真夜中でも呼び出され、眠ることも許されない生活。


 それは彼の中で、“苦境の中耐え忍ぶ悲劇の聖女”と呼ぶべき像へと変換されていった。


 彼の中で断片が、繋がっていく。

 肩の青痣…

 足首の捻り……

 そして昼夜を問わぬ酷使……


 すべてが一つの結論へと収束していく。


(間違いない……)


 彼の中で、それはもはや“推測”ではなかった。


 確信だった――


(あの少女は虐げられている――)


 ゆっくりと、視線を横へ向ける。

 少し離れた場所で、パトリシアが冷めた目を向けて静かに佇んでいる。


 感情の見えない横顔。

 何も語らず、何も主張しないその姿が――


(……許されざる罪を犯しておいて、あの態度か――)


 歪んだ認識を、さらに強固にする。


 沈黙は否定ではない。

 むしろ“隠している証拠”だと、彼は思い込んだ。


「どうかしました?」


 マミーアが、不思議そうに首を傾げた。


「……いえ」


 シャイアックは、ゆっくりと首を振る。

 だがその瞳には、もはや迷いはなかった。


(僕が――守らなければ……!!)


 その決意は、誰にも知られることなく。

 静かに、しかし決定的に、彼の中で固まった。


 

 ――シャイアック・デボンズは、一見すれば非の打ちどころのない青年だった。


 柔らかく波打つ淡い色の髪に、整った顔立ち。

 切れ長ではないが均整の取れた目元は穏やかな印象を与え、微笑めば親しみやすさすら感じさせる。

 背は高く、体つきも細すぎず無駄がない。


 華やかさというよりは“育ちの良さ”がにじむ外見で、社交の場に立てば自然と周囲に溶け込む類の人物だった。


 だが、その整った外見の内側には――決定的な偏りがあった。


 彼は、自分が見たいものしか見ない――

 人の言葉を、そのまま受け取ることは少ない。


 断片的な情報を拾い上げ、それを都合よく繋ぎ合わせ、自分の中で“もっともらしい物語”へと作り替える。


 そして一度そうして形作った認識を、疑うことができない――


 それは思慮深さではなく、むしろ逆だった。


 表面的には穏やかで物腰も柔らかいが、内面では極めて独善的で、思い込みが強い。

 感情が動けば、それを“正しい直感”だと信じてしまう危うさを持っている。


 特に、庇護すべき対象を見つけた時――その傾向は顕著になる。


 相手の些細な仕草や言葉を過剰に意味づけ、

 そこに“苦しみ”や“助けを求める声”を見出し、

 自分こそがそれを救う存在だと、疑いもなく思い込む。


 その姿は一見、誠実で献身的にも見える――


 だが実際には、相手を理解しているのではなく、自分の中の理想像を押し付けているに過ぎない。


 優しさと独善が、紙一重で同居している……

 それが――シャイアック・デボンズという青年だった。



「デボンズ伯爵令息様がお見えです」


 控えめな声で告げられ、パトリシアは本から視線を上げた。


「……そう」


 短く応じる。


 本来であれば、すぐに応接室へ向かうべきだろう。

 婚約者の訪問なのだから、対応するのは当然の義務だ。


 だが――


 ほんのわずかに、指先が止まる。


(……また、かしら)


 予感のようなものがあった。

 それが何を意味するのか、考えるまでもなく分かっている。


「すぐに参ります、とお伝えして」


「かしこまりました」


 使用人が一礼して去っていく。


 パトリシアは本を閉じ、ゆっくりと立ち上がった。


 足取りは静かで、乱れはない。

 ただ、どこか無駄のない動きだった。

 廊下を進む。


 応接室へと続く扉の前まで来た時――


 中から、声が聞こえた。


「それでね、その時の顔が本当に――」


 マミーアの笑いを含んだ声。

 続いて。


「それは想像するだけで……」


 シャイアックの、楽しげな相槌。

 言葉の端々に滲む親しさ。

 距離の近さ――

 それは、聞き間違えようのない

ものだった。


 パトリシアは、扉の前で立ち止まる。


 ノックをすればいい。

 それだけのことだ。


 だが――


 指は動かなかった。

 代わりに、ほんのわずかに視線を伏せる。


(……必要ないわね)


 結論は、すぐに出た。


 あの中に入っても、自分の居場所はない――


 それは感情ではなく、状況として理解している。

 ならば、無理に踏み込む理由もない。


 踵を返す。

 足音は来た時と同じく静かで、迷いはなかった。


 自室へ戻る途中、先ほどの使用人と行き合う。


「お嬢様……?」


「今日は、失礼するわ」


 遮るように告げる。


「少し、気分が優れないの」


 一切の揺らぎのない声音。

 それは言い訳ではなく、ただの処理だった。


「デボンズ様には、そのように伝えて……」


 使用人は一瞬だけ戸惑ったように見えたが、すぐに頭を下げる。


「かしこまりました」


 それで十分だった。

 部屋に戻り、扉を閉める。

 静寂が戻る。


 パトリシアは椅子に腰掛け、軽く息を吐いた。


 怒りはない。

 悲しみもない。


 ただ一つ。


(――もう、ここまでね)


 その認識だけが、はっきりとあった。


 婚約という名の関係は、すでに形だけのものになっている。

 そして今日、その事実を改めて確認しただけだ。


 それ以上でも、それ以下でもない。


 窓の外に視線を向ける。

 空は穏やかで、何も変わらない。


 ただ――


 彼女の中でだけ、静かに区切りがついていた。


◆ ◆ ◆


 王宮主催の夜会のための打ち合わせの日――応接室にはすでにシャイアックが待っていた。


 落ち着かない様子で何度も視線を扉へ向ける。

 理由は自分でもよく分かっていない。ただ、妙に胸が騒いでいた。


 やがてーー


 扉が開く。


「お待たせしました」


 先に入ってきたのは、パトリシアだった。


 その姿を見て、シャイアックは一瞬言葉を失う。

 整っている。確かに整っているのだが――


 纏っているのは、深みのある色合いのドレス。

 重厚な生地と落ち着いた意匠は、明らかに“完成された女性”のためのものだった。


 十六歳の少女には、似合わないわけではない。

 だが、どこか“背伸びしている”ような違和感が拭えない。


(……なぜ、こんなものを)


 そう思った、その時。


「……どう、かな」


 続いて現れたマミーアに、すべての意識を奪われた。


 淡い色合いのドレスが、光を柔らかく反射する。

 軽やかな生地が動きに合わせて揺れ、その一つ一つが視線を引き寄せる。

 華やかでありながら、過剰ではない。

 落ち着いた美貌と相まって、どこか“新鮮さ”すら感じさせる装いだった。


 そして何より――


 ほんの少しだけ、視線を逸らしている。

 わずかに頬を緩め、控えめに佇むその様子が――


「……とても、お似合いです」


 気づけば、言葉が漏れていた。

 心からの賛辞だった。


「ほんと?」


 マミーアが少しだけ顔を上げる。

 その仕草に、妙な親密さを感じる。


「ええ……その、こちらの方が……ずっと」


 言いかけて、言葉を飲み込む。

 だが意味は十分に伝わっていた。


 そのやり取りを横で見ていたパトリシアは、何も言わない。

 ただ静かに、二人の様子を見ている。


「……あのね」


 マミーアが、少しだけ声を落とした。


「最初は、あっちのドレスにしようと思ってたんだけど……」


 ちらりと、パトリシアの方を見る。

 ほんの一瞬の視線。


「パトリシアが、こっちの方がいいって……」


 言葉は最後まで言い切らない。

 だが、その余韻は十分だった。


「……そう、なんですか」


 シャイアックの表情が、わずかに硬くなる。

 視線がパトリシアへ向く。

 彼女は変わらず、無表情のままだった。


「ええ。私はどちらでも良かったのだけれど」


 マミーアは、あくまで軽く言う。


「せっかくだから……って」


 無邪気な声音。

 だがその言葉は、別の意味へと変換されていく。


(やはり……)


 胸の奥で、何かがはっきりと形を持つ。


(あの少女は……)


 本来、自分が着るべきものを他人に譲るなど、あり得ない。

 ましてや、それがあまり自分に似合っていないのならば尚更だ。


 だが現実には、そうなっている。


 マミーアならば、どちらの服も美しく着こなすであろう。

 しかし…パトリシアは……


 つまり――


(マミーアは強く言えないのか)


 あるいは。


(パトリシアが言わせているのか)


 視線が、わずかに鋭くなる。

 静かに佇むパトリシアの姿が、彼にはまったく別のものに見えていた。


「……無理をなさらなくてもいいのですよ、マミーア様」


 低く、しかしはっきりと告げる。


「え?」


 マミーアがきょとんとする。


 だがその反応さえ、彼の中では“誤魔化し”として処理される。


「本来、あなたがお選びになるべきものです」


 確信に満ちた声。


 そこにはすでに、“庇護する側”の意識があった。



 パトリシアは、何も言わない。

 ただ一瞬だけ、彼を見て――

 すぐに視線を外した。


(……なるほど)


 内心で、小さく結論を出す。

 この男は、理解することはない。

 ならば。

 もう、説明する必要もない。



 この日、シャイアックの中で。

 決定的な誤解が、最終的な形を持った。



◆ ◆ ◆


「――行こう、主役は君だ!」


 差し出された腕。


 デビット・ナイト。


 長身で引き締まった体躯、落ち着いた視線。

 派手さはないが、揺るがない安定感を持つ青年。


 デビットは、一年前にナイト伯爵家へ迎え入れられた養子である。


 もともとは、エドワードの兄の家系に連なる血筋――いわば“本家に最も近い傍流”の出である。

 ナイト家には男子の直系が存在せず、家名と領地を確実に継承させるためには、男性の後継が必要だった。


 そのため白羽の矢が立ったのが、デビットである。

 血統的にも申し分なく、年齢も成人に達している。

 さらに、幼い頃から教育を受けてきた素地もあり、当主としての資質も備えていた。


 形式上は“養子”だが、その実態は後継者としての迎え入れだった。


 養子縁組から一年。

 すでに彼はナイト家の一員として周囲に認識されており、社交の場でも次期当主として扱われている。

 落ち着いた物腰と冷静な判断力は、その立場に相応しいものだった。


 そして何より――

 彼はこの家の歪みを、外側から来た者として冷静に見ている数少ない人物でもあった。


「……ええ」


 パトリシアはその腕に手を添えた。

 本来の婚約者のことなど、すでに意識の外にある。



 夜会会場――


 紹介が終わり、歓談の時間。


「……いたな」


 デビットの低い声。

 その視線の先にいたのは――


 シャイアックと、マミーア。

 楽しげに語らう二人。


 そして彼女は、パトリシアのドレスを纏っていた。


 その光景を見て。

 デビットの表情がわずかに歪む。


「……どういうつもりだ、シャイアック殿」


 二人へ歩み寄り、視線をシャイアックに向ける。


「婚約者を放置してさっさと行ってしまうとは……」


 否定のしようもないはずの非難の言葉。


 だが――

 シャイアックはそれを受け流し、むしろ顔を上げた。


「――ちょうどいい。この場で、はっきりさせよう!」


 そして、高らかに宣言する。


「僕はマミーア嬢の中に無私の愛を見つけた。彼女こそが、僕の理想の女性だ!!」


 一瞬の静寂が会場を包む。


「パトリシア。君との婚約は解消して、僕はマミーアを新たな婚約者に希望する!!」


「……はあ……」


 デビットの呆れた声。


 パトリシアはただ、無言で彼を見ていた。

 怒りすら、湧いてこない。

 あまりにも予想通りで、あまりにも――


「マミー、あなたはそれでいいんですか?」


 デビットが問いかける。


 マミーアは、少し考えるように首を傾げ、いたずらっぽい目つきで男二人に目をやる。


「……そうねぇ……確かに可愛いわよね。デビットと違って、素直に甘えてくれるし――」


「そうでしょうとも!!」


 遮るようにシャイアックが声を張る。


「それに! 僕は見過ごせなかったんだ! マミーを蔑ろにし、あまつさえ暴力まで振るうパトリシアのことが!」


「……は?」


 今度は、はっきりとパトリシアが声を漏らした。


「とぼけるな! マミーは言っていた! 毎日のように叩かれていると! 夜中でも呼びつけられて眠れないと!」


 激情に駆られた顔。

 自分こそが正義だと信じて疑わない、歪んだ確信。


「それにお前は、マミーの物を何でも欲しがって取り上げる! 

 服だってそうだ!お前が着ている似合いもしない大人びた服が何よりの証拠だ――!」


「……」


 呆れたように沈黙していたパトリシアだが……一つ息を吐くと静かに口を開いた。


「……肩叩きのこと?」


「なっ……?」


「肩が凝って辛いの〜って、毎晩使用人が寝静まった頃に部屋に押しかけてくるから、その度毎に小一時間マッサージしてあげてるのよ」


 ぴたりと、言葉が止まる。


「それに……夜中に呼びつけた? 


それって私が赤ん坊の頃の話ではありません……?


 乳母をつけるのが嫌だったから、夜泣きの時に自ら授乳してたって話を今でも恩着せがましく蒸し返していますけど…」

 

 淡々と、感情のない声で、事実だけを並べる。


「服に関しては――逆ね。

マミーが私の可愛い服を欲しがるから、私が“マミーのお下がり”を着ているだけよ」


「そ、そんな……そんなはずはない!」


 崩れかける確信に、シャイアックは必死にしがみつく。


 その時だった。


「……なんの騒ぎだね――」


 低い声が割って入る。

 エドワード・ナイトだった。


 その背後には、シャイアックの両親を含む数名の貴族と――噂の“愛人”らしきグラマラスな女性の姿もある。


「ちょうどいいところに!」


 シャイアックは勢いよく振り返った。


「僕はパトリシアとの婚約を解消し、マミーア嬢と共に――


「それは認められないよ――」


 即答だった。


「なぜです!?」


 エドワードは、ゆっくりとマミーアを見る。


「……いい加減にしなさい」


 苦い声音。


「君が若く見られたいと言うから、好きにさせていたが――」


 そしてきっぱりと告げる。


「自分の息子より年下の男が、私より良いのかね?」


「…………は?」


 ――場が凍る。


「子持ちに見られたくないと、“ママ”を禁じて“マミー”と呼ぶよう強制したのも君だろう」


 静かに告げる。


「おかげで私はもう何年もの間、秘書をエスコートして夜会に出席せざるを得ないでいる――」


 あたふたと駆けつけてきたシャイアックの両親にちらりと目をやりながら――


「それに婚約の顔合わせの時、ハッキリ説明したはずだが……?


 マミーアは――パトリシアの母親だ…姉でも妹でもない!と」


 完全な沈黙――


 シャイアックは、瞬きを忘れたようにその場に立ち尽くしていた。


 言葉が、理解に結びつかない。

 今、何を言われたのか。

 意味は分かるはずなのに、思考がそれを拒んでいる。


 視線が、ゆっくりとマミーアへ向く。

 次に、パトリシアへ。


 そしてもう一度、マミーアへ。

 どこかに間違いがあるはずだった。


 何かの誤解で、すぐに訂正されるべき類の――そうでなければならない言葉だった。


「……は……?」


 かすれた声が、ようやく喉から漏れる。


 だが、その一音ですら、自分のものではないように感じられた。

 頭の中で組み上げてきたものが、音を立てて崩れていく。


 理想。確信。正義。


 すべてが、前提から否定されていく。

 否定する材料がない。


 逃げ場もない。


 ただ、突きつけられた事実だけが、現実としてそこにある。


 足元が、不意に頼りなくなる。

 だが動けない。

 動けば、すべてを認めてしまう気がして。


 何も言えない。

 何も考えられない。


 ただ――立ち尽くすことしかできなかった。


 マミーアは困ったように笑った。


「……だって、あの子ったら可愛いんだもん」


 それだけだった――


 すべてが崩れ落ちる。

 シャイアックの“真実”は、音を立てて瓦解した。


◆ ◆ ◆


 後日――――


 婚約は表向きは円満に解消された。


 義理の息子(予定)との交流は良識の範囲内のことであったと認定されたが――

 誤解の遠き一因となったことを鑑みたナイト家が、ことを荒立てないよう穏便に取り計らったからである。


 しかし、デビュタントの夜に起きた一件は、瞬く間に社交界へと広がった。


 公の場での婚約破棄。


 しかもその理由が、婚約者ではなく“相手の母親”への思い込みに基づくものだったとなれば、話題にならないはずがない。


 しかも、誤解の内容はさらに致命的だった。


 根拠のない暴力の告発。

 事実の捻じ曲げ。

 そしてそれを何の確認もせず疑いもなく言い切った軽率さ。


 それらはすべて、彼自身の言葉として残った。


 言い逃れは、できなかった――


 デボンズ伯爵家は、慌ただしく対応に追われた。


 当主である父は激怒し、社交界各所へ謝罪の書簡を送ることになる。


 だが一度失われた信用は、そう簡単には戻らない。

 何より問題だったのは――

 シャイアック本人の評価だった。


 もともと次男である彼は、家督を継ぐ立場にはない。

 本来であれば、婿入りによって地位と役割を得るはずだった。

 だが、その道は完全に閉ざされた。


 ナイト家との婚約は解消。

 当然ながら、子爵位の継承も領地もすべて白紙となる。


 それだけではない。

 今回の一件によって、他家からの縁談も遠のいた。


 感情に任せて公の場で断定的な発言をする人物。

 事実確認を怠り、思い込みで他者を糾弾する人物。


 そうした評価は、貴族社会において致命的だった。


 結果として。

 シャイアックに与えられたのは、極めて限定的な役割だった。


 表舞台から外され、家の補佐として領地の実務に回される。

 華やかな社交の場に出ることは二度となく、現場で報告書に囲まれ自らの身体を酷使して働く日々。


 それは決して罰として明言されたものではない。


 だが――

 実質的には、そう扱われていた。


 本人は当初、それを受け入れられなかった。

 自分は正しいことをしたはずだ。

 弱い立場にある者を守ろうとしただけだ。

 そう信じていた。


 けれど――

 時間が経つにつれ、周囲からの視線に気づく。


 誰も同意しない。

 誰も評価しない。

 むしろ、距離を置かれている。


 そこでようやく――

 自分の行動が、どう見られていたのかを理解し始める。


 もっとも。

 それが完全な反省に繋がったかどうかは、別の話だった。


 ただ一つ確かなのは。

 彼が思い描いていた“理想の未来”は、どこにも存在しなかったということだけである。


 婿入りによって得るはずだった地位も、領地も、伴侶も……


 すべてを、自らの手で手放した。

 その事実だけが、静かに残り続けていた。


◆ ◆ ◆


「……ようやく、だな」


 デビットが呟く。


「ええ」


 パトリシアは静かに頷いた。


「……最初から、そのつもりでしたの?」


「半分はな」


 わずかに笑う。


「残り半分は、今日……確信した」


 その言葉とともに、デビットの視線がまっすぐに向けられる。

 逃げ場のない、けれど押しつけがましくもない、穏やかな強さを帯びた眼差し。


 パトリシアは一瞬だけ息を止めた。


 その意味を、理解してしまったからだ。


 ――今日。


 すべてが終わった、その場で……

 彼は、迷いを捨てたのだと。


「……そう」


 短く応じる声は、いつもよりわずかに柔らかい。


 視線を外そうとして、外せない。

 代わりに、ほんのわずかに顔を伏せる。


 沈黙が落ちる。


 だがそれは気まずさではなく、互いに同じものを確かめているような静けさだった。


 やがて、デビットがそっと手を差し出す。

 形式ばったものではない、ただ自然な動作。


 パトリシアは一瞬だけ迷い――


 その手に、自分の指先を重ねた。

 強く握るわけでもなく、離れるでもなく。


 ただ、触れているだけ。

 それだけで十分だった。


 その温もりが、今ここにある現実――二人の未来を示していた。


 パトリシアはほんのわずかに表情を緩める。


 それは初めて見せる、年相応の柔らかさだった。


 間違った婚約は終わった。


 そして今――

 ようやく、正しい関係が始まる。

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