なぜか欠点だけが思い出される
人は、別れてからのほうが気づくことがある。そばにいる間は煩わしく思えた欠点が、離れた途端にふっと可愛らしく思えたりする。わたしはこうした“後になって愛おしくなる欠点”というものが気になっていた。それは、終わったあとにこそ、本当の好きというものが姿を見せるのかもしれないと思ったからだ。
今日の僕も、別れた彼女の欠点ばかりを思い出している。遅刻癖や気まぐれ、約束を守れないところ──当時は確かに僕を疲れさせたはずなのに、今はその癖が、ただ人間らしい“弱さ”として胸に残っている。もう戻れないという事実が、その思い出を静かに濃くしているのだろう。
***
別れてから、もうどれくらい経ったのだろう。季節がひとつ変わるたびに、彼女のことを思い出す頻度は少しずつ減っていったはずなのに、なぜか完全には消えない。思い出すのは、好きだったところでも傷ついた場面でもなくて、彼女の欠点ばかりだ。
遅刻癖。気まぐれ。約束を守れないところ。そのどれもが、当時の僕を確かに疲れさせた。何度も苛立ち、何度もため息をついた。それなのに、今思い返すと、なぜか愛おしい。
彼女が遅れてくるときの、申し訳なさそうな笑顔。気まぐれに予定を変えるときの、子どもみたいな言い訳。約束を守れなかった日の、言葉を探しているような沈黙。その全部が、欠点の裏側にある“弱さ”として浮かんでくる。
*
待ち合わせの喫茶店で、僕は十五分ほどひとりで座っていた。そのときの会話が、今も胸の奥に残っている。
「ごめん、また遅れた」
「うん、まあ……来てくれたならいいよ」
「怒ってる?」
「怒ってないよ。ただ、ちょっと疲れた」
「ほんとにごめん。直したいんだけど、なかなか……」
「直さなくていいよ。君はそういう人だから」
「そういう人、か……」
「うん。たぶん、そういう人なんだと思う」
あのときの会話は、決して優しいものではなかった。僕は少し苛立っていたし、彼女は少し落ち込んでいた。けれど今思い返すと、その温度が妙に柔らかい。欠点が、欠点のまま人間らしく見える。
別れた直後は、そんな細かい癖を思い出すことすら嫌だった。関係が終わったのだから、記憶も終わってほしかった。けれど、時間は残酷で、優しい。忘れたいものほど、ゆっくり形を変えて残る。
*
雨の日、傘を持っていない彼女が駅前で立ち尽くしていた。僕が差し出した傘を受け取りながら、彼女は少し照れたように言った。
「こういうときだけ優しいよね」
「こういうとき“も”だよ」
「そっか。じゃあ、ありがとう」
「うん。帰ろう」
その“そっか”の言い方が、妙に弱くて、妙に人間らしかった。当時の僕には、その弱さを受け止める余裕がなかった。僕自身が不安定で、余裕がなくて、彼女の雑さをただの負担としてしか見られなかった。
けれど今は、その雑さが妙に可愛く思い出される。触れられない場所に置かれたものほど、温度を持つ。人は、もう選べないものに対してだけ、妙に寛容になるのだろう。
*
仕事帰りにふと立ち寄った喫茶店で、彼女が好きだったブレンドの香りがした。その瞬間、胸の奥がゆっくり湿った。思い出したのは、彼女がコーヒーを飲むときの癖だった。熱いのが苦手なくせに、いつも最初の一口だけは急いで飲んで、舌を火傷して、少しだけ眉を寄せる。その癖が、なぜか可愛く思えた。
*
別れ話の夜の会話も、思い出の底に沈んでいる。
「もう無理なのかな」
「うん……たぶん、無理なんだと思う」
「直せないところが多すぎたよね、私」
「直せないところが多いのは、誰でも同じだよ」
「でも、あなたを疲れさせた」
「疲れたけど……それでも、嫌いにはならなかった」
「そっか……ありがとう」
「うん。ありがとう」
その“ありがとう”が、今でも胸に残っている。彼女は泣いていなかった。僕も泣かなかった。ただ、静かに終わった。その静けさが、今は柔らかく思い出される。
人は、終わった関係の中で、欠点だけを優しく思い出すことがある。それは、欠点が美化されたわけではない。ただ、距離ができたことで、彼女の弱さが弱さのまま温度を持つようになっただけだ。
彼女の雑さが柔らかく思えるのは、もう触れられないからだ。もう選べないからだ。もう、どこにも続かないからだ。
終わった関係の残り香は、どうしていつも短所のほうが思い出されるのだろう。その温度に触れられないことだけが、今の僕をゆっくり寂しくさせる。
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そもそも、別れたあとに残る温度というのは、思っているよりずっと静かで、ずっと湿っている。人は終わった関係を振り返るとき、どうしても美しい場面や痛かった瞬間を思い出しがちだけれど、実際に胸に触れてくるのは、もっと曖昧で、もっと取るに足らない記憶だ。
たとえば、彼女の欠点。あの頃は確かに僕を疲れさせたはずなのに、時間が経つと、なぜかその雑さが柔らかく思える。
光の君は多くの女性を愛したけれど、その愛はいつも少しだけ偏っていて、少しだけ不器用だった。明石の君を海辺に残したときも、彼は彼女の痛みを完全には理解していなかった。けれど、距離ができたあとにだけ、彼は彼女の静かな強さや寂しさを受け入れるようになる。触れられない場所に置かれたものほど、温度を持つ。光の君が明石の君の影を思い返すとき、その影はいつも少しだけ優しい。それは、もう戻れないからだ。もう選べないからだ。もう、どこにも続かないからだ。
今日の僕も、同じ温度の中にいる。彼女の欠点が優しく思えるのは、欠点が美化されたわけではなく、距離ができたことで弱さが弱さのまま温度を持つようになったからだ。終わった関係の残り香は、いつも短所のほうが思い出される。その思い出が、静かに胸に残る。
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