三人の夏
人の心は形を持たず、追えば遠ざかり、掴んだと思えばすり抜ける。若い頃のわたしは、恋の気配を描こうとしては筆を止め、
「どうして皆、言わぬまま動くのか」と、ひとりでため息をついた。
それでも筆を置けなかったのは、沈黙の奥に、言葉より確かな灯りがふっと見える瞬間があるからだ。この夏の話も、その灯りのひとつだと思う。
***
午後の廊下は、いつも少しだけ色を変える。西日が差し込む窓の向こうで、校庭の砂がゆっくりと金色に染まっていく。その光の中を歩きながら、僕はあの夏のことを思い返していた。十七歳の夏。まだ未来という言葉が遠くの灯りみたいにぼんやりしていた頃のことだ。
蓮と出会ったのは、二年の春だった。クラス替えのざわつきがようやく落ち着いた頃、彼は僕の席の横に腰を下ろして言った。
「お前、名前なんだっけ」
「律」
「お前は?」
「蓮、よろしく」
蓮はそう言って笑った。その笑い方が妙に気持ちよくて、僕はその日から蓮と話すようになった。
蓮はよく喋り、僕はよく黙った。けれど沈黙が気まずくなることは一度もなかった。むしろ、蓮の声が途切れた瞬間に訪れる静けさが心地よかった。
蓮は、僕の表情をよく見る。話しているときも、黙っているときも、ふとした瞬間に僕の顔を覗き込むように見る。僕は他人の目を見て話すのが苦手だったから、蓮のそんな自然な様子がうらやましかった。
沙耶が転校してきたのは、六月の終わりだった。梅雨の湿った風が教室に入り込む午後、担任が「新しい仲間だ」と言って彼女を前に立たせた。沙耶は特別に美人ではなかった。けれど、僕の眼は彼女を捕らえて離さなかった。
僕は静かに惹かれた。蓮は気づかぬうちに惹かれていた。僕らは互いに気づかないまま、同じ光に向かって歩き始めた。
沙耶は、なぜか僕には少しだけ心を開いてくれた。放課後の図書室で、彼女はふいに言った。
「律くんだよね。本好き?」
それは本当に軽い言い方だった。深い意味なんてない。でも僕のドキドキは止まらなかった。
その時、蓮が遠くから僕らを見ていたことに気づいた。蓮は、僕の表情を探るように見ていた。
ある日、蓮が僕に言った。
「なあ律。俺、沙耶のこと好きだわ」
僕は沈黙した。
「かわいいよね」
「うん」と言って少し笑った。
僕は彼に何を言っていいか分からなかった。僕も……、なんて恥ずかしくて言えなかった。
七月の始め頃、日本史のクラスで、グループに分かれて課題を調べて、プレゼンすることになった。そして偶然にも、僕たち、蓮、紗耶が同じグループになった。
三人で図書室に行き、各自集めた本を持って、課題の箇所を読んで、紹介しあった。
僕は沙耶を見た。
沙耶は僕を見た。
その視線の交差は、ほんの一瞬だった。
けれど、蓮はその一瞬を見ていた。
僕の横顔を、沙耶の目の動きを、全部見ていた。
蓮は何も言わなかった。でも、その沈黙とても重く感じた。本を読むことに集中しようとしていた。
帰り道、蓮は僕の顔を見た。
「紗耶、やっぱ、かわいいよな。同じグループになってびっくりした」
「今日は話せてよかったな」
「ああ」
あの時の視線の交差の瞬間、蓮は何を感じ、沈黙したのか聞いてみたかった。でも聞けなかった。なぜなら僕も今日は彼女と話せてうれしかったから。そしてそのことも蓮に言えなかった。
翌週、たまたま沙耶と帰りの電車で一緒になった。
「日本史の課題、楽勝だったね」
「うん、蓮がかなり頑張ってくれたし」
「そうだね」
紗耶からいい匂いがする。図書館で集まった時もいい匂いがした。きっと髪の匂いだろうなって思った。
「私たち降りる駅同じ?」
「そうかも」
「引越して来たばかりだから、ここらへん、全然分からないんだよね」
「俺、生まれてからずっとここ住んでる」
「ねぇ、夏休みになったら案内してよ」
その言い方は本当に軽くて、友達に話すみたいで、でも僕の胸の奥に静かに落ちて、しばらく動けなくなるほどだった。
「いいよ」
僕は答えた後に、蓮の顔が浮かんだ。
夏休みに二回ほど紗耶を街を案内した。よく行く公園、図書館、スーパーとかに連れて行った。彼女は喜んでくれた。とびっきりの笑顔で。引越しばかりだから女の子の友達もいないらしく、退屈な夏休みが楽しくなったと言ってくれた。
夏休みが終わってすぐ、沙耶はまた転校することになった。
「ごめんね」
そう僕と蓮に言った。
「元気でね」と蓮が言った。僕は何も言えなかった。
沙耶が去ったあと、僕は夏休みに二人で行った図書館に行った。紗耶が横にいたことを昨日のように思い出す。もっと一緒にいたかった。もっと一緒に出かけたかった。
蓮とはすっかり紗耶の話題は出なくなった。きっと僕は夏の紗耶との思い出を、このさき、蓮に話すことはないだろう。
***
そもそも、一人の人を二人が同時に好きになることはよくある。出会うきっかけが同じとか、よく一緒に行動することが多いと当然なのかしれない。
千年前の光の君と頭中将が何も言わずに廊下を歩いていたが、ふと同じ女性の名を出した瞬間、空気がわずかに揺れた。光の君は笑って受け流したが、その横顔を頭中将がじっと見ていた。言葉ではなく、ほんの一瞬の沈黙と視線の動きだけで、互いの心の向きが透けてしまう。
誰も傷つけたくないのに、誰かが少しだけ痛む。あの“見てしまった一瞬”の温度が、律と蓮と沙耶の夏にそのまま重なった。人の心は、言葉よりも沈黙のほうがよく物を言うと、その時わたしは知った。
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