5、窓際の席、進めない僕
正午をかなり過ぎて、ビルの影が歩道に落ちはじめる。
ざわざわ、ざわざわ。
通りでは、足音と話し声が混ざり合い。
ブップー。
車の出す排気ガスのせいか、灰色のビルが描く直線までもが、どこか殺伐としている。
そんな通りを歩き、少し脇道に入ったところにある喫茶店。
僕が、店の中に入って扉を閉める。
カラカラ、カラカラ。
扉の上部についているベルの音が、余韻を残しながら消える。
僕の世界は静かになった。
少し振り返る。
木戸の表面に掘られた、飾り彫を眺めると、さっきまでのざわめきを、嘘みたいに遠く感じる。
それに。
木製の家具たちの滑らかな曲線。
カラメル色のカウンター。
店内に漂うコーヒーの香り。
窓に引かれたチェック柄のカーテン。
オレンジ色の電飾。
それらすべてが、外の世界とはまるで別の場所のようだった。
「マスター、ランチセットをお願いします」
「かしこまりました。飲み物はオレンジジュースでよろしいですか?」
「はい、それでお願いします」
マスターが、ほほえみながら頭を下げる。
「ありがとうございます」
僕もつられて頭を下げる。
カウンターには常連さんたち。
スカーフを首に巻き、老眼鏡を鼻にかけて新聞を読んでいるお爺さん。
ベースボールキャップのおじさん。
ノートパソコンで作業をしているスーツ姿の男性。
ふふふっと笑いながら、マスターとおしゃべりしているマダム。
僕のお気に入りは、窓際の一番奥のテーブル席。
カーテンをめくれば、ガラス越しに、裏通りを行き交う人たちが見える。
低いテーブル席の、ストライプ柄の布製ソファに沈みこむ。
ひとりだから、カウンターでもいいんだけど。
カウンターを見る。
常連さんたちは、思い思いにこの喫茶店を楽しんでいる。
コーヒーを飲みながら新聞を読む。
片方の耳に入れたイヤホンで、何かを聞いている。
カタカタとリズムよくキーボードを打つ。
昔話に花を咲かせる。
まだ早いよな。
僕みたいな、お子様には。
茶色いお盆に料理を乗せて、マスターが歩いてくる。
「お待たせいたしました」
「いえ、大丈夫です」
手際よく、サンドイッチのお皿、サラダの入ったボウル、コースターとその上にオレンジジュース。
お手拭きに、ストロー。
それに、磨かれた銀色のフォーク。
ほほえみながら、それらを並べる。
「また課題が出たのですか?」
「はい」
「そうですか。では、ごゆっくり」
「ありがとうございます」
マスターは給仕を終えると、カウンターに戻って行く。
僕は、そんなマスターの後ろ姿を見送り、お手拭きで手を拭く。
ストローを袋から出して、オレンジジュースに刺す。
まずは、サンドイッチ。
片面がカリッと焼かれた全粒粉の食パン。
中には、ふわふわのスクランブルエッグとマヨネーズで和えた玉ねぎ。
シャキシャキのレタスとキュウリ。
酸味の効いたトマト。
塩気のある厚切りハム。
「おいしい」
ひと口食べた僕は、自然と笑顔になった。
サンドイッチを皿に戻して、ノートと資料を取り出した。
午前の授業で出た課題。
目を通しながら、オレンジジュースを飲む。
スッキリした甘さが、喉を通り過ぎて行く。
「当てつけかよ……」
呟きながら、その一文を睨む。
『CGデザインにおいて、自分の作りたい物と、顧客のニーズの隔たりをどう埋めるのか?』
またサンドイッチを頬張る。
もぐもぐと咀嚼しながら顔を上げる。
カウンターの常連さんたちが、目に入った。
「画家なら、好きなものだけ描いていられるのに」
だけど、すぐに首を振る。
「って、そんなわけないか」
画家だって、お客のニーズに応えなければ、売れない……と思う。
「この前の課題でも、自分の色を出しすぎとか、言われたもんな。だからって、この課題はないだろ?」
僕は少し頭を掻いて、資料片手にサラダを食べる。
「……自分勝手にやる奴は、誰にも受け入れられない。って、言い過ぎだし」
フォークをミニトマトにプスッと刺して。
それから——
少し酸味の効いたドレッシングのそれを食べ終えた。
オレンジジュースからストローを引き抜いて、グラスのまま流し込む。
甘さだけが、妙に舌に残る。
マスターが歩いてきた。
「おさげしますね」
「ありがとうございます」
「今回の課題は難しいのですか?」
「えっ?」
驚いた僕がマスターを見ると、マスターが、ふふふっと笑う。
「ずいぶんと悩まれていたようなので」
「あっ、すみません」
「大丈夫ですよ」
お盆にサラダボウルを乗せたマスターがほほえむ。
僕はカウンターの人たちをもう一度見る。
「自分がやりたいことと、お客のニーズに応えることの隔たりって、どうやって埋めていますか?」
「それは難しい問いですね」
マスターは少し視線を上げて、僕に戻す。
「少し、私の話をしてもよろしいですか?」
「はい、ぜひお願いします」
ぼくが少し前のめりになると、マスターは目を細める。
「私も昔は勤め人だったんです。あのお客様のように」
カウンターで仕事をしている、スーツの男性を見た。
「当時はバブル真っ只中で、私も終日、ずいぶんと遅くまで働いていました」
「残業……」
「そうです。あの頃は、働いたら働いた分だけ、いただけましたので」
「いい時代だったんですね」
「ええ」
軽くうなずいて、少しうつむく。
「あるとき、お得意先との待ち合わせ時間より早く着いてしまった私は、喫茶店に入りました」
マスターは僕に視線を戻す。
「そこにはカウンターと、いま、お客様が座っているような低いソファの席がありました」
一息おく。
「私はソファを選び、コーヒーを飲みながら、ふと、自分がそんなふうにゆっくりする時間を持ってていないことに気づいたんです」
「えっと、それで、喫茶店を始めたのですか?」
「はい」
「それは、なんというか、その」
「他の方にも、外の喧騒を忘れて、のんびりして欲しかったんです」
「……なるほど」
僕が相槌を打つと、マスターがほほえむ。
「ですが、初めはうまくいきませんでした」
マスターがふふっと笑う。
「全くお客様がいらっしゃらない日々が続いて、焦った私は、近くのパン屋に頼んで、メニューに当時流行ったスイーツを加えました」
だけど……。
僕は小さく首をかしげる。
「そうなんです。うちでは、もうやってませんよね?」
「そうですよね?」
「初めはよかったんです。店の前に看板を出してからは、お客様が来てくださるようになった。ですが、それも長続きはしませんでした」
マスターがカウンターにいるお爺さんを見ると、お爺さんが僕たちを振り返る。
「あの頃は、この店もガヤガヤとうるさかったな」
「申し訳ありません」
「いいんだよ。マスターも商売だからな。それに俺もたまにしか来れなかったしよ」
お爺さんがマダムを見ると、マダムがふふふと笑う。
「懐かしいですね。私もそのスイーツに釣られたひとりなの」
「そうでしたね。何度も通ってくださって」
「しばらくは、同僚たちも来てたのよ」
「三人組だったな」
お爺さんがうなずくと、マダムもうなずく。
「残ったのは私だけだけどね」
「ありがとうございます」
「いいのよ。私の目的はマスターとのおしゃべりだもの」
マダムが僕を見た。
「万人に受けなくてもいいんじゃないかしら? 大人気歌手でも、全員に好かれてるわけじゃないのよ」
「そりゃそうだな。俺には今の若い奴らの歌はわからん」
お爺さんが笑う。
「ぼ、僕は地下アイドルを応援してる」
「そうなんですね」
そこで、カタ、と音が止まった。
スーツの男性が、キーボードから手を離す。
「だが」
メガネを押し上げて、こちらを見た。
「顧客相手の仕事で、それは通用しない」
「えっ?」
「自分のやりたいことなんて、必要ないんだよ。仕事は顧客のニーズに応えてこそだ」
静かな声だった。
「私も、自分のやりたいことを優先して、失敗したことがある」
わずかに視線を落とす。
「……結局、求められる仕事ができる人間が残るんだ。まあ、すべてとは言わないが」
僕は言葉を失う。
「でも、それって」
マダムが口を開く。
「つまらないわね」
「売れなければ、続けられない」
スーツの男性は淡々と言う。
「続けるために、曲げる。それが仕事なんですよ」
「まあ、そういうところもあるだろうな」
お爺さんが笑う。
少しの沈黙。
マスターが、静かに言った。
「私はまだ、夢を見ていたようです」
全員がマスターを見る。
マスターは、少し笑った。
「でも、マスターのやりたかったことは」
僕はカウンターを見る。
「実現しているのでは?」
マスターは、ただ静かに首を振る。
カウンターと、店内。
僕は資料を見る。
『自分の作りたい物と、顧客のニーズ』
オレンジジュースを一口飲む。
喉に、渋みが少し引っかかる。
「答えなんてあるのかよ。これ」
僕はつぶやいて、マスターを見た。
「ありがとうございました」
「いえ。では、ごゆっくり」
「はい」
マスターが戻って行くのを眺めて、カウンターを見る。
お爺さんが新聞を畳んで、数独の本を開いて、男性二人もまた自分たちの時間に戻っている。
マスターがほほえんで、マダムが笑う。
「……甘くないよ。まったく」
僕は、苦笑いを浮かべる。
それから。
資料を裏返した。
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