想星の影
この世界において、夜空を見上げることは「祈り」と同義だった。
空に輝く無数の星々は、地上を導く「神の瞳」であり、その瞬きは人類への慈愛。星の光が強い夜ほど世界は清浄であり、人々は美しい星々を信仰することで、明日への希望を繋いでいた。
だが、高校一年生になったばかりの相模十楽にとって、その信仰は今日、無惨なほどに打ち砕かれることとなった。
「なぁ、十楽。卒業したらさ、俺たち四人でパーティ組まないか?」
放課後の柔らかな陽光が差し込む教室で、鈴木が身を乗り出して言った。
十楽は、教科書を片付ける手を止めて苦笑した。
「パーティって、まだ俺たち高校一年生だぞ。免許だって最短で三年後だ」
「いいじゃんか! 阿部が前衛で、俺が索敵。佐藤は……あー、荷物持ちか?」
鈴木が茶化すと、大人しい性格の佐藤が「ひどいな」と肩をすくめる。四人は幼馴染だった。勇敢に戦い、人々を救う探索師に憧れ、暇さえあればトレーニングをしたり、冒険小説を読み耽ったりしていた。十楽にとって、この平穏で騒がしい時間が一生続くのだと、根拠もなく信じていた。
「十楽は、絶対リーダーな。お前、昔からいざって時は一番度胸あるし」
阿部に肩を叩かれ、十楽は少しだけ胸を張った。
「……ああ。やるなら、世界一の探索師を目指そうぜ」
そんな、どこにでもある少年たちの夢。それが、あんな形であっけなく終わるとは思いもしなかった。
その日の放課後、彼らは少しだけ「冒険」をすることにした。
学校の裏手に広がる、探索師協会が管理する要注意区域。
この区域には王の派閥には属さない矮小な魔物しか確認されておらず、注意度は低めである…はずだった。
普段は結界が張られているはずのその場所が、あの日、なぜか開いていたのだ。
「ちょっとだけ中を見て、すぐ戻ろうぜ」
好奇心が、恐怖を上回った。
森の開けた場所に出た瞬間、異変は起きた。
「……何だ、あれ」
佐藤が指差した先。
そこには、人間に似た、しかし決定的に異なる「何か」が佇んでいた。
その個体は、青白い肌をした男の姿をしていた。だが、その左右の目の下には、鋭利な刃物で刻んだような三つの星型の刺青が深く刻まれている。
その男がそこに立っているだけで、周囲の空気は鉛のように重く、腐敗したような臭気が漂った。
「三界……」
十楽の喉が凍りついた。
そこに存在するはずのない、王。
地上を蹂躙する災厄の存在、王。
階級は三界、二界、一界……そして伝説上の存在とされる零界へと至る、人類の宿敵。目の下の三つの星は、その個体が「三界」であることを、何よりも残酷に証明していた。
王は、緩慢な動作で十楽たちを振り返る。その瞬間、王から溢れ出す「王波」が、少年たちの精神を直接削り取った。
『……価値のない命だ。天に輝く星々の瞬きに比べれば、土くれも同然』
低く、耳障りな残響を伴う声。
「逃げ……逃げろ!!」
阿部が叫んだのと、王が動いたのは同時だった。
「あ——」
阿部の身体が、まるで紙切れのように真ん中から裂けた。
血飛沫が十楽の視界を赤く染める。
王は愉悦に浸るように細い指を動かした。次に、鈴木が逃げようとした足から順に、見えない力で捻り切られていく。
「ぎあ、あああ! 痛い、やめ、やめてくれ!」
『無駄だ。その絶望こそが、我らの糧となる』
「やめろ……やめてくれ!!」
十楽は叫び、佐藤を連れて走ろうとした。だが、背後で佐藤の息遣いが消える。
振り返ると、佐藤の胸には、王の漆黒の手が突き刺さっていた。
佐藤は十楽の方を見て、何かを言おうとして、そのまま口から大量の血を吐き出して動かなくなった。
「ああああああああああ!!!」
たった数分。
ついさっきまで夢を語り合っていた親友たちが、物言わぬ肉の塊へと変わった。
十楽は地面に這いつくばり、絶望に喉を震わせた。
王が、ゆっくりと十楽へ歩み寄る。
『最後の一匹か。貴様からは、質の良い“負”が香るな……』
巨大な指先が十楽の喉笛に触れようとした、その時だった。
夜空の星が、真昼のように激しく明滅した。
「——ようやく見つけたぞ。……随分と、深い絶望の気配だ」
重低音の響きが、大気を震わせた。
十楽の目の前に、一人の男が立っていた。
漆黒のロングコートを翻し、白髪混じりの髪を無造作に流したその後ろ姿。その背中からは、王のような悍ましい気配は一切せず、ただ深淵のような静寂だけが漂っている。
「サードか。末端のゴミが、私の庭で何を遊んでいる」
王が初めて警戒するように距離を取った。
『……何だ、貴様。……まさか、人間か? だが、これほどまでに気配を消せるとは。……何者だ。』
男は答えなかった。ただ、王に向かって右手を掲げる。
「消えろ」
男が軽く手を振る。
それだけで、大気が爆縮したかのような衝撃が走り、先ほどまで饒舌に絶望を語っていた三界の王の身体が、一瞬で粉々に砕け散った。
十楽は、その光景を理解できなかった。
友を失った絶望。目の前の男から放たれる、生命として格が違うことを知らしめる圧倒的なプレッシャー。
脳が処理を拒否し、視界が急速に狭まっていく。
「……おい、ガキ。生きてるか」
男が振り返り、十楽に声をかけようとした。
だが、十楽はその顔を認識する直前、喉の奥からせり上がる嗚咽と共に意識を失った。
十楽が絶望したこの夜は、皮肉にも流れ星の流れる夜だった。
……。
…………。
目が覚めた時、そこは病院のベッドの上だった。
十楽は、自分が助かったことを知った。そして、三人の友人が一人も生き残らなかったことも。
「……十楽?」
病室のドアが開き、母親が入ってきた。
十楽は縋り付くように母を見上げたが、母は病室に一歩踏み込んだ瞬間、凍りついたように立ち止まった。
「お母さん、俺……みんなが……」
「——あ」
母の顔から血の気が引いていく。
彼女は震える手で自分の喉元を押さえ、まるで猛獣を目の当たりにしたかのような、本能的な恐怖をその瞳に浮かべた。
「ごめんなさい、十楽。なんだか急に、息が……苦しくて……っ」
母は逃げるように病室を飛び出していった。
十楽には分からなかった。なぜ、最愛の母が自分を見て怯えるのか。
あの日以来、自分を取り巻く空気が変わってしまったことに、彼はまだ気づいていない。
自分が生き残ってしまった罰なのだろうか。
十楽は、暗い病室で一人、膝を抱えた。
記憶の中には、親友たちの断末魔。
そして、自分を救ったはずの、あの「男」の圧倒的な背中だけが、呪いのように焼き付いていた。
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