第6話 靴に残った春(国王・エルヴィン視点)
庭に出ると、靴が少しだけ地面に馴染んだ。灰色薔薇は風もなく揺れていた。侍女の報告に頷くこともせず、私は静かに歩き出す。
昨日この庭に、言葉と沈黙が交差したことを、靴だけが覚えていた。
語彙数が多い。あの者がそう述べたのは、昨日の夕刻だった。奇妙な表現だ。記録通りに振る舞う者が、私の語彙を測るなどということがあるのか?
それでも、あの言葉には咎める気が起こらなかった。むしろ、ふいに口元が緩みかけた気がする。笑った覚えはない。だが、薔薇が揺れた。風もないのに、ふわりと。
犬が言っていたらしい。「靴に春の廊下の匂いが残っていた」と。侍女の報告だったか、この者の言葉だったかは忘れた。だが、その瞬間、靴の重さがほんの少し軽くなったように思えた。
この者が、誰なのかは知らぬ。王妃ではない。それは初めて目にした瞬間から、違和感として私の中に根づいていた。
仕草の中に揺れがある。語彙の調子が、記録より柔らかい。目の奥には、記録されていない温度がある。
それでも、私は問いを発さない。「誰なのか?」と口にすれば、空気が崩れる気がした。
薔薇の前で立つ。この者も、昨日ここに立っていた。無垢灰──名は知っている。王妃がよく眺めていた薔薇として、庭に植えられて久しい。
だが昨日、この者がその花を見つめたとき、記録にはなかった“懐かしむ気配”が目に宿っていた。その揺れは、演技ではない。それは、「王妃の記録をなぞる者」ではなく、“庭と感情を通じて記録を離れてしまった者”の目だった。
問いは封じておく。名を呼ぶことはできる。誰かがそう呼んでいたかもしれない。だが、私はまだ、それを認識していない。
この者は、「王妃に似ている」わけではない。「王妃の場所に立っている」だけだ。違いを責めても、揺れを断じても、意味はない。むしろ、違うからこそ穏やかだった。
昨日、わたしの靴に残った気配は、“言葉にならないまま届いたもの”だったのだろう。
薔薇は揺れていない。だが、靴の下にある土が、少し柔らかくなっていた。昨日、記録にはない語彙と語られない温度に触れたわたしの足が、その違いを「軽さ」として受け止めてしまったのかもしれない。
犬の言葉を笑い飛ばすことはできた。侍女の報告に眉をひそめることもできた。だが、あの者の声だけは、記録では届かぬ揺れとして、靴の重心に残っていた。
この者の正体は知らぬ。だが、記憶には刻まれた。名はない。記録もない。ただ、昨日の薔薇が風なく揺れたように、今日の靴が語らずに軽くなった。
問いを発さないまま、私は庭を歩く。薔薇は黙っている。それでも靴だけが、昨日の違和感に安らぎを覚えていた。
それだけの話だ。