第4話 記憶にない声、知っている気配 (国王・エルヴィン視点)
「……その目は、誰のものだ?」
我ながら奇妙な問いを口にしたと思う。だが、あのときは考えるより先に言葉が浮かび、唇からこぼれていた。
彼女──いや、“王妃”は、即座に答えた。
「……わたくしの、ものでございます」
即答。迷いも淀みもなかった。言葉というより、自分自身に打ち込んでいるような声だった。
だというのに、私の中に残ったのは“違和感”だった。声。目。雰囲気。すべてが“整っている”のに、どこかが、確実に違っていた。
……あの声を、私は知っていたか?
そう問うたとき、私はようやく気づいた。記憶に──残っていないのだ。
結婚からおよそ十ヶ月。
王妃が“王妃らしく”振る舞う場面など、いくらでもあった。成婚の儀。公式行事。静養に入るまでのわずかな公務。
けれどそのどれもが、私の中では「記録」にはあっても「記憶」にはなかった。
所作は優美。返事も的確。だが、感情の起伏は稀で、目を合わせれば逸らされる。私は、彼女のことを何一つ理解していなかった。
──今日までずっと、そうだった。
だが、今日の彼女は違っていた。私の問いに真正面から向き合い、まるで“生きた人間”として会話をしていた。それが何より不可解だった。
そして、初めて“王妃と目が合った”気がした。
私は、机上の一冊を手に取った。表紙に紋も署名もない、ただの無地の革装。
──影務局の記録帳だ。
王宮の“表に出ない裏層”を担う者たち。儀礼、統制、情報操作、そして時に“人格の代行”すらも…… 影の袖と呼ばれるその者たちは、この国の均衡を“誰にも知られぬ形で”支えている。
今日の謁見も、彼らの目に映った記録がこう記されていた──
『態度、所作、言葉遣いに異常なし。演技性も認められず』
……それが、逆に奇妙だったのだ。
私には分かる。あの返答に、感情の重みが含まれていた。あの目が、“まなざし”としてこちらを捉えていたことを、私の胸は覚えている。
犬がいた。白い毛並みに、静かな立ち姿。足元に控えたそれが、私と目を合わせた瞬間。
まるで言葉を交わしたような感覚すらあった。
(──彼女を、守っている)
犬にそこまでの意志があるとは思わぬ。だが、あれは明確に“誰かを選んでいた”目だった。
その隣にいたからこそ、彼女は微かに笑えたのだろう。
そして私も、あのときだけは、ほんの少しだけ声の底に温度を感じてしまった。
夜。静まり返った執務室で、私は“以前の王妃”からの書簡をいくつか読み返してみた。
整った筆跡。きちんとした敬語。不自然さはまったくない。だが、妙に“完璧すぎる”文面だった。挨拶と報告のみ。私信も、感情も、何も見えない。
(……私は、誰と夫婦だったのだ?)
即位後の混乱の中、政略に従い、国益に適った妃を迎えた。反発はなかった。期待も、なかった。“形式”として割り切ったその関係に、悔いはない──はずだった。
なのに今、私は戸惑っている。
「今日、話したあの人の目の方が、ずっと“人らしかった”と感じてしまった」
それは、おそらく罪だ。だが、ひとは“記憶”よりも、“記憶に残る瞬間”を信じてしまうものだ。
「……陛下」
扉の向こうから、クラリスの声が小さく届いた。今宵の見回りだろうか。彼女もまた、きっと“何か”を察している。
私は答えない。ただ、書簡を閉じ、視線を月へと上げた。
“今日の王妃”は、明らかに別人だった。──けれど、私はどちらの彼女の声も、否定できなかった。
この沈黙を破るのは、真実か、嘘か。それすらも分からないまま、私は灯を落とした。
月の光だけが残る執務室で、背中に静かに、違和感が降り積もっていくのを、私は黙って受け入れていた。
王様視点なので、もふもふコメントはなく…セリナと親しくなったら…ですかね(^_^;)