生まれ変わった騎士は自分を殺した相手に溺愛される〜夫となったのでともに復讐しようと思います〜
それは地獄の日々だった。
血、血、血。
血溜まりの中を生きていく。
それは敵の血か、味方の血か。
わからない中をひたすらに進む。
進んで進んで進んだ先に、勝利があると信じて――。
その日は皮肉にも晴れ渡った青空だった。
大きな戦争に勝利し、盤石な国となったガリオスト王国では、国を上げての盛大な宴を催していた。
みなが勝利の宴に酔いしれ、楽しげに語らう会場。
――そこで、それは起きた。
「――これはどういうことだ!?」
騎士服を身に纏った女性が一人、他の騎士に拘束されてやってくる。
真っ赤な髪と瞳を持つ美しい騎士は、国王の前に連れてこられると、その身を地に伏せられた。
「――陛下! 国王陛下! 私がいったいなにをしたというのです!?」
敬愛していた。
この人ならこの国をよりよいものとしてくれるだろうと。
だから剣を持った。
生まれ育ったこの国を守るために。
――そのために、この手を血で染め上げたというのに。
「聞け! 皆のもの! このガーネット・ルウェルは騎士団の団長という立場でありながら、謀反を企てた! ――よって今、ここで処刑する」
「……なにを…………おっしゃっているのですか?」
ガーネットは地に付したまま、頰に土をつけながら敬愛する王を見上げた。
なにを言われているのかわからない。
謀反?
そんなはずがない。
今までどれほど苦しくとも、我慢してきたのは国のためだ。
ガーネットの命は、ただひとえにこの国の民たちのために――。
「処刑人。トリスタン・デバイアル。ここに」
「――はっ、国王陛下」
ガーネットの赤い瞳が、一人の男を捉えた。
その男は長い間ガーネットを支え続けた腹心、トリスタンだ。
彼は紫色の髪を乱し、さめざめとした青い瞳をガーネットへと向ける。
「……なにが、起こっている?」
呆然と呟くガーネットの前に膝を折った国王は、その耳元でそっと囁いた。
「脅威のなくなったこの国に、英雄はいらない。――お前がいると、騎士や民たちからの支持が下がる。……だから、死ね」
ガーネットの前から立ち去った王が手を振れば、両腕を持ち上げられ立たされる。
王に変わりやってきたトリスタンは、己の腰から剣を抜くとその切先をガーネットに向けた。
「――嘘だ。嘘だと言ってくれ、トリスタン……」
「……国王陛下の命令だ」
「――トリスタンっ!」
共に戦場をかけたのだ。
国のためと、ほかの隊の騎士たちがなにを言おうとも、トリスタンは女の身でありながら騎士団長を務めるガーネットを認めてくれた。
だから彼には、後ろを任せられたというのに。
「…………こんな、こんな終わりなのか?」
やっと戦争が終わったんだ。
この国に平和が訪れたのだ。
ガーネットはただ、そんな幸せな国で静かに余生を過ごせればそれでよかったのに――。
「わたしは……」
「なにをしているトリスタン! そいつを殺せ!」
こんなの夢だ。
ただの夢。
いつも通り目を覚ませば、王城に行って訓練をする。
仲間たちと笑い合い、トリスタンとも……。
「…………ガーネット。――すまない」
「トリ――」
燃えたぎる熱が、胸を貫いた。
その感覚は幾度となく味わってきたものだ。
肉を裂かれる感覚は、戦場で嫌というほど知っていた。
腹を刺され、急死に一生を得たこともある。
だからこそわかるのだ。
――これは、もう助からないと。
「――ッ!」
胸を貫いた剣が抜かれる。
血潮が飛び散り、口からも血が溢れ出た。
両手の拘束が解かれ、ガーネットはそっと己の胸元に手を当てる。
とくとくと脈打つそれは、ゆっくりと弱くなっていく。
「よくやったトリスタン! これで邪魔者は消えた。約束どおりお前を騎士団長にしてやろう」
「…………」
ああ、そういうことかと、ガーネットは納得してしまった。
敬愛する国王に裏切られたこと。
仲間だと思っていた騎士たちに裏切られたこと。
どちらも耐えがたい悲しみだったのに。
それよりもつらいのは、信頼し背中を任せた腹心に裏切られたことだ。
それも、そんなことのために。
「…………私は、馬鹿ものだな」
頰になにかが伝う。
それは涙かはたまた血か。
そんなことすらわからないほど、この体は消耗し切っていた。
己の命もあと数秒かと崩れるように膝をついた時だ。
「その必要はありません」
「――トリスタン、なにを……!?」
ガーネットの目の前に、またしても血飛沫が飛び散った。
それはもちろんガーネットのものではない。
目の前の、トリスタンのものだった。
彼は自らの首元に剣を突きつけると、躊躇うことなく引き抜いたのだ。
「……トリ、スタン?」
倒れ込むトリスタンの体は、ガーネットの元へとやってきた。
その体重を支えきれず、ガーネットはトリスタンに押し倒される。
真っ赤な瞳に、青々とした空が映る。
「――ひとりでは、いかせない」
「……トリスタン、なぜ?」
「……国王の、命令には逆らえない」
そうじゃない。
どうしてこんなことをするのだと、ガーネットは最後の力を振り絞って彼の体を押す。
力のないトリスタンの体は、ガーネットの横に倒れ込んだ。
「……なぜ、おまえがしぬ、必要っ、は!」
騎士団長になるのではなかったのか。
睨みつけるようにトリスタンを見れば、彼は穏やかな瞳をガーネットに向けた。
「お前を……他のものに殺させたくなかった……」
トリスタンの手が伸ばされ、ガーネットの頰に触れる。
この手に刺されたのだ。
今まさに命を落とそうとしているだ。
全てはこの手が原因なのに。
「誰にも、お前を穢させたくなかったんだ……」
どうして、この手はこんなに優しいのだろうか?
「トリスタン……おまえ、ばかだな……」
「そうだ。……そんなばかなおれの、ねがいをきいてくれるか?」
視界が揺らぐ。
体はとうに冷め切って、息をしているのが不思議なくらいだ。
「……ね、が……ぃ?」
もはやこの瞳は機能しない。
真っ暗な世界の中、最後まで彼の声だけが聞こえてくる。
「……かならず、さがしだす……から」
頰を撫でられている気がするけれど、もうほとんど感じない。
「おまえの、めを、……わすれない、から」
自分の終わりが、訪れる。
「あいしてる――ガーネット」
「サボってるんじゃないわよ、レオノーラ!」
「……申し訳ございません。義姉様」
「全く! これだから怠けものは……。お母様に言いつけるわよ!?」
レオノーラ・ホリーン。
ホリーン伯爵家に生まれたレオノーラは、数奇な人生を送っていた。
父は伯爵、母は子爵という血筋。
彼女は由緒正しき伯爵家に生まれながらも、普通の令嬢とは少し違っていた。
体は誰よりも弱く脆い。
少し外出しただけでもすぐに熱を出すような子どもだった。
体が大きくなるにつれ少しは強くなったけれど、それでも普通の令嬢のようにはできなかった。
それでも優しい両親は笑顔で許してくれた。
そんな彼女の日々が変わったのは、母が亡くなってからだ。
まだ幼いレオノーラを哀れに思ったのだろう。
父は新たな母を連れてきた。
『新しいお母様だ。レオノーラを愛してくれる人だよ』
『――はじめまして』
平民であった女は、そばにレオノーラと同い年の娘を連れていた。
そんな女が、前妻の子どもをかわいがるはずもない。
女と結婚した数年後、父が他界し状況は大きく変わった。
――それからのレオノーラの暮らしは、最低最悪なものだった。
朝は誰よりも早く起きて井戸の水を汲む。
寒い日の水仕事は、手の感覚がなくなるのが嫌だった。
そして義母と義姉が食べる食事を作り、食器の片付けから洗濯掃除まで、まるで使用人のような仕事をさせられた。
――本当なら、レオノーラがこの家の女主人であるはずなのに。
父の急死のせいで遺言書もなく、レオノーラはこの家で肩身の狭い思いをしていた。
――なんてかわいそうな人生なのだろうか。
このことを知ったものたちは揃ってそういうだろう。
悲劇だと。
だがそうは思わないものもいた。
レオノーラ本人だ。
「そんなことする前に、義姉様は結婚を急いだほうがよろしいのでは……? お母様もつねにそれを気にして――」
「あんたには関係ないでしょ!?」
「お母様が心配されてました。義姉様の縁組を……」
「うるさい! 私のことは白馬の王子様が迎えにきてくれるからいいのよ!」
頭を叩かれそうになったレオノーラは、それを無意識にサッと避けた。
その後すぐにしまったと思ったがもう遅い。
義姉はカッと顔を赤らめると、先ほどよりも強い力でレオノーラの頰を叩いた。
「さっさと掃除しなさいよ! この、役立たずが!」
義姉はそれだけいうとドスドスと足音を立てながら、自らの部屋に戻って行った。
叩かれ腫れた頰をさすりつつ、レオノーラは窓から空を見上げた。
青々とした空は、忌々しい記憶を蘇らせる。
――レオノーラには己ではない記憶がある。
いや、自分ではあるのだ。
だがレオノーラではない。
摩訶不思議な記憶のことを、ガーネットの記憶と呼んでいる。
騎士として誇り高い人生を歩み、最後には策略によって死した女。
「――トリスタン……」
彼は今、どこでなにをしているのだろうか?
「パーティー!?」
「そうよ。王宮で行われるパーティーに呼ばれたのよ!」
「本当に!? それじゃあ王子様に会えるのね……! 私、みそめられたらどうしましょう!?」
「年頃の女性は身分関係なく呼ばれているらしいけれど……あなたが一番可愛いんだから、自信を持って! そして私を楽させてちょうだい!」
夢物語を話しているなと、レオノーラは床掃除をしながら思う。
父を亡くし家長を失ったとき、父方の親族がこの家にやってきた。
新たな伯爵となるために。
しかしそんな男性を継母は籠絡しようと企み、その作戦は失敗。
男性は去ってしまい、仕方なくレオノーラが伯爵代理をしているがそれも長くは続くまい。
継母はこの生活を手放すまいと、あれこれ手を打って自分の都合のいい男とレオノーラを結婚させようとしているが、そんなことを許すつもりはなかった。
今はまだ保護者が必要な年齢だから我慢するが、必ずこの家から出て行ってやるとレオノーラは企んでいた。
そんな中届いた王宮からの招待状。
国中の娘を招待する理由はただ一つ、年頃の王子の結婚相手を探すためだろう。
屈みすぎて痛む腰を拳で叩けば、それを見ていた義姉に笑われた。
「見てお母様。レオノーラはやっぱり使用人がお似合いよね」
「一応レオノーラにも招待状は届いているけれど……ねぇ? 恥ずかしいじゃない? 我が家からこんなのが出ていくなんて……」
心配されずとも行くつもりもない。
――王族なんて、二度と関わり合いたくない。
頭の奥底にある王族との記憶は、最低最悪のものだからだ。
「でもお母様? 私の引き立て役が必要だとは思わない? レオノーラならぴったりよ!」
「――それは……確かにそうね」
ニヤリと笑う継母の顔に、レオノーラはそうそうに諦めることを決めた。
この笑顔のあとに言われることを拒否しようものなら、一週間は飯抜きになってしまう。
「灰色女にはお似合いの立場よねぇ」
義姉は美しい桃色の髪と真っ赤な瞳を持っている。
まるでガーネットのようなその瞳に魅了され、彼女が平民だと知りながらも求婚者が続出していた。
対してレオノーラはくすんだ灰色の髪に同色の瞳。
血筋も確かなレオノーラだが、その見た目のせいか求婚者が現れることはない。
そんな対極にいる二人が一緒にいれば、確かに義姉に注目が集まる可能性は高い。
「かわいそうなレオノーラにもドレスをあげなくちゃ。私のお下がりでいいかしら?」
「そのかわりあなたには最新のドレスを作らなくちゃ。さ! 仕立て屋さんに行くわよ」
「はーい! たっのしみー!」
るんるんで出ていく二人を見送りつつも、レオノーラは雑巾を片手に部屋を出ていく。
次は廊下を掃除して、その後は昼食の準備をしなくては。
父と母が残してくれた伯爵家の財産もほとんど食い潰され、今この屋敷にいる使用人は片手で数えられる程度だ。
だというのにあの二人は節約というものをしたくないらしく、残り少ない財産も湯水のように使っていく。
これではそろそろ本当に伯爵家がなくなるかもしれないなと、大きめなため息が出てしまう。
まあいざとなったらこの腕っぷしで生きていけばいいだけだ。
とはいえ体は弱く、少し無理をするだけで熱が出てしまう。
それでもレオノーラは己の腕に自信がある。
熱が出ようと血反吐を吐こうと、この体は動くのだ。
「――お昼ご飯のあとは、訓練をしよう」
木の棒を振るだけの日々だが、いつかこの腕だけで生活していく日がくる。
その日のためにも、日々精進だ。
「よし! さっさと終わらせよう!」
そしてやってきたパーティーの日。
レオノーラは義姉のお古のドレスを着て王宮へと向かった。
思えばパーティーに参加するのはこれが初めてだ。
社交界デビューの年齢になった際父が亡くなり、バタバタしているうちにタイミングを逃してしまった。
もちろん義母がお膳立てしてくれるはずもなく、レオノーラ自身もそういったことに興味がない。
ゆえに先伸ばしにしていたのだが、まさかこんな形でパーティーに出席することになるとは。
「…………」
前世の記憶を辿る。
昔は両親ともに厳しくて、ガーネットを令嬢としてあるべき姿に納めようとした。
けれどそんな時に出会ったのが、トリスタンだった。
彼はガーネットに望むべき道を示してくれた。
それからというもの、ずっと一緒にいたのだ。
戦場では常に後ろに控えてくれて、背中を心配することはなかった。
彼だけは……。
彼だけは、最後まで味方でいてくれたのだ。
――己の命をかけてまで。
探し出すといってくれたけれど、きっと無理な話だ。
この広い世界で出会うことはできないし、なにより彼の言った目印がない。
ガーネットのような瞳は、もう持っていないのだから。
「レオノーラ! ぼうっとしないで。私の後ろについてなさい」
「……はい」
今日のレオノーラの仕事は、義姉を引き立たせること。
彼女が王子にみそめられれば、伯爵家から出ていくのだ。
そうすればレオノーラはあそこで一人、ゆったりと暮らせる。
毎日朝起きて剣を振り、食事をして馬を走らせる。
そんな日々を、早く過ごしたいものだ。
「私が一番綺麗だわ。……そうは思わない?」
「そうですね」
「かわいそうに。ここにいる人たち全員負け組なのに、あんなに着飾って……。勝ち目なんてないのに」
周りの令嬢たちを蔑んだ目で見回す義姉にほとほと呆れていると、不意に音楽が鳴り響いた。
王族たちが入ってくるらしい。
社交界のことは前世の記憶で知っていたからか、すぐに端によると頭を下げた。
国中の女性を集めたからだろう。
礼儀作法を知らない人もいるらしく、数人困ったように立ち尽くしていた。
その中には義姉もいる。
「国王陛下、王妃陛下、王太子殿下ご入場です」
王族たちが入場する。
人々が息を呑む音が聞こえる中、レオノーラは小さく義姉に声をかけた。
「義姉様、頭を下げてください。そうじゃないと……」
「……むりよ。なんて素敵な人……」
せめて義姉が無礼だと叱られぬよう声をかけたが、返ってきた返事は気もそぞろなものだった。
一体なにがあったのだと、少しだけ顔を上げる。
道の真ん中を歩く王族たちを見て、レオノーラは大きく目を見開いた。
「――」
金に近い茶色の髪に、紫色の瞳。
見覚えがある。
いや、ないはずだ。
この国の王族なんて会ったこともなければ見たこともないのだから。
――なのに。
どうして胸が熱く燃え滾るのだろう。
まるで前世の記憶で覚えている、殺されたあの瞬間のようだ。
この胸に突き刺さる剣の熱さ。
自分のか、それとも彼のものが。
血潮の熱を、思い出してしまう。
「……トリ――」
慌てて口を塞ぐ。
その名を口にしていいはずがないのだ。
ありえない。
こんなに大きな世界で、出会えるはずがないのだから。
「――王太子殿下?」
ざわつきが耳に届く。
なにごとかあったのかと、もう一度前を見れば、王太子はこちらへと顔を向けていた。
「――……」
「…………王太子殿下?」
いや、違う。
彼が見ているのは……義姉だ。
その瞬間レオノーラの胸にいいしれぬ不安が溢れ出た。
義姉の瞳は赤い色だ。
まるでガーネットのような。
そしてトリスタンは言ったのだ。
この瞳を忘れることはないと。
「…………」
もしだ。
もし彼が義姉の瞳を見たのだとしたら。
彼女を、ガーネットだと勘違いしたのなら……。
「オーウェン? どうしたの……?」
心配した王妃が話しかけて、そこでやっと王太子は己の行動に気づいたらしい。
ハッとしたように瞬きを繰り返した王太子は、軽く首を振ると会場の奥へと向かう。
「…………今の見た? 王太子殿下は私をみそめたのよ」
「……そう、みたいですね」
なんだか息が苦しい。
久しぶりにきたドレスのせいかもしれない。
ああ、これはきっと熱が出るなと背中を伸ばす
王族たちの後ろ姿を眺めつつも、惚ける義姉に小声で話しかけた。
「だとしても無礼は……」
「私が王妃になるんだからいいでしょ」
まだ決まったわけでもないのに、どうしてそんなに自信満々にできるのだろうか。
下手をしたら王族への非礼で、一族もろとも処罰されてしまうかもしれないのに。
目立ちたくないと願いつつも、無理だろうなと義姉を見つめる。
「――今日みなに集まってもらったのは他でもない。我が息子、オーウェンの伴侶を見つけるためだ」
国王の演説が始まり、みなが黙り込む。
年ごろの令嬢たちは王太子、オーウェンに夢中だがそれでも王は話を続ける。
「オーウェンは自らが選ぶものと結婚すると言ってきかないのだ。ゆえに、この国の年ごろの令嬢を可能なかぎり集めさせた。――オーウェン。今日こそ妃を決め、この王を安心させてくれ」
「…………はい、父上。――可能なかぎり努力いたします」
令嬢たちから黄色い悲鳴が上がる。
それはつまり、この中からこの国の妃が決まるということだ。
誰も彼もが自分が選ばれるかもしれないという夢を抱き、希望に瞳を輝かせる。
もちろん、レオノーラの隣にいる義姉もそうだ。
「私に決まってるわ。――ああ! 私が王妃なんて……さいっこう!」
そんな声を聞きながら、レオノーラはぼうっと王族たちを眺める。
もし本当に王太子がトリスタンだったとして、どうなるというのだ。
あの時のことを覚えているとも限らない。
義姉のいうとおり、ただ純粋に彼女に惹かれただけかもしれない。
もう忘れよう。
過去の記憶は。
そもそもこれは、レオノーラのただの夢物語かもしれないのだから。
今は一秒でも早くこのパーティーが終わるよう祈るしかない。
そんな思いで視線を逸らそうとした瞳に、王子の紫色の瞳が映る。
「――」
離れているのに。
こんなにたくさん人がいるのに。
どうして目があったと思えるのだろうか?
他の人を見ているのかもしれない。
それこそ義姉をその瞳に映しているに違いない。
そう思うのに。
――どうして目が、離せないんだろうか。
「――安心してください、父上」
「オーウェン?」
「今、見つかりました」
オーウェンはそれだけいうと令嬢たちに向かって足を進める。
まっすぐ、迷いない足取りで。
「――! 私だわっ! 王太子殿下は私に結婚の申し出をなさるつもりよ!」
義姉が興奮した様子でいう中、レオノーラはそれに応えることはできなかった。
こちらに向かってくるオーウェンから、目が離せないのだ。
彼は本当に義姉に告白するつもりなのだろうか……?
「――……っ」
そう思うと胸がツキンっと痛んだ。
なぜこんな気持ちになるのだろう?
やはり明日は熱が出そうだとため息をついた時だ。
目の前で足音が止まった。
「…………」
やはり目が合う。
色も形もなにもかも違うのに、どうしてこんなに懐かしさが胸に溢れてくるのだろう。
オーウェンはやはり、トリスタンなのだろうか……?
「――君は」
「王太子殿下! 私はここです!」
オーウェンの言葉を遮ってレオノーラの前にやってきた義姉は、少しぎこちないカーテシーをしてみせた。
この日のためにと練習した成果があったのだろう。
新品のドレスや豪華なアクセサリーも相まって、令嬢のような立ち居振る舞いだ。
だがしかし義姉は顔を上げると、すぐにオーウェンの胸元に飛び込んだ。
「さっき目が合いましたのは私です! 結婚のお申し出を私にしてくださるのでしょう!?」
レオノーラは自分の顔から血の気が引くのがわかった。
レオノーラとしては社交界に出ていないものの、ガーネットとしての記憶ならあるのだ。
王族に対する非礼の結末がどうなるかを。
慌てて義姉をオーウェンから引き剥がすと、必死になって頭を下げた。
「申し訳ございませんっ! 義姉がなんという無礼を……!」
最悪首が飛ぶことになると止めたが、そんなことを知らない義姉はレオノーラの腕を振り払った。
「無礼はあんたよ! 私は未来の王妃なのよ!? 軽々しく触るんじゃないわよ、この灰色女!」
「義姉様……」
ああ、最悪だ。
これはもう一族もろとも打首になってもおかしくはないだろう。
終わった……と天井を仰いだレオノーラの耳に、穏やかな声が届けられる。
「――ガーネット」
レオノーラは大きく目を見開きながら、ゆっくりと顔を元に戻す。
――今、オーウェンはレオノーラのことを……。
「ガーネット? あ、ええ! 私の瞳を褒めるとき、男性はいっつもガーネットのような美しい瞳だねといいます」
義姉はわざわざオーウェンとレオノーラの間に入って、大袈裟なくらいの身振り手振りで話す。
だがしかし、オーウェンはそんな義姉を無視して、レオノーラの腕を掴んだ。
「ガーネット•ルウェル。――そうだろう?」
やはりオーウェンはトリスタンなのだ。
自分の勘が当たったこと、また出会えたことへの喜びが胸に広がるとともに、なんともいえない感情が滲んでくる。
――それは、後悔だ。
彼を――トリスタンを死に至らしめてしまったことへの後悔。
ガーネットのせいで自ら命を落とした彼に、本当に名乗り出ていいのだろうか?
共にいることでトリスタンに……いや、オーウェンにまた被害が及ばないとなぜ言える?
ガーネットが国王に目をつけられたから、あの悲劇は起きたというのに。
「……わ、わたし……は……っ」
ガーネットが言い淀んだその時だ。
大きな音を立てて、会場の扉が開かれた。
「――国王陛下っ! 王妃陛下! お逃げください! モーサー卿が――謀反です!」
「――なんだと!?」
扉の向こうから、聞きなれた音がする。
剣と剣が交わる甲高い音。
人々の悲鳴に、怒号。
嗅ぎ慣れた死の匂いに、気づいた時にはこの体は動いていた。
「――オーウェン!?」
王妃の声がする。
だがそんなこと気にならないくらい、この心は高揚していた。
いつだってガーネットはこの世界にいたんだ。
命をかけて戦う戦場。
己の居場所はここしかないと、本気で思っていた。
血反吐を吐こうが死にかけようが、這いつくばってでも生き抜いて。
最後はみんなで笑って酒を飲むのだ。
今日も生きていた祝いを。
亡くなってしまった命を弔うために。
泣いて笑って騒いで、そんな日々――。
「――!」
反乱軍だろう男たちが兵士たちと戦っている。
どちらがどちらかは鎧もさることながら、動きでおおよそ検討がつく。
責める側と責められる側は、どうしたって行動が変わってくる。
レオノーラは素早くそばにいた反乱軍の男の顎を蹴り上げると、その腰に携えていた剣を引き抜く。
「――ガーネット!」
「トリスタン! 私の背中は預けたぞ!」
剣が今この手にある。
ならやるべきことは一つだと口端を上げ、反乱軍に向かっていく。
いつもよりなぜか動きにくい気がして、なぜか履いているヒールを脱ぎ捨てた。
「なんだこいつは――っ!?」
「――戦場でおしゃべりは、死ぬだけだぞ」
鎧と鎧の接続部分。
そこを狙えばなんと脆いことか、
鎖帷子でもつけていればまだ違ったものを、この男は面倒だったのかなんなのか。
結局、その隙をつかれてしまったわけだ。
「お見事。首を一撃だ」
「出遅れるなトリスタン。お前の実力はそんなものではないだろう」
敵の首を突いた剣を引き抜き血を払う。
すぐに剣を立て構えれば、背中に温かな体温を感じる。
懐かしい。
いつだって戦場では、この温もりに守られてきた。
「殲滅するぞ」
「――騎士団長のお望みがままに」
そこからのことはもう、あまり覚えていない。
右に左に上に下に。
剣を振り相手を倒す。
そうすればいつも通り、戦場で立っているのはガーネットとトリスタンだけだ。
血に濡れた頰を手の甲で乱雑に拭えば、それを見ていたトリスタンが懐からハンカチをとりだし、わざわざ拭ってくれる。
これもまたいつもの――。
「………………」
「昔となにひとつ変わらないな」
そこまでして、レオノーラは目の前にいる人が【トリスタン】ではないことを思い出した。
そうだ。
彼は今、この国の王太子――オーウェンなのだ。
それなのにこんなこと……。
レオノーラは彼の胸元を押すと、慌てて距離を取った。
「――申し訳ございません。私は……」
「ガーネット。お前はガーネットで、俺はトリスタン。……それは変わらない」
せっかく距離をとったのに、あっという間に戻されてしまう。
またしても乾き始めてきたほおの血を拭きとられ、なんだか拍子抜けしてしまう。
今世でも彼になにか被害を与えてしまったらと不安に思っていたのに、当の本人はそんなこと微塵も感じていないようだ。
こうなったら今までどおりを突き通したほうがいいのかもしれない。
「……だがお前は王太子。私はただの伯爵令嬢だ」
「――伯爵令嬢なのか? ……なら都合がいい」
「都合? 一体なにを――」
オーウェンに腕を掴まれたと思えば、彼はさっさと会場の中へと戻っていく。
どうやら扉は固く閉められ、入り口には護衛の騎士たちがいたようだ。
そんなものたちの前であれだけの大立ち回りをしたのだ。
さすがに他のものたちからの視線が痛い。
だがそんなことを気にしていないのか、オーウェンはさっさと会場の扉を開けさせた。
「――おお、オーウェン! 無事だったのか。それで、モーサー卿は……」
「無事片付けました。それより父上にお話があります」
レオノーラの腕を引っ張ると己の隣までやってこさせ、その肩を優しく抱き寄せる。
「私の伴侶を見つけました」
「………………………………――は?」
「な、なにを言っている。オーウェン……その娘は……」
国王も驚いたことだろう。
やっと息子が認めた女性が現れたと思ったら、返り血まみれだったのだから。
しかも手には離し忘れた剣が握られているのだから、もはや救いようはないだろう。
髪はボサボサ、服は至る所が裂け、手には血塗られた剣。
まさかこんな姿で求愛されるとは思っていなかったレオノーラは、そういえばトリスタンは思い立ったら即行動するタイプだったと思い出し、額に手を当て天井を仰いだ。
これはもう、国王からの心情は最悪だろう。
終わった……と瞳を閉じようとしたレオノーラの耳に大きな拍手が届いた。
「なんということだ! 我が息子が叛逆者を退いただけでなく、未来の伴侶まで連れてくるとは!」
「ああ! 神様。なんと素晴らしい日でしょう! 私の息子がついに結婚するのね……!」
そんなバカなと、喜ぶ両陛下に驚愕の瞳を向けた。
血だらけで剣を握った令嬢なんて普通じゃない。
なのに皇后は急いで駆け寄ると、レオノーラの血濡れた肩に触れる。
「あなたが私の義娘になるのね! なんて嬉しいんでしょう!」
「え? いえ、あの……」
「このお祝いは盛大にしなくては! 陛下。今日はもうお開きとして、後日婚約発表のパーティーを開きましょう!」
「おお、そうだな。みなよ、驚かせたかと思うが安心してくれ。我が息子とその未来の妻が、無事解決してくれたからな!」
わああ、と拍手が湧き起こる。
おめでとうございますと、耳が痛いほどの喝采を聞きながら、レオノーラは呆然と呟いた。
「そんなバカな……」
あまりの展開に頭がショートしそうだ。
これは熱が出るなと己の額に手を当てたら、予想どおり熱かった。
まさかまさかの展開で、あれよあれよと連れてこられた王宮で、レオノーラはまるで王女のような暮らしをしていた。
広々とした綺麗な部屋で、優雅な朝のティータイム。
用意されていたサンドイッチを口に含めば、あまりの美味しさに頰を押さえる。
なんていい朝なんだとほっと息をつけば、隣からおかわりの紅茶が置かれた。
「朝はさっぱりしたものが好きだっただろう? レモンを入れておいた」
「…………」
相手が王太子でなければ、もっと落ち着けただろう。
「……あなたは王太子なんですよ? そんな使用人みたいなこと」
「俺以上にお前の好みを知ってる奴がいるか? それとも、なにか間違えてたか?」
「……ぐっ」
全くもってその通りだ。
さすがに長い時をともに過ごしてきたからか、ガーネットの好きなものを熟知している。
そしてガーネットのころ好きだったものは、レオノーラとなった今でも好きだ。
つまりは完全に胃袋どころか五感全てを掌握されたといっても過言ではない。
好きな色、香り、味。
目も鼻も舌も、全て好みのもので彩られている。
こんな状態で拒否なんてできるわけがない。
オーウェンに睨みを効かせつつも、ありがたく紅茶で喉を潤した。
「――美味しい。……本当に、トリスタンなのね」
「……そして君はガーネットだ。……とはいえ、今は違うんだからきちんとしないとな。改めて、フローレス王国王太子、オーウェン・フローレスだ」
「私はレオノーラ・ホリーン。ホリーン伯爵令嬢よ」
自分の前にも紅茶を置いたオーウェンは、そっとソファへと腰を下ろした。
「……その紅茶、やっぱり渋いの?」
「普通だろう?」
「私には渋かった」
色的にだいぶ渋そうだ。
そこも変わってないのだなと笑うと、オーウェンも穏やかな表情を浮かべる。
「では、レオノーラ。君はどこまで覚えている?」
「……ガーネットが覚えていることは、覚えているはずよ。あなたは……?」
「俺もだ。トリスタンが覚えていたことは……全て」
「…………そう」
つまりあの最後も、覚えているということだろう。
レオノーラはドクドクとうるさい心臓を落ち着かせるため、呼吸を深く吸い込んだ。
「……あの時の話を、聞かせてほしい。……トリスタンがガーネットを殺した……あの時のこと」
「……そうだな。急だったし、いろいろ知りたいだろう」
オーウェンは指と指を組むと、それをぎゅっと握っては力を抜くという動きを繰り返す。
あの癖は、言いづらいことを口にする時にやるものだ。
「……ガリオスト国王が無能だと言われていたのは知っているだろう?」
「……それは……」
若き国王はまだまだ知識も実力もなく、それなのに傲慢な態度に周りからそんな噂を立てられていた。
だがガーネットは信じていたのだ。
彼ならきっと、戦争ばかりだったガリオストを変えてくれると……。
「逆にガーネットは英雄だった。女の身でありながら騎士団長を務め、数々の国の危機を救った英雄。……国王がみにくい嫉妬心を抱くようになってもおかしくはなかった」
「……そうだったんだな。――私は、馬鹿だな」
そんな感情を抱かれていたなんて、全く気づいていなかった。
自分の鈍感さに嫌気がさしていると、そんなレオノーラを見てオーウェンは首を振る。
「お前は常に戦場にいたんだから、気づかなくて当たり前だ」
「……お前はいつ、その話を受けたんだ?」
「……戦場から帰ってすぐ。秘密裏に呼ばれて話をされた。なんとか国王を説得できないかと動いたが……無理だった」
申し訳ないと謝ってくるオーウェンに、レオノーラは瞬時に否定した。
「――お前が謝ることじゃない! ……私は……すまない。私が気づいていれば、お前まで死ぬことはなかったのに……!」
「…………なるほどな。お前が気にしているのはそこか」
オーウェンは立ち上がるとレオノーラの隣にやってきて、膝の上で震える彼女の手を握る。
「お前に置いていかれるよりいい。……お前のいない世界で生きていくより、共に死を選べたことが俺にとっては幸福だった」
「…………トリスタン」
「そしてまた会えた。それだけで……俺は幸せだ」
心から幸せそうに微笑むオーウェンに、それ以上なにかをいうことはできなかった。
彼はきっと謝罪も感謝も望んでいない。
「――…………お前、いつから……その、……私のこと……」
全くもって気がつかなかった。
トリスタンがガーネットにそんな感情を抱いていたなんて。
やはり自分は鈍いのだろうかと過去のことを思い出しては考えてしまう。
「お前に出会った時から好きだった。誰よりも輝いていたお前に、惹かれないわけがないだろう?」
「……剣を持ち馬で駆けるような女だぞ?」
「最高だろう」
最高なわけがあるか。
女性は大人しく物静かであればあるだけいいとされているのに。
己もいう存在を消し、夫のために尽くす。
それが求められる普通だというのに。
「……お前、変だぞ?」
「変でいい。それでお前と一緒にいれたんだから」
「…………」
ガーネットであった頃、トリスタンのことを男性として見たことがなかった。
自分の部下であり、仲間。
背中を預けることのできる唯一の相手。
それがまさか……。
「……本当に結婚するのか? 私と」
「もちろん。両陛下も乗り気だ。――そちらのご両親には挨拶ができなかったな」
「……調べたのか? 一応義母と義姉がいるが」
義姉を思い出したのか、トリスタンはハッと鼻を鳴らす。
「自分こそが王太子妃になるのだと騒ぎ立てていたから、牢屋に入れておいたんだがな。……母親も同じようにしてやるか?」
「不要だ。縁が切れればそれでいい」
「なら金でも握らせて他国に住まわせよう。お前が気にすることのないように」
「私は――」
と、そこまで口にしてハッとした。
どうもオーウェンと一緒にいると、ガーネットの時の口調とレオノーラとしての口調が混ざってしまう。
これはわけがわからなくなりそうだからと、改めて自身がレオノーラであることを心に刻む。
「……ありがとうございます。」
「礼には及ばない。――そういえば……体が弱いのか? 熱を出したと聞いたが」
「……ええ。生まれた時から無理をするとすぐに熱が出てしまうの。……だから昔のようには動けないの」
「そうか。まあ、王太子妃になるんだから、剣を握る必要はないだろう」
「…………剣を握ってはだめ?」
わかっている。
王太子妃が剣を持ち振るうなんてあってはならないことだ。
だがレオノーラとしては、可能ならば剣は持ち続けたい。
剣の道は、ガーネットが生きた道だ。
「いや。持ちたいなら持てばいい。――王太子妃ともなればその身を狙われることもあるだろう。自分で自分の身を守れる王太子妃なんて、最高じゃないか」
「……そんなことをいう王子は、あなたくらいよ」
「最高だろう?」
今の会話で、なんだかいろいろなわだかまりのようなものが溶けた気がした。
オーウェンが自分を認め、必要としてくれるかぎりはもう大丈夫だと思える。
「――ありがとう」
「こちらこそ。結婚の申し込みを受けてくれてありがとう」
「…………っ」
申し出を受けたつもりはないが、実際そういう状況になっていることになにもいうことができない。
王宮にやってきたのも、結婚のためだ。
まさか自分が王太子妃になるなんて、思ってもいなかった。
「……改めて聞くけれど、本当に私でいいの?」
寝食を共にしたことはある。
だが彼からそういった雰囲気を一度も感じたことがなかった。
だから安心してトリスタンに背中を任せていたというのもあるのだが……。
「ガーネットにこの思いを伝えることは一生なかっただろう。けれどお前はガーネットじゃない。だから伝えることができる」
オーウェンはソファから立ち上がるとレオノーラの元へやってきて、足元に跪いた。
「レオノーラ・ホリーン。――俺と、結婚してください」
王太子妃としての日々は、想像よりも忙しかった。
なにより大変だったのは結婚式だ。
その日は誰よりなにより美しくあれと、まずは食事制限から始まった。
フルーツやサラダをメインとして、炭水化物はほとんど食べれない。
姿勢の矯正に宮廷の礼儀作法を叩き込まれ、激痛マッサージを受けながら髪の手入れも怠らない。
これなら戦場のほうが楽だったかもしれないと思うほどの目に遭いながら行った結婚式は、思っていたよりもずっと幸せなものだった。
ちなみにそのあとのことはあまり思い出したくはない。
……結婚初夜は滞りなく済んだ。
それで全てを察してほしい。
「レオノーラ。これを見てほしい」
「なに……?」
夜、二人の寝室にてレオノーラはベッドでのんびりしていた。
深い緑を基調にした部屋は、レオノーラのお気に入りだ。
そんな寝室で本を読みながらオーウェンを待っていたのだが、やってきた彼から一枚の紙を渡される。
「…………これ」
レオノーラは紙に書かれた内容を読み、勢いよく顔を上げた。
「――ガリオスト国で革命……? これっ!」
「あれから二十年余り、ガリオスト国王は暴虐の限りを尽くしていた。そんな中、騎士団が叛逆の意思を持ち、立ち上がった。今あの国は内乱の嵐だ」
「……騎士団って…………」
「先頭に立ってるのは騎士団長、アルム。……俺たちの部下だった男だ」
アルム。
その名前は覚えている。
ガーネットとして戦場に立っていた時、側仕えとして共にいてくれた男の子だ。
はじめはトリスタンに憧れて戦場へとやってきたようだったが、最後のほうにはガーネットにも懐いてくれていた。
まるで弟のように接していた彼が今、騎士団長としてあのガリオスト国王に反旗を翻しているなんて。
「……結局、あの国は戦いばかりなのね」
やっと外との戦いが終わったと思ったら、次は中での戦いだ。
元より疲弊していた民たちも、やっと平和な国が戻ると思っていたはずなのに、結局国王の圧政のせいで内乱が起きてしまった。
「戦況は五分五分。だが国民たちの指示は騎士団に向いている。……俺はそこを利用する」
「……どういう意味?」
「俺はずっとガリオスト国王に復讐する機会を伺っていた。……それがやっと、果たされるんだ」
復讐、と聞いて胸がつきんっと痛んだ。
まるでないはずの傷が痛むようで、そっと胸元の服を鷲掴みにした。
「……復讐、ね」
「……興味がないか?」
オーウェンからの問いに、レオノーラは鼻で笑う。
「自分の復讐には興味ないわ。……でもね、私が命をかけ守ったあの国をそんな状況にした。……それは許せないわ」
もちろんそれだけじゃない。
かの王はその野心ゆえにトリスタンの命まで、自らの手で葬るという選択をさせたのだ。
いくらトリスタン自ら選んだこととはいえ、許されることではない。
トリスタンが剣を己の首に当て、引き抜くその姿を一生忘れることはできないだろう。
「……よかった。最初にガリオスト国のことを想うのは、ガーネットらしい」
「もちろんトリスタンのことも思ってるわよ」
「ありがとう」
頰にキスを落とされて、一瞬で顔を赤くした。
さすがにまだそのようなスキンシップには慣れていないので、不意打ちはやめてほしい。
不意打ちじゃなければ大丈夫なのかと聞かれたが、答えは出さなかった。
「我が国から支援という形で軍を出す。……その全権を任された」
「……なるほど」
オーウェンの力量を疑うことはない。
彼のことだから完璧に勝利して帰ってくることだろう。
トリスタンとして共にいた時から、彼の戦略は常に完璧だった。
だから任せておけばいい。
レオノーラはここで、王太子妃として待つことが仕事なのだから……。
「…………オーウェン。お願いがあります」
「――なんなりと」
まるでなにを言われるかわかっているような表情を向けられ、レオノーラは若干顔を歪める。
だがすぐに表情を戻し、真剣な眼差しをオーウェンに向けた。
「……私も、ともに行きたい。王太子妃として相応しくないのはわかっているわ。でも……」
「いいんじゃないか? 自ら先陣に立ち戦う王太子妃。……俺の妻にふさわしい」
そんなわけあるかと思いながらも、あのパーティーの時の両陛下を思い出してしまう。
血に濡れ剣を持つレオノーラを、息子の嫁だと認め喜んだ姿を思い出してしまった。
「……それじゃあ」
「二週間後だ。それまでに少しでも体力をつけろ。……戦場で熱を出している場合じゃないだろう?」
その通りだ。
レオノーラの体は弱く、無理をすればすぐに熱を出してしまう。
あと二週間の間に可能な限り体力をつけ、足手纏いにならないようにしなくては。
「明日から食事の量を増やして、運動量も増やします」
ぐっと力強くガッツポーズをしたレオノーラの腕を掴み、オーウェンは彼女の体を押し倒す。
「"俺のため"にも体力をつけてもらわないとな?」
「――っ! こ、のっ! 馬鹿!」
久しぶりにやってきたガリオスト王国は、悲惨なものだった。
ガーネットたちが戦ったあの戦時から、もう二十年近く経つというのに。
田畑は荒れ果て、人々は飢餓により息絶えていた。
道に痩せ細ったものたちは倒れ、町から外れた草原には積み上がった死体が腐臭を放っている。
こんなことになるまで王はなにをしていたのだと、レオノーラは唇を噛み締めた。
「――騎士団だ!」
「騎士様! どうか国王を止めてください!」
「騎士様! 騎士様!」
国民たちの不満は相当なものだったのだろう。
騎士たちが姿を現すと、まるで地響きのような歓声が上がる。
人々は瞳に強い懇願の色を滲ませながら、騎士たちの姿を眺めていた。
「……ひどい有様ね」
「国王は圧政を敷き、民たちからありとあらゆるものを搾取した。この国のものたちは飢えに飢え、明日を生きることもできない」
「…………」
どうしてこんなふうになったのだろうか?
あの時、ガーネットが国王の正体に気づき止めていたら、この国の未来は変わっていたのだろうか?
「余計なことを考えるな。……ありえないことを考える必要はない。俺たちにできることを、今からするんだろう?」
「――そうね」
レオノーラとオーウェンは騎士団の仮拠点へと向かい、騎士団長と謁見することになっていた。
平地にテントを建てた仮拠点にやってきた二人は、馬を降りると一際大きなテントの中へと入る。
「――」
「――ご助力、感謝します」
テントの中には、懐かしい顔ぶれが揃っていた。
ほとんどの人間がその昔、ガーネットの部下だったものたちだ。
思わずこぼれそうになる言葉を止めるため口を押さえれば、そんなレオノーラの前にオーウェンが出た。
「――フローレス王国王太子、オーウェン・フローレスだ。彼女は私の妻、レオノーラ・フローレスだ」
「…………騎士団団長、アルムです。……まさか、妻付きでやってくるとは思いませんでした。――この戦いを舐めてると思われてもおかしくない行動ですね?」
アルムの眉間に皺がよる。
内乱によるものなのか、彼の左頬には刀傷が残っていた。
周りにいるものたちもみな、片目を包帯で隠すもの、片腕を吊っているもの、そもそも片足がないものがいて、この内乱の悲惨さがわかった。
「あなたの国にとっては他人事でしょうが、我が国の民たちにとっては明日を生きるための戦いです」
切実な思いが伝わってくる。
王国に仕える騎士たちが、その王国に反旗を翻したのだ。
それは騎士としてあるまじき行為であり、騎士の名を捨てたといえる。
その名に誇りを持っていた彼らにとって、それは死に近い行動だ。
だがそれをしてでも国王に牙を向いたのは、ひとえにこの国のためだろう。
「無駄に戦場を荒らすくらいなら、助力不要です」
切羽詰まった雰囲気が伝わってくる。
さすがにこれ以上はかわいそうだと、レオノーラは前に出た。
「失礼しました。我々はなにも、遊びでここにきたわけではありません。……あなたたちを救いにきました」
「――部屋で守られるだけの王太子妃になにができると? 戦場を舐めないでほしい」
鼻で笑うアルムに、レオノーラは軽くため息をつく。
彼らはどうやら忘れているようだ。
――戦場に、女子どもは関係ないと。
レオノーラはマントを翻すとまず、左にいた男の顎を下から手のひらで押し上げる。
これだけで脳震盪を起こし、しばらく動くことは叶わない。
「――な!」
次に右にいた男の腹を膝で蹴り上げ、上半身を曲げた瞬間に後頭部に肘打ちを叩きつける。
あっという間に二人倒れた。
「――全員、戦闘体制……!」
もう遅いと、指示を出す男に回し蹴りを喰らわし、左隣の男も巻き込み倒す。
後ろから羽交締めにしようとしてきた男の喉に肘を穿ち、呼吸を止める。
この間二十秒にも満たないだろう。
レオノーラはアルムを除く五人の男を、一瞬で再起不能にして見せた。
「――戦場に、女子どもは関係ありません。……違いますか?」
ズボンの膝あたりをはたきながら前を向いたレオノーラを、アルムは驚愕の眼差しで見つめてくる。
「…………」
「私は、遊びでここにきたわけではありません。オーウェンとともに、あなたたちを――」
「――ガーネットさま……」
ぼそりとつぶやかれた名前に、今度はレオノーラが目を見開く番だった。
瞳を涙で揺らしたアルムは、しかしすぐに気がついたのか乱暴に拭う。
「……失礼。……尊敬するかたに似ていらっしゃったものでして……」
レオノーラはちらりとオーウェンを見るが、彼は軽く首を振った。
アルムに会うということで、事前に己たちの正体を話すかどうか決めていたのだ。
戦の前にするべき話ではないという結論になり、こちらの正体は折を見て告げることになったのだが、アルムの様子を見てレオノーラの心が揺らぐ。
「――あの人も、現国王のせいで亡くなったのです。誰よりも民を思い、前線で戦った国の英雄。……トリスタン様とともに、我々騎士の憧れでした」
レオノーラに倒されたものたちも、地面に座りながら涙ぐんでいる。
「我々はあの日からずっと……国王を討つべく裏で同志を集めていました。――そして絶好の機会がやってきたのです」
アルムは溢れる涙を止めることができないのか、ぐすりと鼻を鳴らす。
「王の圧政に耐えられなくなった国民たちが立ち上がり、我々に大義名分が与えられたのです」
ぐすぐすと泣く姿は昔と変わらないなと、思わず笑いそうになってしまう。
もちろんこの雰囲気の中そんなことはしないが。
「ガーネット様、トリスタン様。この国のためにと戦い、汚い欲望のために果てたあのお二人のためにも、我々は勝たねばならぬのです」
「…………」
もう一度オーウェンを見るが、彼の表情は変わらない。
今ここで伝えるつもりはないらしい。
まあ確かに、今の話を聞いてレオノーラも伝えるべきでないと思った。
ガーネットとトリスタン。
二人がここにいるとなれば、彼らの指揮に影響を及ぼすかもしれない。
復讐は、強い力になることもある。
「――あなたの強さ、そして志を理解しました。我々も失礼なことをしたと……ガーネット様の思いを忘れていたことを後悔しています」
アルムは手を差し出すと、レオノーラを力強く見つめた。
「無礼をお詫びするとともに、どうかその力をお貸し願いたい。我々に、愚王を討つ力を」
「…………もちろんです」
レオノーラはアルムの手をしっかりと握った。
戦局は優勢だった。
騎士団は優秀であり、敵である国王軍の戦い方を熟知している。
だからこそ彼らの立てる作戦は上手くいき、確実に国王軍の戦力を削っていった。
そしてそれはフローレス軍もだ。
元より洗練された部隊は、優秀な指揮官によってさらに力を増す。
軍略を説き自ら前線に立つ王太子オーウェン。
そしてそのオーウェンと背中を合わせ戦う王太子妃レオノーラ。
二人の姿はフローレス軍と騎士団、どちらの士気も上げていた。
「アルム殿も素晴らしい指導者だが、我が国の王太子殿下も負けてはいない! おまけにこちらには王太子妃様もいらっしゃる!」
「レオノーラ様か。……素晴らしい腕前だ。あの方がいてくださるだけで騎士たちもやる気が満ちてくる」
「……少しだけ、ガーネット様に似ている気がするんだ。もちろん、ここだけの内緒だが」
「……ガーネット様、トリスタン様のためにも、この戦勝たなくてはな」
士気が高ければ戦場でも有利になり、有利になれば士気も高まる。
相乗効果で次々と敵を撃破し、騎士団とフローレス軍は順調に進んでいた。
「あと数日もすれば王都に辿り着きます。……王城を落とし国王を討つことができれば……」
「……そうですか」
地理はよく理解していた。
少しだけ変わってしまったところもあるけれど、おおよその場所は頭の中に入っている。
もう王都は目の前。
あとは国王を、玉座から引きずりおろせばいい。
「疲れてはいませんか? ……もう決戦は目の前ですので、休むなら今しかありません」
「大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
酒を片手にやってきたアルムに、レオノーラは軽く礼をした。
あと数日もすればこの戦いは終わる。
どちらが勝とうとも、必ず終わりはやってくるのだ。
それがわかっているからこそ、みな酒を片手に騒ぎ合う。
明日死ぬかもしれぬ我が身を憂い、恐れる暇を与えないために。
そんな宴を見ながら、レオノーラはほんの少しだけ酒を口に含んだ。
「……お酒苦手なんですか?」
「ええ。あまり量を飲めないもので」
本来のレオノーラの体は弱い。
無理をすればすぐに熱を出すし、酒を入れようものならあっという間に泥酔してしまう。
そこはガーネットとは大違いだ。
ガーネットの時は動き回ってもピンピンしていたし、酒もいつまでも飲んでいられた。
同じであって、同じではない。
レオノーラであって、ガーネットではないのだ。
「……そこは違うんですね」
つぶやかれた言葉が、夜風にのってレオノーラの元に届く。
「……大切な人だったんですね」
思わず聞いてしまったその言葉に、慌てて口を塞いだが遅かった。
今度はアルムがそのつぶやきに答える番だ。
「とても。……太陽のようなかたたちでした。彼らについていけばなにも問題はないと思わせてくれるような……」
アルムは静かに王都とは逆の山を指差した。
「あそこの山にある、一際大きな木の下で眠っていらっしゃいます。……国王はお二人の遺体すら辱めようとしました。我々はそれをなんとか阻止して、お二人を揃ってあそこに。……せめて死後もともにいてほしいと」
あの時ガーネットは、彼らにすら裏切られたと思っていた。
騎士たちはみな王の下に付き、ガーネットを騙したのだと。
だが実際はそうではなかったのだ。
彼らはそれで反逆者となろうとも、ガーネットとトリスタンのため命をかけて二人の遺体を運んでくれた。
感謝しないはずがない。
「……幸せものですね、その二人は」
「だといいのですが……無理をするなと叱られそうです」
確かに彼らが命を張ったともなれば、そう叱るのがガーネットの役目だろう。
さすがよくわかってるなと思いつつも、これ以上は正体のヒントになってしまいそうだったので口にはしなかった。
「……――会いたいなぁ。せめて、国王を討つことができたら、夢に出てきてくれないかな……? 頑張ったなって……二人に…………褒めてもらいたいです……」
途切れ途切れになる言葉は、どんどんと小さくなっていった。
悲しげな声は、叶うことのない願いを口にしていることがわかっているからなのだろう。
アルムは軽く頭を振った。
「……失礼。飲み過ぎたようです」
「――そのようですね」
「私は寝ます。レオノーラ殿も、ご無理なされぬよう」
「ありがとうございます」
アルムはそれだけいうと自身のテントに戻っていった。
その後ろ姿を見つめていると、反対側からオーウェンがやってくる。
「話したいか?」
「――ちょっとだけ。……あんなふうに思われてるなんて、知らなかったから」
ガーネットの死を悔いてくれる人がいたなんて知らなかった。
死したあともたくさんの人に守られていたなんて……。
だから本当は伝えかった。
ありがとう、と。
「いつかは伝えよう。だが今じゃない。……彼らは復讐を糧に必死に動いている。それを折る必要はない」
「わかってるわ。"その時"がきたら、伝えられるはず……」
その時に感謝を伝えよう。
想ってくれて、ありがとう、と。
そうして行われた王都での戦いは、騎士団およびフローレス国軍の優勢だった。
とはいえ国王軍も最後の戦いだと意地を見せ、激戦に次ぐ激戦であった。
どちらが勝ってもこれで終わりだと、互いが雌雄を決した戦の結末は、思いもよらないものだった。
「国王を探しだせー!」
「私の息子は、国王に殺されたんだ!」
「お前たち国王軍は、俺たちの敵だ!」
それは民衆だった。
王都に住む者たちだけじゃない。
国中のものたちが王都に詰め寄り、それは大きな力となった。
彼らは騎士軍に力を貸し、国王軍を追い詰める。
それは言葉や態度、そしてなによりも物資であった。
本来なら他にいる国王軍からもらえるはずの物資を、国民たちが止めたのだ。
「――民意とは、恐ろしいな」
彼らはもう奪われるだけの存在ではない。
我慢ならないと立ち上がったものたちは、大きな力となり戦局を変えた。
もちろんそれを見逃すレオノーラたちではない。
「全軍! これより最後の突撃を行う。――お前たち、ここで全てを出せ」
「うおおおー!」
人々の声が地響きとなり王都を揺らす。
どちらに転んでもこれで最後だと、この戦場にいる全ての人が力のかぎりを尽くす。
王都は一瞬で血の海となった。
敵味方入り乱れ、戦場は苛烈の一途を辿る。
両軍負傷者も数えきれないほど増え、市民にまで危害が及んだ時だ。
――国王捕縛の連絡を受けたのは。
捕まえたのはアルムであった。
最前線で剣を持ち戦った彼は、左目を負傷していたが残る右目で国王を強く睨みつける。
「お前のせいでたくさんの人が死んだ。――死したのちに地獄の業火に焼かれ続けろ」
レオノーラとオーウェンは急ぎ国王がいる玉座の間へと向かった。
最後の最後まで王であることに執着した男は、そこを終わりを迎える場所として選んだらしい。
二人が玉座の間につくと、二人の騎士に腕を掴まれ膝をつく国王がいた。
「――……」
「命だけは助けてくれ! なにが望みだ? 金ならやる! 女もだ! お前たちの望むものなんでもやろう! だから……だから命だけは――!」
醜い命乞いをする国王の目の前に、切先が向けられた。
「そうやって命乞いしたものを何人殺した!? 子どもだっていただろう!」
「そこらへんのガキの命など知るものか! 俺は王だぞ!」
アルムの目に殺意が隠る。
彼は勢いよく剣を振り上げ、そのまま王の首に落とそうとした。
――だがそれを、オーウェンが止める。
「なぜ止める!? こんな男のせいで……!」
「わかっている」
この国の現状は、この目で見て痛いほどわかっている。
子を失い泣く母もまた、いつ命の灯火が消えてもおかしくないほど痩せ細っていた。
だというのに今目の前にいる王はどうだ?
昔の面影は消え失せ、肥に肥えたその姿。
腹はでっぷりと突き出し、首は見る影もない。
指には大きな宝石がついた指輪に、手には黄金に輝くブレスレット。
玉座の間も血や埃で汚れていなければ、さぞや豪華絢爛な部屋なのだろう。
民たちから搾取した結果がこれかと、レオノーラはゆっくりと瞳を閉じた。
「お前たちの苦しみも憎しみもわかっている」
「なら退け。私の邪魔をするならあなたも――!」
「お前たちが復讐する必要はないといってるんだ」
「…………なにをっ」
オーウェンに止められて困惑するアルムの隣を通りすぎ、レオノーラは腰に携えた剣を握る。
あの時とは逆の立場だなと、鼻を鳴らした。
「――私は、フローレス王国王太子妃、レオノーラ・フローレス」
「……フローレス王国? ――ああ、うまい話があるとハイエナのように群がってきたのか? 卑しいやつらめ」
安い挑発だ。
こんなものを買うつもりはないと、レオノーラは冷静に鞘から剣を引き抜いた。
それを見たアルムが焦ったように声を上げる。
「待て! そいつは俺たちが――! ……っ、ガーネット様の仇なんだ!」
アルムの叫びを聞いた国王が、まるで狂ったように笑う。
「お前たちはバカなのか? あんな薄汚い女のためにこんなことをしたと? 死んだバカ女のために騎士はなん人死んだんだあ? ん?」
「――おまえっ!」
アルムだけじゃない。
オーウェンまで目の色を変えて国王へ剣を向けようとしたため、レオノーラが強く睨みつける。
「下がれお前たち! 剣を下ろせ! これは命令だ!」
腹の底から声を出せば、別人のはずなのにガーネットに似た声が部屋に響いた。
アルムたちはぴたりと体の動きを止め、信じられないとレオノーラを見てくる。
そんな視線を受けながらも、レオノーラは国王の首に切先を向けた。
「――私が誰だかわかるか?」
「……フローレスのハイエナ女だろう」
国王の答えを鼻で笑った。
「殺しすぎて、自分を恨むものを特定すらできないか?」
「……どういう意味だ?」
国王から探るような視線を受け、レオノーラはその目を見つめ返す。
わかるはずもないのに、少しだけ期待をしてしまったのはなぜだろうか?
「――……」
レオノーラは目を閉じるとゆっくりと呼吸をし、瞼を上げる。
胸を張り、声のかぎり名乗りを上げた。
「私は、死して蘇った。――我が名はガーネット・ルウェル。二十年前、お前に殺された女だ」
「――…………」
玉座の間が、息を呑む音で包まれる。
目の前の国王も目を見開き、やがて強く眉間に皺を寄せた。
「……なにを、言っている?」
「信じられないか? なら全て話そうか。あなたとガーネットしか知らない情報を」
「黙れ。この、嘘つきの、女狐が!」
「なら俺も話そう。あなたがどうやってガーネットを殺そうとしたかを。――それともあなたが依頼していた、あの酒場の話でもしようか?」
オーウェンもまたレオノーラの隣にやってくると、国王に剣を向ける。
「我が名はトリスタン・デバイアル。――今日、ここでお前を殺す男だ」
「やめろっ! 今さら亡霊の名前を出してなにになる!? お前らは気でも狂ってるんだ!」
叫ぶ国王の瞳に、恐怖が浮かんだ。
「気も狂うだろう。あんなふうに殺されてはな」
「そのとおりだ。だが安心しろ。この狂い、今日この場で終わる」
レオノーラもオーウェンも剣を振り上げる。
最後の最後まで、国王の目を見つめたまま。
「死して終わりだと思うな。地獄の果てでまた殺してやる」
「この狂気は終われど、恨みは消えない。俺たちだけだと思うな。お前は――この国の全ての人間に生涯殺され続けるんだ」
「…………っ、やっ、やめ――」
レオノーラとオーウェン。
二人の振り上げた剣は同時に落とされた。
迷いのない太刀は光を放ち、Xの形に振り下ろされる。
――国王の首に向かって。
こうして、長い戦いが終わったのだった。
戦争には勝った。
しかし払った代償は大きい。
数多の命が失われたことを、今日だけは悲しむのだ。
――明日を生きるために。
人々の嘆きの声が聞こえる。
別れを悲しむものたちの声を聞きながら、レオノーラとオーウェンは壊れた城壁から王都を眺めていた。
「……終わったな」
オーウェンからの言葉に、レオノーラは少しだけ意地の悪い顔をする。
「はじまったの間違いじゃない? やっとガーネットとしての憂いを晴らせた。……レオノーラとしての人生を歩めるわ」
「……確かにそうだな」
ガーネットとしての無念は全て消え去った。
だからこそ、もうレオノーラとして生きていかねばならない。
そんな決意を新たにするレオノーラに、オーウェンは少しだけ近づいた。
「帰ろう。……俺たちの国へ」
「――…………ええ」
なんだか穏やかな、憑き物が落ちたかのようなオーウェンの横顔を眺める。
彼もまた、トリスタンの記憶に苦しんだ一人なのかもしれない。
お互い苦労したのだなと、そっと彼の肩に頭を預けた。
「――あのっ!」
「……アルム」
そんな時、アルムと数人の騎士がやってきた。
みな覚えがある。
ガーネットの部下だったものたちだ。
彼らは感極まったように目に涙を浮かべながら走り寄ってきた。
「ガーネット様……! トリスタン様! また……またお会いできるなんて……!」
「本当にお二人なんですよね……? おれっ、おれぇ……っ!」
「泣くなバカ! 俺たち、お二人にお礼を言いたくて――」
「お前たち! お二人にご迷惑をおかけするな!」
みんながみんな一斉に話しかけてくるので困っていると、そんなレオノーラに気づいたのか、アルムがぴしゃりと言い放つ。
さすがに現騎士団長の声にはみなが一斉に黙り背筋を伸ばした。
「――失礼いたしました。彼らもまさかお二人に会えるなんて思っていなかったもので……」
「それは……そうでしょうね」
死んだ人間に会えるなんてそんな夢物語、そうそうあっていいものじゃない。
だが実際にそれが起こってしまったのだから、みなの反応も頷ける。
特に、別れがあまりにも急だったのだから。
「――みな、本当にありがとう。お前たちの気持ち、確かに受けとった」
「……ガーネット様っ」
「だが我々は過去の人間だ。だからこそ、これだけはお前たちに伝えたかった」
涙ぐむ男たちを眺める。
懐かしい顔ぶれだけれど、知っているものよりもずっと老けていた。
苦労したのだろうと思うと、レオノーラも涙が溢れそうになる。
けれど泣くことはしない。
これが昔できなかった、ガーネット・ルウェルとしてのお別れの言葉なのだから。
「この国を任せた。明日を笑える国をどうかつくってくれ」
「――はいっ!」
何人もの声が重なって響く。
みなが笑い泣きながら去っていく中、レオノーラはアルムに声をかけた。
「アルム」
「――はい」
「よくやってくれた。……お前のおかげだ。本当にお疲れ様」
アルムは瞳を大きく見開くと、我慢ならないと涙をこぼす。
その姿が幼いころそっくりで、気がついたらオーウェンとともに頭を撫でていた。
「泣きかたは変わらないな。覚えているか? ダメだと言われていたのに勝手にキノコを食べた時のこと」
「ああ、毒キノコの。あれのせいで軍の足が止まったんだったな」
「思い出話ならもっといい話をしてください〜っ!」
ぐすぐすと鼻を鳴らすアルムに、二人は声をあげて笑った。
「……私にとってはいい思い出だ。……ありがとう、アルム。私たちは、幸せだった」
「…………っ、我々も、お二人の下、戦えて幸せでした――!」
アルムは涙を拭うと、深く頭を下げる。
そして次に顔を上げた時、彼は騎士団長の顔をしていた。
「――さようなら。ガーネット様、トリスタン様」
「…………さようなら。私の部下たち」
「さようなら。ともに戦った同志たち」
アルムは踵を返し去っていく。
一度も振り返ることはなく。
だがそれでいいのだ。
未来へ進んでほしいと願ったのは、ほかでもないレオノーラなのだから。
「寂しいか?」
「……少しだけ」
隣にやってきたオーウェンが、そっとレオノーラの手をとる。
お互いに握り合えば心のざわつきはおさまっていく。
「でもこれでいい。ガーネットは死んだ。……それが全てだもの」
「そうだな。今の俺たちはオーウェンとレオノーラだ」
そうだ。
二人は今、新しい時を生きている。
だからもう、ガーネットでいるのは終わり。
心の中でさようならを告げると、レオノーラはちらりとオーウェンを見つめた。
「私、とてもがんばったと思わない?」
「――はいはい。今度はなにが欲しい? 馬か? 剣か? それとも鎧か?」
挙げてくる案が全てガーネットの好みで、思わず笑ってしまう。
それもそうか。
さようならをしても、そうそう簡単に消えるわけではないのだ。
とはいえもうレオノーラという一人の女性である。
ガーネットの時には願えなかったことが、今はできるのだ。
だからそっとオーウェンの耳元で囁いた。
本当は……ガーネットの時から願っていたことを――。
「赤ちゃんが欲しいの」
ガリオスト王国は現在、フローレス王国の手を借り復興を進めている。
国王不在の国をどうするのだろうかと心配していたが、そんなものは杞憂だったようだ。
王を討たんと動いていたのは、なにも騎士団だけではなかったようだ。
貴族たちの中にも志を同じくするものがおり、彼らに隠れて力を貸してくれていた王女がいた。
彼女はもちろん生き残り、そして夫を娶ったらしい。
――解放の英雄、アルムを。
国を任せるとは言ったが、まさかアルムが王配となるとは思わなかった。
最初は政略結婚を疑ったが、実は恋愛結婚だったとあとから知り安堵のため息をついたものだ。
フローレスとガリオスト。
この二つの結びつきは強く深い。
きっと子や孫、さらにはその先にまで友好は続いていくだろう。
「まーまー!」
「はいはい。ここにいるわ」
「ぱーぱ!」
「はいはい。ここにいる」
フローレス王国では、新たな王が誕生した。
勇敢な王は民たちにも慕われ、フローレス王国は大きく豊かになった。
そんな彼の隣にはつねに一人の女性がいた。
国王と同じく勇敢な王妃に、誰もが拍手喝采を贈る。
「国王陛下万歳! 王妃様万歳!」
最初は二人寄り添うように民の前に顔を見せてくれていた両陛下。
そこに一人、二人と増えていく。
仲睦まじいその姿に、人々は拍手を送る。
「王太子殿下ご誕生! おめでとうございます!」