エフ氏の悩み
品行方正で、人柄もよく、正義感も強い。そんなエフ氏にはとある悩みがあった。それは、エフ氏が何か善い行いをすると、必ずその事態が悪化してしまうということだった。
駐輪場で倒れている自転車を直そうとすると、急に風が吹いて他の自転車がドミノ倒しになったり、同僚の仕事を手伝っていると、滅多に起こらないトラブルが発生して余計に時間がかかることになったり、落とし物を拾った時など、落とし主を名乗る人間が二人現れてその争いに巻き込まれたこともあった。
一度や二度であれば、そういう時もある、と考えることができるが、エフ氏が善意で行った行動がいい結果になったことは、これまでの人生で一度も無かった。
そのためエフ氏は、周りで困っている人を見かけても、気づかない振りをして見過ごすようにしていた。心苦しいが、手伝おうとした相手の気まずそうな顔をこれまで幾度となく見てきたエフ氏にとっては、それが最善の選択だと思われた。
そんなある日、体調不良で休んだ同僚のしわ寄せで、エフ氏はいつもの倍ほどの仕事をこなすことを余儀なくされた。普通の人であれば嫌ごとの一つも言いたくなるような状況だったが、もともと人がいいエフ氏であったし、普段は人のために何かをするということができず、ある種の欲求不満に陥っていたものだから、定時を過ぎても意気揚々と仕事をしていた。先に上がっていった同僚たちからは奇異の目線を向けられたが、そんなことエフ氏には気にならなかった。
そして終電ギリギリの時間に、目標としていたタスクが何とか終わり、家路につくことができた。疲れはどっと溜まっており、駅から自宅へと向かういつもの道も人通りが少なくて寂しかったが、久しぶりに善いことを行うことができたエフ氏は、清々しい気分だった。
「おい、こっから大通りに出るにはどうやって行けばいい? タクシーを拾いたいんだ」
そんなエフ氏に突如背後から声をかけてくる者がいた。まさか、こんな夜道で話しかけてくる人間がいるなんて思いもよらず、驚いて振り返って見ると、そこには無精ひげを生やしたパーカー姿の中年の男が立っていた。
息遣いは荒く、目線も落ち着きが無くて、少し異様な雰囲気だった。普段であればやんわりと断っていたエフ氏だったが、夜道でいきなり話しかけられた驚きと恐怖に加え、ただならぬ男の様子に気圧されたこともあり、ついいつも使っている近道を答えてしまった。
「あ、ああ、それでしたら、あそこの路地を使うと早いですよ。二つ目の角を右に曲がってしばらく進むと大通りに出ます」
男はエフ氏が指し示した方をちらと見ると、
「そうか、ありがとうよ」
とだけ言って足早に立ち去り、夜の闇に消えていった。
その後、自宅にたどり着くまでの間、またさっきのようなことがあるのでは、という警戒で気が休まらなかったが、無事家に着いて一息ついたエフ氏の心に続いて訪れたのは、後悔の念だった。確かに男は尋常ではない雰囲気だったが、何か事情があり、さぞかし急いでいたのだろう。だからこそあのような風体だったのだ。自分が道を教えたことで余計に迷い、それは困ったに違いない。そんな思いにとらわれたエフ氏は、悶々とした気持ちを抱えたままその日の床に就くこととなった。
翌朝、昨晩の出来事について気持ちを切り替えることができず、エフ氏はもやもやとした気持ちのままいつもの惰性でテレビを点けた。
そこではニュース番組が昨夜に起こった強盗事件について報じており、なんとそれはエフ氏の自宅のすぐ近くで発生していたようだった。のんびりとした住宅街であるこの辺りで強盗だなんて! と、あまりの衝撃で食い入るように画面を注視していると、犯人は事件発生直後にスピード逮捕されたということで、とりあえずは安心なようだった。事件を起こした後、大通りに向かう路地を逃走していたところでたまたま居合わせた警察官と鉢合わせ、あえなく御用となったという。
その後テレビに映し出されたのは、昨夜エフ氏が道を教えた男の顔だった。