第28話「夜の宿──魔獣との遭遇と高貴なる姫の想い」
馬車の車輪がきしむ音が、穏やかな夕陽の中に響いていた。
王女セレスティア・リュミエールの指示で始まった“泊まり掛けの郊外視察”。
俺は、護衛兼・騎士団副団長として同行しているが、昼間の視察は特に大きな波乱もなく終わるはずだった。ところが、その道中で思わぬ事件が起きる。
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視察団が小さな森を抜けて街道に差しかかったとき、前方の薮ががさりと揺れた。
「……あれは何だ?」
先導していた護衛騎士が目を凝らすと、暗い毛並みの魔獣が牙を剥いて飛び出してくる。狼に似た四足の化け物が、低く唸り声を上げてこちらを睨みつけていた。
「姫様、危険です! 馬車を下げろ!」
護衛が慌てて王女の乗る馬車の周囲を固めるが、魔獣は躊躇うことなく跳躍。まっすぐに馬車へ襲いかかろうとしていた。
「下がれッ!」
俺は迷わず馬を降り、瞬時に刀を抜いて魔獣との間合いを詰める。敵の鋭い爪が馬車の幌を裂こうという一瞬――。
ザシュッ
血飛沫が舞い、魔獣はその体を一刀両断された。断末魔もろくに上げる暇もなく、地面に倒れ込む。
「……早い……!」
護衛兵が唖然として声を上げる。その間に俺は刀を素早く振り払って血を落とし、警戒の目を薮へ向けるが、他に魔獣の気配はないようだ。
馬車の窓からセレスティアは、少し紅潮した頬でこちらを見ている。
(シチトラさま……やっぱりあなたは頼もしいわ。まさかあんな魔獣を一瞬で斬り伏せるなんて……)
表情はあくまで高飛車を保っているが、実際は胸が高鳴って仕方がない。
「ふん、さすが副団長ね。……まあ、護衛として当然だけど」
「ありがとうございます、殿下。怪我はありませんか?」
「ええ、平気よ。……ご苦労さま」
その冷静な言葉の裏で、彼女が熱い想いを隠しているとは、シチトラは露ほども知らない。
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それからは特に危険もなく、郊外の村々を淡々と巡って視察を済ませる。
セレスティアは高貴な態度を崩さず、民には「何か困り事があれば、遠慮なく届けなさい」と凛とした声で呼びかける。
この道中、姫の護衛といっても「魔獣との遭遇があった」以外に大きな事件は起こらず、俺としては退屈と言えば退屈だった。
やがて日も暮れ、視察団は街道沿いの宿に泊まることになる。
質素ながらも、王女が泊まるとあって急ごしらえで内装を整えたらしく、意外と居心地が良さそうだ。
「ふむ……ここに泊まるのね。悪くないわ。シチトラ、部屋の確認をしておきなさい」
セレスティアはいつもの高飛車な口調で指示を出すが、その頬はわずかに上気している。視線の端で俺をチラチラ見ては、何かを期待しているようにも思えるが……。
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夕食後、侍女が俺のもとへやってきて「姫様がお部屋でお待ちです。夜の護衛方針を打ち合わせしたいとか……」と告げる。
「ああ、わかりました。行きます」
俺は何も考えずに承諾し、姫が滞在している特別室のドアをノックする。
「失礼します。護衛の打ち合わせとのことですが……」
「ええ、入って。……とりあえず、座りなさいな」
照明が控えめに灯された部屋で、セレスティアはベッドではなく椅子に腰掛け、テーブルを挟んだ向かいの席を指し示す。
「護衛の件か……具体的にどうしたいのです?」
「たいした話じゃないのよ。……ただ、あなたが夜もこの宿の周辺を見回りするのかとか、万が一この辺にまだ魔獣が潜んでいる可能性はあるのか、とか」
言い訳じみた話題に、俺は真面目に答える。
「周辺には護衛騎士が交代で巡回しています。俺は夜半まで宿の入り口付近で控え、定期的に巡回を――」
「ふうん……まあ、いいわ。あまり夜に騎士がうろうろしていてもうるさそうだし、だいたい魔獣もそうそう現れないでしょう」
彼女はすっかり気軽な様子だが、何か言葉を続けたいらしく言葉に詰まっている。テーブルの上には飲み物が二つ置いてあるが、どうやら手はつけられていない。
(せっかく二人きりになったのに……何も起こらないなんて。わたくし、自分から「抱いて」なんて言えないわ。うう……でもシチトラさまはまったく気づかない鈍さだし……)
ギリギリ葛藤しているものの、高飛車なプライドが邪魔をして本音を吐けずにいる。
「……何かほかに?」
俺が首を傾げると、セレスティアはわずかに顔を赤らめて視線をそらす。
「あ、いえ……もういいわ。あなた、休みなさい。明日も早いんだから」
「わかりました。では失礼します。夜間の巡回をしますので、もし何かあればすぐにお呼びください」
そう言って立ち上がる俺に、彼女は最後まで何も言えず、「ふん……勝手にすればいいわ」とだけ返した。
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廊下に出ると、静まり返った宿の空気がやけに冷たく感じられる。
(姫様は本当にあれだけか……? いや、あの人はプライド高いし、単に俺を呼んでみたかったんだろうか)
俺は軽く頭を振り、護衛の仕事に戻る。結局、特別な事件も起こらず、夜は静かに過ぎることとなる。
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「ああもう……わたくし、何やってるのよ……」
ベッドに腰掛け、彼の背中を思い浮かべながら頭を抱える。
本当はもっと二人きりの時間を深めたい、魔獣を斬る姿に惚れ上がった自分を認めたい――でも王女としての矜持がそれを許さないし、シチトラの鈍さにやきもきする。
「あんな強くて素朴な剣士……わたくし、抱かれたいなんて思ってるのに……口に出せないわよ、ばか……」
恥ずかしさと高飛車なプライドの板挟みに苦しみながら、彼女は一人妄想をかき立てては悶々としていた。
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翌朝。
視察団は予定通りに早朝から出発し、次の村へ向かう。魔獣遭遇の危険もありそうだが、護衛として俺は張り詰めて警戒している。姫は馬車の窓から私をちらちら見つめては、何か言いたげ。
(姫様……やっぱり何かあるのか?)
しかし、俺が問いかけても「別に」と冷たい返事。
王女セレスティアの本音は、「もっと二人きりの甘い時間がほしい!」のだが、高飛車な性格が邪魔して素直になれない。一方のシチトラも鈍感すぎて、彼女の内心に気づくことはなかった。




