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L.F.  作者: 河上歩
9/10

第九編 南未咲 第二編

どこからか甘い風が吹いている。

私にはわかる。

私には感じる。

あの、たった一つの。


高校に入ると、あれだけ嫌いだった給食の時間が懐かしく感じる。

とにかくまずい、という印象しかない、あの給食が。

給食のある高校もあるにはあるみたいだが、こんな片田舎の公立の、しかもうんざりするほど古い高校には、そんなものはない。学食はあるけれど、量が多いだけで質は最低だ。

木造の校舎によく似合う、木の看板の学食。古すぎて、メニューなんか読み取れないぐらいに擦れてる。

おそばなんて頼んだら、カビが浮いてるんじゃないかって心配になるくらい、くたびれてる食堂。いくらお腹が空いてても、絶対お世話になりたくない。歴史を感じる、というようなものではなく、ただ単に古びていくだけの存在だ。

だから、私はお昼にはいつも、パンを買う。

近くのパン屋さんが、出張で売りに来てくれるのだ。

買うものはいつも決まってる。

ポテトサラダパン。

あんぱん。

フルーツ牛乳。

そして、シナモンロール。


「未咲さん」

「はい?」

聞き覚えのない声に呼び止められた私は、おそるおそる振り向いた。

そこには、背が高くて髪の長い女生徒が立っていた。

河上あゆみ。校内でも評判の悪い女生徒。

何に怒ってるのか知らないけれど、いつも鋭い目つきをしていて、近寄りがたい雰囲気。そんな彼女だったから、話しかける勇気のある人はいない。申し訳程度に挨拶するぐらいだ。この学校は、挨拶だの何だの、細かい礼儀とかいうやつにうるさいから。

けど、なんで私の名前を知ってるんだろう?

そう聞きたかったけど、怖いのでやめた。

下手なことを言うと、殴られるかもしれない。

「頼みたいことがあるんだけど」

「…何ですか?」

一体どんなすごい頼みごとなんだろう…?色々と最悪なことまで考えたが。

「お昼のパン。買ってきておいてくれないかしら。これから体育の時間だから、間に合わないのよ」

「あ、ああ。んと……ええ。いいですよ」

つまり、授業が終ってから着替えに時間がかかるから、パンを買おうとしてもその頃には混み合っていて買えない、ということだ。私も、よく友達に頼む。

今までの不安な気持ちが、多少和らいだ。

「お願いね」

私に、ぽん、とお財布を渡して去っていく。

あれ?結構無防備な人だな、と思った。今の時代、お財布を渡すことが計り知れない犯罪に繋がることを知らないのだろうか。

でも、お財布を見てすぐに納得した。

現金が2千円。見慣れた夏目漱石と、新顔の野口英世が一人ずつ。

たったそれだけしか入ってなかった。他には何も、一切無し。レシートとか、レンタルビデオの会員証すら無い。

彼女の性格が端的に現れているみたいで、何となくおかしかった。

でも、どうして私に声をかけたのだろう?

別に親しいわけでもないのに。


お昼休みの少し前。

気を利かせてくれた先生が、早めに授業を切り上げてくれた。

私は、ゆっくりとパン売り場へと向かった。普段はダッシュだ。

体育館脇にある購買部。その隣に並んだガラスケース。

いつもその場所に、パン屋のおばちゃんが売りに来るのだ。

「こんにちは」

おばちゃんが声をかけてきてくれた。

「あ、こんにちは」

「シナモンロールでしょ?」

「ええ」

通過儀礼。

いつも真っ先に来て同じものばかり買うので、顔を覚えられてしまったのだ。

「あ!」

突然声を上げた私を、おばちゃんは不思議そうに見ている。

そうだ。

河上さんに何を買うのか聞いてなかった。

どうしよう。彼女の好みなんて知らない。

でも、パンが食べたいのだから適当に買っていけばいいだろう。

…そうだ。

もしかしたら、私と好みがあうかもしれない。

「いつものやつ、二つずつ下さい」

「ああ、頼まれたの?」

袋に詰めながら、おばちゃんが聞いてくる。「いつものやつ」で、既に通じてる。

「ええ、まあ」

お財布を出す。

「いつも真っ先に来てくれるから、はい、これおまけ」

「わあ!おばちゃんありがとう!」

飲み物無料。しかも二本。これは結構経済的に助かる。しかも、このパン屋で扱う飲み物はとてもおいしい。そして、結構高い。150円。

早起きは三文の徳、に、状況がちょっと似てる。別に早起きはしてないけど。


「どうもありがとう」

まさか、あの河上あゆみさんからお礼の言葉がもらえるなんて思ってもいなかったので、ちょっと感激してしまった。

噂が一人歩きして、あんな悪い評判になってしまったのかも知れない。

曰く、家庭内暴力が当たり前、とか、麻薬の密売をしてる、とか、風俗関係で働いてる、とか。

普通に考えて見れば突拍子もない話だけど、この外見が信憑性を高めてしまっているのかもしれない。

誰でも、彼女のこの鋭い目つきで見られたら「ごめんなさい」と謝ってしまうに違いない。どことなく「陰」があるのは、気のせいじゃないとは思うけど。

「じゃ、そういうことで…」

「待って」

どきり。心臓が縮み上がる。お財布とおつりは確かに返したはずだけど……。

「一緒に食べない?」


私たちは、中庭に出た。

涼しい風が吹いている。夏にはまだ少し早い季節なので、風が肌に丁度良い。

「ここにしよう」

河上さんに誘われるまま、私は中庭の花壇に備え付けられたベンチに腰を下ろした。

花のある場所を選ぶなんて、意外だ。どうしても彼女のイメージと合わない。

それはただの先入観なんだろうけれど。

「いただきま~す」

私は、早速袋を開けて、ポテトサラダパンをほお張った。あんぱんのような形をしていて、中にポテトサラダが入っているパンだ。

彼女も、袋を開けて中身を見ている。

「あ、それでよかった?」

一度食事を共にすれば、垣根も取れるというもの。私の勝手な思い込みだけど。

「なんでも構わない。食べられれば」

別に大した感動もなく、彼女は無感情にパンをちぎっては、口の中に放り込んでいる。

彼女は食に対して、何のこだわりもないらしい。

食べることを楽しめない人は、人生の90%は損している。私はそう思う。

そして、彼女が二つ目のパンに手を伸ばす(食べるのが早い)と。

「あら?シナモンロール?」

「あ…嫌いだった?だったらごめん」

「いえ……。これ、あなたが選んだの?」

「ええ、まあ。いつも私が食べてるやつだけど」

少し不思議そうに、彼女がシナモンロールを見つめている。

「…ちょうど、シナモンロールが食べたいな、って思っていたのよ」

「へえ。すごい偶然」

「シナモンロール、好きなの?」

突然聞かれる。

「うん……一応、ね」

ちくり。

心が痛む。咄嗟のことで、それが顔に出てしまったのかもしれない。

「…あまりいい話じゃないのね」

彼女が言う。

「ううん。別に…」

それは一方では、ウソだ。でも、本当でもある。

私にとってシナモンロールは、特別な食べ物なのだ。

それを忘れないように、こうして毎日食べているのだ。

でも、満たされないことは確かだった。

「…私のお姉ちゃん、お菓子を作るのが得意なんだ。もう結婚して、うちから出ちゃったんだけどね」

「…ふうん」

何だろう。私の口が勝手に動く。

いや。

親しくない人だから、聞かれても構わないや、ぐらいに思っているのかもしれない。

もっと深い付き合いの人だったら、知られると気を遣われてしまいそうで、それまでの友達関係が変化してしまう恐れがあるから。

「一番得意なのが、このシナモンロール。もっと甘くって、優しい味なの」

彼女は、黙って私の横顔を見つめている。

「だからさ。もう、あのシナモンロールを食べられないのかな、って思って。あ、でも、それほど遠いところにいるわけじゃないから、そんなことないんだけどね。まあ、ちょっと複雑な気分なんだ。お姉ちゃんのだんなさんが羨ましいくらい」

毎日でも、あのシナモンロールが味わえるのだ。

…それは、今まで私だけの特権だったのに。

「このシナモンロールよりもおいしいの?」

「ん~…味のことをいうと微妙かな。そりゃ、プロのパン屋さんにはかなわないけど、私には最高なの。甘すぎる、って、両親には不評だったけどね」

ようやく一つパンを食べ終えて、あんぱんに手を伸ばす。

「でも、また食べたいな…あのシナモンロール」

言いながら、おまけでもらったブルーベリージュースを一口飲む。

「わ!おいしい、これ!」

初めて飲む味だった。色が毒々しいので今まで敬遠していたけど、これはおいしい。

「今度からこれ買おうっと」

黙って見つめていた河上さんが、少し笑ったような気がした。

何となく、彼女、あの三月の葬儀の日から変わったような気がする。

以前よりも疲れた顔をしていない、というか、何というか。

付き合ってみれば、結構いい人なのかもしれない。

人は見かけによらないものだから。


それから、数日たったある日。

私はふと、シナモンロールが食べたくなった。

日曜でヒマだったので、駅前のデパートの地下にある、おいしいと評判のパン屋まで行って買ってきた。

明日食べる分まで、二つ。そこまで日持ちするかどうか知らないけど。

私は紅茶を淹れて、午後のティータイムを楽しむことにした。

一口、ほお張る。

「…おいしい」

そう思う。だけど。

「これじゃないのよね…これじゃ」

知らないうちに、お姉ちゃんのシナモンロールと比べている。

甘いだけの、シナモンロール。

ひたすら甘い。

まるで、お姉ちゃんの性格そのままの、しつこい、というか、どうしようもない甘さ。

でも、私にはぴったりの、甘さ。

その甘さは、私だけに向けられた、思いやりの甘さなのだ。

パン屋は、不特定多数に向けられた、標準的な甘さでしかない。

それは、大勢の人の味覚を考えた、思いやりかもしれない。

だけど、パン屋にとっては、その他大勢に私が含まれているだけだ。

お姉ちゃんは違う。

私だけに、向けられる。

私のことだけを考えて、作ってくれた。

だから、両親には不評なのだ。

買ってきたシナモンロールを半分だけ食べて、後は残した。

全部食べてしまえるほど、私は鈍感じゃない。

「おいで…」

飼い猫のサクラを手招きする。

「食べる?」

差し出すと、嬉しそうに、ぱくり、と大きな口を開けて食べてしまった。

本当に嬉しいかどうかは、猫になってみないとわからないけど。

「…猫はいいよね。何も考えなくっていいんだから」

少なくとも、それは当たってると思う。

私みたいに、うじうじ考えてお姉ちゃんのことを思い出して、シナモンロールが食べられなくなるなんて。

猫はそんなこと、絶対にしない。

「ただいま~」

買い物に行っていた母が帰ってくる。父は休日出勤で、夜遅くなるらしい。

「お母さん。シナモンロール食べる?」

「シナモンロール?あら、久しぶりねえ」

買い物袋の中身を冷蔵庫に詰めている間、私はシナモンロールと紅茶を用意した。

「でも、どこで買ってきたの?」

母が、居間の椅子に腰掛ける。

「駅前のデパ地下。おいしいって評判のとこ」

「へえ~。…あら、おいしいわね、これ。ねえねえ、なんていうお店?今度いっぱい買ってこようかしら?」

「ねえ。お姉ちゃんのと、どっちがおいしい?」

私がそう聞くと、母は大口を開けて笑った。

「こっちの方がおいしいに決まってるじゃない。ちょうどいい甘さだし、これは売れるはずよね」

「ふうん…」

まあ、そんなものかもしれない。

味がよければそれでいい。何て単純な答えなんだろう。

でも。

私には、あの「度を越した甘さ」が懐かしくってたまらない。


翌日。

お昼休みに、私は、やっぱりいつものようにシナモンロールを買った。

これは、第二の故郷。そう思って。

一番は、もちろんお姉ちゃん。

二番は、この、学校に来るおばちゃんのやつ。

そして三番目は。

これからは自分で作る、シナモンロール。


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