第八編 -Extra Track 01
糸に絡まり、雲に消え
情動は止まり、血は失せる
ただ待つ
その茜色の残骸を
どこかへ行ってしまった
彼女の気配を飲み込みつつ
私のまわりの人間など、誰も全く見向きもしない。
私は、いつでも孤独だ。
朝、目覚めた時から孤独は始まる。
そして、夜、眠りに落ちるまで、それは続く。
永遠に繰り返す。
「おはよう、あゆみさん」
「おはよう」
「おはよう」
何人かの女生徒たちが、私を哀れんで声をかけてくる。
いつも、仲間から外れている私を気遣って。自分の領地へ引き入れることもせずに。
私が一人でいるのは、私が望んでいることだから放っておいて欲しい。
そう言ったところで、きっと彼女達は、飾り付けられた優しい言葉で私を哀れむに違いない。
滑稽だ。下らない。嫌悪感。そして。
私は、そんな彼女達を見て、吐き気がした。
所詮、つまらない同情だからだ。
群れることのない私のことなど、彼女達にとってはどうでもいいのだ。
結局それは、自分達が「良いことをしている」という、薄気味の悪い自己満足に浸りたいだけなのだから。
木造の古い校舎。
カビの生えたような校則をいまだにひきずっている、薄暗い学校。
教室へ入っても、どんなに人に囲まれようとも、私の心は孤独だ。
漠然と時が過ぎ、一日が終わりへと近づいていく。頭の中には、空白という時間が詰め込まれただけ。そして、それを捨てる作業。
放課後、私は一人で小説を書く。誰にも邪魔されず、一人、空想の世界で遊ぶことが出来るからだった。生徒達は、みんなどこかへ消えてしまったように、いない。
夕方の日差しが、私の机を朱く濡らす。血の色のように、どす黒くみえる。ノートが血のりでべったりとしている。血の上に血文字を書いているようにすら思える。
…何だろうか。急に文字を書く手が止まった。
外の空気を感じたいと思い、カーテンを開けて窓辺に寄りかかった。
何にも無い。ただ、広い校庭が続くだけの、どうしようもないほど退屈な風景。
だけれど、空が茜色に染まっていて、とても美しかった。肉眼で見るとこんなに美しいのに、この薄暗い校舎の薄汚いカーテンと古臭い窓を通ってしまうと、あんなにも毒々しい色に変化してしまうのか。
いいや…私の目がおかしくなってしまったせいだろう。私の目は、素直じゃないから。いつの頃からかは知らない。ただ、気色の悪い人間が私の周囲にいらつくほどいたのは確かだ。そのせいで、私の目は物事を奇妙な角度に折り曲げて見てしまうのだ。
…まあいい。続けよう。私の小説を。
ここで下らない日々を過ごしている彼女達には、この愉しみは理解できないだろう。私自身も、下らない日々を通過していることには変わりないが。
その、束の間の、休息だった。
ブレザーの内ポケットを探り、煙草を取り出す。
別に不良の仲間になりたいわけではない。あんな群れるだけのバカどもと同一の行為などしたくはないが、今は吸いたい気分だった。愛煙家ではないが、煙の立ち上る動きと匂いが好みだった。こだわっている程ではないが、いつもたった一つの銘柄しか買わない。ただ、最初に吸った銘柄がそれだった、というだけに過ぎない。
こんなところ、教師に見つかったら停学処分になるに違いない。そうなればなったで、別に構わなかった。どうなったって構うものか。
だが、誰も現れない。
私が望むと望まないとにかかわらず、誰も私の前に現れない。
私には、本当の意味での「言葉」というものがかけられない。私を私であると認めた上での、言葉。単なるこの学校の生徒としてではなく、私”河上あゆみ”として認めた上での、言葉が。
「ゆきさん?アレ?どこいったのかな…」
邪魔者が入った。背後から、女生徒の声がする。
ゆき、という生徒のことは知っているが、別に興味は無かった。確か美術部の部長で、何度も表彰を受けている、この学校ではちょっとした有名人だ。知っていたのは”たがなえ”という珍しい苗字だったからだった。ただそれだけだ。
私は構わず、煙草をふかした。空に向って、ゆっくりと煙を吐き出す。
まるで溜息が形を成したかのように、悲しい灰色の煙が、校舎をのぼっていく。
いや、灰色に見えるのは気のせいか。
風はほとんどなく、白い煙の筋が幾重にも重なって、天へ糸を紡いでいくかのようだ。
「ねえ」
突然、背後から声がかけられた。
きっと、さっきの女生徒だろう。私は無視した。
「あのさ」
その女生徒は、窓辺に背を預けた。私と丁度並ぶ形になる。
ふん。どうせ喫煙のことを注意するに決まっている。この学校は優秀な生徒ばかりだから。取り繕って澄まして、外面だけを良くして問題の起きないように振舞っている、ずる賢い連中ばかりだ。
まるで私の母親だ。
「一本くれない?」
先ほどの女生徒が、私に手を差し出している。
意外だった。今まで、そういう風に話しかけられたことはない。
だが、面倒だ。
「……」
相手の顔も見ずに、無言で一箱渡す。
「あ、一本でいいって」
「いらない。一本で十分なのよ」
私は素っ気無く答えた。思えば、いつから私は感情や表情を表に出さなくなったのだろうか。
…その方が気楽だから。つまらない人間の相手をしなくていいから。それを始めたのは、いつ?
「ううん。私も一本で十分だから」
そう言って、私の手をとって無理矢理握らせた。
「……」
イライラする。一体、私に何の用があるのだろうか?人を探すのなら、勝手に一人で探せばいいのに。
そんなことを思っていると、彼女が話しかけてきた。
いや、一人ごとなのかもしれない。彼女は煙草に火を点けて、教室の中へと煙を吐き出した。どうやら、ライターだけは持っているみたいだった。
「…この学校ってさ、居心地悪いんだよね」
「……」
私は答えない。
「すこぶるまともな人にとっては、すごくいい所なんだろうけどね。普通で、まじめで、毎日何にも疑問を持たないで学校生活が送れる人には」
私は、短くなった煙草を校庭に投げ捨てた。ひゅるりと一回転して赤い火の粉を撒き散らしながら、3メートルの道のりを落下していく。
落ちていく煙草を見ながら、私は窓の下を見つめていた。
そんな私をよそに、彼女は、一人で勝手に喋っている。
「でもね……疑問、持っちゃったんだ。私。だから…」
彼女が、窓の桟に肘をついて、煙を吐き出す。
「学校なんて、消えてなくなればいいのにね」
ドキリ、とした。思わず彼女の横顔を見ると、とても穏やかな顔をしていた。言葉と表情がまるでかみ合っていない。彼女の特徴なのだろうか。
「…こんなところ、来たくなかったの。親が勝手に決めて、強制的に入れられただけ」
私と彼女は、視線を合わせない。
「でも…自分の意志を曲げちゃったところに、私の弱さってあるのかなあ…」
今度は窓の桟に後ろ手に両手をついて、煙草を口にくわえた。
ああ、私と同じだ。
「でも、どうしようもないよね。お金出すの親だし。私一人がいくら言っても、無駄だもん。私の言うことに首を縦に振ってくれる人なんて、誰もいなかった」
彼女も、窓の下へ煙草を投げ捨てた。
「今でも、そう」
私の投げ捨てた煙草と重なったように見えた。小さくて、よくわからない。
「ま…いまさら言ってもしょうがないけど。来年卒業だし」
私は何も答えない。
何となく、私は彼女を見た。
彼女も、同時に私を見た。
目と目が合う。この学校で、いつかどこかで見かけた顔だった。
夕焼けが、彼女の髪を、瞳を、茜色に染めている。
その瞳の中からは、何も見えなかった。偽善も純粋も、何も。ただ、美しい夕焼けを映し返す、生物的な鏡がそこにあっただけだった。
……なんて綺麗なんだろう。
ガラスのような人工物ではなく、また、人の感情にまみれて曇っていることのない、茜色の瞳。
「…ゆきさん、どこにいるんだろう。ねえ……煙草、ありがとうね」
悲しそうにまつげをふせて、彼女は教室を出て行った。
ありがとう。
私にとって、初めての感謝の言葉だった。
彼女の去った後には、煙草の匂いではなく、何故か――そう。
―――雨の匂いがした。
それから数日後、全校集会があった。
誰か、生徒が死んだらしい。私と同学年の女生徒だった。
聞いたことのない名前だ。
彼女の家は何か宗教をやっていたらしく、葬儀は教会で行われた。
彼女と同学年の生徒が全員、教会に集まる。
そして、一人一人、一本ずつ花を棺にいれていく。
早く終れ。
そればかり思っていた。私には関係の無い儀式だ。
私の番だ。
棺の中の少女を見る。
白い顔をした、短い髪の少女。
何故だか、夕陽の色が、そこに重なる。
彼女は―――何日か前に教室で煙草をあげた、あの女生徒だった。
(………)
彼女を瞳に映した瞬間、自分でも理由のわからない衝動が、目蓋の裏に押し寄せてきた。
―――棺の中に、雨が降っている。
いや?
違う?
これは、私の涙だ。
涙が、彼女の顔に降りかかる。
私は、気付かぬうちに嗚咽をもらしている。
棺に両手をかけて、くずおれるようにその場にしゃがみこんだ。
それでも、涙は止まらなかった。
「大丈夫?」
「大丈夫ですか?」
何人かの女生徒が白々しく声をかけ、誰かが私の背中をさすった。
触るな。
私は、走り出した。とにかく、外に出たかった。彼女の記憶と二人きりになりたかったからだ。
外に走り出て、教会の壁に背中をくっつけて、泣いた。
顔を覆い、明るい日差しを少しでも避けた。
光なんて、欲しくない。
私の頭には、彼女の顔がちらついて、どんなに頭を振っても、離れることがなかった。
何日か前に見た茜色の彼女の瞳と、今見た「死」の白い顔が交互に現れて、私を混乱させた。
ただ、私は泣くことしか出来なかった。
誰もこない。
誰も、私の様子など見に来ない。
私のことなどどうでもいいからだ。
いや、来たところで邪魔なだけだ。
そう、他人なんて、邪魔なだけだ。
でも、あの時は違った。
普段なら、とっくに私はその場を立ち去っていたはずだ。
彼女には、他の女生徒にない何かがあった。
それは、「共感」だろうか。
同情でもない、哀れみでもない。私と同じ場所に立って、同じ目線で話してくれる。
そんな人、どこにもいないと思っていた。
私は、気が付かぬ間に彼女に共感して、そして、気が付かぬ間に彼女を無くした。
どうしろというのだろう。
私は、もう彼女に会えない。
お互いを知り始めることすら、もう、出来ないのだ。
家に帰り、私は着替えもせずに、すぐベッドの上に横になった。
彼女のことを考える。
彼女は、私に用があったわけではない。ゆきさんに何か用があったはず。
そう。
あんな話、別に誰でもよかったのかもしれない。
顔も知らない。お互い何も知らない。
でも、だからこそ、胸の内を吐き出すことが出来たのだろう。
…いや。そうじゃない。私でなければならなかったのだ。平気で学校内で煙草を吸えるような、群れから外れた、私でなければ。
そして、少ない言葉だけれど、自分の心を表に出したかったのではないだろうか。
私は、彼女にそれをしなかった。
自分の心を閉ざしたままで、彼女を無視した。
だけど、彼女は満足そうだった。
私も満足だった。
満足だった。
話を聞くだけで。同じ感覚を持っている、ということを確認するだけで。
それだけで、私たちは深く繋がったのかもしれない。
…いいや、それは私の思い込みなのかもしれない。
その確信が持てないから、だから泣いたんだ。
本当は、もう一度彼女に会って、彼女と色々話したかったんだ。一方的に去っていったから。
そう。私は、彼女に会いたかった。そう思い始めていたことに、私は気付いていなかった。彼女に会って以来、校内を歩いている時に、通り過ぎる人の顔を何気なく見ていたのは、そういうことだったんだ。
彼女を、探していたんだ。意識することなく。
会いたい。彼女に。
だが、永遠に叶わない。
この気持ちは、どこへ捨てればいい。
わからない。
翌日。
下らない高校生活が再開した。
だけど、少し変化がある。
彼女は自殺したのだということを知った。
以前は、私も死にたい―――何度か、そう思った。
けど、私は、もう死にたいとは思わなくなった。
一方的に死んでしまうのは、ただ逃げ出すだけだからだ。
あゆみかけた友情を、踏みにじることもあるからだ。
そして、死ねば永遠に帰ってこない。
伝えたかった思いを抱えたままの人間が、きっとどこかにいるのに。
そう、今の私のように。
だから、私はここで生きる。
つまらない日常に押しつぶされて。抑えつけた感情をあらわにすることなく。退屈な日々が、これからも続くだけかもしれない。
だけど。
だけど、もう一度だけ、彼女との間に起こった奇跡を信じたい。
その時は必ず、くる。
そして、それは。
自分で、引き寄せるのだ。