第七編 L.F.-Track 03
雨は追憶を溶かす
溶けた追憶は河となって流れ
打ち棄てられた海にそそぐ
やがて追憶は波となり、青い結晶となって空へ流れる
そして追憶は雨となり
また人々の心を
潤していく
「…うーん」
頭が重い。理由は単純。飲み過ぎたから。
いや、普通の人よりは多分、少ない。自分の体質もわかってないのに、周りに合わせて飲んでしまったから、こんなことになったんだ。
「…はぁ」
ため息をついて目を開く。
「…未咲?」
そう、声がした方に顔を向けた途端、私は勢いよく跳ね起きた。
「あ…あゆみさん!なんで…?」
って…あれ?ここ、もしかして私の家じゃないの!?
「未咲…」
窓の外をちらりと見た後、あゆみさんがこちらへとやってくる。
「え、あ…えっと…私、家に帰ったはずなのに…」
「ウチの門の前にいたのよ。覚えてないの?」
あゆみさんの顔が間近にある。少し上目遣いで私を見ているあゆみさんは、心なしか怒っているように見えた。
「…私、お姉ちゃんたちに飲まされて…それから…」
「お姉ちゃん“たち”?」
あゆみさんが眉をひそめる。うわ…やっぱ怒ってるっぽい。
「えっと…うん。あ、でも私も知らなかったの。合コンだなんて…」
「ふーん。それは楽しそうね」
にっこりと笑う、あゆみさん。
こ…恐い。出会った当初のあゆみさんより、今のこの表情の方が恐い。
「…あゆみさん、もしかして…怒ってる、とか?」
あゆみさんの目を直視出来なくて、思わず視線をそらしてしまった。
「…私、酔っ払いは嫌い」
あゆみさんの声が、少しだけ小さくなった。そらせた視線を戻してみると、あゆみさんは怒っているわけじゃなくて、悲しそうな目をしていた。
その目は、自分の両手を見ていた。
「あゆみさん…?」
「……それで?体の方は大丈夫なの?」
「んと……頭、痛い……」
思い出したように、頭がズキズキと痛んできた。飲んでる時もあんまり楽しくなかったけど…あとになっても頭痛がして嫌な思いするなら、もうお酒なんて飲まない方がいいだろうな。
「どうやってここまで来たのか、覚えてる?」
あゆみさんが、心配そうに私を覗き込む。こんな時になんだけど…あゆみさんって普段は眉がキリっとしててかなり気の強そうな印象を受けるから、他の人はちょっと近寄りがたいような感じがするらしいんだけど。今は、心配そうに眉をちょっと下げた感じの表情をしていて、こうするととてもか弱いような…はっきり言ってしまうと頭をなでなでしたくなるような、愛くるしい表情になるのだ。
…なでても、平気かな…?
「…?未咲?大丈夫なの?」
ぼうっとした私をみて、あゆみさんが不安そうに眉をひそめる。
「あ……えっと、なんかちょっとぼうっとしちゃって……はは、覚えてないや…」
ふぅ、と小さくため息をついて、あゆみさんは私の隣に腰掛けた。
「お姉さんが一緒にいたのに、どうして未咲一人だけ帰ってきたの?」
「……何でだろ。いつもご飯食べに行ったりした時はお姉ちゃんが送ってくれてたのに…」
ってことは…逃げ出してきた?
「う~ん…わかんないや…」
「お姉さん、心配してるんじゃない?」
「え…どうかな。多分、まだ適当に友達と飲み歩いてるんじゃないかな……」
腕時計を見ると、午後10時過ぎ。
「どうしよう……帰ろうかな……」
「泊まっていく?」
「え……いいの?」
「具合悪そうだし……それに夜も遅いし。その方がいいと思うわ」
わ……あゆみさんと二人きり…。やだ、なんかドキドキしてきた。
「あ、えと、でも、お家の人に迷惑じゃ……」
そう言うと、あゆみさんは出会った頃のような、あの無表情で冷たい顔をした。
「いないわ。誰も。いつもそうだから……平気よ」
え……いっつも一人?そう言えばあゆみさんの両親とか兄弟とか、そういった家族の話ってしたことないな…。あゆみさんを独り占めして、あゆみさんと唇を重ねて……あゆみさんを全部知ったような気持ちになっていただけだったのか…。まだ私、あゆみさんのこと、何にも知らないんだ。だから、会えなくなった時にあんなにも不安になったんだ…。
「あ…そ、そうなんだ。じゃあ……お姉ちゃんにちょっと電話してみるね。えと、私のバッグ…」
「ああ……はい」
机の上に置かれたバッグを取ってもらって、携帯を取り出す。
「……あ、お姉ちゃん?今どこ?え!私?私は河上さんの家……うん、で、泊まっていくから、そう言っておいて。あ~…そこは何とかして。だってお姉ちゃんが悪いんじゃん。うん、じゃあね」
電話を切っても、耳に騒音が響いているような気がした。
「お姉ちゃん、カラオケ屋にいたよ。もう、うるさくて……。お姉ちゃんって、酔っ払うとホントだらしないんだから。私の心配なんかしてやしなかったよ。それに、大体さ、お酒飲まされたのってお姉ちゃんが悪いんだよ?二人で食事に行くって話だったのに、ついたらなんか7~8人くらいいてさ」
「そう……。未咲は全然知らなかったのね」
「そうだよ。ひっどいよね。そういうとこ、お姉ちゃんはバカっていうか、嫌いなとこなんだよね。変なサプライズ?みたいの好きでさあ」
なんか、ちょっとずつ思い出してきた。で、だんだん腹が立ってきた。
「ふふふ…まあ、お姉さんは未咲が喜ぶと思ってしてくれたんでしょう」
「そうかもしんないけどさ、知らない人ばっかいて楽しいわけないじゃん!自分は知ってる人ばっかだから楽しいかもしれないけどさあ……それに私、お酒なんて飲みたくなかったし……酔っ払った変な男どもにしつこくアドレス聞かれたり…体、触られるし…女どもはきゃあきゃあうるさいし……」
「お姉さん、きっと未咲に彼氏を作って欲しかったのよ」
「そんなの…すっごい迷惑。余計なお世話じゃん!全くもう……」
「そっか…全然楽しくなかったのね」
「うん。全っ然楽しくなかった。あ~、なんかイライラしてくる……あ、そうか。だから途中で逃げ出してきたんだっけ」
そうだ。気持ち悪いからトイレに行くっていって、そのまんま…。しっかし、妹の姿が見えないってのに、のん気にカラオケ屋なんぞ行きおってからに。我が姉ながら、情けない。ホント…酔っ払うとどうしようもないんだから。
「そう……それで、家に帰らないで、私の家に来たのね」
「うん…自然とね」
「そう…」
気がつくと、目の前のあゆみさんの顔がとてもにこやかな笑顔に変わっていた。
「なんか…嬉しそうだね、あゆみさん」
「あら。そう見える?」
さっきまでの怖かった顔はもうどこにも無い。穏やかな、私だけに見せてくれる、あのいつもの笑顔だった。
「ご両親には、連絡しないの?」
「ああ……お姉ちゃんに頼んでおいたから。伝えるかどうかはわかんないけどね。まあ連絡しなくても、帰って来ない時は大体お姉ちゃんの家に泊まってるってこと、わかってるし。だから、平気」
「そう」
「…ねえ、今度はあゆみさんと一緒に飲みたいな」
そうだ。きっとあゆみさんと二人っきりなら、もっと落ち着いて静かに楽しめるはず…。あんなバカ騒ぎには絶対にならない。
「そうね。それもいいかもね。ところでお腹は空いてない?」
あ、そう言えばもう夜の10時過ぎてたんだっけ。う~ん……でもなんか胃がおかしくてあんまり食欲がわかない。
「もう10時だけど……ちょっとだけなら、いけるかも」
「わかった。じゃあ用意するわね」
「あ、私も手伝うよ」
部屋を出て、一階への階段を下りながら、あゆみさんの背中を見る。
…姿勢、いいよなあ、あゆみさんって。
初めて見た時も、背筋をまっすぐのばして、席に着いていたっけ。猫背気味で頼りない感じの私とは全然違う。
食卓には、ご飯と味噌汁と野菜炒めが並んだ。
手伝うといっても、既にあゆみさんが作ってくれていた料理を温めたり、ご飯をよそったりしたぐらいだった。あゆみさんも自分のを用意していたから、ご飯はまだ食べてなかったみたい。
どうやら私のこと、待っていてくれてたみたいだった。
「うわあ…なんか本格的っていうか…あゆみさんって主婦みたい」
「さっと出来るものっていうと炒めものしか思いつかなくて。本当はもっと色々作ってあげたかったのだけど…ごめんね」
「いや、まずご飯が炊けるっていうのがすごいと思う」
「え?」
あゆみさんが、きょとんとして目をおっきく開いている。
「わたし、料理したことないっていうか、ご飯炊いたことないもん」
大真面目に答えると、あゆみさんが噴き出した。
「あはは………そんなに?」
「あ~、笑ったあ。ちょっと傷つくんだけど」
ちょっとむくれた顔をする、私。
「だって…そこまで全く、っていうのも珍しいかなって思って」
「だってさあ、わたしじゃ危なっかしくて見ちゃいらんないって言って、料理一切手伝わせてくれないんだもん。あ、でもお菓子作りならお姉ちゃんに教わったからちょっとは出来るよ」
「あら、凄いじゃない。それじゃあ、私が料理を教えてあげるから、かわりにお菓子作りを教えてちょうだいね」
「うん!それじゃ、いただきま~す」
「どうぞ」
って、なんか子供とお母さんの会話みたいじゃないか。たった1歳しか違わないのに、あゆみさんとのこの差は一体なんなんだろう…。やば、なんか落ち込んできちゃう。
「…おいしい」
ご飯はちょっとやわらかめで、お味噌汁は適度な塩加減。野菜炒めは中華料理っぽい味がして、でも脂っこくなくて野菜もしんなりしてない。
「この野菜炒めって…どうやって味つけしたの?」
「え?特別なものは何も…」
「う~ん…それにしては、こんなにおいしいってのはどういうこと…?」
うちで食べるのとは全然違う。おしょうゆの味はわかる。けどもっと香ばしいというか…とにかくおいしいのだ。
「炒め方に何か秘密が?」
箸をとめて、しばし考え込む。まるで探偵みたいに推理力を働かせて…。
「ああ、お肉とか野菜を一度素揚げしてあるのよ」
「ああ、言っちゃだめ!もう、推理してたのに…ってか素揚げって?」
これじゃ推理も何もあったもんじゃない。答えを聞いてもわからないのだから。
「衣を何もつけないで、油で揚げるの。そうすると、こんな風に仕上がるのよ」
あゆみさんの語尾に音符マークかハートマークをつけたくなるぐらい、はしゃいでいるように聞こえた。
へえ~…あゆみさんって料理好きなんだ。何か、すっごく意外。いや、これは失礼かな…。
え?ってことは、いつも学校に持ってきてたお弁当って…。
「じゃあ、あれっていつも自分で作ってたんだ」
「?あれ……って?」
「あ、ごめんなさい。意味わからないよね…えっと、待ってね…ちょっと整理するから」
「…ふふふ、変な子ね」
「つまり、ね。あゆみさんはお料理好き?」
「…好き、っていうのかな。必要だからしているのだけど…そうね、色々工夫してお料理するのは……うん、楽しいわね。言われて初めて気づいたわ」
必要だから…。
その言葉を、深読みしてしまう。例えば調理師を目指しているっていうのなら明るい話題になるのだろうけど…多分、そうじゃない。
それは今、聞きたくない。あゆみさんのこんな嬉しそうな顔を、曇らせたくないから。
「だから、ね?いつも学校にお弁当持ってきてたじゃない?あれって全部自分で作ってたのかな、って思ってさ」
「ええ、そうよ。いつもあんまり代わり映えのないお弁当だったけどね。その時は適当に作ってるだけだったのだけど、最近、ちょっとだけ工夫するようになったの。あ、でもその野菜炒めは、大学でお料理が得意な先生がいてね、その人から教えてもらったのよ」
やっぱり、語尾に音符かハートマークをつけたい。初めてあゆみさんが年上のお姉さんとか主婦じゃなくて、同じ年頃の女の子に見えた気がした。
ん?ちょっと待って。大学の先生?大学ってまだ始まってなかったはず…。
「大学行くのって、4月からだよね?」
「ええ。ちょっと校舎を見に行ったのよ。見学には一回行ったきりだったしね。そうしたら、その先生が色々案内してくれたの。これからの授業のこととかね。それで、これからお昼はどこで食べたらいいか聞いて、そこからお弁当の話になって…」
なんだ、そうだったんだ。私も一緒に行きたかったな…。
ん?でも待って。ちょっと気になることが。
「ねえ…っていうかその大学の先生って……男?」
「ええ」
「うわっ!」
「え!?」
私がいきなり変な声だしたもんだから、あゆみさんもびっくりしたみたい。
だって…男。こんなに美人でスタイルよくって清楚で物静かな雰囲気のあゆみさんだもん、そりゃあ男の一人や二人に言い寄られることもあるだろうなとは覚悟してたけど……でもちょっと待って欲しい。
「ねえあゆみさん!危ないよ!もしかしたらそいつ、あゆみさんのこと狙ってるかもしれない…!」
私は必死だった。もしそいつとあゆみさんがくっついちゃったら…!いや、そんなことないだろうけど…いいや、でもあゆみさんだって女の子だし…あ、でも私とキスしたけど……でも、恋人同士として付き合ってるわけじゃないし……。
なんだか頭がぐちゃぐちゃになってきたんだけど。
「まさか。孫ぐらいにしか思ってないわよ」
涼しい顔で、あゆみさんが言った。
「え!?ま……孫?」
「ええ。今年で70歳になるんだって。とっても元気な先生よ」
「なんだ…そうだったんだ。あ、でもわかんないよ。ロリコンの変態ジジイかもしんない」
「そんな雰囲気は全然ないわよ。きっと見れば納得するわ。尊敬出来る人よ…私におじいちゃんが出来たみたいなの」
あゆみさんって、そういう趣味?同世代とかちょっと上とかじゃなくて、もっとずっと上の人が好み…とか。いやいや、あゆみさんに限ってそんな……。
「え、あゆみさんって…年上が好み?」
気になる私は、考えたことをそのまま即座に口に出していた。
「え?う〜ん、特別そんなことはないのだけど……。好みなんて、別に……」
好みがない!?ってことは、あゆみさんがどんな年齢のどんなヤツを好きになるか、わからないじゃない!
それは困る。ウソでも「好みは未咲だ」って言って欲しい。
…いやいや、何で私なんだ。そうじゃなくて…いや、でも私が好みだって言って欲しいな…。
「私は……好きになれば年齢や性別にはあまりこだわらないわ。だからかな。あなたのことが好きなのは」
「え?」
「……ほら、冷めないうちに、食べましょう」
うつむいたあゆみさんの顔が、照れているように見えたのは気のせいだろうか。でも、今の言葉。
「ね。今の言葉、もう一度言って」
「…冷めないうちに、食べましょう」
あゆみさんったら、絶対わざと言ってる。だって顔が笑ってるもん。
「そうじゃなくって。その一つ前の言葉。ねえ、もう一度言ってよ」
「…食べながらしゃべるのはお行儀悪いわよ。………食べ終わったら、ね」
今の言葉も、語尾に音符マークかハートマークをつけたくなるぐらいだった。
…いや、ハートマークがいちばんお似合いかな。
私のこの言葉にも、特大のハートマークをつけたくなるような、とても幸せな気分だった。