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L.F.  作者: 河上歩
6/10

第六編 L.F.-Track 02

暗い森

はぜる枝

時の声はさざ波のように

風の歌は苦し紛れに

己を打つ

ただ ひとときの感傷が

誘惑を引きずり出す



敢えて言うなれば、私のやっていることは自己犠牲だ。自らを傷つけ、罪を犯し、彼女をいたぶり、笑っている。

見えない音をいくら生み出しても、誰の目にも止まらない。だから、私のやっていることは自己犠牲なのだ。私自身を犠牲にして、彼女のためだけに音を作る。それが何ら意味を持たずとも構わない。


ピアノに向かい、サティを奏でる。けど、それはサティじゃない。もはや別モノだった。私を打ち砕いた茜さんへ向けられた感情だ。

傍らで聴いているゆきさんが、閉じていた目を開いた。

「相変わらずだね…。相変わらず綺麗…。私には決して出来ない。言葉に出来ない…いや、言葉にしちゃいけないのかな…」

とろんとした目で、私を見つめている。どこか恍惚としており、はっきり言ってアブナイ目をしている。

手を止めて、ゆきさんを見つめる。

「…あたしの音って、麻薬?」

「音っていうか…指使いがね……」

そう言うと、ゆきさんは私の指と自分の指を絡ませてきた。

「こんな小さい手なのに…まるで純真な少女の手みたいなのに…」

「純真?…それって冗談のつもり?笑えないよ」

弄ばれるままに、ゆきさんの指先は私の手の甲を撫で上げた。

「…ねえ、描かせて。香奈枝さんの手を。うんと汚らしく描いて、滅茶苦茶に壊してあげる」

「出来るものならね」

私は憎まれ口を叩くが、ゆきさんはまるで聞いていない。彼女は胸ポケットからボールペンを取り出して、ピアノの上に置かれた楽譜の上にさらさらと描き始めた。左手は、私の右手に絡ませたまま。

仕方なく、私は空いた左手でピアノを奏でた。だがそれは何の意味ももたず、ただ鍵盤の上を右往左往するだけだ。

しかし、陶酔しきっているゆきさんには、それすらも心地いいらしく、時折切なげにため息をつく。

注意深くゆきさんを見ると、なにやら唇が動いている。何も言葉を吐き出さずに、唇だけが、操り人形のように動いていた。私の無意味なピアノの旋律に合わせているらしかった。

私は意地悪く、急に弾く手を止めたり早めたりしたが、驚くことに、彼女は完璧に私のピアノに同調していた。

あきらめて私は手を止めてゆきさんにたずねた。

「何を言ってるの?」

「さあね…当ててごらん」

今度は私がゆきさんに意地悪される番だった。読唇術など出来ない私には、わかるはずがない。

「そんなのわかるわけない」

「わからないの?」

ゆきさんの手が止まった。

と、絡ませていた指をようやく放して、描き上がったものを私に手渡した。

楽譜には、ただ執拗に「L.F.」と書き連ねてあった。

「これは…?」

「私にもわからないよ…けどこれは香奈枝さんの指先から感じたことなの。ねえ…もう一度弾いて…」

「まあ…いいけど」

楽譜をピアノの上に置いて、また、サティを弾き始める。

すると、ゆきさんがいつの間にか後ろにいて、自身の両手を私の両手の上に重ねてきた。これでは演奏出来ない。

「ちょっと…邪魔よ」

「いいの。私の頭の中でもう鳴っているから…」

首筋に、やけに生暖かい息がかかり、ぞくりとした。

「ゆきさん…何しようっての?」

「何も…。それとも香奈枝さんは何かをして欲しいのかしら?」

「まさか…そんなこと、ない……………あっ」

ゆきさんの細い指が、鎖骨をなぞる。その指がそのまま上へとなぞり、耳にかかった。

耳のすぐ近くで、ゆきさんが囁く。

「感じる?」

「…ばかばかしいよ」

私の言葉には答えず、ゆきさんは右手で私の左頬をぐいと引き寄せた。私を無理矢理真横に向かせると、目の前にはゆきさんの唇があった。どんな表情をしているのか、わからない。

不意に、ゆきさんの唇が動く。やっぱり言葉は発しない。

「…教えて。何を言ってるの?」

「知りたい?じゃあヒントをあげるわ。貴方の身体の中にね…」

予想通り…ゆきさんの唇が私の唇に重ねられた。そればかりか、濡れた舌が唇をこじ開けて、私の舌を絡め取ってくる。

手持ちぶさたになった私の手が、無意識に鍵盤を叩いた。

…やけに甲高く、上ずった音が響いた。


--------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------……………………………………………………………………………………………………………………………

…………。


上着のボタンを留め直して、パソコンの前に向かうと、スティーヴ・ライヒの「Electric Counterpoint」を再生した。霧がかかったような脳内には、この音が心地よい。

「へえ…結構いい音で鳴るね、そのスピーカー」

とろんとした目で、ゆきさんが呟いた。

「起きてたの?朝まで寝てれば?」

「まだ夕方じゃないの…朝まで寝られないよ。取り合えず、今日は帰るね」

そう言いながら、立ち上がって私の部屋を出て行こうとするゆきさんの袖を、ぐいっと引っ張った。

「……泊まっていけば?」

「…珍しい。誘ってるの?」

私は顔をしかめて、首を振った。

「素直じゃないね、香奈枝さんは。相変わらず……」

そう言うと、ゆきさんはその胸の中に、私の顔を抱き寄せた。私は目を閉じて、彼女の心臓の鼓動に耳を澄ませた。「Electric Counterpoint」と彼女の鼓動と彼女自身の甘い香りが合わさり、体験したことの無かった新鮮な音の空間を作り出していた。

そう、私は……素直じゃない。

私は、求めない。相手が求めてくるのを、ずっと待ち続けているだけだ。茜さんが、向こうの世界から私を求めてくるまで、私はひたすら待ち続けてた。

だから、ゆきさんに対しても「泊まっていって」とは言わない。「泊まっていけば?」と、相手を促すような言葉しか言わない。

嫌ならやめればいい。良いなら、私は受け入れよう。

「やっぱり、今日は帰る。香奈枝さん、何だか不安定だしね」

「…そう。それじゃ、さよなら」

去り際に、さっと私にキスをすると、ゆきさんは部屋を出て行った。

外から、車のエンジン音が聞こえる。やがて、それが遠ざかって行く。後には、私の高鳴る心臓の鼓動と、ライヒの音楽が取り残されていた。


茜さんからの誘いは、まだ、ない。

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