第五編 L.F.-Track 01
記憶。画像。切片。匂い。温度の低下とともに消えていく、全て。
消えていく彼女。消えていく気配。消えていく存在。だが、彼女は分散し、
《つごうよくつくりかえられて》
私に宿る。
きっと私は、産まれてくる子に‘あかね’と名付けるだろう。
よく知りもしない彼女の、その名前を。
『学校なんて、消えて無くなればいいのにね』
茜色の夕陽に染まった茜さんの横顔は、毒々しいぐらいに穏やかな笑顔だった。短く刈った髪が夕陽の色で明るいオレンジ色になって光り、セピア調の写真のように美しかった。
今、思えば、の話だ。
その時、私は一人になりたかった。茜さんは予期せぬ邪魔者でしかなかった。他にも彼女は何か言っていた。だが、覚えている言葉はそれ一つだけだ。
漠然と抱えていた感情。
彼女は、それをいとも簡単に、日常にありふれた笑顔とともにこたえてくれた。
『学校なんて、消えて無くなればいいのにね』
正確には、私に関わる全ての人、事、物が消えてしまえばいい、と思っていた。消える理由はなんでもよかった。殺人、戦争、事故、自然災害…。そして自分だけが生き残って、消えたモノたち全てを笑ってやりたかった。
しかし、茜さんの言葉で気づいたのだった。
私に関わる全て、というのは、結局は学校生活のことだ、ということに。
その時の私にとって…いや、学生にとって「世の中の全て」というのは、自分の通う学校と家庭での日常が全てだ。それ以外がどうなっていようと、実感なんてない。
つまり私は学校も家庭も嫌いだった。いや、正確に言えば学校と自宅という建物の中で生活を送っている人間たちが嫌いだったのだ。そこには当然、私自身も含まれる。そう、私自身さえも嫌いだったのだ。私自身が私を否定するということは、私が知覚している世界すら否定することになる。つまり、私は私が嫌いだから、全てが嫌いだったのだ。だから、全てが消えて欲しかった。
あのまま、ずっと一人きりでいたら、私はきっと死んでいた。私が消えれば、全てが消えるのだから。
茜さんも、もしかしたら同じことを考えていたのかもしれない。都合よく全てが消える現象など起こるはずもないのなら、いっそのこと私こそが消えてしまえばいい。
だから、彼女は自殺したのではないか。
だが、そういう考えに至った理由がわからない。私自身、どうして消えてしまえばいい、と考えるようになったのかがわからない。私が私を嫌いになった理由は?
自分のことでさえもわからないのに、茜さんのことがわかろうはずもない。
それに、彼女はもう、いないのだから。
きのう未咲と行った喫茶店に足を運んだ。本当は未咲と一緒に来たかったのだけれど、彼女は姉と一緒に出かけることになったとのことで、未咲の家へ泊まる約束も一日伸びたのだった。
家族だんらんか。そんなもの、私には無い……。だが、寂しさはとうの昔に消えていた。
地下への薄暗い階段を降り、「喫茶ランダム」と書かれた看板の側を通り、店の扉を開ける。
カラン、とドアに備え付けられたベルが乾いた音を発した。その音が、客の声でかき消されることもなく、静かに漂う。店内はランチタイムであるにも関わらず、客が少なかった。テーブル席に2~3人の会社員らしきスーツ姿の男性が座っている程度である。
人知れぬ場所にひっそりと存在している店だからだろうか。きのうも客は少なかった。だが、その静かな空間こそが、私には居心地が良かった。
カウンターが空いていたので、今日はそこへ座ることにした。
「あら、また来てくれたの?」
背後からの声に振り向くと、吉埜先生だった。
「………」
私は何も返事をしなかった。気のきいた挨拶でも出来ればいいのだが、あいにく私にはそんな技能は無い。
「よかったらカウンターはどう?飲み物ぐらい作ってあげるわよ」
「…ええ。それじゃ…」
一番端の席に座ると、吉埜先生がメニューを片手に持ってやってきた。
「今日は南さんと一緒じゃないんだ?」
カウンター越しに吉埜先生が話しかけた。
「ええ。茜さんのことが聞きたくて」
茜、という名前が出た途端に、吉埜先生の愛想笑いが消えた。
「…何を聞きたいの?内容によっては答えないわよ」
さっきまでの社会に適応する為の人当たりのいい態度は無かった。茜さんのことは極私的なことだ。それを聞くということは、「吉埜先生」という一歩離れた存在ではなく「吉埜杏子」という一人の女性の内面に立ち入ることを意味する。そのためには、私も内側をさらさなければならないだろう。だが、なるべく穏やかに話を進めたい。
「…自殺する一週間ほど前に、茜さんに会いました」
「……ふうん。前から親しいお友達、じゃ無かったのね。当然でしょうけど」
当然。
…引っ掛かる物言いだ。
「彼女…学校なんて消えてなくなればいい、と言っていたのを覚えています」
「まあ、そうでしょうね」
吉埜先生はカウンターの上にあった煙草を掴み、火を点けた。私も、胸ポケットから煙草を取り出す。
「あら、未成年なのにダメよ…なんてね、言わないわ。私はもう教師じゃないし。それに河上さんももうじき20歳でしょ?あ、今年卒業したばっかりだっけ?」
「ええ…。来年20歳になります」
吉埜先生は急に饒舌になった。おそらく、違う話題を話したがっているんだろう。茜さんの話題を避ける為に。
そうは、いかない。
「ま、それなら大して変わらないもんね…ああ、そうだ。何か飲む?」
「おまかせします」
煙草を咥えたまま、先生は後ろの棚からグラスを取出し、果物をミキサーにかけ始めた。
「きのうはブラッドオレンジジュースを頼んでいたわよね。今日はバレンシアとちょっと隠し味を加えてみるわね」
「オレンジを見ると、茜さんを思い出します」
明らかに先生は茜さんの話題を避けている。無関係な話をして、必要なことを語らないようにしているのがよくわかる。だから、私は仕掛けていくことにした。
「……どうして?」
「彼女の髪…夕焼けのせいでオレンジ色に見えたんです」
「ああ、まあ彼女って髪の色がちょっとオレンジっぽい色だったわね。いいわよねえ、天然で外国人みたいな髪って。河上さんだって、光の加減でちょっと金色っぽいわよね。素敵だと思うわ」
「彼女、どうして自殺したんでしょうか」
先生の動きが止まった。
「……そんなこと、聞いてどうするの。はい、出来たわよ」
先生は一瞬、思いっきり不快な顔をして、すぐに笑顔を作った。
「もしかしたら、私と同じ考えだったのかもしれない、と思って」
「あなたと?どこが?」
穏やかな口調に戻ってはいたが、イライラとしているのが言葉の端に表れていた。先生は、震える指で二本目の煙草に火を点けた……いや、震えているように見えたのは気のせいかもしれない。
「私は……消えたかったんです。何もかも嫌いだった。彼女も同じだったのだろうか、と…」
思えば、私のこんな気持ちを口に出すのは初めてだ。未咲にすら、話したことはない。
「ふうん……彼女も消えたかったってこと?だから自殺したって?それなら、あなたはなぜ自殺しなかったの?」
先生の言葉にはトゲがあった。私に敵意があるようにも思う。けど、それは先生の本心からの言葉だからだ。私には別に不快じゃない。それよりも、誰にでも愛想のいい言葉をかけられる方が、私にはよっぽどつらい。
しかし……なぜ私は死ななかったのか。あらためて問われると、わからない。
「あなたは自殺しなかった。でも彼女は自殺した。なぜ?あなたと茜が同じ考えだったとしたら、同じことをしたはず。だけど違った。じゃあどんな違いがあったのか。考えてもわからないでしょう。だから、こんな話は無意味よ。誰も何もわからないわ。人の気持ちなんてね……」
先生は、まるでその答えを用意していたかのように、すらすらと一気に話した。
「私は……未咲を、見つけたから…」
「南さん?」
それまで、何度か廊下ですれ違う程度だった、未咲。彼女の名前を知ったのは、彼女が友人達と話している時に、偶然、彼女の名前を呼ぶ声が聞こえたからだった。
「未咲を見つけて…仲良くなったから」
最初、戸惑いはあったものの、彼女はすぐに私と打ち解けてくれた。そして、今までずっと、一緒にいる。
「つまり、未咲さんがあなたをこの世に繋ぎとめたってわけよね。それなら、茜はあなたを見つけたのよ。それで、あなたはどうしたの?」
「私は……」
何もしなかった。私からは言葉を発しなかった。
「仲良くはならなかったのよね。だから、茜は孤独になっていった。あなたが死の原因を作った一つの要素でもあるわけよね?」
「…そう、でしょうか」
そういう見方もあるかもしれない。しかしその考え方は、茜さんは孤独だから自殺した、という結論に基づいている。それではどうもしっくりこない。
「先生は、何をしたんですか」
「私は……教師として出来ることをしたまでよ。だから教師が嫌になったの。限界があるのよ…いろいろとね。さ、この話はもうおしまい!やめましょう、もう終わったことなんだから…」
そう言うと、先生はピアノのある場所へと歩いていった。
「河上さん、何か弾いてあげるわ。何がいい?」
…もう、何を言っても茜さんのことは聞き出せないだろう。失敗だ。やはり、私は口下手なのだ。茜さんに対するこの感情は、自分でどうにかして解決しなければならないだろう。
「きのう、先生が聞かせてくれた曲を…」
「ああ、L.F.?いいわよ」
える、えふ?
「あの……そのタイトルって、どういう意味があるんですか?」
「さあ……わかんない。茜さんのことを考えていたら急に出来たの。だから、これは私の、茜さんへの印象を音楽にしたもの、って感じかな」
そう言って先生は、いつの間に持ってきたのか、ウィスキーらしき色の飲み物の入ったグラスを空にして、演奏を始めた。
昼間からお酒を飲みながら、好きなピアノを演奏する…。今まで教師だったとは考えられないような光景だ。今のこの生活が先生にとって最適なのだとしたら、なるほど、教師の生活は耐え難いものだったのかもしれない。何が耐え難かったのか、それはわからないけれども。
活き活きとしたピアノの音色を聞くと、ここが先生の本当の居場所だったんだろう…そんな風に思った。
家に帰ると、玄関前で未咲がぼうっとたたずんでいた。
「未咲?どうしたの?」
「会いたかったから…来ちゃった。えへへへ」
「…未咲?」
…少し、様子がおかしい。その、やけにニヤニヤとした顔は、いつもの健康的な未咲の笑顔とは違っていた。
「まさか……酔っているの?」
「う~ん…どうかな~?あはははは……」
未咲はそう言って力無く笑うと、地面に座り込んでしまった。
「…未咲。何があったの?」
酔っている未咲を見るのなんて、初めてだった。それ以前に、彼女がお酒を飲むなんて、今までなかったことだ。
お姉さんと飲んだのだろうか…?それにしても、酔ったまま私の家に来るなんて、考えられないし…。
「……きもちわるい」
「え?」
「ねえ、寝かせて…」
焦点の定まらない、やけに潤んだ目で私を見上げる。
「未咲、こんなとこで寝ちゃだめよ。ほら……」
少々乱暴だったが、私は未咲の脇に手を入れ、無理やり立たせた。
「あゆみさん……寝よう?一緒に……」
「わかったわ。とにかく来て」
酔っている人間が口走ることに、いちいちまともな反応をしても意味がない。とにかく未咲を一眠りさせて、原因不明の酒気を抜かなければならない。
そのあとは、こんこんと彼女にお説教してやらないと、私の気がすまない。
私に何の断りもなく、いったいどこで何をしていたのか?どうしてこんなになるまで飲んだのか?お姉さんと出かけたのではないのか?質問が次々と浮かぶ。
…これじゃまるで、酔って帰ってきた夫を戒める妻じゃないか。
何だかおかしくなってきて、私はつい笑ってしまった。
「わあ…やっぱりあゆみさんだ……」
「え?」
「ううん……」
それきり、未咲はうつむいて黙り込んでしまった。どうやら、相当気分が悪いらしい。
足元がふらつく未咲を抱えて、何とか寝室まで連れていった。
しかし、酔った人間を介抱したことなどないので、どうしたらいいのかわからない。とりあえずお水を用意して、濡れたタオルを額にのせてあげた。
「未咲…どう?」
「………」
耳を澄ませると、未咲はすやすやと寝息をたてていた。
しょうがないわね……まったく。
続きは、未咲が起きてからにしましょう。
時計を見ると、夕方5時を回っている。
ちょうど、茜色の夕陽が窓から指し込み、私たちをオレンジ色に染め上げていた。