第三編 田鼎ゆき
描けない。
何も。
空想は止まり、現実は見えず、ただ記憶だけが私を追い立てる。
悲しみは、すぐそこでたたずみ、微笑んでいるのに。
午後の講義が始まるまで、私は中庭のベンチに座って、絵を描く。
ここ最近、どうでもいい絵ばかりを描いている。高校時代には決して描くことの無かった、当たり前の風景画だ。人物ばかり描いていたせいか、うまく描けない。何気ない葉の揺れや、薄汚れた建物の壁など、今までじっくり観察したことが無かったから、新鮮な気持ちだった。
スケッチブックに、濃い鉛筆の線が素早く走る。
ふと手を止めて、描き途中の絵の全体を眺める。
ふう、と小さくため息をつく。私はいつもこうだ。描きすぎてつまらなくなる。
ただの黒い空間を描いているような、そんな錯覚さえ覚えた。
いつも持ち歩いているバインダーから、一枚の絵を取り出す。
…高校時代に、たった一度だけ起きた奇跡。
一体、私の精神状態はどうなっていたのだろう。
そこには、黒い空間はほとんどなく、絵と呼べるような形すらなかった。誰が見ても人物画とは思えないだろう。
だがそれは、私にとって紛れもなく、國府田茜なのだ。
「ゆきさん、だよね」
彼女は、ある日突然やってきた。放課後の美術室で、クラスメイトの昇子を描いていた時だった。
「そうだけど…何?」
中肉中背。これといって特徴の無い顔立ち。すぐにでも忘れてしまいそうだ。どこかで会っていたとしても思い出せず、思い出してもどうということは無いような、ありふれた人間。彼女を見て、そんな印象を持った。
…描く価値は無いな。
「あの…廊下に飾ってある自画像って、ゆきさんでしょ?」
「ああ…あれね。顧問の先生が気に入っちゃってさ、飾りたいって言うから」
「そう…。ん、何て言うのかな…私から見たゆきさんと印象が違ったから。整い過ぎてるっていうのか…うまく言えないんだけど」
え?と私は驚いた。褒め言葉は聞き飽きていたけど、まさかそういう評価が得られるとは思ってもいなかったからだ。
「なにあんた、ゆきの絵にケチつけに来たわけ?」
隣で聞いていた皆恵が声を荒げた。メガネの奥から、彼女にきつい視線を送っている。
「ちょっと皆恵ってば、落ち着きなよ。評価は人それぞれでしょ」
私がなだめるが、皆恵は彼女をにらみつけたままだ。
「正直に感想を言っただけなんだけど、何かおかしいの?」
彼女も負けていない。平凡な顔つきが一瞬で変わり、鋭い眼光が皆恵を突き刺していた。
「ちょっとちょっと〜!ケンカしちゃダメでしょ〜?皆恵ちゃんてば短気は損気なんだから!」
モデルをやっていた昇子が、私たちを見かねてやってきた。
「だってこいつがさぁ…」
メガネを外して、皆恵が言う。完全に戦闘態勢だ。皆恵がメガネを外すとろくなことが無い。
「いいからいいから。私は何とも思ってないから。あなた…えっと名前は?」
私がたずねると、彼女はぶっきらぼうに答えた。
「…コウダ。コウダアカネ」
それが、彼女との最初の出会いだった。
その次の日、私は廊下で彼女に会った。私の横を素通りしていこうとした彼女を呼び止め、美術室まで連れていった。
「國府田さんって、美術に興味あるの?もし良かったら入部しない?」
まだ誰も来ていない美術室で、私は彼女を誘った。だけど、彼女は悲しそうにうつむいて、こう言った。
「…私、絵、下手だから。向いてないの」
「ああ…それは誰でも最初はそうだよ。描いてるうちに上手くなるって。だからさ、あきらめないで、ね?私が教えたげる」
「…ダメなの。描けないのよ。見て」
そう言って、彼女は鞄からノートを取り出すと、私に見せた。
「…これって」
言葉にならなかった。抽象画と言えばいいのか、一見して何が描いてあるのかわからない。だけど、私はその絵に強く惹かれた。食い入るように見つめ続けた。そして、やっと浮かんできた言葉は「邪悪」だった。目を背けたくなるような、この世の歪み。これは、彼女の視線で見た、この世界なのだろうか。それとも彼女の心の内なのだろうか。それともその両方…?
見れば見るほど面白かった。
「國府田さん…この絵、凄いよ。私には絶対に描けない。こんな凄い絵が描けるんなら、美術部に入る必要ないね」
「そう…?これって凄いの?私、こんな風にしか描けないんだよ?みんなに気持ち悪がられて…」
「ううん、私は好きだよ。飾りっ気が無いしさ。それに比べれば私の絵なんか…」
言いかけて、気付く。
“私の絵なんか”。
そうだ。私の絵は。
「國府田さん…私の絵って、良いと思う?」
「ううん。上手だけど、良いとは思えない」
はっきりと、彼女は答えた。
…やっぱり。そうだったんだ。
“私の絵なんか”。
私は、絵を描き終えて満足したことなど、一度も無かった。私は、“私の絵なんか”大嫌いだったのだ。
そうだ。私は周囲に合わせていたんだ。上手に綺麗に描けば褒められる。それが心地よかった。だから、私はそれが良い絵だと思い込んでいたんだ。いつも描き終わって感じていた違和感はそれだったんだ。私は、私を絵の中にさらけだしていない。当たり障りの無い、誰かに媚びた絵。そんなものばかり描いていたんだ。自画像でさえも。
友達同士の間でも、そう。私は本心を表に出さず、人当たりのよい人間を演じて、窮屈な毎日を送っていたのだ。そんなことわかっていたのに、私は私をごまかし続けていた。
…ははは。何だろう、おかしくなってきた。
「國府田さん、私の絵なんか、ダメだよね?」
「うん」
「堅っ苦しいよね?」
「そうだね」
とうとう、私は声をあげて笑った。お前の絵はダメだ、と言われているのに、私は気分が良かった。もっともっと、私をけなして欲しかった。
「ゆきさん…どうしたの?泣いてる?」
「アッハハハ…違うよ。これは笑い泣き。なんかおかしくってさ」
私は一人で笑っていた。彼女は、そんな私を不思議そうに見つめていた。
そして、笑いもようやくおさまった頃、彼女が呟いた。
「私より変わり者って、いるんだね」
「いや、國府田さんの方が上だよ」
彼女は、え?と目を丸くして、私を見つめた。
お互いに顔を見合わせて、私たちは一緒に笑った。
それからしばらくして、彼女が自殺した。
彼女と同学年の生徒達が、全員教会に集まった。
棺の中の彼女に、花を添えた。
彼女の頬に手を伸ばして、撫でる。
冷たい。ロウ人形のようだ。生気が感じられない。
そんなこと当たり前だ。だって死んでいるのだから。首筋に手を当てる。血管が動いていない。組み合わされた彼女の両手に、手を重ねる。やはり、冷たい。
当たり前のことだ。死体は冷たいのだ。
でも、その「当たり前のこと」を確認した途端に、私は泣いた。声も上げずに立ち尽くす。両目からは、雨が降るように涙が落ちていく。
彼女は、もう喋らない。私の絵を打ち砕いてくれない。私を支配してくれない。私を…殺してくれない。
これから、良い友達として付き合えたはずなのに、自殺というかたちで一方的に彼女に突き放されたのだ。悔しい。けど、もはやどうにもならない。
あなたを、描きたかったのに。
「ゆきさん…大丈夫?」
そう言って私の腕を取り、背中をさすっていたのは、中学からずっと同じクラスの佳澄さんだった。
「…離して」
邪魔だった。
大して仲の良くないやつに慰められても、いい気はしない。というより、私と茜さんの間に、誰かが勝手に入り込んで欲しくなかった。邪魔だ。消えろ。
…いや。
私から消えよう。
「ゆきさん?」
佳澄さんの手を払い、私は教会を後にした。
すぐに行動しよう。彼女の感触が、気配が残っているうちに!
自宅に飛んで帰り、すぐに絵を描きはじめた。道具を用意するのももどかしく、私はスケッチブックを乱暴に掴むと、夢中で鉛筆を走らせた。
幸い、家には誰もいない。母はいつも帰りが遅い。こういう時、夫婦が別居中なのは助かる。不意に父が来ても、玄関に出なければ勝手に入ってくることはないからだ。黙っていれば追い返せる。私は無言で、鉛筆を走らせ続けた。
…頭の血液が沸騰しているのか。目の前がクラクラする。視界が霧で覆われていく。
そして、雨が降り始めた。とめどなく、降り続ける。スケッチブックを濡らす。茜さんの姿が徐々に霞み、どこか遠くへ行ってしまう。
待って!まだ、あなたを描かせて!私を置いて行かないで!
私は、そう声に出して叫んでいた。光の渦に、彼女が吸い込まれていく。もう、顔も判然としない。
やがて、鉛筆が止まった。彼女の気配が消えたからだ。もう、彼女の絵を描くことは出来ない。手元には、永遠に描きあがることのない國府田茜が、不思議な存在感を放っていた。
多少なりとも、彼女の気配を封じ込めることが出来たらしい。
残念なのは、この絵を彼女に見せられないことだ。
きっとまた否定するに違いないけど。
「ゆきちゃん?またサボり?」
鉛筆を止めて顔を上げると、同じゼミ生の法木優菜がいた。
「あれ、ユナ今日出席してたんだ」
「うん。私真面目だもん。」
「たまに来て、何が真面目なんだか…。さて、そろそろ帰ろうかな…」
「不真面目だねえ〜ゆきちゃんは。高校の時は真面目な優等生だったんでしょ?昇子ちゃんに聞いたよ?」
「あいつ…おしゃべりなんだから。ま、昇子の言う通りだけどね。優等生やってるのに飽きたってとこだよ。ありがちありがち」
私は、描いていた絵を破り、近くのクズカゴに捨てた。
「あれ!?捨てちゃうの?」
「気に入らないから。さ、帰ろ。バイト代出たから、お昼ご馳走したげる」
「え!マジで!?じゃ、私も今日の授業おしまいっと。ゆきちゃんと仲良くサボりましょ」
嬉しそうに、優菜は腕を絡ませてくる。
「暑いから。離れて。ウザいから」
「冷たいなあ、ゆきちゃんってば。ま、そういうとこが好きなんだけどね〜」
「…あたしはそういう趣味無いから」
「私も無いよ」
「ウソつき」
「ホントだってば。男大好き」
「あんまりはっきり言われてもひくよ」
「どんどんひいて。ひき殺しちゃうから」
「それはイヤ」
「冷たいゆきちゃん、大好き」
「キモい。ドMなんじゃないの?突き放されて喜んでるし」
「ん〜…いや、ムチとか縄とか興味無いし」
「バカ。エロ子」
「エロは健全な証拠ですから」
ほぼ毎日、この下らないやり取りを繰返す。それは、楽しくもある。だが、どんなに楽しく過ごしていても、私の頭から彼女とのことは消えなかった。
あの時描いた絵。いつか完成するのだろうか。
私は、それを夢に描き続ける。