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L.F.  作者: 河上歩
2/10

第二編 南未咲

雨は降り止まない。

それは心にも。

それは頬にも。

でも、それは降り続けることで私を洗う。



学校での1日を終えても、まだ雨は降っている。朝からずっと、冷たい雨が窓を打ち続けている。私はぼんやりと、雨粒が流れ落ちるのを見ていた。

夏休みの前にも、確かこんな風に雨を眺めていたっけ。あの時は隣にあゆみさんがいた。けど今は…。

はあ…とため息をつく。透明だったガラスが、ため息で白く濁っていってしまう。

嫌だな…この気持ち。とてもゆううつだ。雨なんていくら降っても、私を洗い流してなんかくれない。暗い空から落ちてくる冷たい雨が、ただ私の前を通り過ぎていくだけ。

「未咲、そろそろ帰ろ?」

振り向くと、翔子ちゃんがいた。手を振るように傘を振っている。

「う〜ん…なんか帰りたくないな」

私は、また窓の外を見る。雨は嫌いじゃなかったのに、嫌いになりそうだった。だから、嫌いにならないように、私は雨を見続けた。

「え?帰んないの?」

翔子ちゃんが、隣にやってくる。顔を見なくてもどんな表情をしているか、わかる。きっと変人を見るような顔をしているに違いない。

私は翔子ちゃんの方には向かず、ぼんやりと適当なことを呟いた。

「…歩くのめんどくさい。“どこでもドア”があったらいいのに」

はあ…という大きなため息が聞こえた。

「未咲…ほら、行くよ。雨が弱いうちに帰ろうよ」

「…もう少し残ってる。いいよ、先に帰っても」

はあ…と、またもや大きなため息が聞こえた。

「まあいいけどさ。暗くならないうちに帰りなよ?じゃあね」

「うん」

翔子ちゃんの足音が遠くなる。と、足音が止まり、少し遠くから翔子ちゃんの声が聞こえた。

「未咲、あの……ま、いいや。また明日」

「うん」

と、私は後ろも見ずに手を振った。翔子ちゃんはもう廊下に出ていて、誰かと賑やかに話していた。

「…勝手に帰ればいいじゃん」

私は独り言を呟いた。



あゆみさんが卒業して、まだ一週間もしてない。だからだろう、寂しい気持ちはまだ当分消えそうにない。がらんとした三年生の教室には、あゆみさんの気配は残っていない。切ない。それに、恐い。

卒業式の後、私たちはあっさりと別れた。また明日、会おうね、というぐらいの簡単な挨拶だった。

だから、聞かなかった。

一年前のあの日、どうして私に声をかけたのか。全く見ず知らずの人間だったはずの私に。

それに、彼女は私の名前を知っていた。どうしてだろう。わからない。

私は、あゆみさんのことは出会う前から噂で知っていた。クラスメートに大怪我させたとか、援交してるとか、下らない噂ばっかりだった。

でも、あゆみさんと言葉を交わしていくうちに、それは彼女のことを知らない人たちが誤解と偏見で作り上げた、つまらないものだということがわかった。

何も得るものがない学校での、退屈しのぎの噂話にすぎなかった。

あゆみさんは、穏やかで優しい人だった。でも、あまり表情が変わらないし、口数も少ないから、誤解を受けやすいのだろう。

私だけが、知っているのだ。はにかんだ笑顔が素敵な、あの河上あゆみさんを。

それともう一つ、聞かなかったことがある。

「茜さんて、誰なの?」と。

一体誰なんだろう。私は知らない。一度だけ、あゆみさんが呟くようにその名前を呼んでいた。その直後に、発作を起こしたように泣き出してしまったから、聞きたくても聞けなかったのだ。

自宅を訪ねてみようかとも思った。一度だけ行ったことがあるから自宅の場所はわかる。

けど、いきなり訪ねて行ってもし誰もいなかったら…。例えば引っ越してしまったりしていたら。そう思うと、恐くて行けなかった。

…茜さんという人のこと、自分で調べてみようか。茜さんのことを調べていけば、きっとあゆみさんにたどり着くはず。あゆみさんのことをもっと知りたいし。単なる好奇心だけど。

そうだ。そうしてみよう。

そうすれば、少しは気も紛れるだろう。どうやって調べたらいいのか検討もつかないけど…。

あゆみさんと茜さんとの間に何があったのか。あゆみさんと接触があった人を探せばきっと……。例えば…そうだ、吉埜先生なら何か知ってるかもしれない。学校のことには詳しいはずだし、あゆみさんは…いわゆる問題児みたいな扱いで先生たちの間では有名人だったみたいだから、きっと何か知ってるはず。

あれこれと考えながらぼんやりと過ごしていたら、結局、教室を出た時には外は真っ暗だった。一体、私はどれくらいの間、ぼうっと雨を見続けていたのだろう。まだ雨は降り止んでいない。

(結構降ってるなあ…)

傘を打つ雨音が、ぼつぼつと重たい音を響かせている。冷たい雨が制服にかかり、体温を奪っていく。

快適な場所で眺める雨は好きだけど、雨の中を歩くのはイヤだ。校門を出ていつもの帰り道を歩いていると、靴もびしょびしょに濡れてきた。最悪。

(ちょっといつもの道から外れて、本屋さんで雨宿りしていこうかな…)

でもそこは、あゆみさんとの思い出の場所だった。

…思い出?

(イヤ…!!思い出になんかしたくない……!!)

あゆみさんとは、まだまだずっと、一緒にいるんだ。思い出の中だけだなんて、寂しすぎる。

…さっきは、自分で調べるとか何とかわけわかんないこと考えてたけど、やっぱり、思い切って自宅に行ってみよう。それがいちばん簡単だ。本人に会って直接聞けばいいんだ。茜さんって、誰?って。それで、これからもよろしくね、って挨拶すればいい。それだけで寂しさも無くなるはず。少なくとも、雨を見てため息ばっかりつかないようになると思う。

でも、会いに行って、もしあゆみさんが素っ気ない態度を取ったら。

「何しに来たの」

そんな顔をされてしまったら…。

そんなはず無いと思っても、私は迷う。そういえば、あゆみさんは私に電話番号も教えてくれなかった。それってやっぱり…。

…ああ、もう、イヤだ。暗い考えばかり浮かぶ。会えないから、不安になる。

私は坂道の真ん中で、しゃがみこんだ。気分が悪い。自分の迷いの渦に埋もれ、めまいがしてきた。

…ここから、動きたくない。

と、下り坂の向こう、街灯の下に、背の高い人影が見えた。

大きな黒い傘の影から白い煙が立ち上っている。

私は条件反射のように駆け出した。制服が濡れても構わない。転んでも構わない。

あの人はきっと。

「あゆみさん!」

私は、彼女の名前を精一杯叫んだ。どんなに遠く離れていてもわかる。私は転がるように走り続けた。

別人かもしれない。

いや、そんなはずはない。私があゆみさんを見間違えるはずがない。

それに、あの白い煙はタバコだ。だから、きっと。

声が聞こえたらしく、その人は傘を持ち上げてこちらに合図していた。

その柔らかな笑顔を認めた瞬間、私は傘も鞄も放り投げて、あゆみさんに思い切り抱きついた。

その途端、私は泣いた。

「あゆみさん…あゆみさん…」

と、彼女の名前を何度も何度も呼びながら、強く抱き締めていた。

あゆみさんは何も言わずに、私の髪をハンカチで撫でてくれていた。

顔をあゆみさんの胸に押しつけて、私は泣き続けた。震える肩に、あゆみさんの手が滑り降りてくる。その手がゆっくりと背中にまわり、優しくさすってくれた。

温かいあゆみさんの胸の中にいると、心の安まりとともに頭がぼうっとしてきて、雨音が遠く、くぐもって聞こえてくる。

私たちだけを取り残して、雨が世界を包んでいるような、そんな気がした。

しばらくの間抱き合い、涙もようやくおさまってくると、不意に、雨音が耳に近づいてきた。ふと顔をあげる。

…少し、雨足が強くなってきているみたいだ。

いつまでもこうしていたいけど、そうもいかない。

「…あゆみさん、ごめんね。いきなり…」

言葉が、そこで遮られた。あゆみさんが、私の額に唇を当てたからだ。突然のことに、私は身動きが出来なかった。

温まった身体の中で、額だけがすごく熱い。あゆみさんの柔らかな唇が、私を溶かしていく。目を閉じてあゆみさんの唇を感じていると、教室でのため息とは明らかに違う、安らぎからくるため息が自然にこぼれ落ちた。

ゆっくりと唇を離すと、あゆみさんが言った。

「私も…いきなりでごめんなさい」

「ううん……」

何か言おうとしたのに、言葉が出ない。

いや、言葉はいらない。

あゆみさんが目の前にいるのだから。



私は自分の傘はささずに、あゆみさんの傘の下に入った。せっかく会えたんだから、すぐ近くであゆみさんのことを感じていたい。

「あ〜あ…かばんがびしょ濡れ」

さっき放り投げて坂道にしばらくそのままだったから、ずぶ濡れだ。おまけに何も考えずに走ったから、スカートに水が跳ね放題。

そんな私の様子を見て、ふふっ、とあゆみさんが笑う。

「…嬉しかった」

「え?」

「濡れるのも構わずに、私の方にまっすぐ来てくれたから」

「…ああ、うん。えっと…それは……私、バカだから」

「…そうね」

「えっ…そ、そっかぁ…やっぱ私、バカなんだ…」

アハハ、とあゆみさんが口を開けて笑った。

…そう、口を開けて。楽しそうに。こんなに笑っているあゆみさんを見るのは初めてだった。

何もかも放り投げて走ったのは、無駄じゃなかったみたい。

「でも、あゆみさん。あそこでずっと待っててくれたんだ?」

「いつもの帰り道だから、きっと来ると思ったの。でも、いきなりあんなところにいて驚かせちゃったみたい」

「ホント、驚いたよ。まさかあそこで待ってるなんて思ってなかったし、それに……ちょうど、会いたいなぁ、なんて考えてたから」

「そうだったの…。私もね、何か違和感があったのよ。未咲が隣にいないなんて、何だか不自然に感じて」

「あ、それ私も。なんか隣にあゆみさんがいないと落ち着かなくってさ…」

私がそう言うと、あゆみさんは少し悲しそうにまつげを伏せた。

「そう……。私、卒業…したんだものね。だから、これ。あなたに渡してなかったわよね」

そう言ってあゆみさんが手渡してくれたのは、あゆみさんの自宅の電話番号だった。

「ありがとう。私ってば、聞くの忘れちゃってて。毎日一緒にいるのが当たり前だったから…」

「そう、私もよ。卒業式の後、いつものように帰ったから、すっかり忘れていたの。また明日会うつもりでいたから…」

私たちは顔を見合わせて、笑った。あまりにも普段通りだったから、その日が卒業式だったということもすっかり忘れていた。

「あゆみさんって、携帯は持ってないんだよね?」

「今のところ必要ないもの。もし持つようになったら知らせるけど」

「あ、じゃあこれ。私の携帯番号とアドレス。いつでも連絡して」

私は制服の内ポケットからアドレスを書いたカードを取り出して、あゆみさんに渡した。

「…イルカの絵が描いてあるのね」

カードを珍しそうに眺めながらあゆみさんが言う。

「うん。イルカ、好きなんだ。かわいいよね」

「そうね…。でも私はシャチの方が好きかな」

「あ、シャチもかわいいよね。なんていうか、白黒なのがかわいい」

「未咲ったら…変なこと言うわね」

あゆみさんが笑ってる。他の人には絶対見せない、私だけに向けられる柔らかな笑顔。

…ほら、あゆみさんはこんなにも素敵なんだ。誰も知らないんだ、あゆみさんの微笑みを。

「ねえ、今度水族館に行こうよ。都内のおっきいとこ。それで、帰りは回転寿司食べようよ。ね?」

「ふふ……。未咲らしいわね、そのコース。いいわよ。いつにしようか」

「あゆみさんの好きな日でいいよ。入学式の準備とか色々あるんでしょ?」

「でも、まだ日があるから、未咲にあわせるわ」

「じゃあ、今度の日曜日はどう?」

「ええ、いいわよ。何も予定は無いし」

「じゃ、決まりっ!お魚見てお魚食べようね」

私は嬉しくなって、あゆみさんの腕に抱きついた。

「未咲…ちょっと傘持っててくれる?」

「え?うん」

傘を渡されて、私の両手が塞がってしまった。

と、不意に、すっ、とあゆみさんの顔が近づく。

気がつくと、私の唇にはあゆみさんの唇が重なっていた。

今度は、額じゃない。

私の唇に、あゆみさんの湿度の高い唇が重なっている。

口紅の甘い香りが、さらに私を混乱させていく。

…ずるいよ、あゆみさん。両手が塞がっちゃったら、逃げられないじゃない…。

私は、ゆっくりと…目を閉じた。



私は雨を嫌いになりそうだった。つらく切ない、冷たい雨の記憶。だけど今は、あゆみさんとの甘く切なく、狂おしい唇の記憶になっていた。

そして、降り続いてなお激しさを増していく雨が、さっきまでの私を洗い流していった。

それでもまだ、雨は降り止まない。


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