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L.F.  作者: 河上歩
10/10

第十編 森泉響

誰も聞こえない夜

寝静まった風

黒鉛が不可思議な図形を描きだす

だが、真の闇の中では

何も見えない

もう

聞こえない



「トラフィックアップデイズ、ただいまの交通情報です。首都高速、事故により1kmの渋滞……」

ラジオから、bay-FMが流れている。長く伸びた私の前髪を撫でるように、音声がまとわりつく。

耳を片手で覆って、ラジオをじっと聴いてみる。

…聞き取りにくい。

当たり前だ。私は何をしているんだろう…。

きっとこれは現実逃避だ。目の前に山積みになった参考書。学校の教科書。辞書。カチカチと鳴らしているだけのシャープペンシル。真っ白な大学ノート…。

「これじゃ、いけない。やらなきゃ、いけない。これじゃ、いけない。やらなきゃ、やらなきゃ…やらなきゃ……」

気づけば、壊れたプレイヤーみたいに同じ言葉をぼそぼそと呟いている。手は動かない。頭も働いてない。ラジオだけが遠慮なく話し続けている。

明日は試験だった。学校の試験ではなくて、大学入試の。

…どうして私、大学に行くんだろう。

今さら、そんなことを考えている。ほら、これもやっぱり現実逃避だ。今までそんなこと考えないで、フツーに勉強してきたじゃん。だから…何も考えないで勉強すればいいんだ。

「やらなきゃなあ、やらなきゃ、うん、やらなきゃダメ、うん、やらなきゃ、やらなきゃ、やらなきゃ…」

呟いて、机の上に突っ伏す。

…私、どうして勉強してるんだろう。

大学の入試があるからだ。

…どうして大学に行くんだろう?

親と教師が決めたからだ。

大学に行って、また勉強するのかな。

…何のために?どうして?

ああ……やっぱり現実逃避してる。例えば大学入試をすっぽかして遊びに行ったとしたら、どうだろう?

…小心者の私には、そんな大それたこと出来ない。後ろめたさでいっぱいになっちゃうだろうな。試験の費用出してもらってるわけだし。

で、結局、試験に受かったら喜んじゃうんだろうなあ。一応、嫌なことを努力して乗り越えた、っていう充実感と、これで終わり!っていう解放感でさ。

もういいや…。考えないで、手と目だけ動かそう。機械的に問題を解いていこう…。

…あ、そうだ。佐奈、どうしてるかな。ゲームしてるのかな。いや、あいつ真面目ちゃんだから、今頃勉強しまくってるんだろうな。

…ちょっとからかってやろうかな。

そばの携帯を引き寄せて、佐奈に電話した。

…まだ寝てないよね?

何度か呼び出し音が鳴って、佐奈がでた。

「…はぁい、遠山ですけど…ふあぁっ…」

あれ?

「もしかして佐奈、寝てたの?試験前なのに?」

「…誰?」

「私だよ、森泉。今何してるかな、って思って電話したんだけど…」

「ズミちゃんか…ズミちゃんも早く寝なさいよ。試験の時に力出せなくなっちゃうよ…ふあ…」

「ああ…そうね。ごめん、起こしちゃって。じゃ、明日駅で会おうね」

「うん?あ〜…うん。おやすみ……ふみゃ…またあし…た…ね…ズミ」

ねずみ?と聞き返そうとしたが、そこで電話が切れてしまった。

また明日ねずみ…ってなんだろう。と考えて少しおかしくなってしまった。さすがは佐奈。天然ボケぶりは試験前でも変わらない。ショートカットの似合う、ちょっと垂れ目な佐奈の顔が思い浮かぶ。

でも…そうか。もう寝てるってことは、準備万全か。完璧超人め…いまいましい。

まあいいや。私は私で、一夜漬けを頑張るかな。

佐奈の間抜けな声を聞いたおかげで、少しだけ…いや、ずいぶんと気分転換が出来た。ほんの一言でもいい。親しい友人の声を聞くだけで、こんなにも気持ちが変化する。

…愛してるぜ、佐奈。

なんてね。佐奈に言ったらどんな顔するかな。

そうだ。明日、試験が終わったら、言ってみよう。その前に、こいつらを片付けなきゃね。

私は、ラジオから流れてくるボズ・スキャッグスの「We are all alone」に合わせて、いつしか鼻歌を歌っていた。


翌朝。

結局、うだうだ考えているうちに机の上で寝てしまったらしい。勉強らしき勉強も出来ぬまま、私は佐奈との待ち合わせの駅にいた。早朝だけど、会社員らしきスーツ姿がいっぱいいる。学生服は少ない感じだ。

(早くついちゃったなあ…。佐奈が来るまで30分ぐらいあるよ…)

腕時計の針が、やたらと遅く動いている。さっきから全然時間が経ってない。

ホームの自販機でコーヒーを買って飲む。

(早く終わらないかなあ…試験)

周りを見ていると、どんどん人が増えていく。ホームで立ち尽くしている私の後ろにも、いつの間にかたくさん人が並んでいた。

(私もいずれ、あの中に入るのかな…)

大学に行って卒業して就職して…。それからいつの間にか恋愛して、結婚して出産して子育てして…。それって当たり前の幸せだし、誰もが望んでいることなんだろうと思う。

でも何でだろう。考えれば考えるほど、ゆううつになっていく。

幸せなことのはずなのに。人間にとって最高に幸せなことなのに。そのはずなのに。

わからない。先のことを考えたくないのだ。

恋愛さえも、したくない。

(刹那的なのかな、私)

これからのことなんか無視して、今、全部のことに背を向けて逃げ出して、佐奈と思いっきり遊びたいって思う。

(でも、佐奈はついてきてくれる…?)

その時だった。

耳を引き裂くような甲高い音。ホームに入ってきた電車が、警笛を鳴らしたのだ。

目の前で警笛を鳴らされたものだから、私は反射的に両手で耳を塞いだ。それから、鋭いブレーキ音がキキキキと不快な音を立てた。

(何が起きたの…?)

はっとして周りを見ると、スーツ姿も制服姿もみんな、突然の大音量にしかめっ面をしたまま、時が止まったようにぴたりと止まっていた。

思わず腕時計を見る。大丈夫、時は止まっていない。

電車が止まって、静寂が訪れた。それも一瞬で、すぐにスピーカーから声が響いてきた。

「…ただいま、人身事故が発生致しました。ホーム内のお客様は電車に近寄らないよう、ご協力をお願いします…」

心なしか、駅員のアナウンスがひどく暗い響きをもって聞こえた。

(人身事故…?)

周りを見ると、みんな一斉にスマホやらガラケーやらを取り出して、画面に向き合っている。

誰も、何も言わない。誰もが手のひらの向こうの、どこかの誰かに向けてメッセージを送っている。

私は、そんな光景を見て、ひどく不気味に思えた。

誰一人声を発することなくただひたすら、親指を動かしている。

しかめっ面をしながら、舌打ちをしながら、あるいは無表情で…。目の前の出来事を伝えることだけに夢中になっている。

騒いでいるのは駅員さん達だけで、誰もが無言だった。

当然と言えば当然の反応なのかもしれない。だって、私たちには何も出来ないのだから。

今起きていることを共有するぐらいしか、出来ないのだから。

だからみんな、どこかの誰かと夢中で話している気になっているのだ。

私の知らない誰か。もしかしたら私の知っている誰か。もしかしたらどこかの異国の。

どこかにそのメッセージをアップして、それを誰かが見て、何かに共感しているのだろう。

…一体みんなは、何を知りたいのだろう。何と繋がりたいのだろう。そして、なぜ、始終何かを知りたがり、誰かと共有したがるのだろう。

私もスマホは持っているが、滅多に使わない。メッセージのやりとりがわずらわしいからだ。

そんなにたくさん、誰かに何かを伝えたいこと、無いから。共感もいらない。

おかげで、今、何が起こっているのかがさっぱりわからない。誰も何も言わないから、何がどうなっているのか…。

試しにツイッターで検索してみると、画像やらメッセージやらがたくさん湧いて出てきた。

「人身事故が起きたせいで仕事1時間遅れ」

「今、駅で人身事故起きた。待ち合わせに間に合わないマジ勘弁」

「人身事故ってる!飛び降りじゃねーの?」

「電車すぐには動かないっぽい」

「自殺?なんか学生っぽいのが倒れてて、俺の目の前にいたんだけど」

線路の方に目をやると、電車の先端の近くに学生鞄が見えた。それから、少し離れて誰かが倒れていた。

私はすぐに目を背けた。けど、あの鞄は……。

うちの学校のものだ。

自殺…。

頭をよぎったのは、その言葉だった。受験苦か……恋愛沙汰か……。いずれにしろ、死ぬほど追い込まれていたのだろうか…。

腕時計を見る。

佐奈との待ち合わせ時間は、とっくに過ぎていた。

(まさか……)

私は思うより早く、駆け出していた。

佐奈のはずが無い。違う。きっと。

電車の先端部まで走る。悲惨な状況を覚悟していたが、見た目には外傷があるのかどうかもわからないぐらいだった。

電車に跳ね飛ばされて、線路上に女の子が倒れている。ショートカットの女の子。うちの制服だ。うつぶせになっていて、顔はわからない。血が流れているのかどうかもわからない。

(佐奈だ…助けなきゃ…)

私はホームに飛び降りようとしゃがんだのだが、駆けつけた駅員に止められた。

「すぐに救急隊と警察が来ますので、そのままホーム内でお待ち下さい」

駅員は怪訝そうな顔をしていた。私が興味本位で覗き込んでいるとでも思ったのだろうか?

「は?え?だって佐奈を助けなきゃならなくて!もしかしたら、その子……知り合いかもしれなくて!」

「…え?」

いやに機械的な駅員に何だか腹が立った。それから、この駅にいる人たちにも。

目の前で人が倒れてるのに、みんな携帯にむかってどこかの誰かと会話をしている。それが許せなかった。

「だから!佐奈なんです!救助なんて待ってられない!!友達なんです!!ちょっと見せて下さい!!」

「お友達ですか?すぐに救急隊が救助しますので、そのままお待ち下さい」

「だから!!お願いします!助けなきゃいけないの!顔だけでも見せて!!わからないの!?」

「落ち着いて下さい。お友達かどうかの確認は、まず救助隊が救助を開始してから……」

と、肩に誰かの手が置かれた。

「ねえ、ズミちゃん…?どうしたの…?」

振り返ると、ショートカットの女の子が不思議そうな顔をして立っていた。

「佐奈ッ……!!」

私はあまりにびっくりして、搾り出すような声しか出なかった。

生きてた…!

「あ……ああ………」

私はそのまま、そこに座り込んでしまった。腰が抜けるって、こういうことなのか。

「ちょ、ちょっとズミちゃん!どうしたの!?具合悪いの!?」

「すみません、そこ空けて下さい!」

「けが人を搬送します!どいて!!」

「え?え!?ええ!?」

混乱しまくっている佐奈だったが、何とか私の脇に手を入れて、引きずるように駅のベンチに座らせてくれた。

「ズミちゃん…一体どうしたの?何があったの?」

「佐奈…佐奈だよね…生きてたね……よかった……は…あはは…あはは……う……うえっ……ふええっ……」

安心して、勘違いしたことがなんだかおかしくなって、でもなんだかよくわからない気持ちになって、私は泣き出してしまった。

「そりゃあ生きてるって。もう……ズミちゃんってば、よしよし。安心してよ。私はここにいるから」

そう言って、佐奈は私の頭を抱えるようにして、その胸に抱きしめてくれた。


「ごめん、佐奈……もう間に合わないよね」

あれから正常に電車が動いてからも、私はしばらくの間、ずっと放心状態だった。何も考えることが出来なくて、ただひたすら、佐奈の胸の中にいることしか出来なかった。

やっと少し正気に戻って腕時計を見たら、既に試験が始まる30分前だった。試験会場まで電車で1時間以上かかるんだから、もう無理だ。車で行ったとしても渋滞で有名な場所だから、30分じゃ着かない。

遅刻は30分まで認められているが、それも過ぎてしまうだろう。

「いいって。それに、こんなことが起きた後だもん。ズミちゃんだって試験に集中出来ないでしょ?だから、いいの」

「……でも、佐奈は」

「いいっていいって。ズミちゃんと一緒じゃないと、面白くないし。それに、同じ大学に行くって決めたんだし」

「え?いつ?」

「今」

…ふふふっ。あはははは。

「いいやつだなあ、佐奈ってば」

「何を今さら」

「…愛してるぜ、佐奈」

「私も、アイラヴズミちゃんだよ」

あはははは。ははははは。

やっと二人で、少しだけ、笑い合った。

「とりあえず、どうしようか。今日は帰る?」

心配そうに、佐奈が私の顔を覗き込む。

「う~ん……でも、このまま帰ったら試験サボったとか言われるだろうし……」

「それじゃあさ!」

佐奈が、自分の顔の前で「ぱん」と手を叩いた。

「コーヒーでも飲もうよ」


駅を出て、歩いて20分。佐奈がよく来るという喫茶店へと入る。

「いらっしゃいませ……って、なんだお前か。ま~たタダコーヒー飲みにきやがったな~。学校はどうした~学校は~」

若いのか若くないのか、よくわからない風貌の店長が、やけになれなれしく言う。

「今日は試験なの!でもちょっとひどい目に合っちゃってさ……取りあえずホット二つちょうだい」

佐奈はといえば、手慣れた様子で注文をしている。

ん…?もしかしてこの二人、デキてる…とか?そういう関係?

「ねえ、佐奈…あの人、知り合い?」

「店長」

「いや、そうじゃなくって……もしかして、佐奈のカレ?」

そう私が言った途端、佐奈はぶわっははははは、と思いっきり無遠慮な大笑いをぶちかました。

「んなわけないじゃん!!あれはお姉ちゃんのダンナの弟……まあ、親戚ってやつ。ちょっとハゲてるけどまだ30そこそこらしいよ」

「お~い!聞こえてるぞ~!これは由緒正しい血統の証なんだぞ~!」

「そんなこと言ったって、お兄さんの方はフツウじゃん」

「兄貴は由緒正しくねえんだよ。俺がホンモノ」

「ホンモノのハゲってわけね」

「そうだよ、すげえだろ!うるせえな!まあ別に気にしちゃいねえけどよ」

ハゲハゲ言われてる割には、その店長さんも何だか嬉しそうだった。佐奈との会話が楽しいのか、他の理由があるのか…それはわからないけど。

「何だか漫才見てるみたい」

まるで夫婦漫才だ。掛け合いを見てるだけでも楽しい。そういう喫茶店なの?

「面白いオッサンでしょ?お姉ちゃんのダンナよりよっぽど面白いよ。何であんなうっさくてつまんない男と結婚したんだか……」

吐き捨てるように、佐奈が言う。おっと…こんな佐奈、見るの初めてだ。ちょっとびっくりした。

「おいおい、俺の前で俺の兄貴の悪口言うのかあ、オマエは~」

カウンターの向こうでコーヒーを入れながら、店長さんが言う。

「だってホントじゃん!おしゃべりのくせに話がつまんないって、最悪でしょうが」

「いや、そりゃオマエにとっちゃつまらんかもしれんけどさ。お姉さんはそれがいいから結婚したんじゃねえの?」

「あ~……そうかも。お姉ちゃんだって結局バカだしね。似たものバカ同士で結婚してて、それでいいってことか」

「あっはっはっはっは!!佐奈はすげえなあ。毒吐きまくりだねえ。将来有望だなあ~」

「何の有望なのかよくわかんないんだけど」

二人が会話してると、私が入るスキが全く無い。もう、こっちは完全に聞き専だ。テンポが早くて、言葉がポンポン飛び交う。何だかお似合いの二人だと思うんだけど、二人はどうなんだろうな。

「はいよお待たせ。そちらのかわいいお嬢さんも、どうぞ」

店長さんは、ちょっと乱暴な言葉使いのわりには凄く丁寧な手つきで、物音一つさせずにカップを二つ、テーブルに置いてくれた。立ち上る湯気からは、淹れたてのコーヒーのいい匂いがした。

「かわいい女の子見るとすぐこれだ。そんなチャラい態度だからいつまでも彼女が出来ないんだよ!」

「え~、俺チャラいかなあ。かわいい女の子は誰だって好きでしょうが。佐奈だってイケメンは好きだろ?」

「当ったり前でしょ。でもハル氏の場合は変態くさいの。わかる?」

「全然わからん。意味もわからん。んじゃ、ごゆっくり~」

軽く手を振って、店長さんはカウンターの奥へと引っ込んでいった。

「まったく……さて、うるさいハル氏はいなくなったし、いただきましょ?ズミちゃん?」

「ハル氏?」

「うん。本名は遥って名前なんだよね。なんか女の人っぽい名前でしょ?」

「ふうん……あの人、ハルカっていうんだ。だからハル氏か……」

「遥か彼方で死ぬ、と書いてハル死ってわけ」

すると、カウンターの奥から大きな声が聞こえてきた。

「お~い!!だから聞こえてるんだよ!オマエ声でけえんだからよ!!」

「うっさいなあもう……気にしないで、飲もうよ」

そういうやりとりも、どうやらお馴染みのようだ。でも、何だかとっても仲が良さそうだ。親戚って、大体はそんなに行き来がないものだと思っていたけど、この二人はどうやら違うみたいだ。もしかしたら性格が似てるから、こんなにお互い気を許して話せるのかもしれない。男女の仲って、性格が同じようなものだとすっごく相性が良かったりするから。

目の前のコーヒーカップを眺めると、何だか結構高級そうだった。金色の縁取りがあって、鮮やかな青が目を引くデザイン。こういうカップを出す喫茶店はまず間違いなく、おいしい。

そう思って、砂糖もミルクも何も入れないで、一口飲んでみた。

「へえ……あんまり苦くなくて、なんだか不思議な味」

酸味もきつくなくて、何だかお茶を飲んでるような、そんな味だった。

「ハル氏は腕はいいからね。他はダメだけど」

「へん、そうだよ。この間もフラれてきたしな!はいお待ち。キミ、かわいいからサービスね」

店長さんが、私にだけサンドイッチを置いていってくれた。

「え……いえ、そんな……お代、払いますから」

「いいっていいって。キミみたいなかわいい女子高生から金とるほど、俺は鬼畜じゃねえからさ」

「ズミちゃん、気をつけなよ。ハル氏、狙ってるよ」

「当然だろ?彼女いないんだから。もう何でもやるしかねえし」

「ふうん、結局フラれたんだ、その子に」

「そうだよ……。もう今日はやる気ねえから、10時でおしまい。ああ、キミらはずっといていいよ。ごゆっくり」

と言っておきながら、店長さんは近くの椅子を引き寄せて、私の隣に座った。

「え……えっと……ものすごく近いんですけど…」

ほとんど私の肩に触れるぐらい近くに、店長さんは座った。

「ちょっと変態!どきなさいよ!あたしのズミちゃんに何するの!」

「へえ、ズミちゃんっていうんだ。なんていう名前なの~?」

思いっきり鼻の下が伸びきった、わかりやすい笑顔を浮かべて、店長さんがたずねた。

「ああ……モリズミです。モリズミヒビキ。だからズミちゃん、って……」

「変なあだ名だなあ。センスねえよ、佐奈」

「失礼な。こんな素敵な呼び名、ハイセンスなあたしにしか命名出来ないんだよ?」

「俺だったらビキちゃんだな!それかビキティーとか」

「うっわ、センスねえ!やっぱハル氏は死んだ方がいいよ!」

「いやいや、俺一回死んでるから。二回は死ねねえんだ。ところで、今日試験だったって?なんかあったの?」

店長さんは、佐奈ではなく私に話しかけていた。

「ああ……まあ、その……人身事故が起きちゃって……」

店長さんが目を見開く。

「ええ!?人身事故!?どこで!?」

「すぐそこの駅で…」

「うわあ……そっかあ……。それで試験に間に合わなくなっちゃったの?」

「そう、そうなんです」

「う~ん、でもそういう場合はやむをえない事情があるから、何とか受けられたりしないのかなあ」

「いえ……ホントはそれでも間に合ったんです。でも、私が……」

「ズミちゃんね、ショックでさ……。さっきまでずっとホームでぼうっとしてたの。無理ないよね…。目の前で事故が起きちゃってさ」

「おいおい目の前でって……そりゃあ」

店長さんは困ったような、思いっきり気の毒そうな顔をした。この人、とにかく何でもわかりやすい表情をする人みたいだ。

「あ、でも……そんな、凄い悲惨な状況じゃなくって、見たところ大きな怪我でもなかったみたいで…」

「う~ん…そっか。いやそれでもすっげえショックだよなあ……。そりゃあ、試験受けに行ったって、集中出来ないだろうな」

店長さん、佐奈と同じこと言ってる。やっぱりこの二人、考え方が似てるんだ。

「確かに試験は大事だけどね…。ああ、でもまだ試験はあるんだろ?」

と、佐奈に顔を向ける。

「うん。あと2つね」

「じゃあそっちにかけりゃあいい。何とかなるって。俺も学生の時は何とかなったしね。で、今日はこれから遊びに行く、と」

「そう、そういうこと。あ、今さらだけど、ズミちゃんごめん。待ち合わせ、ちょっと遅れちゃってさ…。余裕かましてゆっくり寝てたら寝過ごしちゃって」

あはは、と佐奈は笑う。きっと、私のことを元気づけてくれてるんだ。嬉しいけど、そんなに気づかいしなくてもいいのに…。時々佐奈は、そういう遠慮がちというか、気をまわしすぎるところがある。

「そんな…いいよ。私の方が謝らないと。私のせいで…試験受けられなくって……」

店長さんは、そっと私の肩に手を置いた。

「自分のことを責めちゃダメだよ、キミ。これは不幸な事故なんだから。忘れなよ」

「触るな変態!!」

すかさず佐奈が大声を張り上げる。私はというと…別に嫌な気はしなかった。軽くてチャらい感じのノリのいい店長さんだけど…優しさが伝わってきたからだ。きっと、口で言ってるほど浅はかな人じゃない、そんな気がした。

「そうですけど………その、私……あの子が佐奈じゃないってわかった時、凄く安心したんです。それが、何だか……後ろめたいというか…」

後ろから佐奈が来た時、本当にホッとした。良かったって思った。でも、そしたら目の前に倒れている彼女は……。

店長さんは腕を組んで目を閉じて、上を向いていた。

「う~ん、言い方はキツいが……佐奈じゃないから、別にその子が生きていようが死んでいようがどうでもいい、っていうことだよね」

「………」

確かに、その通りだ。佐奈が無事だったからそれで良かったんだ。だけど…。

「いや、そういうもんじゃないかな。怪我したその子は気の毒だけどね……でもキミにとって必要なのはその子じゃなくて佐奈なんだろ?」

「……はい」

「人の不幸を見て自分に関係ないから安心してる……けど、それに後ろめたさを感じるってのは……キミが優しすぎるんだろうね。大方、人の不幸は蜜の味で、自分に関係なきゃ単なる娯楽だしね。後ろめたさなんて感じないもんだよ」

肩をすくめて、店長さんが言う。

「それは……ちょっと言い過ぎじゃないですか」

人の不幸が娯楽って……。でも、そうだな、とも思う。事故の瞬間の映像だとか、殺人事件のニュースだとか…みんなイヤそうな顔をしながらも、夢中で見てる。私が人身事故を目撃した、ってことがわかれば、多分色んな人に興味本位で聞かれるだろうと思う。なんだかうんざりしてきた。

「ああ、いや、ごめん。俺はどうも極端に話しちまうからいけない。でもそれは事実だよね。自分に関係ない不幸って、週刊誌でも新聞でもネットでも、いくつもあるじゃない?それを楽しんでる人たちがたくさんいるから、それが商売になってるわけだ。だから、それは娯楽にもなっちゃう、ってとこなんだけど」

でも、今回の場合は、私の目の前で起きた事故だ。目の前で傷ついた人がいたら、やっぱり助けてあげたいと思うのが人情じゃないだろうか。

「……私、出来ればその子のところにお見舞いに行ってあげたいんです」

「どうして?」

「同じ高校の子だし…目の前であんなことになって、私は何も出来なかった。だから…」

そ知らぬ顔で、みんなどこかの誰かと会話してた。その光景がよみがえる。

「それはやめときなよ」

店長さんが、ぴしゃりと言い切った。

「……どうしてですか?お見舞いするぐらい…かわいそうだし……」

「事故に合ったからかわいそうっていう考え方…やめた方がいいよ」

「え……」

不幸な事故に合ったのだから、同情するのは普通だと思うのだけど…。店長さんはちょっと怖いような、真面目な目を真っ直ぐに私に向けている。

「どういう理由かわからないし、それに同じ高校といっても他人だ。深入りしない方がいいよ」

「…でも……」

「親しいわけじゃないんだろ?だから、やめときな。きっと後悔するから。相手に感謝されるとは限らないんだ。世の中意外とね、甘い話って無いから。俺には実体験があるから、言ってるんだよ。だから、やめときなよ。さて!」

と、店長さんは勢いよく、顔の前で「ぱん」と手を叩いた。そんな行動まで佐奈と一緒だ。

「難しいお話はおしまい。コーヒーおかわりどう?」

一転して明るい顔をして、佐奈と私を交互に見る。

「じゃ、あたしはカフェラテ」

佐奈は遠慮しない。

「キミは?」

店長さんに聞かれて、どうしようか考える。初対面なのにこんなにおごってもらっちゃって、何だか悪い気がした。

「えっと………いえ、いいです」

「遠慮しなさんなって。かわいい子になら何でも作っちゃうよ、俺は。オススメはカプチーノ。どう?」

この人、押しが強いのかも…。それとも本当に凄く親切なのだろうか。なんとも得体の知れない人だ。

「…それじゃあ、いただきます」

「そうそう。ズミちゃん、こんなハル氏に遠慮したってしょうがないんだから」

「そうだよ~。キミみたいな超美少女には何でもしてあげちゃうんだから。佐奈は少し遠慮しろよ?」

「や~だよ。いつも話相手になってやってるんだから、ありがたく思いなさいっての」

「はいはい、感謝感謝ですよ。それじゃ、ちょっと待っててね、響ちゃん?」

私の方を見て、ウィンクする店長さん。

「まったく…フラれたばっかだってのにあの調子…。だからチャラいっていうんだよ」

あきれたような顔をして、佐奈は残ったコーヒーをぐい、と飲んだ。

「ははは……。いいんじゃない?さっぱりしてて。私には無理だけど……」

「ところでズミちゃん……あの子のこと、私だと思ったんだよね?」

ちょっと真剣な顔で、佐奈が言う。

「どうして、私だと思ったの?」

「え……なんでかなあ。待ち合わせ時間過ぎてたから、慌てて走ってすべって落っこちたのかと思ったのかも」

「あたしそんなバカじゃないよ……。あたしが学校に遅刻して走ってたことある?」

「あ、そう言えば……。ふふっ、無いよね」

いつもマイペースな佐奈の姿を思い出して、クスリと笑う。

「ねえズミちゃん…お見舞い、行ってみる?」

「え?」

「救急隊の人に運ばれてるのをちらっとしか見なかったし、多分だけど……あの子、私知ってるよ」

「……誰なの」

「多分ね……國府田さん。國府田茜さんだよ」

聞いたことの無い名前だった。

「佐奈の知り合い?」

「ううん。むこうは私のこと知らないと思う。けど、私は知ってるの。ちょっと前に皆恵に会いに美術室に遊びに行ったんだけど、そしたらちょうどあの子と皆恵がなんか言い合いしててさ。で、部長の田鼎さんが止めてたんだ」

「皆恵ねえ…喧嘩っぱやいからなあ」

「何となく私も入りづらくなっちゃって。立ち聞きってわけじゃないけど廊下に立ってたの。その時にあの子がコウダアカネって名乗ってたからさ。それで知ってるんだ」

「ふうん……」

「ま、明日になればわかるでしょ。きっとどのクラスも人身事故の話でもちきりだろうしね。ハル氏の言ったとおりなんだよね、結局さ」

肩をすくめて、はあ、とため息をつく佐奈。そんな仕草が、店長さんの姿と重なる。

「何だか似てるね、二人とも」

「へ?」

「佐奈と店長さん。何だか夫婦みたい」

「冗談!」

「冗談!」

佐奈と、いつの間にそばにいたのか、コーヒーのおかわりを持った店長さんが同時に叫んだ。

「あたしはね、こんな中途半端ハゲなんかぜんっぜん好みじゃないし!!」

「俺ぁね、響ちゃんのような清楚でおしとやかな美少女が好きなんだよね。佐奈みたいなとんでもねえ毒吐き女はいかんよ、いかん!」

お互いにお互いをけなしあってる様もまた、似たもの同士を思わせる。いいなあ…なんてちょっと思ってしまった。

私にはそんな人…きっと現れない。現れてもきっと断ってしまうだろう。理由はわからない。


その日の夕刊で知ったけど、あの飛び降りた子は助かったようだった。あの電車は各駅停車だったから、既に減速してホームに入っていて、おまけに停車位置も近かったために命が助かったのだった。

原因はまだわからないらしい。自殺なのか、事故なのか…。

ふと、あの店長さんの言葉がよみがえる。

「事故に合ったからかわいそうっていう考え方…やめた方がいいよ」

私は、あの子の所にお見舞いをしに行って、どうしようというのだろう?大変だったね、と言ってなぐさめたい?それとも、原因が知りたい?

それって、あの子にとってはありがたいことなの?

…あの人の言うとおりなんだろうか。そっとしておくのが一番なのだろうか。私はただ同じ学校の生徒というだけで、無関係なのだから。

でも…気になる。なんだかあの子が気になる。佐奈に似ているからだろうか。

美術部の田鼎さんと皆恵はあの子を知っているみたいだから、佐奈に頼んでみようか。きっと彼女たちはお見舞いに行くだろうから、それについて行って…。

明日、話してみよう。


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