第一編 涼川香奈枝
風が冷たい。
冬は、嫌いだ。
春も、嫌いだ。
私には、夏しかない。
廊下には、多数の生徒がいる。行儀よく整列し、一言の私語もない。
教師に連れられて、私たちは体育館へと向かう。幼稚園児じゃあるまいし、何故教師が先頭に立って私たちを誘導するのだろう。体育館の場所なんてわかりきっているのに。
とは思ってみても、学校は集団生活の場だ。私一人が抵抗してみせたところで、何の意味もない。ここは、聞き分けのいいお子様ばかりだ。逆らう人間はいない。
いっそのこと、この集団からこっそり抜け出そうか。考えながら、ふと思い出した。
…茜さん。
あなたなら、どうするの?
答えの出ない問いを、空間へと投げてみる。
静寂。乾いた靴音。薄暗い廊下に、生徒たちの影がゆらめく。
卒業式なんて、大人たちの自己満足だ。決められた式を、型通りに行うだけ。
だが、私には良い機会が与えられた。
生徒たちの歌う「あおげばとうとし」の伴奏をまかされたのだ。
肌寒い体育館で、次々に生徒たちに卒業証書が与えられる。何からの卒業なのかも、わからないまま。
やがて、プログラムは「卒業のうた」の時間へと進行する。
…私の出番だ。
私の心を熱いあかね色の夕焼けが突き刺す。甘く、苦しい想いが横切る。
私は壇上のピアノに座り、伴奏を始めた。
声を出すだけの型通りの歌。音を出すだけの私の冷たいピアノ。
なんの感動もない一時が終わり、生徒たちは静まり返る。身動き一つしない。
くすぶっていた茜色の炎が、私を焦がす。
今だ!私はこの時を待っていた!
私の指が、再び動き始める。精一杯の心を込めて、私は彼女にあの音楽を届けよう。
エリックサティの、ジムノペディ。私と茜さんを結んだ、ただ一つの絆。
式がどうなろうと、かまうものか。私にピアノを弾く機会を与えたのだから、ここは私が支配する場だ。邪魔は許さない。
私は、目を閉じてピアノを弾いていた。祈りを捧げるべく上を向き、茜さんを想った。
…あなたがここにいたのなら、どんな顔をしていたのだろう?
だが、いくら思い返してみても、彼女の顔が浮かばない。
構うものか。彼女の気配を感じるのだから。それを、音にして解放してやればいい。
今この場にいる全員が、私に注目しているのがわかる。誰も、私に近づこうとはしなかった。ただ、私の心から溢れだす茜さんへの想いが音となって、この場を支配していた。
あの時のように、私は涙を流していた。楽器屋で茜さんに試奏して聞かせた時のように。彼女がピアノにもたれて、じっと耳を澄ませていた、あの時のように。
やがて、ピアノの音は静かに消えていった。再びの静寂。しかし。
割れんばかりの拍手が起こった。驚いてまわりを見ると、中には泣きだしている生徒までいた。
…なぜ。
私は、あなたたちに聞かせたのではないのに。
既にいなくなってしまった彼女に捧げたのに。私は、なんだか悔しい気持ちがして、流れた涙を手で払いのけると、壇上から降りていった。
そう、あなたが自殺した日も、こんな日だった。
寒々しい、冷えきった心を抱えて。
私は、だから冬は嫌いだ。こんな季節を、私は夏の想い出で塗り替えてやりたかった。茜さんとの、夏の想い出で。彼女が自殺した日を、彼女への想いで溢れさせてやりたかった。
帰り道、ゆきさんに出会った。彼女は、教会から出てくるところだった。
「香奈枝さん、久しぶり」
彼女はスケッチブックを抱えていた。
「何描いてたの」
ちら、と見えたその絵は、鉛筆だけで描かれていた。
「ああ…茜さん、かな」
そう言ってゆきさんが見せてくれた絵には、天使のような羽をつけた茜さんが描かれていた。ただ、表情がよくわからない。
「どうしてかな…顔が思い出せなくて。描けないんだよね」
それから二言三言交わして、私たちは別れた。「またね」という、どこか確信していたかのような挨拶で。
また、会う時が必ずくる。その時は、近いうちにおとずれる。
新しい場所へ行っても、私たちは変わらない。きっと茜さんを追い続けていくのだろう。
冷たい風に木々がざわめく中を、私は一人歩いていった。