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9 クロと船上のガーベージ

「この子等にはドンドンと絵を描いてもらいましょう。不安や恐怖、悲しい記憶は総て絵に変えて忘れてしまえばいい」

 ぬられひょんが、ハリネズミを後押しするかの如き診断をする。

 この医者、頭がゆるいのか溶けているのか。

 一瞬ハリネズミの言い文も一理あると思いかけていたが、もとから医者という族を信じられぬ猫の性分。

 一度思い立った事を中途で止めるのも出かけた何を……その何だ……途中で止めるがごとく残り惜しい。

 医者が薦めるのであれば反対するのが我が正義。

 非があっちこっちにあれば正義のため人猫道のため、たとえ猫死にしようと進むのが本懐である。

 無駄骨・無駄足は猫として適当いい加減に慣れている。 

 野良猫と生れた因果で女主人・ヤブ医者・宿の女将と、異なる思想環境で育って来たが、価値はあれどもなきがごとし。

 怨念の産み出す絵画を、金に変える主人に飼われた猫ではない。

 何をどう考えても売れる方法が思い浮かばない。

 ハリネズミが企てる金のカラクリを紐解き、さらに好ましい道を示す事こそ吾使命。


 己の進む道が見えると同時に、吾輩が今置かれし逆境から抜け出す方法がひらめいた。

 肉球を膨らませてやれば、爪の奴はハリネズミの脛から抜けてくれるに違いない。

 我ながら明晰なる頭脳に感服した。

 肉球を膨らませるべく手の平に満身の力を込めてギュッと握ったら、開いていた手をきつく握る事となり自慢の爪が更に二ミリ脛に食い込んだ。

 これはいかんと思って手首ををねじると、体までもがグルンと脛に巻き付く。

 つぎにムニュッと妙な感触が肉球に伝わるとも、吾手はハリネズミの脛から解放された。

 少々クラッとなってアタフタと歩き廻ると、ロビーの真ん中でハリネズミの声がする。

「痛ってー!」

 脛を抑えてのたうち回っている。

 あおいが振袖を顔にあてて笑いを隠す。

 都合よく通りかかった女将の後ろに吾輩は逃げる。

 辺りには丁度帰ってきた狸女の爺様が、ボケーっと杖を突いて立っているばかりで何者も見当たらない。

 ハリネズミは狐につままれた体である。



 やっちゃんはどうしても吾輩を見たくないのか、部屋の窓から海を眺めているのに眼中にない様子。

 朝風呂を終え部屋に入るなり、浴衣のままゴロンと横になった途端に大鼾をかいき始めた。

 警戒心なく熟睡まで僅か三分の早業である。

 人間とはかくの如く、自然界で生き抜く本能を失ってもなお、のうのうと昼寝をしていられるのだから気楽である。

 猫ならばとっくにネズミに耳をかじられている。


 呑気な野郎をいじくって悪戯してやろうと狙っていたら、度々宿にやってくるヤクザ仲間の貫太郎が訪問して来た。

 安眠中のやっちゃんに腹をたてたのか、尻に拳銃を突き付けた。

 そこまでは優位であったが、寝ぼけて起きたやっちゃんにボッコボコにされた。

 常人であれば二三日は寝込むところだが、頑丈に出来ている貫太郎は鼻血を垂らしてニコッとしている。

 危なっかしい奴である。

「この猫を預かってくれないか」黒猫を籠から出した。 


 どこかで見た事のある黒猫で、あちらも吾輩に面識があるから互いにしばし睨めっこになる。

「相変わらず不細工ぶりが板についているね。貴方は車屋のクロですよね」

「そう言うてめえは、診療所のアインじゃねえのかい」

 ハリネズミの力が偉大であると思い知らされた一件である。

 願ってから十日もしないで、早速クロがこの地にやって来た。


 懐かしがっていた所に、籠から一匹のバッタが飛び出してきた。

 クロがおやつにいただこうとして銜えた所を貫太郎に捕まって籠に入れられたものだから、慌ててニャァと鳴いた拍子に開いた口からバッタは逃げたが籠の中。

 どこに行く事もできないまま、はるばる食われに付いてきていた。

「半分食って良いぜ」

 吾輩にとってバッタはゲテの部類であるが、悪食のクロには丁度好いおやつである。

 いただく気にはなれんが、捕獲の手伝いならばしてやってもよい。


 バッタがやっちゃんの足に飛びついたのでクロと一緒になって飛びつく。

 あと少しのところで飛んだバッタには逃げられ、やっちゃんの足にはクロと吾輩の爪の跡がくっきり。

 血が出た所で知った事ではない。

 バッタを捕まえるのが我等猫同盟に科せられし重大責務である。

 激しい運動から遠ざかっていたから息が荒くなってゼーゼーしていたところを、貫太郎に捕まって外に放り出された。

 クロは半野生の猫だから外に放り出されるまでは同じでも、しっかりその口にはバッタを銜えている。

 そいつをムシャッとやって半分になったのを、さあ食えとばかり吾輩の前に置く。

 気持ちは有難いが、丸ごとでもゲテの生が半身になってピクピクしていたのではとても食う気になれん。

「さきほど女将から菓子をたんまりいただいたばかりで、もはや腹には水の入る空きもない。有難いがいずれまたの機会に御願いしよう」丁重に御断りした。


 クロはいきなり車屋からここに連れて来られたので、随分と戸惑っている。

 悪さばかりして捨てられたのでもなく、今日からここがお前の家だとされて放り出されたとなると当然である。

 旧友に会えたのは喜ばしい事だが、これからは同じ宿の猫として暮らすのだから、折角吾輩がこれまで築き上げてきた猫の品格を貶められたのでは嬉しいとばかり言っていられない。

 この家のルールを、決り事に慣れていないクロに教え込むのは一苦労である。

 かといって自由奔放コヤツに振る舞われたのでは、吾輩の猫帝国崩壊は必至。

 猫が極端に少ないこの地域では、一匹の猫の不届きが全猫の評判に影響するのである。


 さて、いかようこのボケ猫に吾帝国のルールを教え込むか。

 会いたいとは言ったが、共に同じ屋根の下で暮らしたいと願った覚えはない。

 まして、主まで同じではこの先が思いやられる。

 とりあえず、吾輩の主は宿の女将であると思い込ませた。 さすれば悪さの尻拭いを主人に取りなしてくれと言われても、主人が違うと突っぱねる事もできよう。

 今の内に予防線を張っておけば、これから先どの様な不具合があっても、クロとは上手くやっていけると思う次第である。


 宿前の海岸から風呂場と足湯等、一通り案内して終えロビーの外にある木製のテラスで日向ぼっこをしていた。

 このテラスは暖かな頃ならば外で客が御茶したり食事をしたりと利用されているが、冬は中から鍵がかけられているのもあって誰も使おうとしない。

 いわば吾輩の特等席であった。

 ここにきて、クロにもその使用を許可してやったから我等の指定席となった。


  ロビーにこの時期珍しく若い女子がゴソッと固まっている、残念なのは化粧が分厚くてどれも皆似通ったセルロイドの人形になっている。

 コテコテのデコレーションギャル軍団である。

 夏にはこの宿でもよく見かけた部類である。

 顔が同じなのでどれが誰やら見分けがつかん。

 仲間内では間違えないのだから、慣れとは恐ろしい物である。

 このように御下品な者達が客として訪れる目的は、目の前にあるプライベートビーチであるから、てっきり夏の間の季節観光客とばかり思っていた。

 温暖な地とはいえ、朝には外のくみ置き水が氷る事もある季節で、陽はさしているが海岸の風は見た目よりもずっと強く吹いている。

 メッチャンコ寒いのに、これから海岸で遊ぶ気でもあるまい。

 かといって、温泉にのんびり浸かって疲れを癒したいなどとは間違っても言わない連中である。


 随分と困った情景を感慨深く見ていると、そこへ足が絆創膏だらけになってだらしない雰囲気丸出しのやっちゃんがやってきた。

 少し女将と話すと、デコギャルの元へ寄って行く。

 何の事はない、やっちゃんがどこぞの安酒場で飲み食いのあげく、遊興費を払えないものだから宿まで集金に来た付け馬ではないか。

 御前さんの主人はあんな奴だと教えてやると、クロには似合わない怪訝な顔をして「とんでもねえ外れくじ引いちまったな」と嘆いている。

 案ずる事はない、主人なんてのはどうせそんな者、似たり寄ったりである。


 クロは車屋で飼われていた時同様、屋外に居をかまえる猫との扱いで、自由に出入り出来る首輪は付けてもらえなかった。

 付けられたとしても、自由を好むのがクロである。

 三日と耐えられずに外してしまうに違いない。

 吾輩は女将が主人であるから出入自由で、やっちゃんは宿の居候。

 だから、その様な者の飼い猫である君は出入自由にならなかったと言いくるめたが、余計な配慮であったかもしれん。


 来た時から屋内に住む気などなかったようだ。

 熱心に町内隅々までマーキングし、一夜にして猫の常時活動半径を大幅に上回る領地の主になって大いに満足している。

 領地争いをする猫が居ない。

 領民のいない領主でも満足できるのだから、平和ボケしている人間の上を行く天然である。


 クロは吾輩が女湯に出入りできる身と知るや、無条件に何の思慮もなく羨ましがる。

 しかし、良い事にはそれと同等かそれ以上のリスクが付いて回るのが世の変わらぬ法則である。

 宿の湯に人間が入るのには金がかかる。

 したがって限られた者しか温泉の湯には入れない。

 道行く女子総てが入って来るなら選びようもあるが、吾輩は相手を選べる立場にない猫である。

 次から次へと美女が目の前を行き来するミスコンやファッションショーの様にはいかない。

 日に拝める裸の女人は限られている。

 加えて、必ずしもピッチピチのスッポンポンではない。

 時として、目はおろかメンタルに甚だ毒としか思えんような、今世紀最悪の場面に遭遇する事も稀ではない。


 何時ぞやは、乳の膨らみからてっきり女人だとばかり思っていた者のシモに、有ってはならぬ物がぶら下っていた。

 良く見れば、化粧を落とした顔には濃ゆい髭が伸び始めている。

 一人二人ならば我慢のしようもあるが、この様な族が女湯イッパイに居る光景を男共が見たら失神するであろう。

 何処ぞの国ではこの者達を神の化身と崇め奉るので、その国から神達が団体旅行の一日として来たのだと自分に言い聞かせ、信じても居ない神様をありがたやありがたやーと拝みながら後ずさりした。

 ここ数日は、この時に負った心的外傷後ストレス障害でうなされ寝不足になっている。

 はたから見るより辛いのが現実である。



 やっちゃんは、外では豪勢な遊び人で通っていると見える。

 いつぞや白壁のごとき厚化粧でどの顔も同じに見えたデコギャルが、揃って大振袖をブンブン言わせて挨拶に来た。 一般の者は正月気分も抜け、晴れ着姿など終ぞ見かけなくなっていたが、この宿だけ派手に正月気分が盛り上がっている。

 サービス業の休みは客に合せ少しばかりずれているもので、これから正月だとクロに自慢してやった。

 するとどこから仕入れて来たのか、クロに有ってはならない知的な発言が飛び出して来た。

「人間界では今日は成人式という日で、大人になった者達が着飾って酒を飲んで祝う習わしになっているのだよ。それから、あの者達は主人の教え子でね、主人は私学で教鞭をとっている学士でもあるのだよアイン君」

 変な奴の入れ知恵なのは台詞の丸暗記・棒読みだから直ぐに分かった。


 ハリネズミの発言を振り返ってみれば、吾輩と知り合う以前よりクロとは付き合いの有った者。

 これほど近所に住まう者同士となれば、何かにつけて行き来するのは当然である。

 雨の日・風の強い日はどこで過しているのかクロに訊ねれば「今はハリネズミ家の縁の下がおいらの住まいよ。一度来てみるといい。温泉こそねえが、宿よりよっぽど住み心地がいいぜ」と自慢する。

 ハリネズミが一度だけ、自分の住まいは病院の地下室に建てた木造平屋茅葺き屋根の家だと言っていた。

 薄暗い地下室で場違いに建っている古民家。

 ハリネズミと真っ黒な猫が、ニコッと笑って座っている………人魂でも飛ばせば、すっかりオバケ屋敷である。

 誰が好き好んでそんな不気味な地下室へ遊びに何ぞ行くものかとは言ってみたものの、怖いもの見たさ珍し物好きの虫がウズウズ。


 ハリネズミやクロが吾輩に危害を加えるとは思えんが、地下室に住まう怨霊に憑りつかれでもしたら厄介である。 

 初詣の時に買ってもらった御守りの首輪を引っ掛け、コソッと内緒でクロの住まいを覗く探検に出る決心をした。

 さて、決心はしたが病院の方向は分かっているものの、ナビを持っていないし地図もない。

 あてにできるのは、クロがピュッピュしまくったマーキングだけである。

 この臭いを嗅ぎなが進むには、探検すると決める以上の決心が必要である。

 生易しい臭いではない。

 鼻がひん曲がる程度は可愛いもので、クロのマーキング臭を半日嗅いで危篤になった猫を知っている。

 ちょいとばかり腕力に自信のある猫でも、この臭いに怯んで逃げるのだから尋常ではない。

 かといって、活性炭入りガスマスクをしたのでは臭いを嗅ぎ分けられない。

 一嗅ぎしては方向を定め、無呼吸で行ける所まで進む。 

 クラッときたら臭いから逃れ、清潔・新鮮な空気で鼻腔を洗浄する。

 これを根気よく繰り返し、何とか病院まで辿り着けた。


 病院の外ならば自由に歩けるが、中に入るとなると命がけである。

 それでもクロが住まいとしているのだから、どこかに秘密の入口があるはず。

 臭いに任せ歩いていると、裏手で物置の横に小さな穴を見つけた。

 クロがやっと通れるほどの穴で、形だけなら人間がトンネルと言っている構造物に酷似している。

 ここが地下室への入口に違いない。

 いつでも音の出ない肉球の足を、尚更用心深くコソッと進めて行く。

 一度体で覚えた事は一生忘れないなどと言うが、診療所に食い物を盗みに入っていた頃はもう少し上手くできた。

 長い事人間の世話になっているから、次の一歩はどの様にしていただろうかと思い出しながらである。

 すっかり泥棒猫のやり方を忘れている。


 ハリネズミやクロに見つかったとて、遊びに来てやったで言い訳が立つ。

 それより一番警戒せねばならんのは、病院に巣食う幽霊どもである。

 ヤブと家出した時は、病院で夜中に何度も見掛けている。

 隠れ煙草を吸いに出る者達の横で、物欲しそうに怨めしそうに、ボヤーっと浮かんでは消える幽霊。

 自分自身が妖怪にも思えるハリネズミと、食えるのなら幽霊でも塩つけて食ってしまうクロにとって、病院で怖い者は注射しかないが。

 しかし吾輩は、憑りつかれるのが一番怖い。


 遠くにいるのを見ているだけなら我慢できるから………はて?

 いきなり広い所に出たが、御盆の香りが部屋に充満している。

 病院に来て最初に入った部屋が霊安室とは、気分のよろしいものではない。

 死体があっても怖くはないが、死体の横で吾輩に憑りつこうと待ち構えている霊体は怖い。

 一度死んだ奴である。

 此の世の掟を諭され納得して成仏するくらいなら、幽霊になどなっていない。

 此の世に残した未練や怨みがコヤツの正体である。

 その様な者に体の自由を奪われ復讐の道具に使われたなら、吾輩はそのまま犯罪者として死刑台送りにされてしまう。

 第一の問題は、刑罰の基となる事件の犯人は霊体である。

 死んだ者を死刑にはできない。

 二度死にするには、生き返らねばならんという理屈が成り立つからである。

 しからば体を使われただけの吾輩を死刑にするのは、錯誤に他ならない理不尽の極み冤罪。

 幽体ならば死んでいるから死刑も恐ろしくはないが、現在吾輩生身の猫である。

 まだ死刑にはなりたくない。

 ここは慌てて逃げるべき場面である。

 今来た道を一息に走り抜ける。

 異界の長いトンネルを抜けると、そこは現世であった。

 生きてて良かった。


 この様に危険な所からはさっさと退散すべきで、もはやクロの家が何だろうとどうでもよろしい。

 屋外であれば人に見られても堂々としたものである。

 忍び込む時の用心は消え失せ、ただ速足で宿に向かうと、来る時は通らなかった正面入り口に出た。

 空を見上げた野次馬が大勢たまっている。

 上を見れば患者だろう女が、今にも屋上から飛び降りようとしているのだが、その横には昼間っから幽霊が憑り付いている。

 一度死んだ身でありながら、幽体となって人に獲り付き再び死のうとするのだから無責任な奴である。

 何度死ねば気がすむ。

 自殺が癖になっている幽霊ほど始末に悪いのはいない。

 生きたいと願って憑りつく幽霊ならば、憑りつかれた者は死なずに済むが、此の世に残した未練が死にたいだけでは、何度死んでも死にきれん。

 憑りついては死に、また憑りついては死ぬを繰り返すのだから、死神のアルバイトにうってつけの霊体である。

 そんなに頑張って仕事をしていると何時か病気になるぞ。

 いずれにしても大変そうな光景だが、せっかく霊安室の幽霊から逃げて来たのに、これ以上関わってつまらない事になりたくはない。

 下には消防がエアーマットを広げているし、たとえ飛び降りたとしても、高層ビルではないのだから大怪我はしないと猫でも分かる。


 帰ろうとしたら、入口を塞いでいる警官にここの医師と理事だと説明して中に入ってゆく狸女とやっちゃん。

 これは丁度いいタイミングと、ついうっかりドサクサ紛れに後について病院の中に入ってしまった。

 知った者の後にくっ付いて歩くのが安心安全だから、何時でも付いて行く。条件反射というやつである。

 こうなってくると、所詮下等生物とあざけ笑っていたパブロフ家の犬を馬鹿に出来ない愚行。

 そのままやっちゃんについて地下室に行くと、ハリネズミの家に出た。

 ハリネズミが病院の事件中継を見ている。テレビは大音響である。


 勝手に人の家に上がり込み、寝かせてくれと言って我儘放題のやっちゃんが、テレビの音に耐えられなくなって飛び出して行った。

 しばし井戸の影から様子を見ていたが、クロは見当らない。

 テレビで騒ぎになっている事件が、すぐそこで起きている。

 現場で見なければ気の済まないのがクロだから、必ずや野次馬に混じっている。

 吾輩としては都合がいい。

 じっくり家の住環境を偵察できるというものである。

 縁側に座って様子を窺う。

 すると、テレビに映っていた病人が、頭にテニスボールの直球を受けて落ちると同時に、憑りついていた幽霊が消滅した。

 随分と思い切った実力行使である。

 もしもの時に誰が責任を取るのか。

 無謀としか思えん救出作戦だが、成功すれば結果オーライである。

 ボールを投げた除霊師として、やっちゃんがテレビにチラリと映った。祈祷の腕だけは一流だ。


 少しすると、クロが野次馬を終えて帰って来た。

 吾輩は秘密の出入り口を知らずに正面から入って来たから、ここから人に見られず出る方法を知らん。

 クロに声をかけ、遊びに来てやったと言う。

「吾輩は猫であるが、病院では人と同じ扱いの者でな。正面玄関から入って来た。これからチョクゝ遊びに来るが、玄関は少々遠回りのようだから、君の使っている出入り口を教えてくれたまえ」と頼んで、秘密の抜け穴を教わった。


 病院の地下からは裏の傾斜地に抜ける通路があって、外に出ると地下室と平の所に地面がある。

 ここでは一階は二階で地下一階が一階と、ややこしい階数表示になっていた。

 急患の受け入れに使っていた出入り口で、今は通常の受け入れ口が使えなくなった場合に備えて、一年中解放されている。

 使うのはハリネズミばかりで、人の目がないから猫でも平気に地下室に行ける入口である。


 出入口を教えて終わると、汚い好きのクロが温泉に入ると言いだし、病院からそのまま吾輩に付いて来た。

 雑菌のバリアーによって、有害なウィルスからその身が守られていると信じているのに、病気に成りたい心境なのか。

 ハリネズミの家に居候するようになってから様子がおかしい。

 吾輩の考によると、体を覆うバリアーと信じていたため、毛皮には雑菌を蔓延らせていた。

 これを清潔にさせるため、いかに執拗な論議をしても、一切受け付けずにきたのがクロである。

 この事実を否定する訳には行かない。

 さて、このバリアーを製造するためにクロはどんな努力をしてきたかと言うと、寸暇を惜しんで泥に肥えにと擦りよって来ていた。

 他に自分が製造しておらぬ雑菌を、自分の所有と極める法はないから仕方ないが、それはゝ身の毛もよだつ恐ろしき光景であった。

 雑菌を自分の所有としても差し支えないが、風呂に入るを自ら禁ずる理由はあるまい。

 たんなる横着者としてしまえば簡単だが、歩く御不浄たるその身を、小賢しくも垣に擦り付け棒杭に小便を放り掛け、悪臭の看板を立て掛け縄張りなどと仕切るのは、いかにも畜生の野生がままで見るに堪えないものであった。

 クロの体から発せられる臭気は、他の者が呼吸する空気を隅々まで汚染し、その空の下に暮らす者総てに危害を振り撒く。

 診療所にいた頃より、近所の猫が最も嫌う現象の一であった。

 しかし、悲しきかな力ずくでは到底クロには叶わない。

 無理に道理を通そうとすると、執拗な悪臭攻撃を喰う恐れがある

 それがこの地にきて、辺りに気にする者などおらずクロの御不浄ぶりが飛躍的に完成されるかと思いきや、ハリネズミの影響恐るべし。

 自ら風呂に入りたい心情にまでゴミ猫を追い込むのだから、心理戦のエキスパートであるのは確かである。

 一度ご指南願いたい。


 理由動機は何であれ、友とする者が清潔に目覚めてくれたのは歓迎すべき異変である。

 幸い猫専用の温泉風呂がある。

 何時でも入って綺麗に成って貰って結構。

 吾輩のみならず、クロも温泉に浸かる猫として世間に注目されれば、宿の評判もまた一段と上向きになる。

 さすれば、飯も酒も菓子も今よりグレードアップするのは必至。

 良い事ずくめである。

 それではと、早速宿について風呂に入る。

 クロと風呂上りにブルブルして毛皮の水気を飛ばす。

 ロビー前のデッキで天日干しになっていると、やっちゃん他数名御一行様が、手に手に酒や魚を持ってきた。

 板長に魚を預け、女将に金を渡している。

 どう勘ぐっても、これから少人数の宴会でしかない段取りである。

 今日は確実に美味い物が食える。


 クロと吾輩は顔を見合わせ、調場の外に設えられた猫様専用縁台に乗って御馳走が出て来るのを待った。

 待てば待ったかいのある飯が出て来る。

 この宿の嬉しい所で、何時もの如き客の食い残しではない。

 出来たてピッチピチの鯛と伊勢海老の御造りが、小さな船に乗って出てきた。

 人間には小さい船でも、猫ならば大海原に乘り出せる大きさである。

 やっちゃんが良い奴に思えた始めての出来事である。


 ゲップとやってから、海岸で軽く運動して風呂に浸かる。 昼を過ぎてから三時まで、この時間帯は連泊以外の宿泊客がなく、日帰り湯の客も昼食でロビーか休憩室にゴロッとしている。

 風呂に人影はほとんどない。

 女湯へ自由に出入りできる吾輩を羨ましがっていたクロは、なんだこんなものかと大腐りしている。

 体から腐敗臭が抜けても、根性が腐っているのでは冠履転倒である。

 倦まず弛まず風呂に入るを心がけていれば、たまには当たりの日がある。

 いわば、良い猫にしていたご褒美のようなものだと教えてやった。

 するとクロは、ハリネズミが温泉には何時行ってもギャルが大盛りで待っていてくれると言っていたと自供する。 

 成る程、これならば風呂嫌いでも盛んに入りたがるのが分かる。

 雑菌が身を守ってくれていると信じている者だから温泉に入るのは命がけのはずで、クロにすれば寿命を縮める行為である。

 そんなにまでしてギャルの裸が見たいのか、えげつない奴だ。


 我等が美食に舌鼓を打っている頃には、既に宴会が始まっていた。

 あれから随分と時が過ぎた。

 酩酊する人間を窓の外から観察するのは面白い。

 五人ばかりの宴会では小宴会場でも広く、カラオケマイクを持って走りながら歌っているので甚だしい酔い方である。 

 それでも走るから疲れて来てフラフラしている所に、赤チンが訊ねて来た。

 吾輩の仕分けでは盛りの付いた猫の部類に入る者である。

 どこからか男共の匂いを嗅ぎ分け、宴会場にやってきたに違いない。

 つかの間会話すると、鯛を持って来た男が帰って行った。

 日焼けした褐色の肌に鍛えられた体格からして、遠目にも地元の漁師と分かる男で、赤チンならば第一番に餌食とするであろう者だが、既にいただいた後であったか。


 窓越しで会話が聞き取りにくい。

 飛び飛びの単語を継ぎ合わせれば、明日は釣りに出る相談である。

 釣りイコール新鮮な魚は猫の思考に限らず人間も海鳥も同じで、美味い話には乗らねば気の済まん我等猫同盟は、何とかして明日の釣りに参加できないものかと構想を練る。

 釣りに行く顔ぶれで、話して分かるのはハリネズミだけである。

 この領域で猫語を解する者は一人きりだから、居てくれた事を幸運とすべきであろう。


 窓にクロの頭をぶつけて合図し、ハリネズミを外に召喚する。

 釣りについてつぶさに聞けば、漁船に乗っての海釣りである。

 吾輩、フェリーには乘ったが漁船には乘った事がない。

 当然、船釣りもした事がない。

 猫として恥ずべき真誠だが、子供の頃走るメタボオヤジの手中にあって酔った事がある。

 船はそれよりも大きく揺れる乗り物で、大方の者が船酔いという一過性の病に侵される。

 重大なのは、どういう理由であの巨体が水に浮くのかである。

 イリュージョンならば種があるが、そうではなく実際に浮いている。

 人知を超えた力によって浮力を得ているならば、霊感の強い吾輩は物の怪に憑依されんとも限らん。

 激烈にビビっておると、ハリネズミが酔い止めの霊薬をくれると提案した。

 これさえ飲んでいれば船酔いも憑依もない。

 快く受け入れて、明日は御船に乗って海釣りである。


 明日の朝は夜明け前から船に乗るとあって、宴会はそこそこで御開きになった。

 この辺りはちょいと沖に出れば大物も狙える潮があるからと、釣り客は年中やって来る地域である。

 釣り客相手に船を出す漁師は、なべて船宿を持っている。

 客の殆どはそこに宿泊している。

 温泉か海水浴か釣りかで宿泊施設が使い分けられている地域で、この宿は温泉とプライベートビーチを従えた高級ビーチサイド温泉旅館である。

 一声かければ釣り船も仕立てられるのはこの宿くらいのものなのに、女将が宣伝下手でこれほどの遊びが出来るのを知らずに来る客が大半である。

 泊まり客の目的は温泉である。

 夏でも水着は持たず釣竿もない。

 宿の手配で船釣りができると知った釣り好きが予約を入れれば、竿は船で用意するし早くに朝食も出してもらえる。

 軽食も出がけに持たせてもらえる上に、帰りはチェックアウトを過ぎてしまうからと、昼食を宿に予約しておけば釣りを終えてから昼までは部屋が使える。

 しかし、いくら良いサービスでも広告していないのだから利用者はいない。

 使われないサービスほど惨めなものはない。



 仕事はやる気がなくとも遊びとなると活力漲るのが人の習性である。

 過度の飲酒と混乱を含んだ無軌道な集いの翌日だというのに、日の出前には待ち合わせの港につけた。

 吾輩とクロが今日の釣りに参加するのは他の者には内緒で、共にハリネズミのリックに潜って便乗する事となっている。

 今日はこの船で行くと漁師の野郎が案内する。

 ハリネズミが、漁船ではなくクルーザーに乗せられたと小声で我等に伝える。

 ギョだかザーだかは知らんが船に変わりはない。

 浮いているのが怪奇なのだから、乘っていて気分のいいものではない。

 されども、獲れたばかりの魚は格別な味わいである。

 この機会を逃したら何時ありつけるか分からん。

 この様な幸運に出会えぬまま畢生を終える者の多き中、今日の好機を逃してしまっては末代までの恥である。

 乘ってしまえば逃れようのない海の上、我乍ら海に飛び込んでまで逃げ隠れはしないと観念し、リュックの中で大人しくしていた。


 出航して十分ほどでリュックから出された。

 相場からすれば新築の家が二三軒建つ船だから、傷などつけないように見つからない様にと言い含められた。

 リュックから出されても、そんな規律を制定されては何もできない。

 猫が人の決め事に従順でいると思うな。

 どうせ成金御大臣の道楽船である。多少の傷など気にしたりするものか。

 早速、クロと記念の爪とぎをしてやった。

 ハリネズミは我等のただ乗りを隠蔽すべく、リュックより取り出した写真機を振り回し、記念撮影だとたぶらかして他の者を並べている。

 我等に隠れろと指図するが、何処にも隠れる所なんかねえよ。

 やむをえず我等は対の招き猫となり、ソファーに座る事とした。

 そのうち、一様に釣りに夢中になると、船内で我等が何をしようと気付きはしない。


 時折様子を見に来るハリネズミが出してくれるビールを飲んでいると、船上パーティーからのガーベージだと言って酒の友を持ってくる。

 フォアグラにキャビアと、ガーベージなる西洋つまみは極上の物が多いが、舌平目の上に乘っているトリュフとか言う斑の薄切り肉は食えたものではない。

 豚にでも食わせておけ。

 それより肝心の魚が釣れない。

 プロの漁師が手解きしてもセグロ一匹釣れないのだから、きゃつらの力量押して知るべしである。

 釣りには不向きな陽気でアタリがない。

 そうなると暇人は何をするかというと、船内に籠って昼寝だが、そこは本職の漁師で客の扱いにも卓出している。 

 アウトリガーも出して十本ものルアーを流し、大物狙いのトローリングで巡航する。

 マグロかクジラが食えるかもしれん。


 長い事走っていたがオデコである。

 ここまでやって釣れないのは運がなかったと諦めるしかない。

 吾輩も木偶どもを責める気にはなれん。

 誰もクーラーボックスを持ってきていない。

 初めからやる気のない釣りだが、漁師はこの船にはレーダーを付けなきゃ釣りにならんと不機嫌になっている。

 赤チンは漁師がクルーザーを購入したと知っていて釣りに誘い出したと見えて、目的達成に上機嫌である。

 ハリネズミに始めてのクルーザーの感想を聞いたら、雑誌などで見ていたからどんなものかは知っていたが、見ると乘るでは大違いで、実に良い物だと赤チン以上に満足げだ。

 吾輩も良い経験をさせてもらったとは感じるが、船酔いは別として、この巨体が浮くのがどうしても理解できん。

 もう一度乗りたいとは思わん乗り物である。


 吾輩は空を見ながらヤブの事を考えている。

 金ができたらでっかい家を建てて、吾輩を居候させてくれると言っていた。嘘つき!

 吾輩は宿に置き去りにされた。

 一度この船で沖まで連れて行って、アンカー縛り付けて沈めてやったらどれほどすっきりするだろうか。

 その為ならば、もう一度乘ってやってもいい。

 いくらいい船でも、使い道が釣れない釣りしかないのでは可哀想である。

 すると、やっちゃんも吾輩と同じ思いであったのか、心にもない事をズラズラ並べ立てて船を褒めちぎっている。

 そうしたら、漁師の機嫌が急上昇し「こんなクルーザーで良かったら、使いたい時は電話で連絡してくれればいつでも貸しますよ」とまで言わせた。

 成金は軽薄だとよく聞くが、その典型とも言うべき男である。


 港に入ってから一時間ばかり船でのほほんとしている。

 用事が済んだらさっさと帰れ。

 リュックに押し込まれている猫の身にもなってくれ。

 クロが狭いリュックの中で放屁した。

 御馬鹿猫。おまえなんかとは絶交だ。

 何を思い出したのか突然「帰ろうか」と赤チンが言い出した。

 お陰様でやっとの事船から下りられた。

 ハリネズミは一番後ろを歩く。

 我等はリュックから首を出せ、籠った屁臭から解放された。

 宿までは暫く歩かなければならないから、リュックに入ったままハリネズミにオンブである。


 帰りの道すがら赤チンが「先生は山城さんの私学で教鞭を執ってらっしゃいますわよねー」

 やっちゃんが学校で先生をしているのは、クロに聞いて知っていた。

 教師であるには違いないから、やっちゃんが「はい。不出来な奴等ばかりでして」と答えた。

「院長先生から依頼がありましてね。私もそこで教壇に立つ事になりましたの」

「………」やっちゃんが絶句して動かなくなった。

「先生は生徒さんから随分と評判がよろしいようですのね。君も負けないように頑張ってくれたまえと院長先生から喝を入れられましたの。喝だけで残念でしたわん」

「そう言えば、私にも山城さんからそんな依頼がありましたよ。施設管理を教えてやってほしいとか何とか」

 珍しくハリネズミが人間らしい発言をしたと思えば、私学の先生になると言っている。

「やっちゃん先生が勤務の時は末成先生も学校に行くって言ってましたよ」

 末成とはゾンビのごとく生気のない病人医者で、到底人に物事を教えられる状態にない。

 そんな無茶をタヌキ女が平然と言ったから、やっちゃんが其の場にバッタリ倒れ込んで動かなくなった。

 心臓まで止まっていないだろうな。

 ヤクザなどと言っているがやけに打たれ弱い男で、急に恐ろしい事ばかり聞かされて気絶しやがった。


 漁師がやっちゃんを担いで宿の部屋まで運んだ。

 女将が大変な迷惑、御苦労様でしたと酒を出す。

 酒の勢いで、やっちゃんが正気になるまで様子見ついでの麻雀が始まる。      

 宿について直ぐに解放された我等猫連合は、一風呂浴びて何食わぬ顔で部屋に入る。

 既に四人の麻雀は、ギャンブラーが域に達していた。

 この手のゲームにハリネズミが弱いのは分かっていたが、それよりもっと弱いのが漁師で、あっという間に持ち金全部巻き上げられてしまった。

 普段は網の巻き上げを生業としている者が、こんな場面で金を巻き上げられるとは、何処から見てもしっかり罠にはまっている。

 吾輩とクロが観察するにこの勝負、漁師以外の三人がグルになって仕組んだいかさま博打である。

 猿田彦でも今の三人には勝てない。

 終いには腕時計を盗られ、先ほどまで乘っていたクルーザーを担保にと言いだしておる。

 愚かなのは本人も薄々感じている。

 スッパリ負けて辞めるは出来ないのが博で、傍から見ていて気の毒になる負けっぷりである。

 別の見方をすれば、これほど都合のいい客はいない。


 家一軒二軒もする船が担保とあってなかなかしぶとく、何時になったら破産するかも分からぬ長丁場になった。

 我等が麻雀に参加も叶わぬので、外でぬくぬく日向ぼっこと決めて海岸に出た。

 そのうちどっぷり日が暮れる。

 クロはこれから帰るのも面倒だからと、やっちゃんの部屋で押入れに隠れて寝た。

 吾輩はやっちゃんの布団の隅で丸くなる。

 特別寒いのでもないが、コタツがあるのだからとクロを誘ってコタツに入る。

 コタツの中は猫の天下である。

 これならば堂々寝ていられるからと、中で伸び伸びとする。

 時たま人の足に突っつかれる事もあるが、よい寝返りの理由である。

 やはりコタツは猫の天国である。

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