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29 若旦那幽霊の湯沸し器

 久蔵と貧乏神は多年の習慣で、神秘的な無意識の意志で結びつけられているにも関わらず、経営の実に至っては意識のない時に生じた損害を、いまだ何事もなかったかのごとく、盗んできた御宝を補てんし帳尻を合わせている。

 貧乏神と久蔵の付き合いは、人の一生の何十倍何百倍もの長き年月を経ている。

 金が発明せられざる昔から、何一つ変わっておらん関係である。

 したがって身近に不自然な異変があっても、その不自然こそが自身の生活そのもの。

 不自然として感じようがないまま生きている。


「おい貧乏神、さっきから客が店の物を勝手に並べてモーニングバイキングを始めておるがいいのか? 恐らく今かけている電話は、仲間をこの店に呼び集め自分で商売を始める気でいる事の表れ。まさに他人のふんどしで相撲をとる客引きであるぞ」

「いいさ、やらせておきなよ、前から一度喫茶店をやってみたいって言ってた奴だ。上りがでかかったら今夜にもいただきに参上させてもらうさ」

 貧民を救済する貧乏神の振れ込みはどこへ行った。

 誰彼かまわず、持っていそうでも持ってなさそうでも盗みに入る気満々である。


「御前、貧乏神根性が骨の芯まで染み入っておるの。貧しい一般社会人から喫茶店の上がりを盗む暇があったら、備蓄の金塊でも盗んでばら撒いているのがよろしかろう」

「備蓄の金塊は日本にねえよ、アメリカに貿易黒字の人質として獲られてら。終いにはネコババされちまうだろ」

「ネコババ言うな!」

「あー、そういやオメエ猫だったな。気に障ったら許してくんな。悪気はちびっとしかねえから。ところで、何でまた俺にもコイツをくれる気になったんだい。随分と急な惨状みてえだし、タダでくれるって相談じゃねえようだな」「なかなか察しがいいの、曲りなりにも神と言うだけの事はあるの」


 吾輩は久蔵と違って元来が早起の方だから、先程のモーニングばかりではすでに空腹になって参った。

 おまけに、出されたコーヒーとかいう飲み物は口に合わん。

 出来ればミルクにしてもらいたい。

 客さえ膳に向わぬさきから、猫の身分をもって朝めしに有りついているが、そこは猫であっても並の猫でない特権である。

 それにしても、先程から厨房にて煮炊きしておる香のなんと心地いい事か。

 もしや、煙の立った香が鮑の中から旨そうに立ち上っておりはすまいかと思うと、じっとしていられなくなった。


 何故に鮑が喫茶店にあるのかは不明である。

 いずれ何処ぞの漁場から密漁して来た物であるのは見当がつく。

 人に知られたくない事を秘密と知りながら聞き出すには、ただその知りたい事だけを聞いたのでは頭から警戒されてしまう。

 どう言った要件かと聞かれたらば、特にないと落ちついている方が得策であるが、さてそうは行かぬ者である。

 試さず失望するより、試してガッカリした方が諦めも付け易い。

 しかし、この臭いには勝てそうにない。

 吾輩はたまらなくなって厨房へ這出した。

 まず焼き網の上にある鮑貝の中を覗いて見ると案に違わず、惨酷にも生きたまま火にかけられもがき苦しみ、貝殻の上でのたうち回っておる。まことに旨そうな光景である。


「要件については後からゆっくり話して聞かせてやる。それより吾輩は今直ぐにあの鮑が食いたい。いや食わせてくれなければガラス屑は没収して二度と拝ませてやらん」「生意気いってんじゃねえぞ泥棒猫! あいつは漁師からモリで狙い撃ちされながらやっとの思いで拝借して来た物だ。そうそう簡単にくれる訳にはいかねえ」

「泥棒は御前じゃろが、嫌ならば帰る。ヤブのガラス屑も引き上げるからの。覚悟しとけよ」

 取り立てて急ぐ調査でもない。

 吾輩的は貧乏神だ死神・疫病神などと、ファンタジーの出来損ない達にはさして興味ない。

 よって鮑が食えないとなると、こちらも強気に出る。


 テーブルの上に置いてある朱色のシーグラスは、朝日に照らされに燦然と輝いている。

 こいつをゴクリと飲み込んで、プイッと背を向けると尻尾をピンと立てゆっくり店から出てやった。

 朝からの客はすでに炊き立の飯を御櫃に移し、今や電熱器にかけた鍋の中をかきまぜつつある。

 長テーブルの上には和洋中の朝食が所狭しと並んでいる。

 僅か一時間ばかりでこれだけの準備をするあたり、とても素人とは思えん。

 久蔵より料理の腕前は確かである。

 もう飯も汁も出来ている。食わせてもよさそうなものだと思った。

 こんな時にケチるのはつまらない話だ。

 よしんば自分の望通りにならなくとも、元々盗んできた物ばかりで作ったバイキング朝食である。

 損は行かないのだから、思い切って朝飯無料コーヒー一杯五百円でもよかろう。

 いくら猫の身分だって、ひもじいに変りはない。

 考え定めた吾輩は、にゃあにゃあと甘えるごとく外から厨房に居る元客に訴える。

 久蔵はいっこうに折れる景色がない。

 生れついての鬼だ。人情に疎いのはとうから承知の上だが、そこをうまく泣き立てて同情を買うのがこっちの作戦である。


 元客が吾輩の演技にうっかりしっかり心を打たれ、ホイホイと窓を開けて鮑の貝殻を差し出す。貝殻だけである。 

 身はどこへ行った。身だよ。貝殻は食わないよ。猫だから。貝殻は食わないって言ってるだろ!

 元客は難聴なのかも知れない。

 補聴器なしではヤブと同じで、絶対にらこちらの言っている事と聞える言葉が違ってしまうオタンコナスである。

 こんなんでは喫茶店のオーナーが勤まる訳ないが、ことによると猫の声だけに難聴なのかもしれない。

 世の中には、特定の周波数だけ聞き取れない者も多いと医学誌に載っていた。


 こんな者を相手にして鳴いて見せたって、感応のある筈はない。

 そこで、ひもじい時の神頼み。

 しかし、ここにいるのは貧乏神だけである。

 奴が盗んできたのを物乞いするのばかりはプライドが許さない。

 上手い物の為ならたいていの事は我慢するが、厨房にいる元客のおっさんは吾関せずと、只管調理に勤しんでいる。

 おっさんは突然膝をついて、一番下の冷蔵庫を開ける。 

 中からマグロの短冊を一本つかみ出した。

 それからその長い奴を包丁でトントンとたたいたら、長いのが三つほどに切れてまな板はマグロの血で赤くなる。

 血は少々汁の中へも入った。

 おっさんはそんな事に頓着する者ではない。

 直ちに切った三個のマグロを、窓から一つ吾輩に向けて放り投げる。

 もう一つは自分で口の中へ押し込んだ。

 とうてい吾輩の鳴き声には耳を傾けていなかった。

 何気なくかっこいいおっさんである。なかなか気に入った。


 食う物は食った。

 シーハーして診療所へ引きかえそうと思うと、港屋の事が頭に浮かんだ。

 随分と忙しい事態になって来ているが、どうしている事やら。

 ここ暫くは訓練にも行っていない。

 貧乏神は逃げたりせんが、地震や火山噴火の影響で何時温泉が出なくなっても不思議ではない。

 建物が有るうちタダで入れるうち、心ゆくまで浸かっておくべきである。

 診療所に寄ってヘルメットを被ると、飛行艇で港屋に一っ飛び。

 今夜は女将と一緒に寝ると決めた。


 久しぶりに遊びで来た宿である。

 まずは温泉に入ろうと風呂場の横を通り過ぎる。

 ここは今、女の子が三人で顔を洗ってる最中で、珍しく繁昌している。

 小さな地震で建物が揺れるたびに「おもちろいわー」と言う子は、物事の基本を理解しておらん。

 ただ、ことによるとヤブややっちゃんより悟っているかも知れない。

 そうこうしていると、赤チンと狸女が入ってきた。

 吾輩を見つけるなり「猫の手も借りたいほど忙しいんだから、夕飯おごるから明日から病院手伝って」ときた。

 吾輩が朱莉ちゃんの教育機で、人間並みの医学知識を得たのを知っている。

 直立歩行長靴と五本指手袋を駆使すれば、簡単な手術程度なら熟せる猫となったのは、こやつらにとって都合がよろしかろう。

 しかし、ここは現実的地上世界である。

 非現実が常の地下都市や、法律が存在しない絵画世界とは別物。

 猫が医療行為に走っていい道理がない。


「あんた、ちっこいんだから細かい手術得意でしょ」

 赤チンが既に吾輩の手術分担を始めている。

「人間より小さな物は良く見えるようにできておる。双眼鏡のチッコイのなど付けんでも、人の末梢神経を繋ぐなど容易い事である」

 うっかり自分が優秀な外科医であると宣伝してしまった。いかん癖である。


 先程の子供で思い出したからついでにしゃべっておくが、この間の世界会議の席、釜軍団の前には山城学校のチビ共がミュージカルを演じてくれた。

 これがまた評判のよろしいもので、後に世界各国で被災地救済に励む者達への慰問楽隊と共に公演をする事となって、ペロン星人から宇宙船を一機貰っておった。

 まだ子供であるから稼ぎがどうのは別として、世界中で公演できるまでに短期間で成長したのは、ハリネズミが紹介したイカレミュージシャンの御かげと感謝もしていた。

 ただ、問題がないわけではない。

 ハリネズミがプロデューサーで久蔵がエージェントとかの名刺を配っていた。

 この件についても久蔵に聞こうと思っていたが、あ奴はややこしい性格の者だから、ハリネズミに聞いた方が早いと吾輩は判断した。


 プロデューサーだエージェントだと、子供をダシに二人してあぶく銭を稼ぎ出そうとする程の仲である。

 余程親しい間柄なのであろう。

 互いに釜軍団と昵懇の仲でもあるが、願わくばそっちの道で親しい間柄というのは勘弁してもらいたい風体の二人である。


 宿で夕飯を御馳走になっていると、避難警報のサイレンが鳴り始めた。

 診療所と地下施設にいたので、危険区域の状態を知らずにいたが、今では警報が時報代わりになっている。

 慣れというのは恐ろしいもので、一撃必殺の隕石が降ってこようと、お構いなしに出歩く者が出来るのは世の常である。

 大方この様に人影が消え失せた街に危険を顧みず徘徊する者は、欲しくもない僅かばかりの危険手当で無理矢理現場にかりだされている公務員か、空家に忍び込む後先見えなくなった悪党である。


 前者はそれなりの装備でパトロールしているので重大な災害に巻き込まれる事は滅多にないが、後者は冬山にサンダル履きで挑戦するような出で立ちである。

 命が幾つ在っても足りない。

 隕石に家ごと破壊されて病院に運ばれてくる者もいるが、今では警報が鳴ってから救急搬送されてくる者の殆どが火事場泥棒である。

 症状が安定すれば檻付き病院への移動が待っておる。

 同時に集中して患者が増えるから、地域の病院だけでは処理しきれないでいる。

 そんな時は、殆ど被害のない診療所近くの病院に搬送となる。

 しかし、吾輩がこちらに来る時既にベットに空がなくて、受け入れが追いつかない状態であった。

 緊急時体制にしてはいるものの、病院は何処も似たり寄ったりの状態である。


 この騒動中、比較的静かであったのは地下都市の病院である。

 やっちゃんなどは地上の騒ぎを知らん風で、ひがな一日病院前の公園をプラプラ散歩していた。

 段々とヤブに生態が似て来ておる。末恐ろしい景観であった。

 未だに機密扱いの施設である上に、治療から介護までロボットがやってしまう施設に医師は何人もいない。

 地上からの患者受け入れは限られている。

 警報が鳴ったとなると、これから病院は戦場の様に忙しくなるのが目に見えている。

 しかしながら、赤チンと狸女が病院に戻る気配はない。

 動こうとしないばかりか、一升酒を注文して瓶ごと抱えて飲み始めた。


 吾輩はこの光景を横目に、客室から女将の部屋に行き密かに様子をうかがって見ると、女将がどこにも見えない。

 その代り、何時も乍ら薄らとぼけた若旦那の幽霊が、吾輩の前に浮かんでいる。

 怨みはとっくに晴らして終えた。

 何時までダラダラ化けて出る気だ、けじめのない幽霊では嫌いだ。

 ここへ、せかせかと忙しない動きの女将が入って来て、カステラを一口ガブッとやってまた直ぐに出て行く。

「避難所になってるもんで、忙しいんだよ」

 若旦那幽霊が聞いてもいない疑問に答えると、しばらく立ったまま動かない。

 ボーとして…どうしたのかよく見れば寝ている。

 吾輩はこの刹那にあって、幽霊も寝るのを発明した。

 医学的に言うと、脳の休息が睡眠である。

 脳のない幽霊が寝る原理は理解出来ないが、確かに幽霊は寝る。


 警報が解除されるまでは外に出られない。

 過剰に星降る空を見つめていた。

 若旦那幽霊に声をかけても返事がない。

 女将はあれっきり戻ってこない。

 すると、仲居頭が鈴の付いた杖をとんと突きながら「居るんですか、若旦那」寝ている地縛霊を探しに来た。

 この時、若旦那幽霊はすでに目が覚めている。

 覚めているが、仲居頭の捜索から逃れるため、あらかじめ夜具の中に首もろとも立て籠もったのである。

「幽霊使いが荒いんだよ。寝る間もなくこき使いやがる」

 見つからなければ見逃してくれる事もあろうかと、詰まらない事を頼みにして隠れていたところ、なかなか返事をしないものだから仲居頭が業を煮やす。

 仏壇のおりんをけたたましく叩き始めた。


「分かったよ。分かりましたから」こう言うと、這う這うの体で大浴場の方に向ってゆく。

 幽霊がこの緊急時に呼び出されるのは奇怪である。

 どういった現象か、興味本位に若旦那幽霊にくっ付いて行くと、ボイラー室に入ってゆく。

 壁を素通り出来ないから、吾輩は危険な外に一旦出て、大慌てでボイラー室に駆けこむ。

 中では若旦那が給湯器の前に浮かび、世の中の者総てを小馬鹿にした振り付けで踊っている。

「何してんの」

「御湯沸かしてんの」

 辺りの空気を絶対零度まで急降下させる術を会得した後、温泉好きの夏目に指南されて水を瞬時に熱湯に変化させる術も習得していた。

 無駄ではないものの、余計な能力を身に着けたものだ。


 嬉し恥ずかし新婚時代の記憶に縛られ、何時になっても成仏しない地縛霊でいるからこんな目にあう。

 意見する気にも成れん。

 部屋に帰って薹の立った二人と酒を飲むとする。

「九時までに行けばいいんでしょう。ゆっくり飲んでも大丈夫ね」

「馬鹿猫ー、何処に行ったのー。あてにしてるのにー、逃げられたら明日が辛いわー」

 女子が二人して浴衣で胡坐をかき、一升瓶を抱えているのは奇観である。吾輩の分としてもう一本立ててあるが、そんなには飲めん。

 そんなに飲めんと言うているのに、タップリ飲まされた。

 ヘベレケにしておけば夜逃げできないとの計略に、まんまと引っ掛かった。


 幾分まだ酒が残っている。

 もうしばらく寝かせてもらいたい。

 どうせ一升酒を飲んだ翌朝である。

 二人もそう簡単には起きれんと高を括っていたら「さあ起きなさい」とせめ立てられた。

 起きると言うと、待てない信用ならんとして、なお起きろと責められるのは気に食わんものだ。

 残り僅かの三十路ごとき我儘者に言われてはなお気に食わん。

「何だ騒々しい。起きると言えば起きる」

「起きるといいながらもう五分経ってるわよ。早く起きなさい愚図猫」

「誰が愚図猫じゃい、手伝ってやらんぞ」

「いいわよ、遙に云って飛行艇に付けた玩具取り上げてもらうから」

「馬鹿を言え、何時から遙と友達になった。あいつに友達などおらんわ」

「どっちが馬鹿だか分りゃしない。遙とは幼馴染よ。そんな事も知らないの、馬鹿猫」


 吾輩を座布団ごと持ち上げそのまま外に出る。

 出ると既に病院の車が迎えに来ていた。

 吾輩が手術室でうろつくのを一般人には見せられないからと、打ち合わせも何もなく手術室に直行である。

 ERから回される軽症の患者に対応して、殆どの場合部分麻酔の手術だが、どの患者も吾輩を見るなり気絶してくれる。

 手術がやり易いと、つまらん所で褒められた。

 診療所辺りでは人的被害が少なかったものの、他から搬送されてくるのは通常の比ではない。

 病院スタッフは何日も自宅に帰っていないかった。

 それが、被害数は断然多い筈なのに、この病院では余裕の深酒をしていられるとは妙である。


 手術しながら赤チンに状況を聞けば、丘の上リゾートへの集中搬送で、ERにはまだ余裕があった。

 ベットも緊急時の簡易ベットを出すまでには至っていないのが現状である。

 普段緊急手術に慣れていない赤チンにしてみれば、猫の手を借りたい忙しさかもしれんが、この状態はやっちゃんのいる地下病院より暇である。

 五月蠅いばかりで仕えねえ女医だ。

 心の内で言った筈なのに、声になって出ていたとみえる。

 赤チンのメスが滑って、吾輩の凛々しい尻尾に突き刺さった。痛いんだよ!



 災難というのは重なるもので、隕石被害の患者処置が一段落すると、小規模の津波が頻繁に押し寄せだした。

 百八十度経線と赤道の交叉辺りで、海底火山の活動が活発になった影響である。

 太平洋の島々で救済されるべき人が大勢いるのは分かっているが、どの国の政府も自国民の救済で手一杯の状態である。

 悲惨な状態だが、我等如きの微力ではどうする事も出来んと思っていた。

 そんな時、ペロン星人が宇宙船を出動させると言って来た。

 出動をわざわざあちこちの病院に告げるのは、医師が必要だからだが、吾輩にまで御呼びがかかるとは思ってもいなかった。

 困った事に、使えない赤チンも一緒である。


 船の中で応急処置をしながら、近くのシェルターに移送する。

 太平洋の島々にもシェルターは有るが、まだその半分は機能していので怪我人を収容できないでいる。

 地下の病院には暇なやっちゃんがいるというのに、避難が制限されていて搬送出来ない状態である。


 宇宙船での救助活動を終え地下診療所に帰り、朱莉ちゃんの顔を見ていると、のんびりする間もなく環太平洋火山帯の活動が活発に成って来た。

 噴火の影響で地殻のズレが大地をせり上げ、貴重な金属が多く含まれている鉱石が露出する現象が確認されている。

 こうなってくると、噴火はアクエネの仕業。地球環境を無視した探査行為と言わざるを得ない。

 噴煙が上空を覆い尽くす程の噴火ではないが、火口の周囲を数キロにわたって起し返す活動で、被害の大きなエリアの復興は絶望的となった。


 其れに比べて地上の診療所周辺は、土偶の力で守られている上に特別な過疎地域である。

 医療関係者は暇しまくっている。

 医者が暇なのは、今の時代に良い事である。

 あまりにも暇だから余計な事を考えたヤブ。

 被災者を受け入れている病院を手伝うのに、ロクちゃんと旅に出ると言い出した。

 地下シェルター建設が一段落して、地下の病院勤務がなくなったあおいとキリちゃんまでも、移動診療の旅に参加する事となった。

 災害の爪痕が残るこの時期、旅に出るとなると、気まぐれパックだけが頼りのヤブを外に放り出すのは、本人も周りの人間も危険である。

 何と言ってもパックは無類の方向音痴で、ヤブはナビを無視して走る癖がある。

 あちこち道路が寸断されている。

 しっかりした水先案内人が必要だと、あおいとキリちゃんが立候補したのである。

 しかし、二人とも負けず劣らずの旅下手である。

 このまま出発されたのでは、将来遭難した三人を吾輩が探しに行くという面倒な事態になるのは明らか。

 そこで、久蔵に道案内を頼んでやろうと出しゃばった。


 どんぐりに久蔵を訪ねて行くと、丁度店内で釜軍団の出陣式をやっていた。

 式とは銘打ってあるが、堅苦しいのを極端に嫌う生物の寄合である。

 形式も順序もあったものではない。

 風呂がないだけで港屋の二の舞となっている。

 店内は竜巻の中にいるようなものである。

 この時久蔵は、踏みつけられながらも店のカウンターから吾輩の凛とした勇士をきっと見た。

 カウンターは高さ三尺で、入口から始まり店の奥まで続いている。

 端に両開きの一枚戸をはめたものである。

 この戸は、カウンターの上に乗せられ上から巨漢に抑えつけられて身動き取れない久蔵の、頭すれすれにある。

 意識が有る内は首の力で頭を持ち上げているのでぶつからないが、意識がなくなったり力を抜いたりしたら、戸を開ける度にゴツゴツバタンビタンとだらしなく垂れた頭を容赦なく打ちすえる。


 ぐっと持ち上げた頭は吾輩の方を向いているが、体は真反対を向いている。

 鼻から一筋の流血がタラーリ床に数滴の血痕を残し、ゆるキャラ模様のTシャツが所々破れて妙な腸が飛び出ている。

 腸にも色々ある。コプチャン・ホルモン・コテッチャン・シロ・ヒモ・丸腸・ホソ・テッチャン・シマチョウ・テッポウ等々。

 さしずめこれはテッチャンあたりか。

 平然ではないにしても、この状態で生きて意識があるとは、並の化け物ではない。

 久蔵はこの腸をちらりと見て「なに、かすり傷だよ」と言う。

 上に乘った者に御願いして、カウンターから降ろしてもらう。

 飛び出た腸を指で押し込んで、切れた腹をホチキスで繋ぎとめる。

 腸にはかすり傷でも腹には重症の傷。

 どの辺りの傷を称してかすり傷とするのか、基準が曖昧な生物が久蔵である。


 吾輩は、腸を納めた腹を見ると同時に、脈絡なく何処へ向って出陣するのか知りたくなった。

「奴等の居所が分かったのか? どこに向かって出陣しようというのだ。勝ち目などなかろう」

 車で引き摺られてもヘロヘロして、鼻血で失血死寸前まで追い込まれても笑っている様子だった久蔵。

 突然この質問を聞いて正気になったのは不思議のようであるが、こういう変態した化け物には珍しくない事だ。

 ジャリ餓鬼が泣いて五月蠅い時に、笑気ガスの一嗅ぎもさせてやれば直ぐにヘラヘラ笑い出すのと逆である。

 昔居候をしていた女主人の家では、ジャリ餓鬼どもが騒いで五月蠅い時は、必ず吾輩を袋に入れて子供に宛がった。 貰うなり餓鬼共は袋を蹴って、ギャアと鳴く声を聞いてキャッキャッ喜んだものである。

 この親にしてこの子有りといった、極めて残虐非道の家柄で、女主人などという者は元来意地の悪い女のうちで最も性質の悪い者である。

 この家が女主人の性格は、今泣いている子を三遍殴って無理矢理笑わせる質である。

 比べて久蔵は泣いたり笑ったり、嬉しがったり悲しんだり、人一倍もする代りにいずれも長く続いた事がない。

 よく言えば執着がない。悪く言えば気まぐれで根気がない。


 心機がむやみに転ずるのだろうが、これをやさしく言えば、奥行のない薄っ片のだだっ子である。

 既にだだっ子である以上は喧嘩をする勢で、むっくと刎ね起きた久蔵が急に気を変える。

「勝ち負けじゃねえんだよ」と言うと、まあ一杯とビールをすすめる。

 嫌いではないからまずは一杯頂く。

 駆けつけ三杯、いける口ですね、御口直しにこちらの一杯、まだまだ序の口、今宵はトコトンとやっているうち何しに来たのか思い出せなくなってきた。

 暫く釜達と久蔵の宴にドンチャン混じって騒いでいると夜も更けてくる。

 さてそろそろ帰って寝ようとしたところで用事を思い出した。


 ヤブ達が、乱れた世にあって病に苦しむ者の救済の旅に出る。

 何かと物騒な時代、世間知らずばかりで不安だから、付き添って道案内をしてはくれぬかと頼んでやった。

 もとより磯家に仕える身である。

 断る理由もなく、二つ返事で了解をもらった。

 店に貼られた暦を見ると、明治十一年九月廿八日とある。

 どこから持って来たのか、この日のままにしてあるから何がしかの意味が有っての事かとも思える。

 しかしここは無精者の店である。

 ずっと以前からこやつの頭の中は時が過ぎていないとも考えられる。

「ところで今は何月かの」

「そんな細かい事いちいち気にして生きちゃいないよ」

 しかるにこの時代から今まで、時を気にしていなかったのは確実である。

 つい最近出会った土竜の話しをしたら「それはもったいない事をした。あいつは調理次第でいくらでも旨く食える」と言ったのが気になるが、さて、釜達は何故にどんぐりに屯っていたのか。

 今一つ理由が不明の一夜であった。


 翌朝、早くから久蔵が診療ツアー参加申込書を自前で作って診療所に提出した。

 自己アピール欄には、食糧が不足している今時の旅に、自分のように顔の利く人材は有難い筈だ。

 上手い飯を作ってやるから連れて行け。

 上から目線の意見が記載されている。

 食の材料についてもいろいろと記載して有ったが、その一文は削除した方がいいとした吾輩からのアドバイスを真摯に受け止め黒塗りしていた。

 現場に出てしまえば食糧調達の為、鼠や蜥蜴の尻尾を追っかけて歩いても置き去りにはされない。

 行く前にそれを書いたのでは、連れて行ってもらえる者も断られる。 

 ヤブにこの肉は何の肉かと聞いても、蛇と鶏の区別もつかんから気にする事はない。

 黙っていればいいのである。


 あおいの推薦もあって、ヤブは成る程この時期に食う者で不自由はさせないと書けるとは、さすがに久蔵さん偉いものだと感激している。

 言っている少し左の方を見ると、既に食糧の調達が始まっている。

 昼寝をしていたカエルが、今日のディナーに成る予定である。御愁傷様。

 一緒に行ってやってもいいが、ゲテの捕獲を毎日ではそう長続きする気がしない。

 食糧の確保が長続きしないのではない。

 吾輩の食に対するこだわりが崩壊してしまうの意味である。

 人間界にあって猫としての誇りを保っていられるのは、人と違った美味に対応した味覚があったればこそである。

 それが、ゲテを主材料とした食事を度事に食わされたのでは、何が本に美食か分からん者になるのは明白。

 旅を終えて帰ってきたら、カエルや蜥蜴に鼠しか食えん体に成ってしまうのを想像すると、とてもではないが耐えられん。


 そこで、何とか行かなくともいい理由を探していたら、朱莉ちゃんは旅に出ないとの事である。

 この際だから理由などどうでも宜しい。

 吾輩は朱莉ちゃん指揮下の地球防衛軍猫部隊の一員である。

 これより朱莉ちゃん警固の任に着くとして難を逃れた。

 すると朱莉ちゃん「なかなか君も先が見えるようになってきたね」ニコニコ顔である。

 いかん、この笑顔はサディスティックである。


 診療ツアーの一団が旅立つと、地上も地下も診療所には吾輩と朱莉ちゃんだけである。

 クロは何処に行ったのか聞けば、暫く留守にしていた車屋に里帰りしているとか。

 あいつが帰ったからとて歓迎されるとは思えんが、古巣である。心行くまでまったりしてくればよい。

 さて、何故に朱莉ちゃんはここに残ったのか、勿論地下施設最下層の開発責任者である。

 完成するまであちこちフラフラする訳にはいかんのは分かっているが、それとてすでに試験段階と聞いた。

 試験。嫌な響きである。


「ここに入って」

 朱莉ちゃんが開けたカプセルの中では、マグロが切り身になって吾輩を呼んでいる。

 呼ばれれば嫌いな奴ではないから、はいはいと呼ばれるままカプッとカジカジしていると、カプセルが閉まって籠の猫。

 大きな機械の下に張り付けられた名盤には、生体の二字だけが見える。

 その後を見たいが、生憎黒塗りされていて読めん。

 次の行には20……年稼働試験開始と出ている。

 この機械も久蔵と同じで月日に拘らん性格と見え、何月何日の所は空白になっている。

 何の機械か読みたいが、それっきりで手掛りがない。

 もし吾輩が実験の責任者であったら、試験の開始日に名盤の月日を刻印するかも知れない。


 科学者と言う者には、時々教育と掛け離れた常識を持つ者がいる。

 実験から事実を挙げる為には何でもする。

 特に朱莉ちゃんの実験は、吾輩を殊の外使いたがる。 

 あれは始末に行かないものだ。

 願くばもう少し遠慮をしてもらいたい。

 遠慮をしなければ事実は決して挙げさせない事にしたらよかろうか、さすれば少しばかりは考えてくれるだろう。

 はて、そうこうマグロ君と仲良く話し込んでいると、朱莉ちゃんが名盤に刻印を打っている。今日の日付けである。


 聞くところによると、科学者は無印良質の旨しとされたる餌を持って良猫を生体実験に陥れる事さえあるそうだ。

 良猫が信頼をして慕っておる者が、飼い猫を実験動物にするとはこれまた立派なマッドサイエンティストである。

 次に眼を転じて部屋の真中を見ると、クロが宙返りをしている。

 里帰りは偽りで、既に彼は捕獲されていた。

 吾輩でさえ逆か立ちをするくらいだから、クロが宙返りをするのは当然である。

 どちらが上でどの辺りが下か分からなくなっている。

 朱莉ちゃんはここまで読んで双方へ御馳走をこしらえて、カプセルに入れて無重力空間に慣れよと高く天井に向けて突きあげた。

 宇宙飛行の実験的訓練である。


 最下層施設と我等の宇宙飛行訓練が、如何様に繋がった実験かは不明である。

 しかし、餌で釣って騙してまでして受けさせるからには、重要な仕事が控えているのであろう。

「一週間だから頑張って成功させてね」

 朱莉ちゃんが、地下の牧場産でない地上の肉牛からとった生肉を差し入れてくれた。

 どうも牛の生肉が一連の知人から差し出されると、いつぞや世話になった肉牛君が思い浮かばれてならない。

 まさか、あの時の肉牛君ではあるまいなと確かめたが、朱莉ちゃんは肉牛君を知らなんだ。

 何処産の牛かは聞かなかったが、赤チンが持ってきてくれたと言っている。

 ためらいなく被り付くクロの頭上にフワフワしているのは、まさか成仏した筈の化け猫ではあるまい。

 頭の上には二本の角がある。

 あの時の肉牛君とは限らないが、牛の幽霊であるのは見れば分かる。


 呪われたくはないが、ここで食わなければこの先訓練に耐えられん。

 思い切ってガブリと喰らい付く。んー、デリーシャス!

 人間はこの美なる食材に火を通すなどといった愚かしい行為が正当であるとし、己の管理不行き届きを棚に上げ牛の生肉を食うのを禁止していると聞く。

 お馬鹿もいいところである。馬でも鹿でもない牛である。

 江戸の時代には、古くなった生カツオを食って食あたりしたからと、火を通さずしてカツオを食ってはならんとの法度まで作っておる。

 それもこれも傷んでいるのか生で食っても平気なのか、野生の本能を便利と引き換えに置き忘れてきた生物だからである。

 決り事がなければ無暗に当たり物を食って食中毒になりかねん。

 それでは可哀想大変だとの親心法度であるが、親の心子知らずである。

 生食を禁じられた者からすれば余計な法度、当たろうが死のうが食った者勝ちとばかり、フグの肝でも喰うのが人間である。


 狭いカプセルの中、クロとの共同生活一週間のなんと長い事か。

 運動不足が祟ってクロは日に日に肥え太り。

 デリケートな心臓の吾輩は、食欲減退・体力衰退・気力は限界に達し、毎日痩せて行くばかりである。

 衰えた吾輩の隣りで、僅かの期間で真ん丸になったクロがあくびをする。

 それが一段落を告げると、クロはのその後カプセルの中をうろつき、前足を舐めてはその手で顔を洗いまた大あくびをしたかと思ったらゴロンと横になって一時寝入る。

 室内に散らばった食い残しのゴミを、例の通り掃除するのは吾輩である。

 絶えかねた吾輩は、いきなりクロの尻を引っ掻きまくって叩き起こそうとしたが、脂身が分厚く痛みを感じない尻に出来上がっている。

 のうのうと寝たまま起きる気配がない。

 実に損な役回りだ。

 クロとのコンビは嫌だと常々訴えているのに、同じ猫といった境遇の者が他におらんから何とか辛抱してくれで、何時も誤魔化されて来た。

 悪いようにはしないからと言われて良くしてもらった覚えがない。

 猫であっても人間社会と同じである。


 吾輩には地獄の特訓クロには極楽の一週間が過ぎ、ようやくカプセルの蓋が開けられた。

 貴重なデーターが取れたと朱莉ちゃんが喜んでいる。

 それより前に、猫権を侵害されながらも生体実験の成果に大きく貢献した者に、労いの一言も欲しいところである。

 吾輩がフンとそっぽを向くと、朱莉ちゃんがすかさず気遣う言葉。

「温泉に連れて行ったげるね。ご苦労様でした」

 嬉しい様なそんなに安い猫じゃねえぞと怒ってやりたいような。温泉といってもどうせ港屋である。

 吾輩にすれば実家に帰るようなもの、飛行艇を貰った今となっては、何時でも自由気ままに行き来できる場所である。

 今回の実験結果を持って、ハリネズミやペロン星人と打ち合わせのついでに宴会が予定されているに決まっている。

 宴会のついでに打ち合わせか。いずれにせよ我等の温泉旅行はそのまたついでである。


 つい最近湯に浸かりに来たばかりの温泉。

 別段懐かしくもない宿に着く。

 避難所兼周辺住民の憩いの場と化した宿では、了見の狭い者達がそこら中で繰り広げている紛争を他所に、和やかな時間が過ぎている。

 何処も彼処もキナ臭くなって、心休まる場所がない昨今。

 この様な温泉宿は貴重だ。

 誰もが大切に思う宿となり、間違って危害を加える者が紛れてはいないかと警戒は厳重である。

 我等は常連とあって、入館の折厳しい検査は省略してもらった。

 検査しようにも、海底に設置した専用の入口からシェルターを通って宿に入っている。

 一般人と入館ルートが異なっておるのでチェックのしようがない。


 風呂に行けば、災害騒ぎに夜逃げの相談をぶっこいていたのは大昔の様で、若旦那幽霊が霊力を絞り出して沸かしている白湯は使い放題。

 温泉も、近くの火山が活性化している事が手伝って、今まで以上にこんこんと湧き出ている。

 これまで有った潮の湯とは別に、敷地から突如湧き出た赤茶色の温泉が加わわっている。

 さらに一つの大きな変化があって、ペロン星人が吾輩の脅迫に耐えかねて遂に女将へ詫びを入れ【酔っ払って窓ガラス割っちゃってすいません温泉開発プロジェクト】を発足していた。

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