17 利根川噴火?
シェルターは非常用であるから、人間は日常使えない部屋となっておる。
それが、吾輩には専用の部屋が宛がわれた。
喜ばしい事ではあるが、物事には必ず裏がある。
少しばかりの不安がないとは言いきれんものの、嬉しい事にこの部屋は余計なエネルギーの侵入を阻む装置が付いている。
したがって、笑うエネルギー体として現存する幽霊共をシッャトアウトできる。
幽霊を誰もが見て悩まされるでもない実態からすれば、恐ろしく吾輩に適したシェルターである。
基本設計をしたのが、家出事件以降霊体がチラリホラリと見え隠れするようになったヤブだから、この設備も納得のいくところである。
一番高価なのがこの装置で、回りのシェルターは装置を守る為にある様な物だ。
設置している者でさえ、何の為にこんな物を取付けているのか理解しておらん。
それはそれでさて置きっぱなしにしておいて、実に良い物を貰ったのは事実である。
これからは毎日、妙な霊体連中に悩まされずゆっくりと昼寝夜寝ができる。
早速、シェルターの吾部屋で昼寝をしていると、特設スピーカーから声がする。
嬉し懐かし診療所の連中である。
「今から御前を転送するから動くんじゃない」ヤブが吾輩に命令口調で指示する。
転送とは如何なる行為か、吾輩の辞書に転送の二文字はない。
ベートーヴェン作曲・交響曲第五番の冒頭主題が流れると、勢いよく部屋の戸が閉まる。
中の生物に怪我を負わせない為のストッパーなど付いていない、細やかな心配りの出来ない設計者だから仕方ないが、嫌な感じである。
一瞬の出来事で、惜しげもなく無駄にチカチカと明るい光に包まれ目を瞑っていると、何秒もしないで扉が静に開いた。
美食の香りが室内にサッと吹き込むから、驚いて目を開けると何とかちゃんがクレープを食べながら吾輩の部屋を覗き込んでいる。
「食べる?」
「うん。いただいちゃおうかな」
何とかちゃんはこんな遠くまで何しに来たのか。
とりあえずクレープは旨いから良しとしておこう。
小部屋から出ると、周囲の景色がシェルターではない。
何時か案内されて入った地下施設に有る何とかちゃんの研究室。
となれば、ここは診療所まで猫でも歩いて行ける場所である。
超自然現象か巧妙な手品に巻き込まれたのは分かる。しかし、シュギョイ事件だ。
何がどうなって、どうやったら吾輩が一瞬で遥か彼方の温泉宿からこのラボにこられたのか。
詳しく説明してくれると言うが、何とかちゃんの詳しくはペロン星人が話す宇宙人語より理解できない言葉が並んだ暗号である。
聞いてもどうせ分からん。
吾輩の体を一旦電子にまで分解し、それを電波としてこのラボに送った後、数式に従って再編成すると、瞬時に移動できるのだよと言っている。
………吾輩より以前に生物で試した事があるのか? 軽い生体実験の如き話っぷりだが、小部屋に蠅でも飛び込んで来たら、吾輩は蠅猫になっていたのではなかろうか。
すると何とかちゃんが、質量が違うから間違って蠅が入っても腫物みたいに体のどこかと合体して、こんにちわと挨拶する程度だと証言した。
電波になった猫が、途中磁気嵐にでも遭遇したらどうなる。
すると、その時には諦めてもらうしかないとも証言した。 明らかに動物に対する虐待未遂の実験を認めた発言である。
吾輩が精神に受けた傷害は計り知れない。
こうなってはいかに友好的な吾輩でも、簡単に何とかちゃんを許す訳にはいかん。
見過ごせぬ暴挙であると二三度耳を振って何とかちゃんの動きを窺うと、にんまりして何時もの如く吾輩を抱え上げ撫でゝしてくれる。
「君は英雄だよ! 人類が月に行った時よりもずっと凄い冒険をやってのけたんだから。この街に住む皆にこれから教えてあげて、中央公園の真ん中に君の銅像を建ててもらうよ。いいよね」
勿論。英雄として銅像を建ててくれるとの企画に反対する気はない。
しかし、冒険と言うが吾輩はその冒険とやらに参加するともしないとも言った覚えはない。
吾輩の個室だと騙されて、昼寝をしていたら問答無用で生体実験の材料にされただけである。
「クレープもっと食べる?」
「うん。食べる」
クレープは旨い。はて、何の話だったか。旨いから良しとしておこうか。
暫く診療所で遊んでラボに戻る。
クレープを満喫していると、再び扉が容赦ない勢いで閉まった。
このような場面では御決りで、どうせ激しい光の点滅の後に次の場面へと展開する。
きつく目を閉じて時の過ぎるのを待つと、何の衝撃もないままスピーカーからヤブの声がする。
「着いたよ馬鹿猫。さっさと起きやがれ」乱暴な録音案内である。
吾輩を馬鹿猫と蔑む御前も同類だ。
帰ってみればロビーは賑やかで、シェルター完成祝いと盛り上がっている。
そこに、明け番で帰って来たやっちゃんを女将が出迎える。
震災騒ぎで客足がパタッと止まり、近所の者が風呂に入りに来るだけである。
それとて地震で家の風呂が壊れたとか、ガスを使うのが怖いとかの震災バブルで、宿泊客は毎日やっちゃんだけ。
暫く客を出迎えてないから忘れちゃいけないと練習しているのかと思いきや、そんな冗談ではなかった。
シェルターの工事が一日で終って、皆してやっちゃんに有難うの御出迎えであった。
やっちゃんは、出がけに何もなかったロビーの真ん中に、風呂に入りに来た客や宿の従業員が取り巻くシェルター入口と書かれたでっかい扉が作られているから驚いている。
「たった一日で鉄筋四階建ての地下にシェルターを増築できるものか。きっと騙されたんだ」
扉を開けると、地下に向かってエスカレーターが動いている。
どんな工事だったか聞いているが、知っているのは吾輩だけである。土下座して頼まれても教えてやるものか。
自分だけ助かる気でひっそり一人用のシェルターを、宿の片隅に作ってくれとやぶ医者に頼んでいた。
それが、ここにいる全員一時退避できるシェルターが目前にある。
「千年ローンでも払いきれない。勝手に規模でかくしやがって、壱万年ローンに苦しめられそうだ」心の叫びが聞こえて来る。
タダだとは絶対に教えてやらないものね。
長期間となると嫌だが、非常時には狭いながらも吾輩専用の部屋がある。
やっちゃんとの短期間共同生活ならば、許可してやってもいい。
今日はシェルターの建築祝いだからと、其の場に居た者ばかりか隣近所を呼んで大宴会になった。
沈みがちな時期だからたまにはこんなのもいいが、掛かりは誰が支払うのか。
明日の飯が有るのかないのか、食いだめしておくべきか。
丘の上の温泉はシェルターと医者がいるだけで大繁盛している。
ここにもシェルターがあるし腐れ医者もいる。
なのに、客が増えるとの予想は立て難いのが現状である。
やっちゃんは後から宴会に参加すると言って、自分の部屋に一旦戻った。
少しして宴会に出たやっちゃんに、昼間の風呂に入れと常連客が勧めている。
何時もなら都会の宿泊客がいるから遠慮するところだろうが、近所から風呂に入りに来る者はやっちゃんに墨が入っているのは知っている。
それじゃあと風呂に入って行くから、吾輩も後から付いてゆく。
誰もが吾輩を招き猫と知っているから人間と同じ湯に入っても良かろうと思ったが、湯船が深すぎてこの体長にそぐわない造りである。
今日の所は勘弁してやった。
猫風呂に入って海を眺めると、噴火した海底火山の熱で蒸発した水蒸気が遙か上空まで立ち昇っている。
今宵の宴会に呼ばれたハリネズミが、やっちゃんに噴火の状況を教えてやっている。
風呂から上って宴会場に戻ったら赤チンが酔っ払っていて、狸女も一升瓶を抱えている。
吾輩はというと、会場に戻って直ぐ女将に捕まった。
どこから湧き出たか、クロが既にマタタビを食わされ酩酊状態である。
酔ったら馬鹿正直になる赤チンに、野ざらしの娘ってのは本当はどんな奴なのかとやっちやんが聞いている。
ところが赤チンは自分を指さしている。
しかしBUTところがこれには続きがあった。
「妹がいるけどね」
「妹、どこにいるの」
「知らない」
「どんな顔してるの」
「かわいいかった、悔しいけど」
「何してるの」
「知らない」
「名前は」
「今のは知らない」
赤チン………本当に野ざらしの娘か?
夜通しの宴会が引けた後、自由に使えないシェルターに一千万年もローンは合点がいかねえと、やっちゃんがヤブ医者に不服申立てをしている。
この先世の中がどうなって行くかも分からない。
一歩間違えばやっちゃんの様なヤクザ者は、今すぐに彼の世逝きもない話しではない。
早めに高額の生命保険に入った方がいい。
シェルターの金を何とか誤魔化せないかと願っているが、高額生命保険に入ったと言えば勘弁してもらえる。
「人の弱みに付け込んだあくどい商売で金は余っているんだから、一億や二億どうでも良い金だろ。俺が注文したシェルターを勝手に企画変えて馬鹿高くしたんだから。その分くらいは面倒見る気なんだろうなー」
何かにつけて要領の悪い男で、直球しか投げられん。
「もとよりてめえみてえな貧乏人から金がとれるなんて思っちゃいねえよ。馬鹿野郎」ヤブが電話を切る。
これでやっちゃんは借金地獄に落ちなくて済んだが、もっと簡単に【払えない】の一言で済んだ事である。
日頃より吾輩はローンと縁無く、金がたんと有ったとしても使い方がよく分からんから、やっちゃんのローン地獄がどうなろうと知った事ではない。
赤チンの妹なんだらは面倒臭そうだから気にせん事にした。
朝の風呂場へ廻ると、クロが猫風呂に浸かっている。
女湯の実態を知ってから、清潔にも言わなくなって、たまにしか風呂に入らない猫に戻っている。
それがどういった心境の変化か、警戒心も適当に怠慢である。
後ろから静かに近づいて「おいっ!」と声をかけたら驚いて風呂から飛び出した。
露天風呂場の真中に這い蹲って四方を見回し「ウギャー!」と騒ぎ立てる。
やかましいと言うか、根性無しと言うか。到底彼は何時ものクロでない。
吾輩はこれまで十五六回、クロが恐怖に戦慄する姿を見んが為あれこれ策を弄して脅かして来たが、一度たりとも成功した試しがなかった。
残念ではあるが、いかなる事態に陥ろうとも無神経でいられる者に施すべき策がなかったのである。
クロの武神にも似た恐怖に対する無関心が、出会った当初は向かう所敵なしの勇気であった。
野生のまま昆虫等の小動物を採って喰う姿に、非情で崇高な美さえ感じていた。
それをあまりにも日常頻繁見ていると、実は面倒くさい奴で際どい御馬鹿なのだと気付いた。
眠いのか疲れたのか、相変わらずのオタンコナスで、驚いて逃げたと思ったら風呂場の真ん中へ坐ったなり動かなくなった。
それも、動かんでも何等かの危険を感じて退いたのだから、八方睨みを極め込んでいるのが猫の本性であるのに、クロはボーとしたまま大した事は出来んままである。
目ざす敵と思った奴が吾輩だと知るや安心して気が抜けたか、少しばかりやり過ぎたかと思う。
悪いと言う念を通り過ぎると、こちらも張り合が抜けてぼーとする。
ぼーとしたあとは眠たくなる。
吾輩は以上の径路を辿って、ついには睡魔に支配される身となった。
吾輩は眠る。
休養は風呂場に在っても必要である。
風呂場に居る事が既に休養と言われると見も蓋もないが、兎に角寝る。
横向きに陽が傾いて、海から潮風が眠りこける吾輩の耳をくすぐる。
猫風呂から弾丸のごとく飛び出したクロが、吾輩が眠りに入った時のまま固まってじっとしている。
どれだけの時を動かずにいたのか、いよいよこれは本格的に崩壊してしまったか。
「おい、死んだのか? 死んだならそれらしくしてくれんかの、吾輩はどう対応すべきか分からん」
「生きちゃいるが、動く気になれねえ。動けねえんだよ」
動けないと言うが、見た限り大それた怪我をしている様子もない。
はて、どうしたものか。
起きたばかりのかすみ目で、クロの周りがぼんやりして見える。歓迎できる現象ではない。
言葉は知っていたが、生まれてこのかたかすみ目なる疾病を患った事がない。
これまで急に辺りがぼやける時は、決まって霊がうろついていて吾輩に害を及ぼす。
まいった困ったと目をパチクリすると、いかん事に霊の正体が見えてきた。
三毛子の幽霊に憑りついていた化け猫が、クロに憑りつこうと頑張っている。
努力は認めてやってもいいが、クロに憑りつこうとする辺り、この化け猫はまだまだ未熟者である。
返り討ちに遭ってしまえ、消えてくれ。
それにしても化け猫に憑りつかれようという時でさえ、動けない程度で済んでいるのだからクロは豪傑である。
少し見直したぞ。
「妙なのが君に憑りつこうとしているのだよ、ヘタレ猫君」
吾輩は親切に、何故動けないのか教えてやった。
クロが満身の力を毛穴に込めて、化け猫を振り払おうとする。
それに負けじと化け猫が、ガッシリ喰い下がって恨めしそうな目をして吾輩の方を見る。こっちに来るんじゃない。
鞭のようにしなって強力なクロの尻尾攻撃が、思いがけず化け猫の額に当たる。
たまらず化け猫は退散していった。
彼奴の急所は額である。一つ勉強になった。
猫風呂に浸かり、一部始終を楽しく見学していた吾輩の所にクロが寄って来る。
教えてくれてありがとうの礼がしたいのかと思いきや、見えるなら助けてくれてもいいじゃねえかと怒っている。
見えると戦うは別物である。
吾輩が化け猫に立ち向かい、こいつを助けるなど有り得ん。
なんとも我がままなのがクロである。
クロが怒りに任せて礼も言わずに立ち去ろうとする。
それを上空から見下ろしているのが、先ほどの化け猫である。まだ憑りつくのを諦めていない。
吾輩は風呂に浸かりながら、この先どの様な展開になるのか化け猫を見上げている。
見上げたままでは片手落ちになる。
「まだ化け猫は君に憑りつきたくて、上空から狙っているがどうするかね。このまま今日は大人しく憑りつかれてみるかね」とても親切に聞いてやった。
距離凡そ五十米。化け猫には一瞬移動の射程距離である。
クロと化け猫の中間には丁度吾輩がいる。
襲ってくる化け猫に、チャイと一撃喰らわせるのが出来ない状況ではないが、やって善いのかいけないのか、一応確認するべき場面と判断した。
「グダグダ言ってねえで助けろよ」
「助けろよではなくて、助けて下さいの間違いではないのかな。クロ君」
「はい、そうでした助けて下さい。御願いします。アイン様」
助けても良いとの許可が出たので、出来る限りの協力をすると決めた。
しかし化け猫は怖い者だから、真っ直ぐクロに向かって突進するならばチョットだけ手を出してみてやってもいいかなである。
後は知った事ではない。
吾輩は前足に力を込めて、御手軽な感じに構えて見る。
幾秒もしないで、化け猫がクロめがけて飛びかかる。
その瞬間に目をつぶって、チャイと手を上げたまま飛び上がってみた。
何かに当たったのは確かで、恐ろしく強烈な衝撃波が吾輩を猫湯に叩きつけた。
首尾よく狙いどおり、吾輩の伸ばした前足が化け猫の額に三本線の引掻き傷をつけている。
当たっちまったよ。恨まれそう。
ここまでやっつけられてもまだ諦めきれないで、化け猫はクロの後ろ足にしがみ付いてもがいている。
クロも急に足が重たくなったから、ここらに化け物が憑りついていると見当をつけ、尻尾前足から牙まで使って無暗に攻撃している。
既に十分助勢してやった。これ以上の協力は我が身の危険である。
猫湯に投げ込まれたのを幸い、このまま気絶したふりをして湯に浸かりながら両者の格闘を見学するとした。
下手な八百長格闘技を見ているより面白い。
両者の形相もさることながら、勝者に与えられる物、敗者が失う物を思うと、緊張感がこちらにまでビッシゝ伝わって来る。たまらんのー。
負ければ地獄に落ちるも同然の勝負。行方を二三分見ていた。
クロがいよいよ危うい。
石の湯船を爪で掻きむしる音がガリガリと聞える。
これではならぬと吾輩は右の爪をニョキと出して、化け猫の背後から近付く。
天空にクロを引き揚げようとする化け猫と、必死になって岩にしがみつくクロだが、吾輩の攻撃態勢にクロが一瞬早く気付いた。
クロが岩にしがみ付くのをやめると同時に、尻尾で化け猫の額に一撃喰らわす。
一瞬ひるんだその時、吾輩が化け猫の背中に飛び乗り縦横斜め、出せるだけ出した爪で引っ掻きまわしてやる。
化け物のくせにこれを痛がってのたうち回るから、我等猫同盟が二匹とも圧し掛かって更なる引っ掻きを加える。
三つの塊まりが一つとなって、夕陽を背にうけ乍ら三米ばかり下の砂浜に落ちた。
満ちていた潮は宿の石垣近くまで上がっていたから、我等一塊は縺れ合ったまま海の中に転がり入った。
傷に海水は流石の化け猫もたまらず「ギョエー痛ってー」と叫んで飛び去って消えた。
化け猫………話せるのか。相談してくれれば何とかしてやれん事も無かったのに。
ヤンチャが過ぎる奴である。
露天とはいえ風呂場での合戦は体力を消耗するもので、こう熱くてはヌクヌク好きの猫といえども眩暈がする。
千葉に有りながら東京何とかリゾートと言うテーマパークに働く鼠なら、熱くて死にそうになったら着ぐるみを脱げば涼し心地いい世界へ瞬間トリップできる。
我等猫同盟には、この手の涼み方が適用できん。
毛皮を剥いだら切り傷擦り傷の非ではない。激痛が全身に走り其の場で失神するであろう。
仕方なしに海岸でゼエゼエしていると、随分と前に女風呂に屯していた異国の神々が海岸を散歩している。
乳の膨らみが豊満で美形揃いではあるが、袋のない股間に竿だけプラプラしていた者達である。
「おバカな猫がゼエゼエしてるわよん」
「本当にー。キャ! お馬鹿」
「海に入れば涼すいーのにねえー」
「おバカねー」
馬鹿ゝ言うな。馬でも鹿でもない猫である。
しかしながら、言っている事はなかなかに正論である。
熱ければ人間が夏の暑さを凌ぐが如く、海水浴に興じればよい。
早速吾輩とクロは海の冷たい水に浸かるべく、波打ち際まで歩いてゆく。
既に準備運動は十分である。
「お先にどうぞ」今回の功労者であるクロ君に優先権を与え、先に海水に浸る事を薦めて見た。
「いえいえ、貴方こそ御先にどうぞ」クロにしては随分馬鹿丁寧な言い方である。
猫は基本的に水に入らない。
虎族は勇敢であるから水浴をする。
その血を引くから、吾輩も湯に浸かれる。
吾輩の指導があって、クロも湯に浸かる猫となれた。
しかし、先程の様に戦いの際中海に落ちるといった事故は別として、海水浴をする猫を今まで見た事も聞いた事もない。
ひょっとして、我等が猫史上初の海水浴猫になるのであろうか。
という訳で、吾輩はクロ君にその栄誉を差し上げようというのに、簡単に断りやがった。
この際だからやせ我慢をして海風だけで涼もうとも思ったが、いかんせん猫の発汗は手足の肉球と尻の穴周辺に限っている。
風に当たっても、急激に体温が下がる生物ではない。
それ行けやれ行けと問答しているうちに、疲れ切った我等が共に海岸に倒れると、チャプゝ波が体に当たる。
冷たーい感覚が全身に浸み込む。これが海水浴であるか。
我等に勢いが戻る。
これをもって海水浴とする人間のなんと贅沢な事か。
暑ければ動かずジッとして涼んでいればいいものを、都会からわざわざ遠くの海までやって来て涼しい所はないかと探して回る。
暑い盛りに都会人が皆して二ヶ月ばかり仕事をしないでいれば、きっと地球温暖化はたちどころに解決する。
生きる為の銭を稼ぐのに仕事をするしかない人間は、働けば働くほど他の動物に害を振り撒く生物である。
少しばかりの遠慮があっても良いのではなかろうか。
寒ければ温泉に浸かって、早く布団に潜り寝てしまえばいいではないか。
少子高齢化などというフザケタ現象も回避できよう。
人間界には未だに身分だの家庭の事情だのと、気に入らぬ相手に難癖をつけてチョメゝを許さぬ親が居ると聞く。
学校では不純異性交遊などと言い、生命が最も成すべき重大な任務を違法行為としている。
かような行為によって子を儲けたならば、学校に通ってはならぬと犯罪者扱いである。
生きる者の責務さえ忘れ呆けた者が、さも偉そうな顔をして生徒にチョメしたらあかんと説くのである。
己の愚かさに気付かぬのだから、教師という者もろくな者ではない。
しかるに、やっちゃんを筆頭に赤チンやハリネズミは、かように有り触れた教師とは一線を画す者である。
生徒が拒否権を発動し未だに実現していないが、病院の手伝いに入っている女生徒に、常々チョメチョメを御願いしている光景を見かける。
衣服についてもそうである。
暑いのだから今一枚脱ぎ捨てて、肌を露出すれば涼しかろうと説教する。
なかなか歓迎すべき良質の教育方針だ。
夏の暑い盛りには、思い切ってスッポンポンで授業をすればよいのである。
などと思いつつ、冷めた体を天日で干していると、何だか背中がヒリヒリして痒い。
クロも同様の症状に見舞われているとみえて、仰向けになってしきりに背中を石の床でゴシゴシしている。
起き上がったクロの背中を見ると、すっかり毛が抜け落ち所々に血が滲んでいる。
ただ事ならぬ事態である。
「クロ君、背中が痒くてたまらなく忙しいところ申し訳ないのだが、吾輩の背中は現在どの様になっているか診てはくれまいか。ひょっとして毛がすっかり抜け落ちてはいまいか」
「んー………笑えるぞ。すっかり剥げてる。また病気がぶり返したか」
「笑える話の腰を折る様で悪いが、君の背中もしっかり剥げているから安心したまえ」
「お前の剥げがうつったのかよ」
「それはないだろう。恐らく化け猫の仕返しか、猫は海水に浸かったら毛が抜けるか、その結果の剥げである」
「落ち着いてんじゃねえよ。痒くてたまんねえよ」
その意見には同感であるが、どうしようにも手立てが思い浮かばん。
「おい、御間抜けコンビ。とりあえず風呂に入りなよ。入ってようく体に付いた塩っ気を落としな。放っとくと猫の干物が出来上がるぞ」
親切なのか気まぐれなのか、獣医の幽霊が我等に治療のアドバイスをしてくれた。
獣医に言われたままをクロに伝え、我等は猫湯に浸かって体に付いた塩を洗い流した。
すると痒みがスッと退いて良い心持ちになる。
不快な症状は消えたものの、剥げ落ちた毛を接着剤で張り付けていたのでは復旧までに数年掛かってしまう。
もっと手っ取り早い方法はないものか。
「痒みが取れたら牧場に行ってな、羊から少しばかり毛を分けてもらって体に張り付けときな」
獣医に言われるまま、肉牛君が以前住んでいた牧場に行き羊の毛を体にくっ付ける。
抜けた毛など気にせず暫くすれば、勝手に生えて来て元に戻ると言うと、 獣医の幽霊は気ままに何処かへ飛んで行ってしまった。
獣医が飛んで行ったその後に、三毛子の霊がすまなそうに座っている。
「この前は噛み殺そうとしちゃってごめんなさいね」
ごめんで済まされる事件ではないが、化け猫に憑りつかれ正体を失っていたのだから怒れない。
「もういいですよ。それより二度と憑りつかれたりしないで下さいよ。怖いんだから」
「ハイ。努力します」
努力すれば善いってものではなかろう。
朝っぱらからクロがしたであろう放屁臭が、街中に漂い気分が悪い。
どんな物を食ったらこの様に強烈な二酸化硫黄を発せられるのか、一度クロを解剖して調べてみたいものである。
人間はこの程度の臭いは気にならんと見えて、平気に過ごしている。鈍感な生物である。
臭いのせいで食欲が削がれ、出された食事もろくに喉を通らん。
一言クロに苦情を言ってやらねば気が治まらん。
いざ病院の地下に向かわんとしたその時、クロがゲッソリして吾輩を訪ねて来た。
背中の剥げが引き立って見えるゲンナリ具合で、やはり拾いフグでもして当たったか。
「この臭い何とかなんねえかい。朝からずっとで気持ちが悪くていけねえ。毒瓦斯じゃあるめえなー。何なんだいこの臭いはよ」
「なんだ、君の放屁臭ではなかったのかい。ヘタレ猫君も」
「いっくら何だって、俺の屁は街中に撒いて余る程出ねえぜ」
「それもそうだなー。物知りのハリネズミに聞いたらどうだい」
「それがよ、今日は大変な事が起こるからってんで、昨日の晩からいねえのよ。アブねえから暫く外には出るなって言われてんだけどよ。それどころじゃねえよ。飯も食えねえよ」
「うーん。吾輩も食が進まんで難儀しておったところだ」
「人間がまた何かしょうもねえこと始めたんじゃねえのかい」
「可能性は大であるな」
人間は常に寝ていると思われし猫より更に暇な者で、退屈のあまり理解に苦しむ悪戯を考案して楽しんだりする。
この暇人が善良なる者であれば悪戯も勘弁できる範疇にあるが、悪魔の落とし子である砂利餓鬼などに至っては容赦ない悪戯で、吾輩は既に苦々しい経験を多々している。
あの様な者が大人になったれば、同族である人類にまで多大な迷惑をかけて平然としていられるのである。
ある者は車椅子マークの駐車場に、当然とばかりバイクを停めている。
また他の者は、犬畜生を散歩に連れ出しあちらこちらに糞害を撒き散らす。
犬畜生にあってはこれにも増して、凶悪な犯罪に酔いしれる者も見受けられる。
鉄製の柱に毎日欠かさず小便を放り掛け、終いにはその根元を腐敗させるのである。
強風吹き荒れる台風の晩に、トドメの小便をかけているのを見た事がある。
頑丈な鉄の柱を、腐れ倒しにしてしまうのだから犬小便恐るべし。
倒れた鉄柱を人間は信号機と呼んでおった。
下敷きになった車の中で血だらけになった運転手が、訳分からんと囁いていた。
今はどうしているものやら、生きていればよいが。
悪臭が蔓延した空気の中では、猫の特技である昼寝もままならん。
何かないかいくら考えても妙案など出て来ない。
こういった場合は内に籠って、外気に触れず過ごすしか手立てがない。
クロにはすまんが、吾輩は部屋に入って難から逃れる。
クロも病院の地下室ならば幾分外気よりましだと引き返して行った。
ハリネズミから外に出るなと言われているのなら、大人しく地下の妖怪屋敷でテレビでも観ていればいいのである。
シェルターが出来てから随分と良い評判になって、宿に常連が戻ってきている。
それでも泊り客は殆どない状態である。
今日は珍しく、閑散期に安くなった宿代に目が眩んだ命知らずの外国神モドキ御一行様の連泊である。
彼等か彼女等は賑やかしが上手く、風呂に来た客を勝ってにもてなし笑わせては喜んでおる。
こんな時にハリネズミでも来ると尚更面白い事に成るのに、肝心な時に居ない。
本来ならば今日は講談で一席の予定を断っているのだから、何か重大な事があってだが、吾輩は一言も詳細を聞かされていない。
同居しているクロにも言わずに出かけるのは、危険な仕事が入ったか助平な事に走っているかのどちらかである。
昼を過ぎた頃になると、外の悪臭が和らいだのか吾輩の鼻が臭いに慣れたのか、随分と楽に出歩けるまでに空気が澄んで来た。
海水に浸かって剥げた傷が痛むもので、しばし温泉に浸かって癒そうと猫湯に向かう。
すると、風呂場でザブンゝキャッキャと湯を浴びせ倒し大声ではしゃぎまくる者がいる。
「いや結構。どうも良い心持ちだ。もう一回」宿中に響き渡る声を出す。
この宿へ来て、こんなに卑猥な声で、こんな無遠慮な真似をやる者は他にはない。ハリネズミに決まっている。
地震だ噴火だといった騒ぎがドンドンと遠くに向かって行くから、ここはこれで落ち着いたと安心しきっているのか。
九州の噴火が本格化して、もうすぐ本州にも飛び火して来ると噂されているのに悠長なものである。
時には休息も必要だが、外国の神々とハリネズミが休んでいる状態はハレンチな遊興にしか見えん。
こんな乱痴気騒ぎを見学していたら、利根川の銚子・神栖間にかかる銚子大橋が落ちたとのニュースが入って来た。
「いよいよ来たな。これから忙しくなるぞ」
ハレンチの限りを演じていた外国神連中が風呂から飛び出す。
準備してあった白バイ警官の衣装に素早く着替えている。
何処からそんな物を仕入れて来た。
白バイ警官ではあるが、日本の警官とは若干趣が異なっている。
映画で見た事のあるアメリカ産の白バイ警官である。
どこにこの様に奇異な出で立ちをした両性類の需要があるのか。
アメリカ産白バイにまたがり、次々落ちた橋の方に向かって走り出していった。
一方、ハリネズミは周囲のドタバタをよそに、湯から上がるとジンワリ出て来る汗を拭いて浴衣に着替えている。
「被災地へ住民の避難誘導に行ったのさ」
多くの疑問を抱える吾輩の考えを見透かし、簡素な回答が吾輩に与えられた。
なるほど納得である。
訳も言わずにすぐにやってくれとハリネズミに急かされるまま、女将が外にいた客を宿の中に呼び入れる。
何事が起るのかと思い乍らテレビを見ていたら、隆起した川底から水蒸気が登った途端、激しい爆風に中継ヘリが巻き込まれた。
ローターが壊れてゆっくり回転しながら落ちるヘリからの映像は、爆発の威力でうねる海を写している。
街に溢れた河の水が、大きな波紋を広げ何度も高い波で道行く人を飲み込む姿を見せつけている。
そんな中、先程出かけて行った白バイの者達が幾人かをバイクに乗せ、慌ただしく避難している姿もチラリと映っておる。
爆発の振動は宿にも伝わってきた。
みるみる天空が灰で覆われ、夜の様に暗くなった途端に火山雷が轟いた。
只ならぬ事態をことさら強く感じさせる。
揺れは一瞬だったが、同時に立ち昇った噴煙に混じった砂や砂利が宿にも降って来た。
前の道でバスを待っていた人達が、慌てて宿に避難して来る。
テレビを見ると上空からの映像は途絶え、現場の状況は地上に待機していたカメラの画像だけとなっていた。
アナウンサーの背後では、米産白バイ軍団が住民に避難を呼び掛けている。
写されている噴火口は、話している側から凄まじい勢いで成長する。
それでも中継を続けようとしているから、米産白バイの一人がアナウンサーをバイクに乗ったまま蹴り飛ばす。
「早く逃げろって言ってんのが聞こえねえのかよ!」
風呂に居た時とは別人に見える強面メイクである。
何処で、何時メイクをした。
非常時であるにも関わらず、見掛けを気にする辺りは変わっておらん。
噴火には怯えない中継スタッフも、この両性神バフォメットの威厳に逆らえる者ではない。
慌てて逃げるので忙しく、現場からの中継はプツッと消えてしまった。画面が砂嵐状態である。
中継がなくとも現場の様子が手に取る様に分かる。
ハリネズミの手配で現場に行った米産白バイに取り付けられたカメラからの映像が、宿のシェルターに設置されたテレビに映し出されている。
幾つもの画面が同時に表示され、手元スイッチで複数の画面から一つを選びちょこまかと、ハリネズミがメイン画像を切り替えている。
何分もしないで、他のテレビニュース画面が宿のテレビと同じ絵になった。
この一大事でもアニメを流している東京の一局を除き、どの局を見ても音声が異なっているだけで総て同じ画像となっているのは、ハリネズミが共同中継のスイッチャーをしているからである。
「これ、結構局の喰い付きが好くてね。高く売れるんだよ」
こんな時でも銭儲けか。タダでは動かん男である。
両性の者も、純粋に命がけのボランティアで避難誘導をする者達とは思えん。
ハリネズミの計略で、宿の飲み食いチャカポコを総てロハでといった条件の契約で動いているに違いない。
病院に急患が大勢担ぎ込まれているのは誰でも分かる一大事で、やっちゃんや野ざらしも含めて医者達が何時もの如く湯に浸かりに来るのは遠い先になりそうである。
緊急事態宣言が発令されるより前から、宿には緊張した雰囲気が漂っておる。
噴火や周囲の状態を把握して次の策が出せるまで、宿に閉じ込められた者達の食の手配で調理場が慌ただしくなっている。
避難している人達には部屋へ移動してもらった。
少しは不安も和らぐであろう。
女将の采配を良しとすべきである。
「おやいらしゃいまし」
女将が言ったが、少々狼狽気味である。
続けて「ちっとも存じませんどした」と御辞儀をする。
「いえ、予約もなしに今来たばかりなんですよ。ドサクサに紛れて風呂で湯に浸かってね。ようやく生き帰ったところで…どうも凄まじいじゃありませんか」
「この騒ぎでは暫く部屋でじっとしてるしかおまへんな。困った事でございます。でも、御変りもおまへんで」と女将。
「ええありがとう。なに、火山の一つ二つ噴火したくらいでそんなに変りゃしませんよ。しかしこの灰は別物ですよ。どうも息が苦しくってね」
慌てて戸締りをしたものの、噴火の勢いで飛んで来た灰が宿の中に少しばかり入り込んでおる。
「あたしなども、ついさいぜん気付いたばかりで、慌てて閉めましたが掃除が行き届かなくてどうもすいません」
「こんな時は誰だって慌てますよ。好いですよ気遣いなくしてください。被災した人には気の毒だが、今は生きてる者の事を優先して考えましょう。コンクリートに囲われた中で湯に浸かって火山が見られるんだ、こんな結構な事はない」
無条件に呑気な事を述べているコヤツ………何者じゃ?




