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10 消息不明の医師と消えた新聞記者

「過労ね。明け番の日にロクに寝ないで吞んだくれて釣りだもの、倒れて当たり前よ」赤チンの声がする。

 すかさず「ローン!」もっと大きな声で赤チンの声が浮かれている。

 誰かが赤チンに振り込んだのである。

 やっちゃんが起き出したのだろうとコタツからニョッと顔を出して様子を伺うと、腹が減ったと寿司を食っている。 部屋に入ってすぐに皆から勧められ、吾輩とクロが食ったその残りである。

 残飯の美味さを思い知るがいい。

 我等は総てに一通り唾をつけておいた。


 食って終わるや否や漁師とやっちゃんが入れ代わった。 

 ヤクザといえば本来博徒と聞く。縛を生業とする者も多い。

 医者との二束草鞋で鈍っておろうに、三人のいかさま師相手に蚤の心臓しか持たん者が無理をしている。

「御金や時計は皆で別けてもらっていいですから、クルーザーは取り返したいんですよ」

 漁師が置かれている状況の不甲斐なさを恥じるのも忘れ、やっちゃんに縋っている。 

 我等がコタツでうたた寝していた僅かの間に、船一艘盗られたとは救えんあほんだらである。

 常軌を逸した勝負の行方など気にもしていなかったが、この一勝負が有った頃から、時折やっちゃんが吾輩に土産だと生魚を持ってくるようになったのは嬉しい誤算である。


 何日かしてハリネズミ家の縁の下でクロと蟻地獄をかまって遊んでいると、やっちゃんが偉い剣幕で押し掛けてきた。

「いったいこれから何が始まるのか聞いてんだよ」ハリネズミをぶん殴って事情を聴いている。

「随分と入り組んだ話になるし起って見なければどっちとも言えない事もあるので話せない。君が来る前にゴタゴタがあってね、誰が仕掛けたとか騙した騙されたといった話になると、色々と関係している人が多いもので詳しくは説明できないのさ。そのうちに君が身をもって体験するのだから慌てる事はないさ」

 叩かれた頭を痛そうにペタペタやって、更に話を続ける。

「それに、変にしゃべって勘違いでもされたんじゃ、せっかく君をこの病院に呼んだ苦労が水の泡さ」

「せっかく君をこの病院に呼んだって、やはりはなっから仕組んでいやがったのか」

 地下室が崩落する程の大声で怒鳴るやっちゃん。


 もっとも、吾輩は縁の下にいるから実際叩いたか叩かないか見えよう筈ないが、音さえ確かであればすぐに半殺しか入院かの区別がつく。

 今日はすぐにハリネズミがしゃべったから軽い方である。

 それにしても仕組んだとか呼び寄せたとか、話がだんだんと面白くなってきた。

 今日はあまり天気が宜いので、何とはなしに散歩ついでに来たのだが、こう言う好材料を得ようとは全く思い掛けなんだ。

 タナボタもいいところだ。

 ハリネズミはこれからどんな事をやっちゃんに言うのか耳を澄して聞いてやる。

「誰から何を聞いたって同じさ。真実を知る者なんて一人もいやしないのだから。なんだったら君の身の回りの人に聞いて回ればいい。僕にしたみたいに殴り倒したって出て来る言葉は『知らない』だけだと思うけどね。知っているなんて言う者がいたら会ってみたいのは僕だって同じさ 」

 つまりは何も分からないという事で、吾輩が聞き耳をたてていたのは意義ある行為であったのか。


 クロに聞いたところで続きが出て来るとは思えないが、一応訪ねてやると答えが返ってきた。

「これから一災難あるとかでよ。山城の爺やら診療所の医者なんかが、骨折って病院の改築やら人の手配をやってるって話だぜ」

 この家に来て、クロはどんな教育を受けているのか、日に日に賢くなっている。

 確実に知恵をつけられると、近い将来吾輩の知識はコイツ以下との評価を受けかねない。

 誰かに学ぶにも、今現在意思疎通が可能な知識人はハリネズミだけである。困った事に。

 吾輩は思い切ってハリネズミの門下生となる決心をし、通いでこの縁の下に日夜燻ると決めた。


 ハリネズミ先生に門下生を申し出たら、そんな事をしなくてもこれから毎日宿で講談を語るからそれを聞いていればいいと指導された。

 今では言われるまま講談話しを聞くを心がけている。

 最近ではやっちゃんに用事がない時でもハリネズミ先生は風呂へ入りに来る。

 そして、部屋の前を素通りして帰ってしまう。

 それが面白くないのであろう、やっちゃんが女将にハリネズミから風呂代を取ってくれと言う。

 すると、それには及ばない、これからは御礼に湯上りの生ビールを一杯御馳走するのだと、女将が指定席をこしらえる。

 吾輩の招き猫指定席と同等の扱いで、登場一週目にして早くもスターの仲間入りである。


 やっちゃんは墨を入れているから、風呂で他の客と一緒になった事がない。

 だから、ハリネズミ先生が風呂でどんな事をしているのか知らなかったのである。

 講談話を風呂場で打って近所の評判になり、今では噂を聞いた年寄り連中が、定期券を買って先生の来るのを心待ちにしている。

 始めは男湯で語っていた講談の席を、今ではどちらからも見られるように作ってある。

 講談をしゃべくっている間中、ハリネズミ先生は女湯をタダ見している状態である。

 それでも老人会の旅行に似たり寄ったりの景色に違いないので、苦情が出るでもなく成行任せといった感が強い演台である。


 先生は講談でも妖怪変化を扱った怪談話が得意で、話の中で妖の描写が誠に恐ろしげである。

 大の男さえも夜道の一人歩きをできないくらいに震え上がらせている。人間国宝級の語部である。

 単純に女湯が見たいばかりの一念からだとやっちゃんは言うが、話の内容を理解できないボンクラのヒガミとすべき発言である。

 吾輩とクロだけが知っている真実を公表できないのが何とも辛い状況で、それは一緒に講談を聞いているクロも同様と見える。

 我等猫だけに語っていればいいものを、思慮深い先生とは思えぬ軽率な行動である。

 先生の身を案じるのは吾輩も同じだが、クロの感情表現には取り切れぬ棘があるもので、些細な意見の喰い違いがここの処毎日になっている。

「ほのめかすどころじゃねえな。あんなにはっきり言ったら誰にでも分かっちまう。秘密が秘密じゃなくなるじゃねえか。あそこまでばらされてるんだ。あんな奴を黙って見過ごす国がどこにあるもんかい」クロの鼻息がいささか荒っぽい。

「あんな奴とは何だ失敬な。そんな乱暴な事を先生は言ったかね」

 いくら乱暴者と分かっているクロとはいえ、ハリネズミ先生をあんな奴とは許せない。

 吾輩も何時になく声を荒げてしまった。

「言ったどころじゃねえや。ちゃんとこの耳で聞いたんだぜ。テメエも居ただろう。いったい何聞いてたんだよ」「クロ君、君は随分厄介な事を先生が語った風に言っているが、何をどう聞いたと言うんだい?」

「困った野郎だな。ほかの事と違ってこういう事には他人が妄りに容喙するべきはずじゃねえんだ。そのくらいな事はいかな御間抜けでも心得ているはずだ。それが分からねえんじゃテメエも腐れの仲間ってわけだ」

 クロが理解不能の言葉を連発する。 

 既に彼の脳内細胞活動は、吾輩のそれを十倍上回る速度にまで加速している。

 ニューロンの移動摩擦で知恵熱を通り越し、脳内自然発火なる怪奇現象まで引き起こしかねない状況である。


 先生の物語に危険因子が溢れているのは承知している。 

 危難を顧みず世に真実を訴えるのは意義ある事である。

 が、我等の知る真実を語っているとは言え、所詮は講談として披露している語りである。

 内容が内容なだけに、御上に知れたら先生の命に関わる話も頻繁に盛られてはいるが、それに一々腹をたてて一国の政府が演者の命を奪おうとするかと考えるに、この件に関して吾輩は楽観的立場である。

「先生が何を講談したって、まさか暗殺される事はないだろうと吾輩は思う」

「なーに言ってんだよ。俺はここに居るから早く殺しに来てみやがれとばかりの勢いだったじゃねえか」

「確かに勢いは有ったが、君が何故それ程まで怒っているかは計り知らん。君は吾輩を、先生の話が読めない腐れと一緒だと言うがね。怒るのは君の受け取り方が悪いからで、先方が語部に徹して大人しくしてさえいれば、少々気に障わるような事をしたって命までは取られはしない。しかし向が向ならこっちもこっちと言う気になるから、つまりそのなんだ………我を張るのは互いの損なんだな」

「おお全くテメエの言う通り。愚な抵抗をするのは本人の損になるばかりで何の益もねえや。今夜にでもあいつに言い聞かせてやるぜ」

(だから先生をあいつとか言うなって)

「君が怒っているのはあの妙な事件の事だと思うのだが、吾輩も先生に似合わん事をおっしゃていたと思う。あの事件を我等なりに調べてみたいと思うが、協力してくれるかね」

「なあに、そりゃ何もオメエに言われなくても俺っちはその気でいたさ。あいつを邪魔をしようとする奴は出て来るがよ、猫の動きまで調べる粋狂はいねえやな。おいらがオメエさんの手伝いするのは別に差支えもねえが………手伝いってえとオメエが俺の親分て事になりはしねえかい」細かい事に気付く奴である。

 そこまで気が付く者ならば、先生をあいつとかあの野郎だとかオタンコナスとかトウヘンボクと言う言葉使いに気を使ってもらいたいところである。

「なるほど、それではクロさんが可哀そうですね。ようござんしょ。吾輩が貴方の助手で本件を調査するというのでどうでしょう」

「そういう事なら無論異存はねえや」

 ナンバーワンとナンバーツー、二匹限りの猫同盟で誰が偉いも上も下もない。

 くだらない上下関係に拘るあたり、知識を詰め込んで利口になったとはいえ付け焼刃である。

 根底から猫の格が上がったものではない愚か者で、クロの基本生態が変わっていないのに妙な安堵感を覚えた。


 気になる事件とは、病院の医師が一人行方不明になっている一件である。

 ついでといっては気の毒だが、医師失踪事件を調べていた新聞記者まで消えてしまったとあって、話が怪奇な現象になっている。

 怪談話にするにはうってつけの題材で、先生が語っていたのを温泉に遊びに来た東京の講談師が気に入ったとか。

 この話を伝授する為、ここ数日先生は東京に行ったきりになっている。

 ペットの小うるさい霊ネズミも一緒に行っているから、先生の御屋敷は主不在。

 普段から出入している医師達の恰好の遊び場になっている。

 これは調べ物をするには絶好の機会と、邸内にある書物を片っ端から開いて見たが、現代に通用する書物が極めて少ない。

 現代人が読めるのは、十年ばかり前に刊行された船を特集した月刊誌と怪奇漫画のゲゲゲ単行本くらいのものだ。

 あとは発刊された年号が明治大正で、中には寛永や天保といった物まで混在している。

 カナを振ってもらっても意味不明の言語が、うじゃうじゃしているばかりである。

 現代人がこれを見たら、失神するかアレルギーなどの拒絶反応を示すに違いない。

 これを好んで読むのは学者ばかりである。

 したがって、ハリネズミ先生が学者であるのは違いない。

 しかし、重要な書物であるならば尚の事、現代人にも容易に理解できる言語に翻訳してやるのが学者の務めとばかり信じていた。

 しかし、これを見る限り学者とは知識を独り占めし、その優をひけらかし喜ぶナルシストばかりと思う。

 そう言うとクロが、ハリネズミはこれらの資料を誰でも分かる書物にするより前に、字を読めない者でも知識を楽しめる講談にして聞かせているのだから、そんじょそこらの己惚れ学者とは桁違いに偉い者だと言う。

 言われて見ればしかり、クロが知識ばかりか正論を唱えるようになる時代が到来したならば世も末である。

 これから人類は衰退し、猫が知識を高め人類を論破しつくせば、やがて地球は猫の惑星となる。

 猫の世到来も近い未来と見えてきた奇態現象である。


 新聞の切り抜きスクラップブックを見つけて、医師が行方不明になった事件の記事を見た。

 警察が事件性なしとして、不審な捜査の打ち切りをしたから、全国紙で大きく取り上げられたものである。

 新聞の記事から、消えた医師の住まいがだいたい分かった。

 病院から恐ろしく遠くもない所なので、聞き込みに向かう。

 聞き込むといっても、猫語を解しているのは畜生か鳥ばかり。

 医師について詳しく知る者がいるかどうか、行き当たりばったりである。



 だいたいこの辺りだろうという所までは辿り付けたが、ここだといった家が見つけられない。

 どれも似通った家ばかりで、たまに屋根の色や壁の作りが違うので人間は見分けている。

 我等は殆どこういった場合は、訊ねる者個々が有する匂いをたよりにするが、行き方知れずの医師で匂いはおろか姿形の推測すらできない。

 畦道にカエルを捕え、食わないでやるから医者の居場所を教えろとクロが脅している。

 嘘でもいいから適当にあっちこっちと言っておけばいいものを、正直に知らないと言ったものだから、カエルはクロの軽食となり此の世から消えた。

 もしも我等が探す医者が既に他界していて、彼の世で会えたなら伝えてほしい。

 吾輩が探しているから化けて出て来いと。


 少し行くと美味そうな肉牛がいたので、この辺りに医者は居ないかと訊ねた。 

「ここの前を右へ突き当って、左へ一丁ばかり行くと獣医さんがいますよ。崩れかかった黒塀のあるうちじゃっ」と教えてくれる。

「それじゃ、つい近所ですな。標札を見れば大体分りましょう」

「標札はある時と、なか時とありますよ。ドリトル先生の動物病院という案内看板がありますから、そいをあてに進めばゆけます」

「どうも御親切にありがとうございます。しかし崩れた黒塀のうちなら大概分るでしょう」

「ええ、あげな汚なかうちは町内に一軒しかなかで、すぐ分ります。あ! そうそう、それで分らなければ、好い事がある。屋根にペンペン草が生えたうちを探して行けば間違っこありませんよ」

「よほど特色のある家ですな。アハハハー」

 肉牛君からこれだけ聞けば大丈夫沢山である。

 聞いただけで薄っすら家の状態が脳裏に浮かんで来る。

 吾輩の想像力も棄てたものではない。


 看板をつたって歩道をスタスタ進むと、何時か見た事のある家に出た。

 成る程、これならば思い浮かぶ筈である。

 吾輩が何かの時に女将に連れて来られた犬猫病院という動物専門病院で、特注で白に似た茶色黄色のペンキを塗りたくった異世界の如きたたずまいである。

 この家の主人は今まさに、狭い芝生の庭に白いプラスチックの椅子を置き、出っ張った腹を恥ずかしげもなくさらけ出して座っている。

 麗かな小春日に臍を干しているのだが、その姿は踏みつぶされたガマガエルより醜悪である。

 有害な紫外線は誰にも公平なもので、十年来掃除などしていない雨どいは詰まり、たまった泥や枯葉からペンペン草が伸び放題して、それさえも枯れ果ている。

 ハリネズミ先生の家よりは自然光が暖かそうだが、気の毒な事に、病院というには相応しくない朽ち方である。

 建てたばかりの頃は白のつもりで塗られていた塀も、誰もが認める黒い壁に変色している。

 動物相手といえども医師である。

 肉屋・魚屋が包丁とは違った刃物の使い手であるべきのみならず、ヤブは別として清潔を旨とすべき巧の者が、どこもかしこも衣服までもが白と言うには程遠い。

 以前来た時はかような汚れなど気にしなかった。

 もっとも、あっちこっち剥げが気になってそれどころではなかった。


 さて、医者の家と教わって来たが、我等が探すは行方不明になった医師の家である。

 フケだらけの頭をかきながら、煙草をふかす生活習慣病に憑りつかれたズングリムックリの医者を探しているのではない。

 ウスラ寝ぼけがくわえた煙草の火は、だんだん吸口の方へ移動し、だらしなく半開きになった唇にもう少しで引火する所まできてパタリと膝の上に落ちる。

 構わず医者はボケ面のまま放心している。

 煙草から立ち上る煙にむせって辺りを見ると、ようやく己の膝で小規模の火災が発生しているのに気付き慌てて飛びあがった。

「あっちー!」

「あっははー、ヤブよりやっちゃんよりアホな医者がいたー」

 クロと共に思わず中傷して笑い転げていると、獣医に捕まった。 

「アホとは随分な事を言ってくれるのー。猫鍋にして喰ってやろかいの」――おや、我等の発言を怒っている。

 猫語人間二人目発見! 


 喜んでばかりはいられない。

 クロはぶら下げられながらも獣医に猛然と抗議する。

「猫食うたあどういう了見してやがんだ野蛮人! 十三代祟ってやるぞ。ボゲ!」

 鋭い爪をむき出しにしてしきりに引っ掻こうとしているが、総てが空を切る振りである。

 首根っこを捕まれては我等になす術はない。

 ぶら下げられたまま鍋が煮えたぎるのを待つのみで、疲れるばかりだから余命数秒だけでも優美にしていたいものである。

 吾輩はすっかり観念した。

「おや、御前さんは何時か女将が連れてきた剥げ猫だな。すっかり良くなったじゃねえか。随分遠くまで来たな。何しに来た、おい」

 これから食おうとしている者への質問がそれか、どうでも良かろう。

 吾輩は黙って事の成行に身を任せた。

 獣医は我等を檻の中に投げ込むと、勢いよく白い粉を噴霧した。

 自分だけガスマスクをしやがって、これは国際的に禁止されている毒ガス攻撃である。

 つまりこの檻は、処刑用のガス室ではなかろうか。

 吾輩、一瞬クラッときてそのまま死んじまうかと思った。


「かゆかったろう、辛抱のいい奴等だな。温泉宿の猫のくせして風呂に入ってねえのかよ。蚤だらけだったじゃねえか」

 獣医は親切のつもりだろうが余計な御世話だ。

 我等が友として親交を深めていた蚤達を、ことごとく死に至らしめ平然としておる。鬼!

 しかしながら、風呂に入ると必ずや頭に集り、無料で血を吸い痒みだけを残してゆく。

 献血でもジュースの一本くらいは出してくれる。

 こやつ等には、いささか敵意を抱き始めていた。

 決別の時である。潔く成仏いたせ。

 クロは何だか体が軽くなったと喜んでいる。

 さっきの剣幕はどこへ消えた。

 退治して体が軽くなる程の大所帯を背負っていたならば、吾輩の蚤は御前からの分家だ。

 綺麗にしたもので、住み心地がよくなって蚤が大量発生したか。

 清潔も時には考え物である。


「蚤退治には感謝する。獣医殿にあっては猫との会話が堪能と知ったゆえ伺うが、この近所に神隠しに遭い行き方知れずとなった医師が住んでいた家があると聞き探しておる。知らぬか?」

 獲って食うと冗談かまして蚤捕りをしてくれるのだ、見掛けどおりの乱暴者ではない。

 内心は穏やかな者である。きっと………たぶん。

「あいつかい、奴ならほら、その家に住んでたよ。以前は俺が住んでいたんだがね。こっちに入り浸りで使わねえもんだから借家にしてたのさ。そしたらいきなり消えちまったもんなー。片付けたって気持ち悪がって借人なんか付かねえから、荷物もなんもまだそん時のまんまだよ」

「これは都合が良過ぎる程によろしい。捜査令状はないが、是非ともその家の中を見学させてはもらえんだろうか。我等は消えた医師を探しているのだよ。勿論持ち合わせはないからタダでと願っているのだよ。獣医君」

「はっ! 御前等猫のくせにいい度胸してるな。医者を探してるなら色々と調べていた新聞記者がいなくなった話も聞いてるだろ。止めときなよ本当に猫鍋になっちまうよ」

「猫のくせには余計だぞ獣医。人が捜索するから目立つのであって、猫と犬の見分けもつかん人間如きに我等が捕まるものか。御身に害が及ぶ事も有るまい。ケチらずにコソッと部屋の空気を入れ替えてくれるだけでよいのだ」

「人間如きは余計だぞ猫。どうしても観たいなら台所の扉に猫の出入り口がこさえてある。勝手に入って行けばいい。中でそそうをするんじゃないよ。いいかい」

「我等が人様の家宅内でそそうをする下品な猫に見えるかね。それこそ失礼であるぞ」

「なるほど、それはすまない事を言った。見学が終わったら家に寄ればいい。名探偵さんに御馳走を用意しておこう。帰り道は遠い。ついでに宿まで送って行ってやる。今日は風呂に入る日なんでな」

 今日は風呂に入る日とは、何日おきに風呂に入る者なのか想像したくはないが、その汚れ具合からするに一日二日ではないと見た。

 常に女湯ばかりにいたので、男客の面体を記憶していなかった。

 それが先生の講談を聞くようになり、男客の顔も少なからず知り憶えてきているが、こやつに風呂で会った記憶が吾輩にはない。

 こやつは先程『温泉宿の猫なのに風呂に入らないのか』と言っていた。

 風呂の常連ならば、吾輩が風呂に入る猫なのは去年から承知の筈。

 獣医、年越しで風呂に入ってねえだろ。


 蒸発医師の家は雨戸が閉められていて、隙間から差し込む僅かばかりの陽の光では容易に調査できない。

 猫の目を真ん丸のクリックリにして、何とか部屋の様子が見えてきた。

 今まで出会った医師の多くは、いい加減でだらしない者であった。

 特に、先程この家を教えてくれた獣医などは典型で、垢臭く不衛生である。

 それがこの医師は、医学界の常識に背反する者で、本は図書館と同じに整理され、部屋の隅々まで清潔にされている。

 閉めきっていたのに部屋はかび臭くもなく、埃も僅かに薄っすら我等の足跡がつく程度である。

 この部屋を吾輩が知る医者達が見たならば、揃って蒸発医者は潔癖症だと言うに違いない。


 獣医が入って来て電気のブレーカーを上げると、部屋が急に明るくなった。

 それから空気の入れ替えだと大声で言って、雨戸を開けている。

 我等に気遣っているつもりだろうが、その様な事をしなくても見えていた。

 本心、御前が覗きたかっただけだろう。見えゝである。

 余計な事をしていないで美味い物でも作っていやがれ。 


 床の間の真ん中に招き猫が一体置かれている。

 なかゝよい心がけの者である。

 それなのに突如消えてしまうのだから、作り物の招き猫と幸運とは何等関係ないようである。

 ところが、生きた招き猫となると、いささか見え方が違ってくる。

 女将の頭では、二つの間に密接な聯想がある。

 吾輩が招き猫をやったから宿に客が増えたと思い込み、ロビーに吾輩用の指定席を作った。

 飯は十三代柿右衛門作の白磁龍文香合に盛ってくれる。 

 四五万はする器である。

 吾輩とセットにして迂愚な金持ちに高値で売り飛ばす目論みが見え隠れしないでもないが、今の所は満足できる待遇である。


「なるほど似ているな」

 クロがさも感心したらしく言うと「何がだい」獣医は見向きもしない。

「何だって、御前の頭にゃ大きな欠陥があるぜ。知ってるか」クロが獣医に手をかける。

 獣医は依然として外を眺めたまま、こちらを見ようとしない。

「はあ?」

 別段蒸発医師宅の不法侵入調査露見を恐れた様子もない。

 超然たる模範的盗っ人である。

「アインが招き猫に似ているって言ってんだよ。見ねえで分かるのかよ」とクロが聞く。

「いつ見たんだか覚えちゃいねえが、風呂に行った時にチラッと見掛けてるから、確かめねえでもそんなのとっくに知ってるよ」獣医は大に悟ったものである。

「招き猫なんてどうだっていいから、さっさと片付けちまいなよ」獣医は少々忍耐力の欠如傾向にある。

「そのとおりだ。クロ君、急ぎで手掛かりを探しましょう」 


 吾輩が言うと、我等を急かしはしたが少しは気になると見えて、獣医が右の手を吾輩の頭に乗せくるくる撫でて見る。

「おや、大分大きくなった。こんなじゃないと思っていた」と言った。

 触診しているところをもって見ると、以前治してもらった剥げがまだどこかに完治せず残っているらしい。

 斑になってるからハッキリ見えはしないが、撫でていると分かるんだわと少し弁護しだす。

「魚ばかり食っていて剥げたら、港の猫に毛の有る者がいなくなっちまう。こりゃ病気に違いない。伝染するかも知れねえな、今のうち入院でも何でもしてコイツに治してらいなよ」クロがしきりに自分の頭を撫で廻して見る。

「そんなに吾輩の事を言うが、クロ君だって車屋の主人が入院した時から随分と白髪が生えてるじゃあーりませんか。剥げが伝染するなら白髪だって伝染しますわなー。軽い脳から繰り出す理論は相変わらず健在ですなー」

「白髪は生えているから裸の公害はないが、毛が――ことにあそこの毛が剥げたら公然わいせつだぞ」

「卑猥な物を見せて公然わいせつなら。クロ君自身が卑猥の塊であるのだから、すでに君こそ公然わいせつだ」

「俺の顔が卑猥だってのは知らなかったからさ。全く今日まで知らなかったんだから、罪ではないだろう」

「馬鹿な事を! どこの国に知らなかったで許してくれる法律があるものか」

「ならば剥げはまあ我慢もするが、御前は体格が並外れて悪い。はなはだ見苦しくていけねえや」

「吾輩だって食えばいくらだって肥れるさ。去年の夏は君よりでかかった。写真を見れば分るじゃないか」

「確かに写真は見たからそれは承知だ。承知には相違ないが、今は元のちんちくりんじゃねえか」

「いい加減にしろよ、猫! つまらねえ喧嘩してねえで早くやっつけちまえって言ってんだよ。誰かに見られたら俺まで殺されちまうだろ」獣医は雨戸を閉めて出て行く。

 冬の稲妻か獣医の雷か、我等の調査速度次第で今夜は猫鍋も有りうる権幕である。


 蒸発医者は近年まれに見るアナログ人間で、インターネット・パソコンの類は邸内に見当らない。

 今ではその存在自体が危ぶまれ、発行部数が右肩下がりの日記帳が手つかずで残されている。

 警察が素早く捜索を打ち切った弊害というか御蔭とすべきか。

 日記には頻繁にクランク商事という名が出て来る。

 始めてこの名が出てきたのは一年前で、病院から一㌖ばかり行った高台の温泉施設を、人間ドックが受けられるリゾート施設に改装するのだと書かれてある。

 何度かそこの医師として来てくれと誘われているが断っている。

 今、やっちゃんが在籍している病院のERという部署の部長になる予定だった人物である。

 このERの部長という役職には、現在やっちゃんがなっている。

 あいつがER部長になりたくてこの蒸発医者をどこぞに埋めたか沈めた可能性がないとは言い切れんが、それならば宿敵の警察が喜んで奴を死刑にしている。

 地方の小さな町の警察とはいえ、オートマチック拳銃を持った公務員を敵に回すだけでも物凄まじいというのに、事件から否応なしに手を引かせているのだから飛び抜けた権威者が裏で動いている。

 ハリネズミ先生はその事を一際脅威と察知している者で、用心深く語って聞かせ我等に警告していた。


 日記から解った事件の輪郭はクランク商事にありで、クロが知る商事という組織には、ヤクザに関わりを持つ者も多い。

 ヤクザならば山城の者達同様であるから、いかに力に自信があっても権力に対抗する者ではない。

 金で使われ、秘密を厳格に管理できない連中である。

 事件の全貌まで解き明かすのは困難としても、必要な情報はカギのかかっていない引き出しにある。

 我等は今後、このクランク商事を捜査すると決意した。 

 そうとなれば今日はこのくらいにして、獣医の言う御馳走を満喫すべく、小汚いドリトル先生の動物病院へと猫首を向けた。


 医院の庭で、獣医が錆びた缶詰を開けている。

 おい、まさかそれが御馳走とか言う気じゃねえだろうな………やはりこれかよ。

 目の前で、汚れの目立つ器に盛られた生ごみ寸前の餌が出された。

 クロは、何でも美味になる特殊な味覚を駆使すれば、トラフグを腹いっぱい丸呑みしても死なずにいられる。

 この場合、吾輩はどうしたらいいのか。

 物は器で食わせろと言ってやろうか。

 状況を察したクロの行動は狩りをする時より敏捷で、吾輩の分もあっさりたいらげてくれた。

 有難い様な損したような。

「そんなんだからオメエはでかくなれねえんだよ。好き嫌いしねえで何でも食っちまえっての」簡単に言ってくれる。「頭の中には胃袋しか入ってない君でも、猫の好き嫌いは命がかかっているくらい知っているだろう。吾輩はやせっぽちでもいいから、君より長生きしたいのだよ。ブチャイク君」


 獣医が白だったであろう黄ばんだシーツを、物干し竿からとって宅内に投げ込む。

 まったく石鹸の匂いがしなかった。

 井戸水に漬け置いただけで洗ったと勘違いしているのは合理的な疑いを差し挟む余地がない。

 次に干されるべきシーツが、たらい桶の真水に沈めたままになっている。

 誰かコイツに洗濯の何であるかを、一から懇切丁寧に教えてやってくれ。

 そのシーツに乗っかって、やはり洗いたてのシーツは気持ちがいいとクロが言う。

 洗ったシーツの匂いがどんなものか、教える気にもなれん。


 獣医が十年も前に廃版になった車を引っ張り出してきた。

 我等を送ってくれようとの気持ちには感謝するが、その車、とっくの昔に死んだとの噂が流れている。動くのか? 

 車を熱心に見ていると、獣医はちょっと驚ろいた様な顔付であったが、シートベルトはしなくてもいいやと言って我等を車に乗せた。

「何かあったらこいつを見せればいい」

 我等の首に獣医の名刺が入ったビニョロケースをぶら下げた。

 何の御利益があるのか《Doctor・Dolittle》? 名前らしいが、どう見たってコテコテの日本人だ。



 宿に降ろされると女将が獣医にビールを出している。

 帰る頃になったら、酔っ払いが車に乗ってますよと通報してやろうと思ったが、残念な事に警官は猫の言い分を聞いてくれない。理解しない。

 税金を払っていないだけで、猫を当たり前に差別をする。

 なんとも情けない国である。


 風呂上りで浴衣になった獣医が、一人バーベキューを始めた。

 春近いとはいえまだ二月である。

 いくら温暖な地でも熱帯ではない。

 寒い季節に、一人浴衣で屋外バーベキューは寂し過ぎる。

 我等には腐れかけの缶詰を食わせておいて、自分だけ海鮮バーべキューをする奴からは、目ぼしいのを盗んで食ってやるのが正義というものである。

 勢いよく突っ込んで、海老が見えたから銜えて海岸まで走って逃げた。

 やけに甘い海老だが、甘海老にしては巨体である。

 はてなんという海老か、石垣の下で芝の上に置いてみると人参。

 ベジタリアンかよ。肉食えよ海老食えよ。

 喪失感に侵されながら怨めしくハウスの中を見ると、女将が肉やら魚を運んで来た。

 これからだったのか、獣医がニッコリ笑って吾輩にピースサインかブイサインか。

 勝ち誇った笑顔からして、ブイサインである。


 間もなく、ハリネズミ先生が東京からの帰りだと宿に立ち寄った。

 バーベキューの匂いに捕まって、ハウスの中に吸い込まれていく。

 いかに先生でも、見知らぬ者の食い物をいきなり取って食ったりしない。

 それがいきなり取って食っているのだから知り合いであろう。

 地域に数少ない猫語人間である。知らん仲ではないと予想はしていたから、やはりそうであった。

 人参を返すから肉食わせろと言って吾輩も中に入れてもらった。

 人参は返してくれなくていいと断られだが、海老の頭と尻尾の殻は食わせてもらえた。身食わせてくれよ。

 魚の骨に獲り損ねた貝柱。バーベキューで御決りの吾輩メニューだが、嫌いでないから勘弁してやる。


 ここで獣医が吾輩とクロの今日一日を、ハリネズミ先生に話して聞かせた。

 そうしてからの我等が密談は、例の蒸発医師についてである。

 吾輩がクランク商事という名が手掛かりになるのではと発言すると、ハリネズミ先生がクランク商事は貫太郎の父である勘吉の仇にもあたる組織の一であると教えてくれた。 何時か女将がやっちゃんに小言していた一件で、この宿を乗っ取ろうとした組の生き残りが作った会社である。

 この会社ならばインターネットを使えば、ハッキングという方法によってあらゆる情報を奪えるとハリネズミ先生が言う。

 しかしながら、先生の家にも獣医の家にもインターネットが備えられていない。

 宿のは自由に使えない。

 困ったと頭を抱えるものだから、それならいいのが有ると、やっちゃんが使っているノーパのパスワードを教えてやった。


 この夜、やっちゃんは泊番で帰って来ないと知っていたから、二人に泊まり込んで調べ物でも何でもすればいいと、吾輩が入室を許可してやった。

 吾輩を送って来てくれた礼にと、女将が部屋を用意していたので、安心して飲み食いをしていた獣医。

 それでは私の部屋で調べ物をしましょうと、ハリネズミを招待している。

 女将も妙に気前がいいようにしながら商売上手で、普段は風呂に入ってすぐに帰ってしまう獣医に、礼だと理由して部屋をあてがっていた。

 部屋といっても、観光バスの運転手やガイドに宿がタダで提供している山側である。

 バスのない日は空いていて、それを使ってくれとしただけである。

 いつでも金のとれる部屋ではない。


 景色など見飽きているから、山側でも気にする獣医ではない。

 温泉宿の部屋一つ、猫を送って来ただけで借りられたとなれば夕食に酒。

 これは有料であるから宿の稼ぎとなる。

 損して得取れというが、女将は損もせずに得を取った上に仁徳ある者になっている。


 やっちゃんのノーパを無断で借りてやった。

 やっちゃんが泊まりの晩は、ハリネズミ先生だけなら吾輩と一緒にやっちゃんの部屋で寝ているが、今日は同じが都合よかろうと獣医の部屋に入る。

 既に二組の布団が敷かれていた。

 一般の客室より狭いので布団が近すぎる。異様な情調になっている。

 御前等、変な気をおこすなよ。

 いつでも外に遊びに行けるから、吾輩は扉側の布団に陣取った。

 この時、獣医の胸の内にちょっとの間顔色にも出ぬほどの風波が起った。

 気持は分かるが、そんなのは知った事ではない。

 どうせ夜通しノーパとにらめっこするのだから、布団さえ要らぬ状況である。

 誰の俺のなどとグズっているより先に、早くハッキングとやらをやって見せろ。


 ハリネズミ先生は無言でノーパに向かっている。

 ハッキングの開始である。

 其れに引き換え獣医のなんと大人げ無い事か。

 吾輩の首根っこを捉えて布団から引き摺り降ろす。

 人間が猫に布団を取られたとむきになって、強制排除をするのは動物虐待である。

 吾輩を処分して自分だけが布団の使用権を有する者であるかの如き振る舞い。

 このように不届きな内部弾圧をしたのでは、猫のみならず他の動物、端ては人間からも反感を買うぞ獣医。

 我等の調査行為まで不当と評価される要因となりかねん。 布団の占有は諦めるのだよ獣医くーん。

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